春夜           春夜 蘇軾

春宵一刻直千金   春宵しゅんしょう一刻いっこあたい千金
花有清香月有陰   花に清香せいこう有り 月に陰かげ有り
歌管楼台声寂寂   歌管かかん 楼台ろうだい 声寂寂せきせき
鞦韆院落夜沈沈   鞦韆しゅうせん 院落いんらく 夜沈沈ちんちん
春の夜は 一刻千金のねうちがある
花は清らかな香を放ち 月はおぼろに霞んでいる
にぎわっていた楼台も ひっそりと静まりかえり
鞦韆は中庭にむなしく 夜は深々と更けてゆく

 「春夜」しゅんやは制昨年不明の詩ですが、内容からして蘇軾そしょくが官についてほどなく、朝廷で宿直をしていた夜の作品でしょう。
 この七言絶句は日本ではよく知られており、起句の「春宵一刻 直千金」は、それだけで成句として用いられるほどに普及しています。
 実はこの詩は、蘇軾自選の詩集『東坡集』『東坡後集』に収められておらず、蘇軾の作であるかどうか確証がありません。
 しかし、すでに宋時代の詩話に蘇軾の作として称揚されていますので、蘇軾の作品であることは間違いないでしょう。
 褒められているのは「流麗」ということであり、この流麗であることが、蘇軾が自選の詩集に加えなかった理由であると思われます。蘇軾は詩の流麗さよりも、知的で硬質な詩を自分の本領として重んじていたようです。
 起句の「春宵」は宵の口ではなく、夜全体を指します。
 結句の「鞦韆」はぶらんこのことで、中国では古くから貴族の女性の春の特別な遊びになっていました。春分の後、寒食節、清明節とつづく好季節のころに、家の中庭などに鞦韆が設置され、若い女性たちが遊びに興じました。
 普段は淑やかに振舞うことを求められる女性たちも、この日ばかりは「ぶらんこ」ではしゃぎまわることが許されました。
 転句に「歌管 楼台 声寂寂」とあることから、宮中の華やかな宴が終わった後の夜の深い静寂が詩を満たしています。きっぱりとした詩句の構成は蘇軾の詩才が並でないことを示していますが、蘇軾自身はこのような一般受けのする詩を好ましいものとは思っていなかったようです。


 初発嘉州     初めて嘉州を発す 蘇軾

朝発鼓闐闐   朝あしたに発せしとき 鼓は闐闐てんてんたり
西風猟画旃   西風せいふう 画旃がせんを猟うごかす
故郷飄已遠   故郷は 飄ひょうとして已すでに遠く
往意浩無辺   往意は 浩こうとして辺かぎり無し
錦水細不見   錦水きんすいの細やかなるは見えず
蛮江清可憐   蛮江ばんこうの清らかなるは憐れむ可し
奔騰過仏脚   奔騰ほんとうして 仏脚ぶつきゃくを過ぎ
曠蕩造平川   曠蕩こうとうして 平川へいせんに造いた
野市有禅客   野市やしに 禅客ぜんきゃく有り
釣台尋暮煙   釣台ちょうだいに 暮煙ぼえんを尋ぬ
相期定先到   相い期す 定めて先ず到るを
久立水潺潺   久しく立つ 水の潺潺せんせんたるに
朝 船出をすると 太鼓は鳴りわたり
絵旗はしきりに 西風にはためく
故郷はいつしか 遠くはなれて
行く手に抱く夢は 果てしなく広がる
錦江の細やかな流れ 見るべくもなく
平羌江の清い流れに 心は動く
船は激しく揺れて 石仏の足もとを過ぎ
やがて 広々と水をたたえた川に出る
田舎の町に 同郷の禅僧がいるので
日暮れに 釣魚台で会う約束をした
先に行って 待っているとの約束に遅れてしまい
川瀬の音を聞きながら 永いこと立っているだろう

