中隠堂詩五首 其一 中隠堂の詩 五首 其の一 蘇軾

去蜀初逃難   蜀しょくを去りて 初めて難を逃れ
遊秦遂不帰   秦しんに遊びて 遂に帰らず
園荒喬木老   園えん荒れて 喬木きょうぼく老い
堂在昔人非   堂どう在るも 昔人せきじんは非なり
鑿石清泉激   石を鑿うがちて清泉せいせん激し
開門野鶴飛   門を開きて野鶴やかく飛ぶ
退居吾久念   退居たいきょわれ 久しく念おも
長恐此心違   長とこしえに恐る 此の心の違たごうを
ご先祖は 戦乱を避けて蜀を去り
長安に移って もどられなかった
庭園は荒れて 高木は老い果て
中隠堂に 昔の人の姿はない
庭石を削って 水は勢いよく流れ
門を開くと 野生の鶴が飛び立つ
隠居したいと 考えつづけているが
この願い 成就できないのが心配だ

 嘉裕七年一〇六二は鳳翔勤務の実質一年目です。この年の二月十三日から十九日まで、蘇軾は管下の四県をまわって囚人の判決を行っています。
 また仕事の暇をみて、古都長安にも出かけています。大唐の都として繁栄していた長安は、いまは見るかげもなく荒廃していました。
 「中隠堂ちゅういんどう」は長安城中にあり、名園として知られていました。
 この五首連作には序が付されており、当時、岐山きざん:陝西省岐山県の県令であった王紳おうしんに贈ったものです。王紳の先祖は蜀四川省西部の人で、昔、蜀地の戦乱を避けて長安に移り住み、蜀にもどることはありませんでした。
 その王家の居宅と園圃が中隠堂で、かつては名園として有名でしたが、いまは荒れ果て、堂は残っているけれども住む人はいないと詠っています。
 尾聯の二句で、蘇軾は隠居への志を述べていますが、これはすでに老齢であったと思われる王紳への気配りでしょう。


 七月二十四日 以久不雨出祷磻渓 是日宿虢県
 二十五日晩 自虢県渡渭 宿於僧舎曾閣閣故曾氏所建也
  夜久不寐 見壁間 有前県令趙薦留名 有懐其人
 蘇軾
 七月二十四日 久しく雨ふらざるを以て 出でて磻渓に祷る 是の日虢県に宿す
 二十五日晩 虢県より渭を渡り僧舎の曾閣に宿す 閣は故曾氏の建つる所なり
  夜久うして寐られず壁間を見るに前の県令趙薦名を留むる有り其の人を懐う有り


  龕燈明滅欲三更  龕燈がんとう 明滅して三更さんこうならんと欲す
  欹枕無人夢自驚  枕を欹そばだてて人無きも 夢自おのずから驚く
  深谷留風終夜響  深谷しんこく 風を留とどめて 終夜しゅうや響き
  乱山銜月半牀明  乱山らんざん 月を銜ふくんで 半牀はんしょう明らかなり
  故人漸遠無消息  故人こじんようやく遠くして消息しょうそく無く
  古寺空来看姓名  古寺こじむなしく来たって姓名を看
  欲向磻渓問姜叟  磻渓(はんけい)()って 姜叟(きょうそう)に問わんと欲すれば
  僕夫屢報斗杓傾  僕夫ぼくふ 屢々しばしば報ず 斗杓とひょうの傾けるを

祭壇の燈明がゆらめき 真夜中であろうか
夢に驚いて目覚めるが ひと気はない
深い谷間に風が舞い 夜通し唸り声を発し
月は峙つ峰に懸かって 寝台の半ばを照らしている
友人とも疎遠になり 便りも来なくなる
空しく古寺に泊まって 壁の名前を見詰めている
明日は磻渓に行って 太公望に雨乞いをするのだ
だから従者が星を見て 時刻をしばしば報せてくる

