潭州           潭州 李商隠

  潭州官舎暮楼空  潭州たんしゅうの官舎 暮楼ぼろうむな
  今古無端入望中  今古きんこはし無く 望中ぼうちゅうに入る
  湘涙浅深滋竹色  湘涙しょうるい 浅深せんしんとして竹色ちくしょくに滋しげ
  楚歌重畳怨蘭叢  楚歌そか 重畳ちょうじょうとして蘭叢らんそうを怨む
  陶公戦艦空灘雨  陶公とうこうの戦艦せんかん 空灘くうたんの雨
  賈傅承塵破廟風  賈傅かふの承塵しょうじん 破廟はびょうの風
  目断故園人不至  故園こえんを目断もくだんするも 人ひと至らず
  松醪一酔与誰同  松醪しょうろうの一酔いっすい 誰と同ともにせん
潭州の州府の楼に 夕闇は静かに迫り
昔と今の出来事が 渾然として目に浮かぶ
湘水で流れた涙は 竹にまだらの模様を描き
楚歌の蘭の草叢を 怨みの風が吹き抜ける
陶侃が船を浮かべた灘に いまは虚しく雨が降り
鵩鳥が巣くった賈誼の家 崩れた廟に風が吹く
故郷の方に目を凝らすが 待つ人の姿はみえず
松醪の酒に酔いたくても 酒酌み交わす相手はいない

 李商隠は嶺南の異俗になじめず、批判的に眺めていました。
 そんな大中二年二月、鄭亜が循州刺史に貶されます。
 このことは李徳裕の潮州流謫と関係があるでしょう。
 循州広東省恵陽県の東北は潮州よりも桂州に近いところにありますが、李商隠の目から見れば「絶域」です。
 李商隠は鄭亜に従うことをやめ、職を辞しました。ほどなく桂州を離れ、北にもどって潭州湖南省長沙市の湖南節度使李回りかいのもとに滞在します。
 潭州には短い間に三回も立ち寄っており、今回は四度目です。
 掲げた詩は、そのいずれのときに作られてもおかしくありませんが、内容的には桂州の職を辞して北に向かう四度目が適当でしょう。
 なお、詩題は冒頭の二語を採っていますが、それが全体の主題ですので、「無題」の詩に属するものではありません。
 首聯ではまず場所と時刻と状況が示されます。昔と今の出来事が混じり合って目に浮かぶと言い、中四句でその出来事が詠われます。
 「湘涙…」の句は帝堯の娘である娥皇と女英の故事です。
 二人が南方巡行中の夫舜帝の後を追って江南まで来たとき、蒼梧湖南省寧遠県付近の山で舜帝が没したことを聞いて悲しみの涙を流します。
 その涙によって竹がまだらに染まり、斑竹になったと詠うのです。
 「楚歌…」の句は楚辞のことで、屈原の詩には蘭をはじめとする香草が詠われており、美徳を備えた人を示します。
 「陶公…」の句は東晋の陶侃とうかん:陶淵明の曽祖父の話で、陶侃は異民族から身を起こし、武将として東晋の建国に功績がありました。「賈傅…」の句は長沙太傅に左遷された漢の賈誼かぎのことで、「承塵」は天井板のことです。
 鵩鳥ふくちょうという梟に似た鳥がいて、主人の死を予兆する不吉な鳥とされていました。鵩鳥は天井板に集まると信ぜられていましたので、賈誼は鵩鳥の出現に脅えて、「鵩鳥の賦」を作っています。李商隠は賈誼の廟を訪ねたらしく、廟はすでに荒れていて、崩れた壁に風が吹いていました。
 以上の中四句では、潭州にかかわりのある過去の事跡、それも失敗と成功の事跡が述べられており、人の営みの虚しさに自己の不遇を重ね合わせていると見ることができます。尾聯は全体の結びであり、眼を凝らして故郷都と考えて差し支えありませんの方角を見詰めますが「人至らず」です。
 特定の人が来ないという意味で、この詩は恋愛詩ではありませんので、自分を推薦してくれるような知己、有力者はいないという意味でしょう。
 「松醪」は松の香りをつけた濁り酒で、潭州の銘酒でした。
 その酒を飲んで「松醪の一酔 誰と同にせん」と嘆くのですが、飲む相手は潭州にもいたはずですので、自分を後援する人がいないことを嘆くのです。
 大中二年の二月、都では令孤綯が尚書省吏部の考功郎中従五品上になり、ついで知制誥・充翰林学士に任ぜられていました。
 李商隠は李党の凋落が近いことを見抜けずに、令孤綯の好意ある誘いを断ったことの愚かさを、このとき痛いほどに感じていたことでしょう。結びの一句は令孤綯の好意を謝絶したことへの歎きであったかも知れません。