 蘇軾字は子瞻は宋の景裕三年一〇三六十二月十九日に、眉州眉山県四川省眉山県紗縠行さこくこうで生まれました。このとき宋史書では「北宋」というは四代仁宗の治世十五年目で、建国以来つづいてきた北の契丹きったんと西の西夏せいかとの紛争に片が付き、経済成長に向かう時期にあたっていました。
 蘇軾が生まれた紗縠行というのは、絹織物業者が集まって住んでいることから名付けられた地名です。ただし、蘇軾の家は商業に従事しておらず、地元にいくらかの土地を持つ中小地主の知識層であったようです。
 居住地から推測すると、先祖は商業に従事して財を成した一族であったかもしれません。唐末から五代十国の戦乱期に華北の貴族、士階級の家のほとんどが財産を失い、新興の富農や商業の成功者のなかから新しい知識層が生まれる時代になっていました。宋はそうした新知識層に科挙かきょの窓口をひろげ、人材の登用をはかっていました。蘇軾の父蘇洵そじゅんもそうした知識人のひとりで、みずからも官途につこうと努力していましたし、二人の息子、蘇軾と蘇轍そてつにも教育を怠りませんでした。嘉裕元年一〇五六三月、蘇洵は二人の息子を連れて都汴京河南省開封市へ向かいます。
 都へは古都長安を経由する陸路を取り、汴京に到着したのは五月になってからでした。都に着くや蘇洵は二人の息子に開封府の府試府で行う解試を受けさせ、二人は揃って及第します。
 蘇軾は二十一歳、蘇轍は十八歳で秀才になり、翌嘉裕二年一〇五七の正月には省試に及第、三月には殿試にも合格して新進士になりました。
 あとは任官の沙汰を待つだけでしたが、そこに思いがけない報せが舞い込んできました。四月八日に母程氏が眉山県の自宅で亡くなったのです。
 蘇洵親子は服喪のために故郷に帰らなければならなくなり、五月には家に着きました。服喪は三年実質二年余です。嘉裕四年一〇五九十月になると、蘇洵一家は再度蜀を出て都へ向かいます。
 今度は陸路ではなく、船で長江を下る経路を選び、眉州から岷江びんこうを五六㌔㍍ほど下った嘉州四川省楽山市に到ります。
 そこを船出するときに作ったのが、今回の詩です。
 詩は四句ずつ三段にわけて読むことができ、はじめの四句は船出のようすと旅の前途への希望です。
 中四句の「錦江」は岷江の分流で、成都の壁下を流れています。
 成都特産の錦を晒すことから錦江といい、清い流れです。嘉州の渡津を出るとすぐの対岸、岷江の左岸には凌雲山九頂山が聳えています。
 その麓に凌雲寺があり、高さ三百六十尺約七一㍍の弥勒仏が岩壁に刻み出されています。現在、楽山大仏と称されている石仏です。
 凌雲寺のある河岸は西の山地から流れ出る平羌江青衣江と大渡河が合流して岷江に流れ込む地点にあたり、合流した水は仏足から数歩のところでぶつかり、激流となって南へ流れています。
 ここは仏頭灘と呼ばれ、舟の難所となっていました。
 水は澄んでいて、その清らかな流れが蘇軾の心を動かします。
 最後の四句は嘉州の次の停泊地の話でしょう。詩中の「禅客」は蘇軾の自注によると眉山県の僧侶宗一そういつのことで、蘇軾は旧知の宗一と釣魚台で会う約束をしていました。約束の時刻に遅れたので、宗一が川のほとりで待ちくたびれて立っているのではないかと、蘇軾は友を思いやります。


     江上看山        江上 山を看る 蘇軾

  船上看山如走馬  船上せんじょう 山を看れば走馬そうばの如く
  倏忽過去数百群  倏忽しゅくこつとして過ぎ去る 数百群
  前山槎牙忽変態  前山ぜんざんは槎牙さがとして 忽ち態たいを変じ
  後嶺雑沓如驚奔  後嶺こうれいは雑沓ざっとうして 驚奔きょうほんするが如し
  仰看微径斜繚繞  仰いで微径びけいを看れば 斜めに繚繞りょうじょうたり
  上有行人高縹渺  上に行人こうじん有り 高くして縹渺ひょうびょうたり
  舟中挙手欲与言  舟中(せんちゅう) 手を()げて (とも)に言わんと欲すれど
  孤帆南去如飛鳥  孤帆こはん 南に去って 飛鳥ひちょうの如し
船から見る山は 馬が駆けるように
数百頭の群れが たちまちに過ぎ去る
前方の山は険しく尖って 見る間に姿をかえ
後ろの峰は重なり合って 驚いて逃げるようだ
仰ぎ見ると径は 山肌に斜めにまといつき
上をゆく人影が 高いところでかすんで見える
手を挙げて 船上から呼ぼうとしたが
帆舟は南へ 鳥のように飛び去った