 嘉裕八年一〇六三は、鳳翔在任の二年目です。
 蘇軾はこの年、大理寺丞従八品に昇格しますが、寄禄官ですので俸禄が上がっただけです。ところが、この年の三月二十九日に仁宗が崩じました。
 仁宗は治世が永かったにもかかわらず、後嗣を立てていませんでした。
 病気になって倒れるに及んで、真宗の孫にあたる趙宗実ちょうそうじつを養子にし、後嗣としました。これが英宗です。天子がかわっても、一地方官に過ぎない蘇軾には通常の勤務があるだけです。
 この年は五月の雨季が過ぎても雨が降らず、蘇軾は七月下旬になると磻渓はんけいの太公望廟に行って雨乞いの祈りをすることになりました。
 この詩の題名は序文のように長く、経緯を説明しています。七月二十五日の晩、曾閣そうかくに泊まったとき、夜中に目覚めて眠れません。
 ふと壁をみると、壁面に趙薦ちょうせんの名前がありました。
 趙薦は虢県かくけんの県令で、詩人であった人です。
 壁に趙薦の詩が書きつけてあったのでしょう。
 蘇軾の詩には、全体として孤独な感情がただよっています。翌二十六日、蘇軾は磻渓の太行廟に行って雨乞いの儀式を行わなければなりませんので、朝起きるのが遅れないように、従者が頻繁に時刻を報せてきます。
 翌日、蘇軾は雨乞いの儀式を済ますと、磻渓から東にまわって、陽平、扶風をめぐり、鳳翔にもどってきました。


 大秦寺       大秦寺 蘇軾

晃蕩平川尽   晃蕩こうとうとして平川へいせん尽き
坡陁翠麓横   坡陁はだとして翠麓すいろく横たわる
忽逢孤塔迥   忽ち逢う 孤塔ことうはるかに
独向乱山明   独り乱山らんざんに向かって明らかなり
信足幽尋遠   足に信まかせて幽尋ゆうじん遠く
臨風却立驚   風に臨んで却立きゃくりつして驚く
原田浩如海   原田げんでんこうとして海の如く
滾滾尽東傾   滾滾こんこんとして尽ことごとく東に傾く
広々とつづく平野の果てに
緑の丘が波打って横たわる
はるか彼方に ひとつの塔を見つけ
山々の重なる中 くっきりと見えている
足の赴くままに 幽を尋ねてきたが
吹きつける風に 驚いて後ずさりする
丘の上の畑は 海のように広く
水は滾々と湧き すべて東へと流れてゆく

 英宗即位の翌年は、治平元年一〇六四です。
 蘇軾は正月に清平鎮から楼観、五郡、大秦、延生、仙遊の地に遊び、四日間ほどかけて、あたりの風物を見て歩きました。
 その間に十一首の詩を得て、それを連作にして蘇轍に送りました。
 「大秦寺」だいしんじは連作の四首目です。大秦寺は蟄庢ちゅうちつ:陝西省周至県の南の山中にある寺で、唐代に景教ネストリウス派キリスト教の寺院として建てられましたが、のちに仏教寺院に改められました。
 頚聯に「足に信せて幽尋遠く」とあるように、幽な風景を求めて歩いているときに、蘇軾は偶然、遠くの山のなかに孤塔が立っているのを目ににします。
 この詩では、のちに蘇軾の詩の特色のひとつとなる大きな風景が描かれていることが注目されます。


   驪山三絶句 其一   驪山三絶句 其の一 蘇軾

   功成惟欲善持盈   功こう成って惟だ欲す 善く盈えいを持するを
   可歎前王恃太平   歎たんずべし 前王ぜんおうの太平を恃たのむを
   辛苦驪山山下土   辛苦しんくす 驪山りざん山下さんかの土つち
   阿房纔廃又華清   阿房あぼうわずかに廃すれば又た華清かせい
功業が成れば その最善を維持すべきもの
前代の天子が 太平に甘んじたのは嘆かわしい
驪山の麓は ご苦労なことだ
阿房宮がなくなれば つぎは華清宮

 蘇軾は治平元年一〇六四の十二月に三年間の地方勤務を終わり、都に召還されます。
 家族をともなって鳳翔から長安を通り、陸路をたどってゆきますが、その途中、唐の玄宗皇帝の離宮として名高い驪山の麓を通ります。
 驪山の華清宮に、かつての面影はありません。阿房宮は秦の始皇帝が建設をはじめ、あまりにも壮大なため遂に完成に至らなかった宮殿です。
 蘇軾は史上有名なこのふたつを並べて、工事に駆り出された人民の苦労を思い、王者の驕奢を戒めています。都汴京に着いたのは年末でした。