      楚宮           楚宮 李商隠

  湘波如涙色漻漻  湘波しょうは 涙の如く 色いろ漻漻りょうりょうたり
  楚厲迷魂逐恨遥  楚厲それいの迷魂めいこん 恨みを逐いて遥かなり
  楓樹夜猿愁自断  楓樹ふうじゅ 夜猿やえん 愁いて自おのずから断たる
  女蘿山鬼語相邀  女蘿じょら 山鬼さんきかたりて相い邀むか
  空帰腐敗猶難復  空むなしく腐敗に帰す 猶お復ふくし難し
  更困腥臊豈易招  更に腥臊(せいそう)(くる)しめらる 豈に招き易からんや
  但使故郷三戸在  但だ使し故郷に 三戸さんこらば
  綵糸誰惜懼長蛟  綵糸(さいし) 誰か惜しまん 長蛟(ちょうこう)を懼れしむるを
湘水の流れは 涙のように透明で
屈原の怨みは どこまでも追いかける
岸辺の楓樹 夜鳴く猿 愁いのために胸は張り裂け
女蘿をまとった山鬼は 言葉巧みに誘いをかける
虚しく腐りゆく肉体は 元にかえらず
腥い魚に食い千切られ 魂を呼びもどすことはできない
故郷に残った屈原の裔 それが三軒であったとしても
綵糸を巻いた食べ物で 蛟を驚かしつづけるであろう

 この詩の題名は「楚宮」そきゅうとなっていますが、楚の宮殿のことは全く出てきません。すべて屈原のことです。
 屈原が身を投じたと伝えられる汨羅の淵は、潭州から北へ七七㌔㍍ほどのところにあり、李商隠は訪ねたかもしれません。
 首聯の「楚厲」の厲は原文では示扁がついているそうですが、意味に変わりはなく、非業の死を遂げた魂の意味です。頷聯の二句は「楚厲の迷魂」を受けて、迷える魂の異様な雰囲気を盛り上げます。
 特異なのは頚聯の二句で、普通は屈原の魂を悼むところですが、李商隠は水中で腐敗し、「腥臊」なまぐさ、つまり魚に食べられた屈原の肉体は二度と呼びもどすことができないと、嗜虐的なイメージを展開します。
 世間の常識と違った表現ですが、尾聯では屈原の命日である五月五日に川に投ずる習慣の粽ちまきの起源について「綵糸 誰か惜まん 長蛟を懼れしむるを」と好意のある見解を述べています。
 この詩からは、李商隠の屈折した心境が窺われます。


     荊門西下        荊門 西より下る 李商隠

   一夕南風一葉危  一夕いっせき 南風なんぷう 一葉いちようあやうし
   荊門廻望夏雲時  荊門けいもん 廻望かいぼうす 夏雲かうんの時
   人生豈得軽離別  人生 豈に離別を軽かろんじ得んや
   天意何曾忌嶮巇  天意 何ぞ曾かつて嶮巇けんぎを忌まん
   骨肉書題安絶徼  骨肉こつにくの書題しょだい 絶徼ぜつきょうに安んじ
   蕙蘭蹊径失佳期  蕙蘭けいらんの蹊径けいけい 佳期かきを失う
   洞庭湖濶蛟龍悪  洞庭湖は濶ひろく 蛟龍こうりゅうわる
   却羨楊朱泣路岐  却って羨うらやむ 楊朱ようしゅの路岐ろきに泣きしを
ある夕べ 南の風に小舟は顛覆せんばかり
荊門山上 夏の雲を仰ぎつつ 私は思う
人生において 別れを軽んじてはならないが
天の意志は 険しい地形を生むこともある
家族との便りも絶え 僻遠の地に安んじて
蕙蘭の生える川辺で 佳人と会う機会も失った
洞庭湖は果てしなく 蛟龍は悪事を働く
今は楊朱が羨ましい 岐路の多さに泣いたとは

 潭州を発った李商隠は、洞庭湖を渡って夏には荊州に来ていました。
 詩題にある「荊門」けいもんは荊州から西へ長江を八十㌔ほど遡ったところにある山で、北岸にある虎牙山と相対して長江の難所のひとつでした。
 李商隠は何かの用事で荊門よりも上流まで行き、荊州にもどる途中、荊門山下に舟をとどめたと思われます。
 詩は序になっている首聯を除いて、頷聯以下は作者の感懐です。
 一句目は過去の想起とも思われますが、小舟が顛覆するほどの危険な目に遭ったということの比喩とも考えられます。ともかく荊門山上に浮かんでいる夏雲を眺めながら、李商隠は思うのです。頷聯は含蓄の深い二句で、人生においては軽々しく人と別れたりしてはならない。天は思いがけない「嶮巇」山が相対して険阻なことを創り出すことがあると、感想を述べます。
 荊門の地形と自分の現在の状況とを比喩的に述べるものでしょう。頚聯では「骨肉」兄弟・家族と離れて桂州のような「絶徼」遠い国境地帯に行き、「蕙蘭」の茂る地と楚辞に詠われた瀟湘しょうしょうの地で「佳期を失う」と詠います。
 「佳期」は普通、愛人との逢う瀬もしくは結婚の日など女性との関係に用いる語ですが、ここでは恋愛詩の用語を用いて時期を失ったことを嘆いていると考えられます。
 「佳人」は君主、心よき人、美人など多様に用いられる語ですが、李商隠の言わんとするところは、自分を推薦してくれる有力者でしょう。
 そのことは尾聯で示されており、洞庭湖の「蛟龍悪し」というのは湖南節度使の李回が思うような待遇をしてくれなかったことを指すと思われます。
 「楊朱の路岐に泣きしを」は『淮南子』にある説話で、戦国時代の百家のひとりである楊朱が岐路に立って泣いていました。
 人が泣いている理由を尋ねると、北へも南へも行くことができ、ゆく先に迷うからだと答えたそうです。李商隠はそれを「却って羨やむ」と言っているのですから、ゆき場を失った自分のいまの立場を嘆いていることになります。