 岷江は戎州じゅうしゅう:四川省宜賓市で長江と合流します。
 蘇洵一行の乗る船は戎州で日暮れとなり、牛口渚ぎゅうこうしょの岸辺に船を繋いで船中で泊しました。このとき蘇軾には妻王弗おうふつと長子邁まいがあり、蘇轍にも妻史氏がありました。
 家族や従者を伴なっての旅ですので、小さな舟ではなかったでしょう。
 船にはほかにも多くの客が乗っており、土地の者が乗客をめあてに薪や野菜を売りに来ます。その貧しげなようすを見て、蘇軾は官途のために汲々として旅をしている自分を反省します。
 長江を下る船は、やがて渝州ゆしゅう:四川省重慶市をへて涪州ふうしゅう:四川省涪陵県へと進み、両岸に次第に山が迫ってきます。蘇軾は過ぎ去る山のようすを首聯、頷聯の四句で比喩的に述べ、船の早いことを詠います。
 頷聯の対句はみごとです。仰ぎ見ると、小径が折れ曲がりながら山腹を斜めに上っており、上の方に歩いている人影が見えました。
 蘇軾は手を挙げて声をかけようとしますが、帆舟ふねは風をはらんで鳥のように飛び去ってゆきます。その詩からは、船旅をする蘇軾の楽しい気持ち、若々しい喜びの感情が溢れ出てくるようです。


 屈原塔       屈原の塔 蘇軾

楚人悲屈原   楚人そひと 屈原くつげんを悲しみ
千載意未歇   千載せんざい 未だ歇まず
精魂飄何処   精魂せいこんひょうとして何いずれの処ぞ
父老空哽咽   父老ふろう 空しく哽咽こうえつ
至今滄江上   今に至るまで 滄江そうこうの上ほとり
投飯救飢渇   飯はんを投じて 飢渇きかつを救う
遺風成競渡   遺風いふう 競渡きょうとを成し
哀叫楚山裂   哀叫あいきょう 楚山そざん裂く
楚人は屈原の死を悼み
千年の後も 悲しみはつきない
屈原の魂は どこをさまよっているのかと
古老たちは なすところなく涙をながす
いまに至るまで 淋しい岸辺で
川に飯を沈めて 屈原の飢えに供える
屈原をしのんで 舟を競わせ
楚山も裂けよと 悲しみの声をあげる

 船はやがて忠州四川省忠県に着きます。渝州から忠州まで四百数十里、直線距離でも一六八㌔㍍ほど下ったことになります。
 忠州には楚の憂国の詩人屈原の碑塔がありました。碑塔は土地の仏教徒が建てたものだと言っていますので、仏塔ストゥーバのようなものでしょう。
 蘇軾は屈原の国を憂える至情がいまも土地の人々に愛され、長江に供え物の飯を捧げ、競艇のような催しを行っていると詠います。

屈原古壮士   屈原は古いにしえの壮士にして
就死意甚烈   死に就く 意はなはだ烈たり
世俗安得知   世俗せぞくいずくんぞ知るを得ん
眷眷不忍決   眷眷けんけんとして 決するに忍びざるを
南賓旧属楚   南賓なんひんは 旧楚きゅうそに属す
山上有遺塔   山上さんじょうに 遺塔いとう有り
応是奉仏人   応まさに是れ 仏ぶつを奉ずるの人
恐子就淪滅   子の淪滅りんめつに就くを恐るるなるべし
屈原はまことに 古の壮士であり
死にいたる志は 壮烈を極めている
だが 決心できずにさまよった心情は
なかなか人に 理解されないであろう
忠州は もと楚に属し
山上に 屈原の塔がある
これは 仏教を信ずる人が
屈原の 忘れられるのを恐れたからだ