   頴州初別子由二首 其二
    頴州にて初めて子由に別る 二首 其の二 蘇軾

   近別不改容   近き別れは 容かたちを改めず
   遠別涕霑胸   遠き別れは 涕なんだ胸を霑うるお
   咫尺不相見   咫尺しせきにして 相見ざるは
   実与千里同   実は 千里と同じ
   人生無離別   人生に 離別りべつが無ければ
   誰知恩愛重   誰か 恩愛おんあいの重きを知らん
   始我来宛邱   始め我われ 宛邱えんきゅうに来たりしとき
   牽衣舞児童   衣を牽きて 児童舞う
近くへの別れであれば 顔色を変えないが
遠くへの別れであれば 涙が胸にしたたり落ちる
近いところにいても 会えないのなら
千里も離れているのと 同じこと
人生に別れがなければ
誰が恩愛の深さを知ろう
わたしが陳州にきたとき
子供らは わたしの衣につかまって喜んだ

 治平二年一〇六五に蘇軾は三十歳になりました。
 帰京した蘇軾は正月に登聞鼓院判官に任ぜられましたが、就かずに、召試によって直史館になりました。召試は天子の面前で試問を受けることで、史館に任ぜられたのはエリートコースに乗ったことになります。
 英宗が即位したとき、宰相の任にあったのは韓琦かんきで、欧陽脩おうようしゅうは参知政事でした。二人とも改革派の官僚でしたので、政事改革を実施に移すのにはよい機会でした。ところが、そのとき起こったのが濮議ぼくぎです。
 濮議とは、英宗が仁宗の養子となって皇位を継いだため、英宗の実父である濮王を皇伯として扱うか、皇親皇帝の実の父として扱うかという問題です。
 形式的な問題のようですが、儒教による倫理観が強かった当時としては大問題でした。濮議は宮廷を二分する大論争となり、政事改革どころではなくなりました。
 一方、治平二年の夏、蘇軾は思いがけない不幸に見舞われます。
 五月二十八日に妻の王弗おうふつが亡くなったのです。享年二十七歳でした。
 蘇軾は墓碑銘を書いて妻の早い死を悼みますが、妻の死については服喪の習慣はありません。ところが翌治平三年一〇六六に、今度は父蘇洵が病死し、蘇軾兄弟は喪に服することになります。
 蘇軾は職を辞して六月に舟を仕立てて蜀にもどります。父と妻の柩とともに故郷の眉山県に着いたのは、治平四年一〇六七の四月でした。
 足かけ三年の喪が明けたのは煕寧元年一〇六八の七月でした。
 年号がかわっているのは、前年の正月八日に英宗が亡くなり、英宗の長男の趙頊ちょうきょくが即位して神宗になっていたからです。蘇軾は父親の供養のため、地元の寺院に施捨していた大閣の完成を待って十月に法要を行い、同じ月に亡妻の従妹に当たる閏之じゅんしを継室に迎えています。
 新しい妻は、このとき二十一歳でした。
 十二月になると、蘇軾・蘇轍兄弟は家族をともなって蜀を発ち、陸路を北へたどって翌煕寧二年一〇六九の正月に都に着きました。
 蘇軾が職務に復帰したのは二月になってからです。
 ところが蘇軾が服喪していたあいだに、宋朝の政事は一変していました。
 二十歳で即位した青年皇帝神宗は政事改革の意欲に燃え、神宗の信任を得た王安石おうあんせきの新法政策がはじまっていたのです。
 王安石とその新法政策について詳しく述べるのは略しますが、仁宗の四十一年にわたる永い治世のあいだに、宋は経済発展をつづけていましたが、国家財政は危機に瀕していました。原因は国家の内部構造にあり、軍と官僚の維持費が厖大になっていたのです。また、資産家や土地所有者の税金逃れも無視できないものになっていました。
 王安石は蘇軾が職務に復帰した同じ月に参知政事に任ぜられ、新法の実施に踏み切ります。王安石は中国史上、稀有の改革官僚と言ってよく、その改革は当代の政事の矛盾を突くものでした。しかし、新法は農民の民力を向上させて国庫の安定をはかることを基本としていましたので、資産家や土地所有者の既得権益に反する政策にならざるを得ません。
 当時の官僚の多くは、そうした地方の新興勢力から出ていましたので、反対者は政府部内にも拡がったのです。
 蘇轍ははじめ王安石が設けた制置三司条例司の属官に抜擢されましたが、均輸法に反対したため河南府の推官に左遷されます。煕寧三年一〇七〇の十二月に王安石は宰相に任ぜられ、改革はさらに推進されます。煕寧四年一〇七一の正月になると、王安石は科挙の法を改めようとしました。
 蘇軾はこの改革に反対をとなえ、制度を変えるのではなく、制度の充実を図るべきであると進言します。このころになると、朝廷は新法の賛成派と反対派に分かれて、政策の争いは次第に党派の争いになってきました。
 蘇軾は党派に巻き込まれるのを嫌い、外任を願い出ます。六月になると、蘇軾は太常博士直史館従七品の寄禄官で通判杭州に任ぜられました。
 つまり、杭州浙江省杭州市の副知事になったのです。
 蘇軾は八月に都を出ると、まず陳州河南省淮陽県に行って蘇轍を訪ねます。
 蘇轍はそのころ陳州の知州事張方平ちょうほうへいに招かれて、陳州の学官になっていました。蘇軾はひと月ほど陳州に滞在した後、九月になると蘇轍とともに頴州えいしゅう=安徽省阜陽市にゆき、欧陽脩を訪ねました。欧陽脩は蘇軾が通判杭州に任ぜられた同じ六月に官を辞し、頴州に隠退していました。
 欧陽脩も政事改革の必要は認めていましたが、王安石ほど急進的ではありませんでした。欧陽脩に会ったあと、蘇軾と蘇轍は別れて、陳州にもどる蘇轍に蘇軾は留別の詩を贈ります。
 詩中に「宛邱」えんきゅうとあるのは陳州のことで、陳州にあった丘の名前です。陳州で蘇轍の子供たちが伯父の来訪を喜んで、衣にすがりついて跳びはねたことをまず詠います。