     杜司勲         杜司勲 李商隠

   高楼風雨感斯文   高楼の風雨 斯文しぶんに感ず
   短翼差池不及群   短翼たんよく 差池しちとして群ぐんするに及ばず
   刻意傷春復傷別   刻意こくい 春を傷いたみ 復た別れを傷む
   人間惟有杜司勲   人間じんかんだ有り 杜司勲としくん
吹きやまぬ高楼の嵐 あなたの作に感動し
非才のわたくしは 共に飛ぶことができません
惜春の詩 贈別の歌 こころは深く刻まれて
世の哀楽を知りわれを知るのは ただあなただけ

 大中二年の秋、李商隠は妻の実家のある洛陽の崇譲坊に立ち寄って、預けてある妻を訪ね、冬には長安に出て蟄厔ちゅうしつ:陝西省周厔県の県尉に任ぜられました。若いときなら蟄厔県は悪くない任地ですが、すでに三十八歳になっている李商隠としては満足できる地位ではなかったでしょう。
 この年の冬十月、牛僧孺が病死し、李徳裕は潮州司馬から崖州海南省海口市の司戸参軍事従七品下に再々貶されます。
 その一年後の大中三年十二月に、李徳裕は海南島で没しますので、牛李の党争は主導者のすべてをなくすことになります。
 大中三年八四九の春、李商隠の弟李義叟りぎそうは吏部試に及第して秘書省校書郎正九品上に任官しました。同じころ令孤綯は中書舎人正五品上になり、五月には御史台の御史中丞正五品上に移り、九月には尚書省兵部侍郎正四品下知制誥に任ぜられ、出世の階段を駆け上ってゆきます。李商隠が詩人の杜牧を訪ねたのは、蟄厔県の県尉として都に出張したときと思われます。
 このとき杜牧は、前年の八月に睦州浙江省建徳市刺史から尚書省吏部の司勲員外郎従六品上・史館修撰に任ぜられ、長安に在任していました。
 詩題は「杜司勲」と官職で呼びかけています。起句の「高楼の風雨」は、時代を危機意識で捉えていることの表明でしょう。「斯文」は文学作品を強く特定する語で、あなたの作品には常々感動していましたと賞讃するのです。「差池」は等しくないことで、才能の及ばないことを謙遜して言っています。転句では杜牧の詩の方向性を述べ、「人間 惟だ有り 杜司勲」と結んでいます。
 実は李商隠が言いたかったことはこの一句であり、八歳年長の先輩詩人に認められ、知己になりたいと思っていたのです。しかし、杜牧は李商隠の詩を評価しておらず、何の反応も示しませんでした。


 房中曲      房中曲 李商隠

薔薇泣幽素   薔薇しょうび 幽素ゆうそに泣き
翠帯花銭小   翠帯すいたい 花銭かせん小なり
嬌郎痴若雲   嬌郎きょうろうなること雲の若ごと
抱日西簾暁   日を抱いだきて西簾せいれん
枕是龍宮石   枕は是れ龍宮の石
割得秋波色   割き得たり 秋波しゅうはの色
玉簟失柔膚   玉簟ぎょくてん 柔膚じゅうふを失しっ
但見蒙羅碧   但だ見る 羅碧らへきに蒙おおわるを
寂れた静けさのなか 薔薇は泣き
緑の枝に 銅銭ほどの小さな花
寄る辺のない男は 雲のようにたたずみ
西側の簾から洩れる 朝の光を抱いている
枕は 龍宮から持ち帰った石だ
秋の水を切り取ったような波紋が浮かぶ
玉の莚に座っていた美女は いなくなり
いまはただ 青い薄絹が残るだけ

 杜牧に近づこうとして失敗してからほどなく、李商隠は京兆尹留後参軍事奏署掾曹という職に移りますが、十月になると武寧軍節度使盧弘止ろこうしの辟召を受け、節度判官になって徐州江蘇省徐州市に赴任します。
 翌大中四年八五〇十一月、兵部侍郎知制誥の令孤綯は同中書門下平章事に任ぜられ、宰相になります。李商隠は徐州にあって、かつての学友の出世をどのような気持ちで眺めたでしょうか。詩題の「房中曲」ぼうちゅうきょくは女性の部屋の歌を意味し、一読して悼亡詩であることがわかります。
 しかし、この詩は四句ごとに換韻する歌行的な詠い方であるにもかかわらず、語り手の感情が強くにじみ出ていて、「無題」時代の李商隠の詩とは違った趣きがあります。諸解説も李商隠四十歳前後の作品と解しており、詩の練達の度合いに注目しています。
 すでに「無題」的な恋愛詩を卒業して四十歳になろうとする詩人が、臆面もなく「房中曲」と題して男の恋情を詠うでしょうか。李商隠は悼亡詩の形式を隠れ蓑にして、何か別のことを訴えているのではないかと思われます。
 注目されるのは四句目の「日を抱きて西簾暁く」で、朝日が射してくるのは東簾のはずです。
 それをわざわざ「西簾暁く」と言っているのは、徐州の西に長安があり、都から射してくる光を抱くと言っているのではないでしょうか。
 わたくしはこの詩を、李商隠が徐州から令孤綯に送った和解の詩、もっと率直に言えば、悼亡詩の形を借りて失われた友情を取りもどしたい、惨めな自分を援けてほしいと訴えている詩ではないかと思います。
 初句の「薔薇」は当時は野茨のことであり、花は「銭小なり」です。
 李商隠はまず自分を卑下して、「嬌郎 痴なること雲の若く」と茫然自失している自分を雲に喩えるのでした。