 屈原の憂国の志は壮烈を極めていますが、「世俗 安んぞ知るを得ん 眷眷として 決するに忍びざるを」と詠い、屈原が故国に心を惹かれて、いつまでも国を捨てる決心がつかなかった心情は、世の人々になかなか理解されないであろうと言っています。このことは、蘇軾が二十四歳にして深く人情の機微に通じていたことを示しているものと思います。

此事雖無憑   此の事 憑る無しと雖いえど
此意固已切   此の意 固もとより已すでに切せつなり
古人誰不死   古人こじん 誰か死せざらん
何必較考折   何ぞ必ずしも考折こうせつを較かくせん
名声実無窮   名声 実に窮きわまり無し
富貴亦暫熱   富貴 亦た暫しばらく熱す
大夫知此理   大夫たいふは 此の理を知れり
所以持死節   所以ゆえに 死節しせつを持せるなり
この地に塔を立てることに 拠り所はないが
その心情には 切なるものがある
人はみな 死ぬのが当然であり
寿命の長短は 問題ではない
名声こそが永遠であり
富貴はつかのまの熱気に過ぎない
三閭大夫屈原は この道理を心得ていた
だから死んで 節義を全うしたのだ

 「南賓」忠州はもと楚に属していましたが、屈原が足跡をしるした地からは離れています。直接のゆかりはない土地であるけれども、そこに碑塔が建てられているのは、仏教を信ずる人々が屈原の事績を後世に伝えるために建てたものであろうと推測し、人は誰でも死ぬものであり、残るのは名声だけだ。屈原はその道理を知っていたので、死んで憂国の節義をまっとうしたのだと理解を示します。


荊州十首 其一 荊州十首 其の一 蘇軾

遊人出三峡   遊人ゆうじん 三峡さんきょうを出ずれば
楚地尽平川   楚地そちことごとく平川へいせん
北客随南賈   北客ほくかく 南賈なんこに随い
呉檣閒蜀船   呉檣ごしょう 蜀船しょくせんを閒まじ
江侵平野断   江こうは平野を侵おかして断ち
風捲白沙旋   風は白沙はくさを捲いて旋めぐ
欲問興亡意   興亡の意を問わんと欲すれば
重城自古堅   重城じゅうじょういにしえより堅し
三峡を通り抜けると
楚地の川は すっかり平らな流れとなる
北の旅人が 南方の商人と親しみ
呉の帆柱が 蜀の船にまじる
長江は 平野を二分して流れ
つむじ風は 白い砂を巻き上げる
楚国の興亡 その理由を聞いてみたいと思うが
荊州の城は 昔から堅固だと答えて来るだろう

 忠州を出ると、船はやがて長江三峡の難所にさしかかります。
 蘇洵一行の乗った船は無事難所を通過し、十二月八日に荊州湖北省沙市市江陵県に着きました。
 蘇軾たちは、荊州にひと月ほど滞在して旅の疲れをいやします。
 蜀を発ってから荊州までの間に、蘇洵親子は三人で百数十首の詩を書いたといいます。蘇軾はこれらの作品のなかから百首を選んで、『南行前集』という詩集を作りました。「荊州十首」はこの詩集に含まれており、荊州滞在中の作品も含む詩集です。其一の詩は三峡の難所を通過して、湖北の平原に出たところからはじまります。
 荊州は東西南北の交通の要衝であり、各地から人が集まる交易地です。
 渡津としんには呉の船と蜀の船が入りまじって停泊し、長江は平野を二分して東へ流れています。荊州城を「重城」というのは、唐の時代から城は中隔城壁によって南北両城に区分され、二重の城であったからです。
 荊州は楚国興亡の要の城であったと蘇軾は回顧します。


荊州十首 其四 荊州十首 其の四 蘇軾

朱檻城東角   朱檻しゅかん 城東じょうとうのの角かど
高王此望沙   高王こうおうここに沙を望む
江山非一国   江山こうざん 一国に非あら
烽火畏三巴   烽火ほうか 三巴さんぱを畏おそ
戦骨淪秋草   戦骨せんこつ 秋草しゅうそうに淪しず
危楼倚断霞   危楼きろう 断霞だんかに倚
百年豪傑尽   百年ひゃくねん 豪傑は尽
擾擾見魚蝦   擾擾じょうじょうとして 魚蝦ぎょかを見る
州城の東南角に 朱塗りの欄干
高王はここから 長江の砂洲を望み見た
ときに江山は 一国の有にあらず
三巴の攻撃に 烽火は燃える
戦死者の骨は 秋草に埋もれ
夕焼けの雲に 望楼は映える
それから百年 豪傑たちは尽き果て
いまはただ 騒々しい魚市場が見えるだけ