便知有此恨   便すなわち知んぬ 此の恨うらみ有るを
留我過秋風   我われを留とどめて 秋風しゅうふうを過ごさしむ
秋風亦已過   秋風 亦た已すでに過ぎ
別恨終無窮   別れの恨みは 終ついに窮きわまり無し
問我何年帰   我に問う 何いずれの年に帰ると
我言歳在東   我は言う 歳さいの東ひがしに在るときと
離合既循環   離合りごう 既に循環じゅんかんすれば
憂喜迭相攻   憂喜ゆうきたがいに相攻む
語此長太息   此れを語りて 長太息ちょうたいそく
我生如飛蓬   我が生 飛蓬ひほうの如くなるを
多憂髪早白   憂い多ければ 髪 早く白からむ
不見六一翁   見ずや 六一りくいつの翁おう
そのときから 別れのつらさを感じたのか
秋風が吹き終わるまで いてほしいという
秋風は過ぎてしまったが
別れのつらさの消えるときはない
今度は いつ帰ってくるのかと尋ねるので
太歳が 東に来たときと答えている
出会いと別れ めぐってくるのが人生ならば
せめぎ合うのは 憂いと喜びであろう
語り合いつつ わたしは長い溜め息をつく
われらの人生は 飛蓬のようなものであると
悲しみが多ければ 髪はそれだけ白くなる
ごらん あの欧陽先生の頭のように

 後半も蘇轍の子供たちとの交流を詠いながら、最後の四句は人生の無常についての感懐で結ばれます。子供たちからいつ帰ってくるのと尋ねられて、蘇軾は「歳の東に在るとき」と答えています。「歳」は太歳のことで、歳星木星と向かい合わせにあると想定されている架空の星です。
 それが東へまわって来たときというのは三年後のことで、蘇軾は杭州の任期が終わる三年後にはもどってくるよ、と答えたことになります。
 最後の句にある「六一の翁」は、欧陽脩のことです。
 欧陽脩は六一居士りくいつこじと号しており、このとき六十五歳、白髪でした。
 欧陽脩は翌年の閏七月二十三日に亡くなりますので、蘇軾が欧陽脩に会ったのは、このときが最後になります。