憶得前年春   憶おもい得たり 前年の春
未語含悲辛   未いまだ語らずして悲辛ひしんを含むを
帰来已不見   帰り来たれば已すでに見えず
錦瑟長於人   錦瑟きんしつ 人よりも長し
今日澗底松   今日こんにち 澗底かんていの松
明日山頭蘗   明日みょうにち 山頭さんとうの蘗はく
愁到天地翻   愁いは到らん 天地翻ひるがえりて
相看不相識   相い看るも相い識らざるに
思い出すのは 前年春のこと
言葉を交わす前から 悲しみに満ちていた
もどってみれば あの人の姿はみえず
背丈ほどの錦瑟が 長々と横たわる
今日は 谷底の松のように沈鬱で
明日は 山頂の黄蘗のように苦しむ
この悲しみに終わりはなく 天と地が逆さになり
あの人に会っても 気づかなくなるまでつづくのだ

 後半はじめの二句「憶い得たり 前年の春 未だ語らずして悲辛を含むを」は、令孤綯からの友情ある誘いを断ったことを指すと解することができます。桂州から帰っては来たものの、令孤綯との友情を取りもどすことができず、「錦瑟 人よりも長し」と言っています。「錦瑟」はかつて令孤綯との交友が篤かったころ、評判の高かった李商隠の詩です。
 そして結びの四句になりますが、「澗底の松」と「山頭の蘗」は晋の左思さしの「詠史八首」の詩句を変えて用いています。左思の詩では「山頭の蘗」が「山上の苗」になっており、高い能力を持ちながら不遇に沈む人と、器は小さいのに恵まれた地位にいる人とを対比する比喩になっています。
 李商隠が用いた「山頭の蘗」は山の頂上に生えている黄蘗きはだであり、その樹皮は苦いことで有名でした。つまり、二句とも自分のつらく苦しい思いを訴える詩句に変えていることになるのです。
 そして、その悲しみは天地が逆転するほどの時間、出会っても相手がわからなくなる時まで永くつづくであろうと訴えています。


      西亭          西亭 李商隠

   此夜西亭月正円   此の夜 西亭せいてい 月正まさに円まる
   疎簾相伴宿風煙   疎簾それん 相い伴ともないて風煙ふうえんに宿る
   梧桐莫更翻清露   梧桐ごとうよ 更に清露せいろを翻ひるがえす莫なか
   孤鶴従来不得眠   孤鶴こかく 従来 眠るを得
この夜 西の客間に坐して 満月をみる
垂れている薄い簾 風と靄とを友にして宿る
梧桐の樹よ 清らかな露をこれ以上こぼさないでほしい
孤独になった鶴は かねてから眠れないでいるのだから

 李商隠が「房中曲」を書いたと思われる年の翌年、大中五年八五一の春、武寧軍節度使の盧弘止が病気で亡くなりました。李商隠は職を辞して都にもどり、令孤綯の推薦で太学博士になりました。
 「房中曲」の効き目はあったのです。
 その年の五月、満月のころに李商隠は妻の王氏を亡くします。
 李商隠は二十八歳のときに結婚し、妻を亡くしたのは四十一歳のときですから、十四年間の結婚生活になります。任地への単身赴任が多く、妻が亡くなったのも里方の家、洛陽の崇譲坊であったようです。
 詩題の「西亭」というのは主堂の西にある客室のことです。
 李商隠は洛陽の王氏の家を訪れ、西亭に泊まります。庭に梧桐の木が生えており、雨後でしょうか、風に吹かれて夜露が落ちる音が聞こえます。
 李商隠は自分を「孤鶴」に喩え、西亭で眠れない一夜を過ごします。
 「孤鶴」は連れ合いを失くした鶴という意味でしょう。


     聖女祠         聖女祠 李商隠

   松篙台殿蕙香幃   松篙しょうこうの台殿 蕙香けいこうの幃とばり
   龍護瑶窓鳳掩扉   龍は瑶窓ようそうを護り 鳳おおとりは扉を掩おお
   無質易迷三里霧   質しつ無くして迷い易やすし 三里の霧きり
   不寒長著五銖衣   寒からずして長つねに著る 五銖ごしゅの衣ころも
   人間定有崔羅什   人間じんかん 定めて有り 崔羅什さいらじゅう
   天上応無劉武威   天上てんじょうまさに無かるべし 劉武威りゅうぶい
   寄問釵頭双白燕   問いを寄す 釵頭さとうの双白燕そうはくえん
   毎朝珠館幾時帰   毎つねに珠館しゅかんに朝ちょうして幾時いくときか帰る
松と竹の林に祠 香草のかおる帳
玉鏤の窓には龍 扉には鳳凰の彫刻
生命のない像は 霧のように捉えどころがなく
寒がりもせずに いつも五銖の天衣を羽織っている
人の世には 崔羅什のような畏能の者がいるが
天上には 劉武威のような武将はいないであろう
教えてくれ 簪を飾っているつがいの白い燕よ
仙女は常に仙界に参内し 帰ってくるのはいつなのか

