桂林          桂林 李商隠

城窄山将圧     城は窄せまくして 山やままさに圧せんとし
江寛地共浮     江は寛ひろくして 地共に浮かぶ
東南通絶域     東南は絶域ぜついきに通じ
西北有高楼     西北に高楼こうろう有り
神護青楓岸     神しんは護る 青楓せいふうの岸
龍移白石湫     龍りょうは移る 白石の湫いけ
殊郷竟何祷     殊郷しゅきょうはたして何をか祷いの
簫鼓不曾休     簫鼓しょうこかつて休まず
桂林の城は狭く 山が押し潰すように迫り
江はゆるやかに 天地を浮かべて流れている
東南の方は遠く 未開の地に通じ
西北には関門の 高楼がそびえ立つ
岸辺の楓樹には 神霊のやどる瘤が生じ
白石潭の池には 龍神を移した伝説がある
異郷の人々は 何を祈っているのだろうか
簫や太鼓の音が 止むことなくつづいている

 宣宗の年号は大中で十三年間つづき、途中での改元はありません。
 大中元年八四七の春、一歳年少の弟李義叟りぎそうが進士に及第しました。
 遅い及第ですが、李商隠としては一安心と言ったところでしょう。
 二月に門下省給事中正五品上の鄭亜ていあが桂州刺史・御史中丞兼桂管防禦観察使になって桂州広西壮族自治区桂林市に赴くことになりました。
 鄭亜は李党として嶺南の地に左遷されたのです。
 李商隠は鄭亜に招かれて桂管防禦観察使の掌書記になり、桂州に行くことになりました。辟召へきしょうを受け入れた理由は不明ですが、牛党の政権下では昇進できそうになかったからでしょう。あるいは服喪のために困窮し、高収入を得る必要があったのかもしれません。
 李商隠は三月七日に都を発ち、桂州に着いたのは五月九日でした。
 詩は桂林に着いてすぐのものでしょう。
 はじめて桂州の地に来て、あの幻想的なカルスト地形の奇観に触れていないのは不思議ですが、そのことよりも城が狭く、周囲の山から押し潰されそうな小さな街であったことが印象的であったようです。
 「江」は灕江りこうであり、いまも豊かにゆるやかに流れています。東南は「絶域」遠隔未開の地であり、いまの広東省は当時そのように理解されていました。
 西北に「高楼」があると言っていますが、霊川と興安のあいだに厳関があり、桂林の東北にあたります。
 そこに中原と嶺南を隔てる関門があって、高楼が聳えていたようです。
 前半の四句では、桂州の城が嶺南の北辺に突出した辺城であることを述べ、後半では桂州の不思議な風物を詠います。
 「神護青楓」は江南に多い楓ふうの古木で、幹に瘤こぶが生じ、暴風雨があると瘤が伸びて長さ三、五尺になり、霊験があると信じられていました。
 「白石湫」は桂州の北七十里約四㌔㍍のところにある池で、白石潭はくせきたんとも称されていました。大蜃おおはまぐりの害を防ぐために龍神を呼んで住まわせたという伝説のある池でした。
 「殊郷」は異民族の住む地域のことで、簫や太鼓の音が休みなく鳴っているのは、病を治すために巫を依頼して祈っているのです。


 北青蘿        北青蘿 李商隠

残陽西入崦     残陽ざんようは西のかた崦えんに入り
茅屋訪孤僧     茅屋ぼうおくに孤僧こそうを訪とぶろ
落葉人何在     落葉らくよう 人 何いずくにか在る
寒雲路幾層     寒雲かんうん 路 幾層いくそう
独敲初夜磬     独り敲たたく 初夜しょやの磬けい
閒倚一枝藤     閒しずかに倚る 一枝いっしの藤とう
世界微塵裏     世界 微塵みじんの裏うち
吾寧愛与憎     吾れ寧なんぞ愛と憎ぞうとをせんや
赤い夕陽が 西の山かげに沈むころ
あばら屋に ひとり住む僧を訪ねる
落ち葉がつもり 人のいる気配はなく
寒々とした雲が 幾重にも山路を蔽う
響くのは 初更の磬の音ばかり
藤杖に寄り 僧は静かに立っている
人の世は 風に舞い散る塵のなか
なぜに私は 愛憎に拘りつづけているのだろうか

