蝉          蝉 李商隠

本以高難飽    本もとより高きを以て飽き難く
徒労恨費声    徒いたずらに労す 恨みて声を費ついやすを
五更踈欲断    五更ごこうにして断えんと欲するも
一樹碧無情    一樹いちじゅみどりにして情じょう無し
薄宦梗猶汎    薄宦はくかんこうお汎うか
故園蕪已平    故園こえんれて已すでに平らかなり
煩君最相警    君を煩わずらわせて最も相い警いましましむ
我亦挙家清    我も亦た家を挙げて清らかなり
蝉はもともと高い木の上で暮らしている
腹一杯食べることなく 恨みの声で鳴くだけだ
夜明けの頃には 声も消えてしまいそうだが
身を寄せる木は 緑に茂って同情するようすもない
しがない宮仕えの身は 水に漂う木の人形
故郷の庭は荒れ果てて 野原になっているだろう
蝉よ 君は誰よりも強く警告してくれた
だから私も 一族すべて清らかなのだ

 「蝉」の詩には李商隠の寓意が見て取れます。
 中国では蝉は露しか飲まない高潔な生き物とされており、だからこそ高い木の上で腹をすかせて、恨みの鳴き声を挙げるだけだと詠います。
 夜明けのころには蝉の声も消え入りそうに弱くなりますが、蝉が身を寄せている木は青々と茂り、蝉に何の同情も寄せません。ここらあたりには、世間に対する李商隠の不信の念が込められているようです。
 後半の四句では「薄宦」身分の低い官の自分を「梗」山楡の木に喩えています。
 『戦国策』斉策に木の人形と土の人形の問答があり、雨が降れば溶けてしまうと木の人形から言われた土の人形は、「桃梗とうこうで作られた君は、雨が降ればどこかへ流されていってしまうだろう」と言い返します。
 李商隠は自分も同じような木の人形で、官界を流れさまよっている間に、故郷の家の庭は荒れ果てて野原になっているだろうと詠います。
 しかし、蝉の警告のおかげで一族はあげて清らかであると、高潔な生き方を肯定するのです。負け惜しみの気配もありますが…。


    暮秋独遊曲江      暮秋 独り曲江に遊ぶ 李商隠

   荷葉生時春恨生   荷葉かば生ぜし時 春は生せいを恨み
   荷葉枯時秋恨成   荷葉かば枯れし時 秋は成せいを恨む
   深知身在情長在   深く知る身在りて情じょうとこしえに在るを
   悵望江頭江水声   江頭こうとうを悵望ちょうぼうすれば江水の声
蓮の葉が生えるとき 春はめばえの時を恨み
蓮の葉が枯れるとき 秋はみのりの時を恨む
人生を深く知る身は いつまでも愁いを抱え
歎きつつ望む川面に 流れの音が湧いている

 晩秋になって、李商隠はひとり曲江に遊びました。
 春に楊賢妃の死を悲しんだ曲江です。
 起承句では蓮の葉に喩えて人生の無常を詠います。転句を恋心と解する説もありますが、人生の無常を知る身と解することもできます。そんな憶いで流れを望むと、歎きをかき立てるように川の瀬音が聞こえてきます。


 秋日晩思      秋日晩思 李商隠

桐槿日零落    桐槿とうきん 日々に零落れいらく
雨余方寂寥    雨余うよまさに寂寥せきりょうたり
枕寒荘蝶去    枕は寒くして荘蝶そうちょう去り
窗冷胤蛍銷    窓は冷くして胤蛍いんけい
取適琴将酒    適てきを取る 琴と酒
忘名牧与樵    名を忘る 牧ぼくと樵しょう
平生有遊旧    平生へいぜい 遊旧ゆうきゅう有りしも
一一在烟霄    一一いちいち 烟霄えんしょうに在り
桐も槿も 日々に落葉する秋の夕暮れ
雨の後は まさに寂しさの極みである
冷えた枕 荘子がみた蝶の夢は消え
寒い窓に 蛍の光も飛んではこない
琴と酒で 気ままな生活を送るとしよう
名を忘れ 牧童や樵にまじって生きてゆく
かつては つきあいのあった旧友も
雲上の人 高位の身分になっている