 大中五年の七月、河南尹の柳仲郢りゅうちゅうえいが梓州ししゅう刺史・東川節度使に任ぜられ、李商隠は辟召されて節度書記になり、梓州四川省三台県に赴くことになりました。四十歳を越えていた李商隠は中央の官署で昇進するのは難しかったのでしょう。
 蜀地に行くには大散関陝西省宝鶏市の南を越えてゆきますが、その途中、陳倉宝鶏市の東を過ぎたところに道教の祠ほこらがありました。
 「聖女祠」せいじょしの詩は、まず首聯の二句で祠堂の概要が描かれます。
 中四句は神女像の姿と神像への問いかけですが、李商隠は道教に対して揶揄する気持ちがあったことがわかります。
 「五銖の衣」は仙人の着る薄くて軽い衣服のことで、生命のない像は寒がりもせずにいつも薄い衣を羽織っていると詠います。
 「崔羅什」は北魏の人で、旅の途中、長白山の麓にさしかかったとき豪壮な邸宅があり、招かれて邸の女主人と歓談しました。再会を約してその家を出てから振り返ると、そこには大きな墳墓があるだけでした。
 「劉武威」は典拠不詳とされており、後漢の武威将軍劉向りゅうしょうではないかとする推測があります。
 要するに人間界にはいい男がいるのに、仙女は似合いの男もいないまま、どうして天上界にとどまっているのかと、からかっているのです。


武侯廟古柏    武侯廟の古柏 李商隠

蜀相階前柏   蜀相しょくしょう 階前かいぜんの柏はく
龍蛇捧閟宮   龍蛇りゅうじゃ 閟宮ひきゅうを捧ほう
陰成外江畔   陰いんは成る 外江がいこうの畔ほとり
老向恵陵東   老いて向かう 恵陵けいりょうの東
大樹思馮異   大樹たいじゅ 馮異ふういを思い
甘棠憶召公   甘棠かんとう 召公しょうこうを憶おも
蜀の丞相諸葛孔明の廟 階前には柏の木
龍蛇のようにうねって 霊廟を守る
古木は 城外の川のほとりに陰をおとし
老いてなお 恵陵の東に枝を差し伸べる
武勲は 大樹将軍馮異を偲ばせ
治世は 甘棠の詩 召伯を思わせる

 梓州に着任してから、李商隠は十月に検校工部郎中従五品上の寄禄官を与えられます。節度書記としていきなり五品官の食禄を受けるというのは相当の優遇です。
 だから、工部員外郎従六品上の誤伝ではないかとする説があります。
 これだと、杜甫が成都で受けた寄禄官と同じです。李商隠は梓州に着くとほどなく成都に出張し、滞在中に武侯廟ぶこうびょうを訪れました。
 武侯廟は蜀漢の丞相諸葛孔明しょかつこうめいの廟で、成都を訪れた詩人の誰もが訪ね、詩を賦しています。廟前には孔明が植えたと伝えられる二本の柏このてがしわの大木があったと伝えられています。「閟宮」は霊廟のことで、成都の閟宮には劉備と孔明がともに祀られていました。
 「恵陵」は劉備の陵墓であり、武侯廟の西にあったようです。
 「古柏」こはくは陵墓の東に枝を差し伸べていると、孔明が死後も劉氏を援けたことを喩えています。「馮異」は後漢の建国に功績のあった武将で、功を誇らずにひとり樹下に退いていたので大樹将軍と称されました。
 「召公」は周の召伯しょうはくのことで、『詩経』召南に「甘棠」の詩があります。
 以上の二句は孔明を武将として、また賢臣として讃えるものです。

葉彫湘燕雨   葉は彫しぼむ 湘燕しょうえんの雨
枝折海鵬風   枝は折らる 海鵬かいほうの風
玉塁経綸遠   玉塁ぎょくるい 経綸けいりん遠く
金刀歴数終   金刀きんとう 歴数れきすう
誰将出帥表   誰か出帥すいしの表ひょうを将って
一為問昭融   一たび為に昭融しょうゆうに問わん
しかし 湘水の石燕も雨に打たれて葉は枯れ
大鵬も 南溟の風に吹かれて枝は折られる
その経世の志は 玉塁山ほどに大きくても
漢王朝の命運は 尽きていた
ああ誰か 出帥の表をかかげて
いま一度 天の意思を問うてみないか