 荊州城の城壁の東南角に、朱塗りの欄干を持った楼閣がありました。
 この楼閣は五代十国時代に後梁の荊南節度使高季興こうきこうが建てた望沙楼のことです。高季興はのちに後唐の封を受けて南平王となり、この望楼から長江の砂洲を望見しました。
 高父子はその後、いろいろな国に隷属して戦乱が絶えませんでした。
 だから「江山 一国に非ず」というのです。
 それからすでに百余年がたっています。
 かつての英雄たちは死に絶え、いまは「魚蝦」魚と海老が跳びはねる魚市場が見えるだけだと、歴史の無常を回顧します。


荊州十首 其十 荊州十首 其の十 蘇軾

柳門京国道   柳門りゅうもんは京国けいこくの道
駆馬及春陽   馬を駆りて春陽しゅんように及ぶ
野火焼枯草   野火やか 枯草こそうを焼き
東風動緑芒   東風とうふう 緑芒りょくぼうを動かす
北行連許鄧   北行ほくこう 許鄧きょとうに連つらなり
南去極衡湘   南去なんきょ 衡湘こうしょうを極きわ
楚境横天下   楚境そきょうは天下に横たわるに
懐王信弱王   懐王かいおうは信まことに弱王じゃくおうなり
柳門は楚都郢につらなる大道の門
馬を駆って 早春の野に遊ぶ
枯れた草を 野火が焼いたあと
緑の新芽が 春風に揺れている
北に行けば 許州・鄧州に道はつらなり
南に行けば 衡山・湘水に到るであろう
楚の領土は 天下に拡がっていたのに
かの懐王は まことに弱い王であった

 「柳門」は楚都郢えいに二つあった南門のひとつ「修門」であるとする説もありますが、荊州の北門を柳門と言ったのかもしれません。
 その門から蘇軾は早春の陽にかがやく野に馬を走らせます。冬十二月なのに、南国の荊州の野では、はやくも春草の新芽が萌え出ていたようです。
 頚聯の対句で、荊州が南北交通の至便の地であることを述べます。
 そして結びでは、楚の領土がこのように広大であるのに、楚の懐王は秦の張儀ちょうぎに欺かれて秦に捕らえられ、咸陽秦の首都で客死してしまいます。
 そのことを「懐王は信に弱王なり」と嘆くのです。
 懐王への批判は、中華の地を統一しながら、契丹や西夏に対して軟弱な政策を取りつづけている政府への批判とも考えることができます。


 夜行観星     夜行 星を観る 蘇軾

天高夜気厳   天高くして夜気やきは厳しく
列宿森就位   列宿れつしゅくは森しんとして位くらいに就く
大星光相射   大星たいせいは 光 相射あいい
小星鬧若沸   小星しょうせいは 鬧どうとして沸くが若ごと
天人不相干   天と人とは 相干あいかんせず
嗟彼本何事   嗟ああ 彼 本もと 何事ぞ
世俗強指摘   世俗 強いて指摘して
一一立名字   一一 名字めいじを立つ
空は高く澄み 夜気は厳しく身に迫り
星宿は厳として その地位を占めている
大きな星は 射るような光を放ち
小さな星は 争って涌き出るようだ
天と人とは 関係ないとしても
天空のこの果てしない広がりは 何であろうか
世間では 星宿を強いて取り上げ
それぞれ 名前をつけている