 晩秋になって李商隠は桂州の南にある雉山ちざんに僧侶を訪ねました。
 詩題の「北青蘿」ほくせいらは山かげの蔦の意味ですが、雉山には青蘿閣という名の寺があったことが知られており、僧の住まう寺が青蘿閣の北にあったのかも知れません。
 二句ずつ段階を踏む形式の五言律詩で、首聯は序にあたります。
 「崦」は崦茲山えんじざん=茲には山扁がありますのことで、日没の場所として詩語化されています。頷聯は寺に着いたときのようすです。
 落ち葉がつもって掃除をしたようすもありません。
 振り返ると、登ってきた山路を「寒雲」が幾重にも蔽っています。
 頚聯は寺の内部のようすで、「初夜」は初更、午後八時のことです。
 就寝の時刻を告げる「磬」玉石の板鐘の音が聞こえ、老僧は藤の杖に凭れて静かに立っています。尾聯は作者の感懐ですが、楞厳経りょうごんきょうの言葉が引用されていると解されています。李商隠に仏教への関心がどれだけあったか分かりませんが、寺に一泊し、俗世を離れた老僧に会い、この世の愛憎に拘り続けている自分を反省する気持ちを詠っていると考えられます。


  涼思          涼思 李商隠

客去波平檻     客去って 波は檻かんと平ひとしく
蝉休露満枝     蝉休んで 露つゆは枝に満つ
永懐当此節     永懐えいかい 此の節せつに当たり
倚立自移時     倚立いりつおのずから時ときを移す
北斗兼春遠     北斗ほくとは春と兼ともに遠く
南陵寓使遅     南陵なんりょうに使いを寓ぐうすること遅し
天涯占夢数     天涯てんがい 夢を占うこと数々しばしばなり
疑誤有新知     疑誤ぎごす 新知しんち有りやを
客が去ってふと見ると 波は欄干の際まで漲り
蝉は鳴きやんで 枝には露が満ちている
憂欝な憶いは 冬になって一層つのり
独り手摺に凭れ なんとなく時を過ごす
北斗七星は 春とともに遠くへ去り
南陵への便りを 託されているのも面倒だ
地の果ての地で 夢を幾度も占うが
新しい推薦者が 現れそうな気もしてくるのだ

 冬十月になって、李商隠は荊州湖北省江陵県への使者を命ぜられました。
 夏のはじめに下ってきた道を北へ上るのです。
 夏には鄭亜一行といっしょだったと思われますので、自由な行動はできなかったと思われますが、今度は従者はいるにしても、ひとりでゆく旅です。
 詩題の「涼思」りょうしは涼しい夕べの思いといった意味ですので、いつどこでの作が不明ですが、詩中に「南陵に使いを寓すること遅し」とあり、南陵安徽省南陵県への使いを託されていると考えられますので、荊州への旅の途中での作と考えられます。湘水の川辺の駅舎に泊まったときの作品かも知れません。重要なのは頷聯と尾聯で、頷聯では「永懐 此の節に当たり」と言っています。
 「永懐」とは永くつづいている憶いのことであり、現在の自分の地位についてであると思われます。尾聯では「疑誤す 新知有りやを」と結んでおり、自分を推薦してくれる新しい人物が現れるのを期待しています。
 李商隠は鄭亜について桂州に来たことを後悔しているようです。


異俗二首 其一    異俗 二首 其の一 李商隠

鬼瘧朝朝避     鬼瘧きぎゃく 朝朝ちょうちょう避け
春寒夜夜添     春寒しゅんかん 夜夜やや添う
未驚雷破柱     未だ雷かみなりの柱を破るに驚かず
不報水斉簷     水の簷のきに斉ひとしきを報ぜず
虎箭侵膚毒     虎箭こせんはだを侵す毒
魚鉤刺骨銛     魚鉤ぎょこう 骨を刺す銛もり
鳥言成諜訴     鳥言ちょうげん 諜訴ちょうそを成
多是恨彤襜     多く是れ彤襜とうせんを恨む
毎日朝から 鬼瘧にまじないをかけ
春の余寒は 夜ごとに寒く身にしみる
雷が柱を裂いても驚かず
増水が軒に届いても報せない
虎を射る毒矢は 肌に触れただけで死に
魚を捕る釣針は 骨を刺す銛のようだ
鳥が騒ぐような 訴えの声
その多くは 太守への恨み言だ