 後半はじめの二句は、孔明の事業がならなかったことの比喩です。
 「湘燕の雨」は湘水のほとりの零陵湖南省零陵県に「石燕」というものがあり、風雨に遭うと燕のように飛び、雨が止むと石になったといいます。
 「海鵬の風」も『荘子』逍遥遊篇にある有名な寓話で、北海の鯤が化して鵬となり、南溟に天がけったという話を踏まえています。「玉塁」は成都の西北にある山の名で、蜀の守護神としてあがめられています。「金刀」は卯金刀の略で、三字を合わせると劉、つまり劉氏の王朝を指します。
 したがってこの二句は、孔明の「経綸」が玉塁山のように大きくても、唐王朝の命運はすでに尽きていたと詠っていることになります。
 「出帥の表」は有名ですので説明の必要はないでしょう。
 「昭融」は『詩経』大雅にある語で天を意味します。
 したがって最後の二句は、国家の難局を救う諸葛孔明のような人物はいないのかと、世を嘆いて結びとするものです。


     二月二日        二月二日 李商隠

   二月二日江上行   二月二日 江上こうじょうを行く
   東風日暖聞吹笙   東風とうふう暖かくして吹笙すいしょうを聞く
   花鬚柳眼各無頼   花鬚かしゅ 柳眼りゅうがん 各々おのおの無頼ぶらい
   紫蝶黄蜂倶有情   紫蝶しちょう 黄蜂こうほうともに情じょう有り
   万里憶帰元亮井   万里 帰るを憶おもう 元亮げんりょうの井せい
   三年従事亜夫営   三年 事ことに従う 亜夫あふの営えい
   新灘莫悟遊人意   新灘しんたんは遊人ゆうじんの意を悟る莫
   更作風簷雨夜声   更に作す 風簷ふうえん雨夜うやの声
二月二日踏青の日 川のほとりを歩んでゆくと
日は暖かに春の風 笛の音も聞こえてくる
鬚のような花の蕊 柳葉の目にも魅力があり
紫蝶も黄色の蜂も ともに愁いを含んでいる
陶淵明のように 故郷に思いを馳せながら
はや三年の日月を 周亜夫のもとで仕えてきた
新灘の早瀬の音は 旅人の心を解せず
夜の軒端の雨風の 音さながらに鳴っている

 李商隠は成都で西川節度使杜悰とそうの歓待を受け、その年は成都で年を越します。梓州にもどったのは翌大中六年八五三の春になってからでした。四月になると、杜悰が淮南節度使になって揚州に移ることになり、李商隠は渝州ゆしゅう=四川省重慶市まで出掛けて行って、長江を下る杜悰を見送っています。
 後任の西川節度使には邠寧ひんねい節度使になっていた白敏中が赴任してきました。李商隠はこの年、節度掌書記に昇進していますので、柳仲郢の幕僚として順調に勤めていたことがわかります。
 李商隠の梓州勤務は大中五年の冬から大中九年855の冬まで四年間に及んでおり、その間に多くの詩を書いたと思われますが、大中八年二月二日に書いたことが明らかな詩があります。「二月二日」は踏青とうせいと言って、酒肴を携えて郊外に出かけ、春の野を楽しむ日です。
 「花鬚」は花の蕊を鬚に喩え、「柳眼」は柳の葉を少女の目に喩えています。
 「無頼」は危うい魅力をいう俗語的な表現であり、蝶は女、蜂は男でしょう。以上は踏青の日の点景ですが、後半の四句は作者の感懐になります。
 「元亮の井」の元亮は陶淵明の字あざなであり、井井戸は故郷を表します。
 だから李商隠は帰郷の思いを抱きながら、はや三年がたったと言っていることになります。
 「亜夫の営」は漢の文帝に仕えた将軍周亜夫しゅうあふの屯衛のことで、周亜夫は匈奴に備えて細柳陝西省西安市の西北の地に陣営を構えていました。
 柳仲郢の柳とかけて「亜夫の営」と言っているのです。
 柳仲郢とは良好な関係にあったと思いますが、結びの二句では「新灘」地名の早瀬の音が「風簷雨夜の声」に聞こえると寂しさを強調しています。


    夜雨寄北        夜雨 北に寄す 李商隠

   君問帰期未有期   君は帰期ききを問うも 未いまだ期有らず
   巴山夜雨漲秋池   巴山はざんの夜雨やう 秋池しゅうちに漲みなぎ
   何当共剪西窓燭   何いつか当まさに共に西窓せいそうの燭を剪って
   却話巴山夜雨時   却さてしも話すべき 巴山夜雨の時とき
いつお帰りですかと尋ねられても まだ決めてはいない
巴山に夜の雨が降り 寂しさは池に満ちている
ああ いつになったら 西の窓辺の燭芯を剪り
語り合うことができようか 巴山の夜の秋雨のこと