   出頴口 初見淮山 是日至寿州 蘇軾
               頴口を出で 初めて淮山を見る 是の日 寿州に至る

  我行日夜向江海  我が行こうは 日夜にちや江海こうかいに向かい
  楓葉芦花秋興長  楓葉ふうよう 芦花ろか 秋興しゅうきょう長し
  長淮忽迷天遠近  長淮ちょうわい 忽ち迷う天の遠近
  青山久与船低昻  青山せいざん 久しく船と低昻ていこう
  寿州已見白石塔  寿州じゅしゅうすでに見る白石はくせきの塔
  短棹未転黄茆岡  短棹たんとう 未だ転ぜず黄茆こうぼうの岡
  波平風軟望不到  波平かに風軟らかにして 望み到らず
  故人久立烟蒼茫  故人(こじん) 久しく立たむ (けむり)蒼茫(そうぼう)たるに
わたしの旅は 昼夜を分かたず長江にむかい
楓の紅葉 芦の白穂に 秋の深まりを感じる
淮水の流れる彼方 天空の果てを見失い
青く連なる山々が 船といっしょに浮き沈みする
白い石の塔があり 寿州はすでに見えているが
棹であやつる船は 黄茆の岡をめぐれない
波風は穏やかになったが 見通しは悪くなり
夕靄の渡し場で友人たちは 久しく待っているだろう

 蘇軾は十月二日に頴州を発って、船で潁水を下ります。
 潁水は寿州安徽省寿県の上流の頴口えいこうで淮水と合流し、「淮山」淮水流域の山々が見えてきます。十月はすでに初冬ですが、南国の淮水沿岸では楓ふうの紅葉が美しく、芦の穂は白い絮わたを飛ばしていました。
 淮水は寿州のところで曲流しており、寿州の渡津としんに入る手前に黄茆の岡があって、船頭が船をまわすのに苦労します。
 そのうちに水上に靄が立ちこめ、夕暮れも迫ってきました。
 到着の時刻が遅れ、迎えに出ている友人たちが、岸辺に立って待ち侘びているいるだろうと、蘇軾は気を使っています。


     遊金山寺        金山寺に遊ぶ 蘇軾

  我家江水初発源  我が家いえは 江水こうすいの初めて源を発するところ
  宦遊直送江入海  宦遊かんゆうして 直ちに江こうの海に入るを送る
  聞道潮頭一丈高  聞く道ならく 潮頭ちょうとう一丈高しと
  天寒尚有沙痕在  天てん寒くして 尚お沙痕さこんの在る有り
  中泠南畔石盤陀  中泠ちゅうれいの南畔なんばん 石盤陀せきばんだあり
  古来出没随涛波  古来こらい 出没 涛波とうはに随う
  試登絶頂望郷国  試みに絶頂に登って郷国きょうこくを望めば
  江南江北青山多  江南 江北 青山せいざん多し
生まれた家は 長江の水源近くにあり
宦遊を重ねて 海に入るところまで来た
聞けば水面は 満ち潮のときに一丈も高くなり
寒空の下で 沙の痕がいまもはっきり残っている
かの盤陀石は 中泠泉の南岸にあり
太古の昔から 寄せ来る波に見え隠れしている
山頂に登って 遥かに故郷を望み見れば
緑の山々が 長江の北と南につづいている

 寿州で友人たちと交流したあと、蘇軾は淮水を下って泗州安徽省盱眙県の東北に至ります。泗州ししゅうは臨淮郡ともいい、現在は地形が変わって洪沢湖中に没していますが、当時は淮水に面した賑やかな渡津でした。泗州からさらに洪沢湖上を東にゆき、十月十六日に山陽江蘇省淮安県に着きます。そこから大運河に入り、南下して揚州を通り、潤州江蘇省鎮海市に至ります。
 当時の長江河口の海岸線は現在よりも西に寄っていましたので、潤州は長江が海に流れ出る河口南岸の渡津でした。また当時、長江の上流は岷江と考えられていましたので、蘇軾は故郷から流れ出る水が海に入るところまで遥々と旅をしてきたという感慨にひたります。潤州の西北郊に金山浮王山という海抜六〇㍍ほどの山があり、いまは長江南岸にあって江に臨む小山ですが、当時は長江の江心にそそり立つ島でした。蘇軾は十一月三日に金山にある龍禅寺俗称、金山寺を訪れ、宝覚・円通の二僧に会います。
 詩中にある「中泠」は金山寺の西にあった中泠泉のことで、天下第一の名泉とうたわれていました。その南岸に盤陀石があって奇勝として有名でした。
 蘇軾はそれらを見物しながら山頂までゆき、遥かに故郷の方を望みます。西方には江南の緑の山々が連なっているだけで、もちろん蜀地がみえるはずはありません。