 李商隠は十二月に荊州に着き、使者としての任務を果たしながら南陵にも足を伸ばしたことでしょう。その十二月に、荊南節度使に貶されていた李徳裕が潮州司馬に再貶されました。
 潮州広東省潮州市は広州の東北、海に近い辺境の地で、李徳裕は政権の座から完全に葬り去られたことを意味します。李商隠は年を越した正月に桂州にもどり、しばらくして昭州広西壮族自治区平楽県に出張しています。
 「異俗二首」の詩中に「春寒 夜夜添う」の句がありますので、正月に桂州にもどってからの作でしょう。
 昭州は桂州から南へ八〇㌔㍍ほど灕江を下ったところにあります。
 冒頭の「鬼瘧」は嶺南の風土病で、いまでいうマラリヤのことのようです。
 人々はこの病気を避けるために、毎朝呪術をほどこしていました。
 住民は雷が落ちても驚かず、川が増水して水が軒先に達しても役所に報せないと、落雷や洪水が日常茶飯事であることに驚いています。
 虎を射る毒矢の毒が激しいことや魚を釣る釣り針の大きくて鋭いことにも驚いています。
 「鳥言」は異民族の話す言葉で、何を言っているのかさっぱり分かりません。
 通訳を伴なっていたと思われますが、訴えの多くは太守への恨み事でした。
 「彤襜」は刺史の車を覆う天蓋のことで、州刺史を意味します。


異俗二首 其二    異俗 二首 其の二 李商隠

戸尽懸秦網     戸は尽ことごとく秦網しんもうを懸
家多事越巫     家は多く越巫えつふに事つか
未曾容獺祭     未だ曾て獺祭だつさいを容れず
只是縦猪都     只だ是れ猪都ちょとを縦ほしいままにす
点対連鼇餌     点対てんたいす 鼇ごうを連つらぬる餌えさ
捜求縛虎符     捜求そうきゅうす 虎とらを縛しばる符
賈生兼事鬼     賈生かせい 兼ねて鬼に事つか
不信有洪爐     洪爐こうろ有るを信ぜず
どの家にも 秦の漁網がかかっているが
多くの家は 法網よりも越の巫を信じている
捕った魚は すぐに食べてしまい
猪都の様に 勝手気ままに振る舞っている
大亀を何匹も捕ろうと 餌を調べ
虎よけの札はないかと 捜してまわる
江南では漢の賈誼も 鬼神に仕え
天地自然の大法則が この世にあるのを信じない

 詩のはじめにある「秦網」は漁網のことですが、同時に秦の法網も意味しています。二句目の「越巫」百越のまじない師と対応しており、秦の苛酷な法律、つまり唐の律令は嶺南の地にも届いているけれども、地もとの民は法律よりも越巫を信じていると言っています。頷聯の「獺祭」は獺かわうそが取った魚を祭るように並べる習性があることで、『礼記』王制では人は獺のように自然の恵みに感謝するべきであると述べています。
 しかし、嶺南の人々は捕った魚を陳列するどころか、すぐに食べてしまうと言っています。この「獺祭」という語から、後に典故を多用して詩中に並べる詩を「獺祭魚」と称して揶揄する批評が生まれますが、それは李商隠が「無題」の詩を作っていた若いころの作風であり、このころは典故をあまり用いなくなっていました。「猪都」は猪いのししに似た想像上の怪物で、勝手気ままに振る舞うことで有名でした。
 頷聯の二句は異民族の特異な風俗や性格を指摘するものです。
 頚聯でも人々は「鼇」大きな亀を捕ることに熱心で、また虎に襲われることを恐れて、虎よけの札を用いていることに注目しています。
 尾聯の「賈生…」の句は『史記』屈原賈生列伝にある話を引くもので、賈誼が長沙から都に召還されたとき、文帝が鬼人について尋ねました。
 すると賈誼は鬼人のことについて詳しく説明し、文帝は賈誼の博識に感心したと伝えます。世には天地自然の理法があるのに、江南では賈誼でさえも鬼神の存在を信じていたように、嶺南の人々は迷信を信じていると李商隠は指摘します。

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