 この詩は中四句を前後の二句で囲む形式になっており、桐と槿むくげは季節の変化を敏感に感じ取る落葉樹です。その葉が日ごとに散っていく秋の夕暮れ、雨後の寂しい風景をまず描きます。中四句は故事を踏まえながら現在の思いを述べますが、「枕寒…」の句は『荘子』斉物論篇にみえる寓話で、生と死、夢と覚醒が分かち難いものであることをいいます。
 冷えた枕の上で荘子がみた蝶の夢も消え、寒い窓辺で書を読もうとしますが、「胤蛍銷ゆ」といいます。
 「胤蛍」は東晋の車胤しゃいんが蛍を集めて照明とし、勉学に励んだ故事で、日本では「蛍の光 窓の雪」の歌で知らない人はいないでしょう。
 「取適…」の句は故事を踏まえていませんが、「適」は自由という意味です。
 「忘名…」の句は北魏の顔之推著『顔氏家訓』中の話を踏まえており、上士は名誉心から超越していることをいいます。名を挙げることを忘れて、牧童や樵きこりにまじって生きるのもよいというのです。李商隠は隠遁生活を望んでいるように見えますが、尾聯の二句をみるとそうではありません。
 「烟霄」は霞む空のことですが、朝廷や高位高官の喩えです。旧友はそれぞれ出世をしているが、自分は失職の身であることを嘆いています。


哭劉司戸二首 其一 劉司戸を哭す 二首 其の一 李商隠

離居星歳易    離居りきょして星歳せいさいわり
失望死生分    望みを失しっす 死生しせい分かるるに
酒甕凝余桂    酒甕しゅよう 余桂よけいぎょう
書籤冷旧芸    書籤しょせん 旧芸きゅううん冷やかなり
江風吹雁急    江風こうふうかりを吹きて急に
山木帯蝉曛    山木さんぼく 蝉を帯びて曛
一叫千廻首    一たび叫び 千たび首こうべを廻めぐらすも
天高不為聞    天高くして 為ために聞かず
離れて暮らす内に 歳月は移りゆき
生死は分かれて 再会の望みは消える
甕の底には 飲み残しの桂酒がかたまり
書物の栞には 古びた芸香のかおりが残る
長江の風は 旅ゆく雁に激しく吹きつけ
山の木々は 蝉の声とともに暮れてゆく
ひとたび叫び 千回振りかえろうと
天はあまりに高く 聴き入れてはくれないのだ

 武宗の在位は六年二か月で、年号は会昌です。この年号は「昌さかえに会う」と読むことができますが、仏教弾圧で有名な年号です。
 しかし、即位の翌年、会昌元年八四一は宮廷にこれまでとは違った色合いが出はじめた程度でした。武宗が道教に帰依するようになったのです。会昌元年に三十一歳になっていた李商隠は、詩客としての生活をつづけていましたが、そんなとき中央の官にいた岳父の王茂元おうもげんが忠武軍節度使兼陳許観察使に任ぜられて許州河南省許昌市に赴任することになりました。
 李商隠は辟召され、節度使の掌書記になって許州に赴きます。
 会昌二年八四二の春、李商隠は岳父の幕府を辞して都に行き、吏部の書判抜粋科を受験して合格します。記録に混乱がなければ、李商隠は二度も吏部試を受けたことになり、極めて異例です。
 弘農県での辞任の仕方に問題があったのでしょうか。
 しかも、今度の吏部試によって補任されたのは秘書省正字正九品下で、さきの校書郎よりも一品階下になります。
 官吏として一から出直すことになったのです。
 宰相の李徳裕は、この年、僧尼の管理を厳格にするよう進言し、不良僧尼の還俗命令が出ます。そんななか李商隠は微職に甘んじていましたが、そこに柳州の劉蕡りゅうふんが死去したという報せが届きました。
 李商隠は「無題」などの恋愛詩では模糊とした世界を描いていますが、政事詩では全く違った面を見せています。李商隠は硬骨の士劉蕡に深い同感を抱いており、その死を心から悼みます。
 当時の政事を批判することは宦官を批判することになりますので、勇気がなければできないことです。李商隠は劉蕡が正しいことを上奏しても、それが宦官によって阻まれてしまうことに激しい憤りを覚えていました。
 そのことが尾聯の「一たび叫び 千たび首を廻らすも 天高くして 為に聞かず」の絶唱につながるのです。


哭劉司戸二首 其二 劉司戸を哭す 二首 其の二 李商隠

有美扶皇運    有美ゆうびは皇運を扶するも
無誰薦直言    誰の直言ちょくげんを薦すすむるも無し
已為秦逐客    已すでに秦しんの逐客ちくかくと為
復作楚冤魂    復た楚の冤魂えんこんと作
湓浦応分派    湓浦ぼんぽまさに派を分かつべし
荊江有会源    荊江けいこうみなもとを会かいする有り
併将添恨涙    併せて将もって恨涙こんるいを添え
一酒問乾坤    一ひとたび酒そそぎて乾坤けんこんに問わん
有徳の士は 王朝の命運を支えるが
直言の士は 推挙する者がいない
秦の逐客令のように 長安を追われ
屈原のように 楚の地で非業の死を遂げる
荊江では 多くの流れを集めていた長江も
湓浦に至ると 幾つもの流れに分かれる
せめては長江の水に 恨みの涙を添え
すべてを地に注いで 天地に是非を糺したい