  覉愁畏晩尋帰棹  覉愁(きしゅう)()るるを畏れて帰棹(きしゅう)(うなが)せど
  山僧苦留看落日  山僧さんそうねんごろに留とどめて落日を看せしむ
  微風万頃鞾文細  微風びふう 万頃ばんけい 鞾文かもんのごとく細こまやかに
  断霞半空魚尾赤  断霞だんか 半空はんくう 魚尾ぎょびのごとく赤し
  是時江月初生魄  是の時 江月こうげつ 初めて魄はくを生じ
  二更月落天深黒  二更にこう 月落ちて 天 深黒しんこくなり
  江心似有炬火明  江心こうしん 炬火きょかの明らかなる有るに似て
  飛焔照山棲烏驚  飛焔ひえん 山を照らして 棲烏せいう驚く
日暮れて旅の愁いも深まり 船にもどろうとするが
落日の景色を見よと 山僧がしきりに引き止める
江上をそよ風が渡り 水のおもてに細かい波が立ち
夕焼けのちぎれ雲は 疲れた魚の尾のように赤い
このとき江上の月は 月魄が生じたばかり
月は十時ごろに沈み 空は真っ暗になった
そのとき川の中程に 松明のような光があらわれ
飛び散る焔は山を照らし ねぐらの烏も騒ぎ出す

 かねて噂に聞いていた名勝を訪ねたあと、蘇軾は寺僧に引き止められるままに、寺に一泊することになりました。その夜、江上に出た月は月齢四、五日の月で、月魄つきしろ:月の欠けた黒い部分がはっきりと見えます。
 月は「三更」午後十時ころには沈んで空が暗くなったとき、蘇軾は江上に怪火の出るのを見ました。

  恨然帰臥心莫識  恨然(ちょうぜん)として帰り()せども 心に()()
  非鬼非人竟何物  鬼に非あらず人に非ず 竟ついに何物ぞや
  江山如此不帰山  江山こうざんかくの如くにして山に帰らず
  江神見怪警我頑  江神こうしん 怪を見あらわして我が頑がんを警いまし
  我謝江神豈得已  我われ 江神に謝しゃせん 豈に已むことを得んや
  有田不帰如江水  (でん)有って帰らずんば 江水(こうすい)の如くなるあり
沈んだ気持ちで家に帰り 床についたが気にかかる
あれは霊魂でも人の仕業でもない いったい何だ
美しい江山に魅せられて 故郷に帰ろうとしないので
長江の神が怪異を起こし 警告を発したのであろうか
ならば長江の神にお詫びする いまは仕方がないのだ
田地があっても帰らなければ 江水のようになるであろう

 金山寺を辞して潤州の宿舎に帰ってからも、蘇軾は江上の怪火のことが気になっていました。官途がうまく運ばなかったにもかかわらず、故郷に帰ろうとせずに地方勤務につこうとしている自分を、長江の神が諌めたのではないかと思うのです。蘇軾は希望して地方勤務に出てきましたが、それは同時に追い詰められて逃げてきたことにもなります。蘇軾は晴ればれとしない気分のまま大運河を南へ下って、十一月二十八日に杭州に着きました。