 荊州で年を越した蘇洵一家は、嘉裕五年一〇六〇正月五日に荊州を発ち、陸路で北へ向かいます。
 荊門湖北省荊門市を通って漢水のほとりの浰陽れんよう=湖北省鐘祥県に出て、そこから漢水に沿って北の襄陽湖北省襄攀市に向かいます。
 「夜行 星を観る」の詩は、その途中の作であり、詩題に「夜行」やこうとありますので、夜道を馬車で進んだのでしょう。
 この詩は漢の武帝時代の大学者、今文経学博士董仲舒とうちゅうじょの「天人感応説」に疑問を投げかける作品です。天人感応説は、天は意志を持つ至高無上の神であり、日月星辰の運行、寒暑四季の交代、国家民族の盛衰はすべて神の意志の表現であるといいます。
 だから人が天意に逆らった行動をすると、天はただちにさまざまな異変・災害を起こして警告を発し、懲罰を下すというのです。
 詩の前半八句では、まず天空の果てしない広がりと、そこに列なる星宿せいしゅくを見上げ、世間では星宿にそれぞれ名前をつけていると指摘します。

南箕与北斗   南箕なんきと北斗ほくと
乃是家人器   乃すなわち是れ 家人かじんの器なり
天亦豈有之   天てんた 豈に之れ有らん
無乃遂自謂   乃ち遂に 自ら謂う無からんや
迫観知如何   迫り観れば 如何いかなるを知らん
遠想偶有似   遠くより想えば 偶々たまたま似たる有り
茫茫不可暁   茫茫ぼうぼうとして 暁さとる可からず
使我長歎喟   我われをして 長とこしえに歎喟たんきせしむ
南箕とか 北斗と呼ぶが
これらは 家で使う道具に過ぎない
そんなものが 天にあるはずはなく
人が勝手に 称するに過ぎない
近寄ってみれば どんなものか知れたものではなく
遠くから見て たまたま似ているに過ぎない
天は広々として 理解のしようがなく
私はいつまでも ただ溜め息をつくだけだ

 後半では星宿の名前を取り上げて、そんなものは家で使う道具に過ぎないと詠います。そんなものが天にあるはずはなく、人が勝手に呼んでいるだけだと合理的な判断を下します。
 そして、天は「茫茫として 暁る可からず」と歎息するのです。
 董仲舒の学説は官学として永く信ぜられてきましたので、儒学の徒としてこれを否定することは勇気のいることでした。


 辛丑十一月十九日
 既与子由別於鄭州西門之外 馬上賦詩一篇寄之
蘇軾
 辛丑十一月十九日
 既に子由と鄭州西門の外に別れ 馬上に詩一篇を賦して 之に寄す

  不飲胡為酔兀兀  飲まざるに 胡なんれぞ酔うて兀兀ごつごつたる
  此心已逐帰鞍発  此の心 已に帰鞍きあんを逐うて発す
  帰人猶自念庭闈  帰人は 猶お自おのずから庭闈ていいを念おもうも
  今我何以慰寂寞  今 我 何を以ってか寂寞せきばくを慰めん
  登高囘首坡壠隔  高きに登りて首こうべを回めぐらせば 坡壠はろう隔つ
  但見烏帽出復没  但だ見る 烏帽うぼうの出でて復た没するを
  苦寒念爾衣裘薄  苦寒くかんに念おもう 爾なんじが衣裘いきゅうの薄くして
  独騎痩馬踏残月  独り痩馬そうばに騎って 残月ざんげつを踏むを
酒を飲んでいないのに どうして酔ったようにふらつくのか
君の馬を追いかけて 私の心が抜け出したからであろう
都に帰る君は父上の下 心強いであろうが
わたしはこの寂しさを どうして慰めたらよかろうか
高みから振り返ると 視界は丘にさえぎられ
君の黒い頭巾だけが 見え隠れしている
厳しい寒さのなか 夜明けの月影を踏んでゆく
やせ馬に乗った君の 薄い衣装が気がかりだ