 梓州の勤務を寂しいと思うときがあったかもしれませんが、李商隠には、勤めをやめて帰郷する気はありませんでした。「夜雨 北に寄す」の詩は李商隠の名作のひとつに数えられる七言絶句です。
 詩中に「巴山の夜雨」とあることから、巴の代表的な山である巫山と結びつけ、大中二年に桂州からの帰途、荊州に滞在中に巫山を訪れたと考え、そこでの作とする説もありますが、そのときは夏でした。
 「秋池」と合わないので否定すべきでしょう。
 「巴山」は巴中四川省巴中の東、通江の付近にある山と言われており、梓州に勤務していたとき、公用で管内に出張したときの作でしょう。
 秋雨の降る旅先で、寂しさに駆られて書いたという趣きがあります。
 詩題中の「北」がひとつの問題で、妻を意味するという説があります。
 しかし、妻を北というのは日本の習慣で、中国では普通「内」といいます。
 このとき妻の王氏は亡くなっていますので、北にある長安を指すという説もあります。しかし、北という方角だけを言うことから、秘められた恋人が北の長安にいると考えるのが適当でしょう。
 李商隠は梓州滞在中に使者となって都に行ったことは充分に考えられますし、また以前からの恋人が長安にいて、その女性から「帰期」を問う便りがあり、その返信に添えられた詩とも考えられます。
 「西窓」は主堂の西にある客室で、西向きに窓のある部屋です。
 灯火の燭芯を切ると焔が明るくなり、相手の顔が浮き上がって見えます。
 また、灯火を更新して話をつづけるという意味もあります。
 この詩は四句のなかに「巴山夜雨」が二度も出てくるという異例の構成になっており、はじめの夜雨は秋の池に漲る現在の寂しい光景です。あとの夜雨は「西窓の燭」の下で、物語るつもりの「巴山夜雨」であり、わずか四句の詩のなかに現在と未来が交錯して纏綿とした情緒を醸し出しています。
 そこがこの詩を名作の名に恥じないものにしていると思います。


    正月崇譲宅      正月 崇譲の宅 李商隠

  密鎖重関掩緑苔  密ひそかに重関ちょうかんを鎖し 緑苔りょくたいおお
  廊深閣迥此徘徊  廊ろう深く閣かくはるかにして 此ここに徘徊す
  先知風起月含暈  先さきに風の起こるを知りて 月つきかさを含み
  尚自露寒花未開  尚自なおつゆ寒くして 花未いまだ開かず
  蝙払簾旌終展転  蝙こうもりは簾旌れんせいを払いて 終ついに展転てんてん
  鼠翻窓網小驚猜  鼠は窓網そうもうに翻りて 小すこしく驚猜きょうさい
  背燈独共余香語  燈ともしびを背そむけて 独り余香よこうと語り
  不覚猶歌起夜来  覚おぼえず猶お歌う 起夜来きやらい
幾重にも閉ざした門は 緑の苔に覆われ
奥深い回廊 遥かな楼閣を行き来する
風が吹きはじめたかと思うと 月は暈をかぶり
夜露はまだ冷たくて 花が咲くには早すぎる
簾にぶつかる蝙の音で 終夜眠られず
網戸を飛び跳ねる鼠に ぎくりとする
灯火を暗くしてひとり 妻の残り香と語り合い
気がつけば 「起夜来」の曲を口ずさんでいた

 大中九年八五五の冬に節度使柳仲郢の任期が満ち、吏部侍郎正四品上になって都にもどることになりました。
 李商隠もともに梓州を発って長安に向かいます。途中、聖女祠のある地を通り、「重ねて聖女祠を過ぎる」の詩を作っています。
 一行は翌大中十年八五六の正月に長安に着き、李商隠はすぐに洛陽の崇譲坊に妻の里方を訪ねたようです。
 詩は重厚な七言律詩で、亡妻を偲ぶ気持ちを詠っています。李商隠は王氏の広い邸内を行き来しながら、在りし日の妻の面影を偲ぶのでした。
 このときも西堂に泊まった思われますが、春とはいえ、まだ夜露の寒い風の吹く夜です。「簾旌」は周囲を絹布で縁取りした簾で、それに蝙蝠こうもりがぶち当たります。
 その音が気になって、眠られないままに寝返りを打つのでした。
 「窓網」網戸のあたりを鼠が走る音にも、何の音かと怪しみます。
 「驚猜」には驚き怪しむという意味があり、妻の魂が訪ねて来るという意味を含んでいるかも知れません。
 灯火を暗くして、ひとり妻の残り香に語りかけてみたりするのでした。
 「起夜来」は楽府の題名で、南朝梁の柳惲りゅうこんの詩に、秋の風に鳴る木の葉の音を「君の〈起〉きて〈夜〉に〈来〉たるに非ずや」と詠う句があります。
 李商隠はその詩を思わず口ずさむのでした。


      無題           無題 李商隠

   万里風波一葉舟   万里の風波 一葉いちようの舟
   憶帰初罷更夷猶   帰るを憶い 初めて罷むも更に夷猶いゆう
   碧江地没元相引   碧江へきこう 地に没して元と相い引き
   黄鶴沙辺亦少留   黄鶴こうかく 沙辺さへんた少しく留とど
   益徳冤魂終報主   益徳えきとくの冤魂えんこんついに主に報い
   阿童高義鎮横秋   阿童あどうの高義こうぎつねに秋に横たわる
   人生豈得長無謂   人生 豈に長とこしえに謂われ無きを得んや
   懐古思郷共白頭   古いにしえを懐おもい郷きょうを思いて共に白頭はくとう
万里の彼方から吹く風に 小さな舟は波にもまれる
故郷への思いにかられて 職を辞すれば心は揺れる
長江は大地の果てへ流れ 否応なく小舟を引き寄せ
水辺で遊ぶ黄鶴は しばしのあいだ私を引き止める
張飛の非業の魂は 死んでなお君恩に報い
王濬の正義の志は 秋の空にみなぎり渡る
人生はいつまでも 無意味であってよいものか
往古の英傑を思い 故郷を偲んで頭は白くなる