   臘月遊孤山 訪恵勤恵思二僧 蘇軾
                 臘月 孤山に遊び 恵勤 恵思の二僧を訪う

   天欲雪  雲満湖  天 雪ふらんと欲し 雲 湖に満つ
   楼台明滅山有無  楼台 明滅して 山有りや無しや
   水清出石魚可数  水清く 石出で 魚うおかぞう可
   林深無人鳥相呼  林深く 人無く 鳥とり相呼ぶ
   臘日不帰対妻孥  臘日ろうじつ 帰りて妻孥さいどに対せず
   名尋道人実自娯  名は道人を尋ねて 実は自ら娯たのしむ
   道人之居在何許  道人の居きょは何いずれの許ところにか在る
   宝雲山前路盤紆  宝雲山前 路 盤紆ばんうたり
   孤山孤絶誰肯廬  孤山は孤絶 誰か肯あえて廬せん
   道人有道山不孤  道人 道有り 山 孤ならず
   紙窗竹屋深自暖  紙窗しそう 竹屋ちくおく 深くして自から暖かなり
   擁褐坐睡依団蒲  褐かつを擁し 坐睡ざすいして団蒲だんほに依
雪雲が湖上に満ちわたり いまにも降り出しそうなけはい
楼台は雲間に見え隠れし 山も有るのか無いのかわからない
水は清く水中の石も見え 魚も数えることができる
林は深くて 人影もなく 鳥が鳴きかわしている
臘の祭日というのに 帰って妻子の相手もせず
高僧を訪ねるからと みずからの楽しみのためにやってきた
僧の住まいは どこだろうかと
宝雲山の麓の 曲がりくねった路をゆく
孤山は離れ小島で 人の住むところではないが
高僧が道を開かれ 孤独な山ではなくなった
紙で張った窓 竹葺きの屋根 深々として暖かく
僧は褐衣を着 円座に坐して 目を閉じておられる

 杭州に着いて三日しかたっていない十二月一日、蘇軾は欧陽脩から紹介された恵勤えごん、恵思えしの二僧を孤山こざんに訪ねました。
 杭州は銭塘江の河口、北岸に位置し、杭州湾に面しています。
 西に西湖を擁し、風光明媚の地ですが、このときは真冬で、雪雲が低く垂れこめた寒い日でした。詩は四句ずつ五段に分かれ、第一段はあたりの閑雅なようすを概観しています。
 第二段は訪ねてゆく理由と道筋を述べます。
 孤山薄孤山は西湖の北岸寄り、白堤によって区切られた裏湖と外湖との間にあり、宝雲山ほううんざんは西湖の北にあります。だから蘇軾は西湖の東から北へまわり、山麓の路を湖の北岸に沿って進んだようです。
 そして、孤山に近いところから舟で孤山山といっても島ですへ渡ったのでしょう。
 第三段は僧院と僧のようすで、二僧との会見は具体的には描かれていません。僧侶の清らかな生活に触れて、蘇軾はさっぱりした気持ちになったでしょう。

  天寒路遠愁僕夫  天寒く (みち)遠くして 僕夫(ぼくふ)(うれ)えしめ
  整駕催帰及未晡  ()を整え 帰るを(うなが)して未だ()れざるに及ぶ
  出山廻望雲木合  山を出で 廻望かいぼうすれば雲木うんぼく合し
  但見野鶻盤浮図  但だ見る 野鶻やこつの浮図ふとを盤めぐるを
  茲遊淡薄歓有余  茲の遊び 淡薄たんぱくにして歓よろこび余り有り
  到家恍如夢蘧蘧  家に到りて(こう)として 夢の蘧蘧(きょきょ)たるが如し
  作詩火急追亡逋  詩を作ること火急かきゅうに 亡逋ぼうほを追い
  清景一失後難摸  清景せいけいひとたび失わば 後のちし難からん
寒空のもと帰りの路は遠いので 従者は心配し
乗り物の支度をして 暮れないうちに帰ろうという
山を出て振り返ると 雲と木は靄のなかに融け合い
仏塔のまわりをめぐって 一羽の隼が飛んでいる
今日の遊山は さっぱりとして喜びは尽きることなく
家に着いても ぼんやりと夢をみているようである
逃げる者を追うように 急いで詩を作ろう
清らかな景色が消えれば 取り返すことはできないのだ

 第四段は帰りのようすです。
 「駕」とありますので車で帰ったらしく、振りかえると夕靄のなかに雲と木が融け合い、「浮図」仏塔のまわりを「野鶻」が飛んでいました。
 第五段は帰ってからの感懐で、「淡薄」には酒食とか妓女を伴なわないさらっとした遊山であったという意味を含んでいます。
 今日の感銘が消えてしまわないうちに詩にしようと思って、急いで書き上げたのが、この詩でしょう。