 蘇洵一行は旅を重ねて、二月十五日に都汴京に着きました。
 諸届を済ますと、蘇洵は詩文の才によって試校書郎従九品を拝命します。
 試というのは定員外という意味です。蘇軾は福昌県河南省の主簿に任ぜられますが、それを断り、制試を受けるために受験勉強をはじめます。
 制試は殿試よりも一段上の試験で、天子が直接試問するものです。
 翌嘉裕六年一〇六一正月には、弟蘇轍とともに懐遠県開封郊外に居を移して勉学に専念し、欧陽脩の推薦を受けて制科にいどみました。
 その結果、蘇軾は第三等、蘇轍は第四等で合格しますが、第一等と第二等は設けられていませんので、一等で及第したのです。
 蘇軾は大理評事正九品に叙せられ、鳳翔府陝西省鳳翔県所在の簽書判官せんしょはんがんに任ぜられました。蘇轍も商州陝西省商県の軍事推官に任ぜられましたが、父親の世話をするために赴任を断り、都にとどまることになりました。
 十一月になると蘇軾は妻子をともなって鳳翔府に旅立ちます。
 蘇轍が鄭州河南省鄭州市まで同行して蘇軾一家を見送りました。
 詩は二人が東西に別れるときの作品です。詩題の「辛丑」しんちゅうは干支かんしで嘉裕六年のことで、蘇軾は鄭州西門の外で子由蘇轍の字と別れました。
 蘇軾は制科をへての任官であるのに、赴任の喜びや政事への抱負はひと言も述べていません。ひたすら弟との別れの悲しみや寂しさを訴えています。
 二人が別れて暮らすのはこれが初めてとはいえ、兄弟の親愛の情は異常なほどです。

  路人行歌居人楽  路人ろじんは行々ゆくゆく歌い 居人きょじんは楽しむ
  童僕怪我苦悽惻  童僕(どうぼく)は 我が(はなは)悽惻(せいそく)するを怪しむ
  亦知人生要有別  亦た知る 人生 要かならず別れ有るを
  但恐歳月去飄忽  但だ恐る 歳月の去ること飄忽ひょうこつたるを
  寒燈相対記疇昔  寒燈かんとうに相対せし 疇昔ちゅうせきを記
  夜雨何時聴蕭瑟  夜雨やういずれの時にか蕭瑟しょうしつを聴かん
  君知此意不可忘  君 此の意 忘るべからざるを知らば
  慎勿苦愛高官職  (つつし)んで高き官職を(はなはだ)しく愛すること(なか)
道ゆく人は歌いつつ 家にいる人は楽しんでいるが
私だけは悲しげな顔 それを従者は不思議がる
人生に別れはつき物と わかっているが
歳月は風のように去り 再会できる日はわからない
薄暗い灯の下で相対し 語り明かしたのは先日のこと
いつになったら雨音を しんみり聞く夜が来るのだろうか
忘れてならぬこの願い そのことを知っているなら
どうか高位高官などに 執着しないでいてほしい

 当時の交通は不便でしたが、そのことを考えても、弟との別れに対する蘇軾のこだわりは異常です。詩の終わりに近く、「寒燈に相対せし 疇昔を記す 夜雨 何れの時にか蕭瑟を聴かん」と言っていますが、これは二人が懐遠駅で勉強をしていたとき、中唐の詩人韋応物いおうぶつの詩に感銘を受け、二人が「夜雨対床やうたいしょう」の約束をしたことを指しています。つまり、夜の雨の音を聞きながら二人寝床を並べて語り合おうという約束です。
 蘇家の兄弟は、強い絆で結ばれていました。


   和子由澠地懐旧   子由の「澠地懐旧」に和す 蘇軾

  人生到処知何似  人生 到る処 知んぬ 何なんにか似たる
  応似飛鴻踏雪泥  応まさに 飛鴻ひこうの雪泥せつでいを踏むに似たるべし
  泥上偶然留指爪  泥上でいじょう 偶然に指爪しそうを留とどむるも
  鴻飛那復計東西  鴻こう飛べば 那なんぞ復た東西とうざいを計はからん
  老僧已死成新塔  老僧は已すでに死して 新しき塔と成り
  壊壁無由見旧題  壊壁かいへきは旧題きゅうだいを見るに由よし無し
  往日崎嶇還記否  往日おうじつの崎嶇きくた記するや否や
  路長人困蹇驢嘶  (みち)長く(ひと)困しみて 蹇驢(けんち)(いなな)きしことを
この世での人の営み それは何に似ているであろうか
雪解けの泥に 雁が舞い降りたようなもの
泥土の上に 爪跡を残したとしても
飛び去れば 雁の行方はわからない
老僧は死んで すでに新しい墓石となり
壁は崩れて 書き残した詩もいまはない
覚えているか あの険しかった山坂のこと
路は遠く疲れ切って 足萎えの驢馬も悲鳴をあげた