 都に帰った柳仲郢は、ほどなく吏部侍郎から兵部侍郎に移りますが、十月には御史大夫従三品を兼ね、諸道塩鉄転運使に任ぜられました。
 塩鉄専売事業の長官になったのです。
 李商隠は柳仲郢の推薦で塩鉄推官に任ぜられ、江南に赴任しました。
 着任したのは大中十一年八五七の春でしょう。
 李商隠ははじめて中央の官として地方に派遣され、特産品である塩鉄専売の管理に従事することになりました。
 翌大中十二年八五八、李商隠は四十八歳になっていました。
 その二月に柳仲郢が兵部侍郎兼御史大夫から刑部尚書正三品に任ぜられ、諸道塩鉄転運使を免ぜられました。
 そこで李商隠も塩鉄推官を辞することになります。
 この詩は「無題」と題されていますが、他の無題の詩とは異質であり、題が失われたために無題とされたのではないかとする説があります。
 詩は帰郷の思いに駆られて職を辞したけれども、それでよかったのかと思い悩む心情が詠われています。首聯の末尾の句「夷猶」は躊躇する意味の双声の語であり、塩鉄推官を辞して江南を発つときの詩でしょう。
 躊躇する気持ちを「碧江」長江と「黄鶴」を引き合いに出して述べています。
 頚聯の「益徳」は蜀漢の豪傑張飛の字で、張飛は配下の武将に殺されるという非業の死を遂げましたが、死後も君恩に報いたといいます。
 「阿童」は晋の将軍王濬おうしゅんの幼名であり、三国時代の呉では阿童という人物と龍が恐れられていると知った晋は、幼名阿童の王濬を龍驤将軍に任じて呉の討伐を命じたといいます。
 この二句は李商隠の国に尽くす志をいうものでしょう。
 尾聯は作者の感懐であり、人生は「無謂」無意味であってはならないと、往古いにしえの英傑を慕いながら、一方では故郷を思っています。
 二つの矛盾する思いが自分の髪を白くすると、相反する気持ちのあいだで悩む心情を詠っていると思います。


 幽居冬暮     幽居 冬の暮れ 李商隠

羽翼摧残日   羽翼うよく 摧残さいざんする日
郊園寂寞時   郊園こうえん 寂寞せきばくの時
暁鶏驚樹雪   暁鶏ぎょうけいは樹雪じゅせつに驚き
寒鶩守冰池   寒鶩かんぼくは冰池ひょうちを守る
急景忽云暮   急景きゅうけい 忽ちに云ここに暮れ
頽年寖已衰   頽年たいねんようやく已すでに衰おとろ
如何匡国分   如何おかんぞ 国を匡ただすの分ぶん
不与夙心期   夙心しゅくしんと与ともに期せざるや
翼も砕けてしまった冬の日
寂れた郊外に 住まうひととき
朝に鳴く鶏は 樹から落ちる雪に驚き
冬の家鴨は 氷の池にはりついている
すみやかに 時は流れて年の瀬となり
寄る年波に 私はすっかり衰えている
どうしたのか 国を正すべき士の本分が
かねての志と こんなに食い違ってしまったとは

 塩鉄推官を辞したころ、李商隠は病がちであったかもしれません。
 李商隠は江南から父祖の地である鄭州にもどり、その年の暮れに病没しました。詩「幽居 冬の暮れ」は李商隠最後の作品とみられています。
 首聯の「郊園」は城の郊外の田園と解され、鄭州郊外の「幽居」の地と考えられます。李商隠はその地で「羽翼摧残」の日を過ごしています。
 ひと気のない「寂寞」とした冬の日暮れです。
 頷聯は部屋から見える庭の景色でしょう。冬深い庭にいる鶏や家鴨あひるが描かれ、それは作者李商隠の現在の姿でもあります。
 頚聯の「急景」はすみやかに経過する時間をいい、故郷に隠退して早くもその年は暮れようとし、寄る年波に体の衰えを感じています。
 結びの二句で、李商隠は自己の人生を総括します。
 事志と違ってしまった生涯を振り返った詩句は簡潔であり、みごとです。
 「夙心と与に期せざるや」の一句は、どうにもならなかった自分の人生に諦めに似た感情を抱いていたことの表現でしょう。
 宣宗は李商隠の死の翌年、大中十三年八五九八月に崩じ、皇太子李漼りさいが即位して懿宗いそうとなります。
 宣宗の治世は、ほとんど無為無策の十三年でした。
 牛李の党争は終息したものの唐朝の権威は衰退し、各地の節度使が独立の気配を強めてゆきます。
 国家権力の背景をなくした地方の小権力は苛斂誅求をほしいままにするようになり、弱小の農民や商人の不満が高まります。
 すでに李商隠が塩鉄推官をやめた大中十二年には、江南の藩鎮で節度使追放の兵乱が起こり、兵士の統制も保てなくなっていました。これらの叛乱はやがて黄巣こうそうの大乱へとつながってゆき、唐朝を滅亡へと導くのです。

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