 除夜直都庁 囚繋皆満 日暮不得返舎 因題一詩於壁 蘇軾
 除夜 都庁に直す 囚繋皆満ち 日暮舎に返るを得ず 因って一詩を壁に題す

   除日当早帰   除日じょじつは 当まさに早く帰るべし
   官事乃見留   官事かんじありて 乃すなわち留とどめらる
   執筆対之泣   筆ふでを執りて 之これに対して泣く
   哀此繋中囚   哀あわれむ此の 繋中けいちゅうの囚しゅう
   小人営餱糧   小人しょうじん 餱糧こうりょうを営いとな
   堕網不知羞   網に堕して 羞はじを知らず
   我亦恋薄禄   我も亦た 薄禄はくろくを恋い
   因循失帰休   因循いんじゅんして 帰休ききゅうを失しつ
   不須論賢愚   賢愚けんぐを論ずるを須もちいず
   均是為食謀   均ひとしく是れ 食の為に謀はかるなり
   誰能暫縦遣   誰たれか能く 暫しばらくも縦遣しょうけんせん
   閔黙愧前修   閔黙びんもくして 前修ぜんしゅうに愧
除夜の日は 早く帰るべきだが
仕事があって残された
筆を取って書類に向かい 思わず涙を流す
牢に繋がれている囚人が 哀れでならぬ
その日の糧を得るために 法に触れ
恥ということを知らない 民である
そういう私も 薄禄に恋々として
官職を辞すべき時期を 失している
賢者であろうと 愚者であろうと
人は食のために 苦労をするのだ
せめて正月だけ 家に帰してやれないものか
言葉をなくして 昔の賢者に恥じるばかりだ

 蘇軾はすぐに杭州通判としての仕事をはじめ、年末というのに逮捕されて牢に繋がれている者が多いのに注目します。
 囚人の書類をみるために、除夜の日というのに庁舎で残業しますが、詩は庁舎の壁に書きつけたもので、考えを公に示すことになります。
 年末年始を牢内で過ごす囚人の多くは、年末になって借金が返せないとか、食べる物がなくて盗みを働いたりした者です。蘇軾は逮捕の理由を書いた書類をみて、民の困窮の実態を知り、涙を流します。
 牢に繋がれている囚人を知るにつけ、蘇軾は薄禄に恋々としているわが身も同じようなものだと反省します。後漢や唐代では、「縦遣」年末年始に罪人を一時的に家に帰してやる制度という思いやりのある制度がありました。
 そのことを思い出して、蘇軾はせめて正月だけでも家に帰してやれないものかと思うのです。


   雨中遊天竺霊感観音院 蘇軾 雨中 天竺の霊感観音院に遊ぶ

   蚕欲老  麦半黄   蚕かいこは老いんと欲し 麦は半なかば黄なり
   前山後山雨浪浪   前山ぜんざん 後山こうざん 雨浪浪ろうろうたり
   農夫輟耒女廃筐   農夫は耒すきを輟め 女は筐かごを廃す
   白衣僊人在高堂   白衣の僊人せんにん 高堂こうどうに在り
蚕は繭を作りはじめ 麦は半ば黄ばんでいる
近くの山 遠くの山 雨はしきりに降りしきる
農夫は鋤を投げ出し 女は籠を放り出す
けれど白衣の仙人は 御堂のなかで安泰だ

 翌煕寧五年一〇七二、蘇軾は三十七歳になっています。
 三月に吉祥寺で牡丹を鑑賞したりしますが、四月のある日、西湖の西の山中にある天竺寺てんじくじを訪れました。上天竺寺の霊感観音院まで来たとき、雨が急に激しく降り出し、蘇軾は一詞を作ります。ここの観音は、ひでりのとき祈れば即日雨が降り、霊験あらたかと伝えられていました。
 蘇軾はこの伝承を用いて、雨が降り過ぎて農夫も農婦も仕事を放り出してしまった。
 だけど観音様は、「高堂」立派な堂の中ですまして鎮座していると詠います。
 「白衣の僊人」は政府役人の比喩とも考えられ、政事への批判が込められていると解されます。

目次