 蘇軾は家族・従者を連れて西に進み、洛陽を過ぎて澠地べんち=河南省澠池県に至りました。この道は嘉裕元年一〇五六の夏、はじめて上京したときに東へ通った道です。澠地に着いたとき、蘇轍から「澠地懐旧」と題する詩が送られてきました。蘇軾はこの詩に和して七言律詩を書き、弟に応えます。
 詩は前半四句で人生のはかないことを詠い、後半四句でその感懐のもとになった情景を詠います。秦嶺山脈を越えて上京した五年前、澠地で世話になった老僧奉閑ほうかんはすでに亡くなっており、そのとき寺舎の壁に書き残した詩も壁とともに崩れて失われていました。尾聯の二句は、かつての旅の苦しかったことを述べるもので、すばらしい絶唱です。


  別歳        別歳 蘇軾

故人適千里   故人こじん 千里に適
臨別尚遅遅   別れに臨みて尚お遅遅ちちたり
人行猶可復   人ひとの行くは 猶お復かえるべきも
歳行那可追   歳としの行くは 那なんぞ追うべけん
問歳安所之   歳さいに問う 安いずくにか之く所ぞ
遠在天一涯   遠く天の一涯いちがいに在り
已逐東流水   已すでに東流の水を逐
赴海帰無時   海に赴いて帰る時とき無し
親しい友が 遠い旅へと旅立つとき
別れに際し 歩みは遅々としてはかどらない
人は去っても また帰って来られるが
年が行くのは 追いかけられない
年に問う いったいどこへゆくのか
それは 遠い大空のかなたです
東へと流れゆく水 水を追って
ひとたび海に出たら 帰る時はありません

 ひと月ほどの旅のあと、蘇軾は十二月十四日に鳳翔府に着きました。
 その二日後の十六日に、着任の報告のために蘇軾は府の孔子廟に参拝し、有名な石鼓せきこを見ました。石鼓は鼓の形をした十個の石で、先秦の書体である大篆だいてんで文字が刻まれています。
 蘇軾はその文字を読もうとしますが、ほとんど読めませんでした。
 鳳翔は蘇軾にとってはじめての地なので、いろいろなものを見て詩を作り、それを「鳳翔八観詩」と題してまとめています。「歳晩三首」も同じころ作られた連作詩で、「餽歳」「別歳」「守歳」から成ります。
 題に付された総序によると三つとも蜀の風俗で、「別歳」は酒食によって行く年と別れることを意味しているそうです。
 蘇軾はこの三首の詩を都にいる蘇轍に送りました。
 四句をひとまとめに四段から成る詩ですが、前半の八句は人の別れと年の別れを比較して、人は別れても再会できますが、年は東へ流れてゆく水と同じように、ひとたび去ったら帰るときはないと言っています。
 終わりの三句は作者の問いに年が答える形になっています。

東隣酒初熟   東隣とうりん 酒 初めて熟し
西舎彘亦肥   西舎せいしゃていた肥ゆ
且為一日歓   且しばらく一日の歓かんを為
慰此窮年悲   此の窮年きゅうねんの悲しみを慰めん
勿嗟旧歳別   嗟する勿なかれ 旧歳きゅうさいの別れ
行与新歳辞   行くゆく新歳しんさいと辞せん
去去勿回顧   去り去りて回顧かいこする勿なか
還君老与衰   君に老ろうと衰すいとを還かえさん
東隣りの家では 酒が飲みごろになり
西隣りの家では 子豚もちょうど食べごろだ
今日一日の楽しみを 楽しみつくして
歳末のこの悲しみを 慰めよう
去る年の 別れを嘆くことはない
来る年も いずれは別れを告げるのだ
さっさと去れ 振り返るな
いずれこの身の 老いと衰とを返してやる

 後半の八句では、まず四句で「別歳べつさい」の催しを描き、結びの四句で作者の感懐を述べています。結句の「君」は過ぎゆく年のことと思われ、歳末の悲しみをみずから慰めるとともに、歳月は過ぎゆくのが当然であると合理的な考えも述べています。

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