 其の二の詩は静かですが、調子の高い作品です。冒頭の「有美」は『詩経』鄭風「野有蔓草」中の二語を取ったもので、人格、能力を備えた人をいいます。
 しかし、唯一の直言の士であった劉蕡はいまはいないのです。
 「秦の逐客」は秦の始皇帝の逐客令をさし、「楚の冤魂」は屈原が冤罪を着せられて楚都から追放されたことをいいます。共に劉蕡が都を遠く離れた地に流され、無実のまま死んだことの比喩でしょう。「湓浦」は江州潯陽江西省九江市の地名で、湓水が長江に注ぐところにある渡津です。「荊江」は江州よりも上流の荊州湖北省荊州市付近を流れる長江の別称であり、このあたりの長江は幾つもの支流を集め、また分流する河川も多く水郷地帯でした。
 劉蕡は柳州から召還されて都にもどる途中、江州で亡くなったという説もあり、この二句については劉蕡のまわりに集まっていた人が次第に遠ざかってゆくのを比喩的に述べたものとする解釈もあります。
 尾聯は「併せて将て恨涙を添え 一たび酒ぎて乾坤に問わん」と、是非を「乾坤」天地に問いたいと心情を披歴して結びます。


      茂陵           茂陵 李商隠

  漢家天馬出蒲梢  漢家かんかの天馬てんば 蒲梢ほしょうより出
  苜蓿榴華遍近郊  苜蓿もくしゅく 榴華りゅうか 近郊に遍あまね
  内苑只知銜鳳觜  内苑ないえん 只だ知る鳳觜ほうしを銜ふくむを
  属車無復插鶏翹  属車ぞくしゃ 復た鶏翹けいぎょうを挿さしはさむ無し
  玉桃偸得憐方朔  玉桃ぎょくとうぬすみ得て方朔ほうさくを憐れみ
  金屋粧成貯阿嬌  金屋きんおくよそおい成って阿嬌あきょうを貯たくわ
  誰料蘇卿老帰国  誰か料はからん 蘇卿そけい老いて国に帰れば
  茂陵松柏雨蕭蕭  茂陵(もりょう)松柏(しょうはく)蕭蕭(しょうしょう)たらんとは
漢朝の天馬は 蒲梢と名づけられ
苜蓿も柘榴も 都の近郊どこにでもある
御苑の狩では 鳳觜を口に含めば足り
天子の属車は 鶏翹もつけずに天子に従う
智者東方朔は 玉桃を偸んで認められ
阿嬌は長じて 金殿玉楼に迎えられる
だが誰が予想したろうか 蘇武が老いて帰国したとき
茂陵の松柏に 雨がしとしと降っているとは

 李商隠が劉蕡の死を悲憤する詩を作った年の冬、李商隠の母親が樊南の自宅で死去しました。そのため李商隠は秘書省正字の職を辞して、喪に服さなければならなくなりました。不運はどこまでもついてまわるようです。
 会昌三年八四三、唐朝はそれまで親交のあった回鶻ウイグルとの関係を断ち、回鶻の首長に降嫁していた太和長公主を奪い返しました。
 戦勝気分のなか、岳父の王茂元は四月に河陽節度使に転じ、懐州河南省沁陽県に移ってきました。
 その同じ四月、昭義軍節度使の劉従諌りゅうじゅうかんが甥の劉稹りゅうしんを兵馬留後にしようと申請してきました。朝廷はこれを許しませんでしたので、劉従諌は不服を称え朝廷に叛旗をひるがえします。
 八月になると政府は討伐の兵を出しますが、河陽節度使の王茂元も命を受けて討伐に参加します。
 ところが王茂元は病気になって、九月に懐州で亡くなってしまいました。
 李商隠は有力な保護者を失ってしまうのです。翌会昌四年八四四になると武宗の仏教弾圧は強化されますが、李商隠は宗教に関心がなかったらしく、史上有名な会昌の宗教弾圧に関する詩は見当たりません。
 ただ、二月以降に家を蒲州永楽山西省苪城県に移しています。永楽は河東南部の中心都市ですが、都から移ったのは経済的な理由からでしょう。
 服喪のために生活が困窮していくなか、李商隠は国家の現状を憂慮し、幾つもの詠史詩を作ったと見られますが、例によって制作年が不明です。
 そこでここで、幾つかの詠史詩を歴史の年代順に取り上げておきます。
 詩題の「茂陵」は漢の武帝の陵墓です。詩は武帝の生活を描いていますが、武帝にも天命があって死が訪れることを詠って結びとしています。
 首聯の「蒲梢」は大宛からもたらされた天馬の名ですが、李商隠は地名のように扱っています。記憶違いでしょう。
 天馬のほかに「苜蓿」うまごやしなどいろいろなものが西域からもたらされますが、それらはいまでは都のどこにでもあると詠っています。
 また、漢の広大な苑囿には禽獣が飼育され、皇帝の狩場でした。
 「鳳觜」は鳳の觜くちばしから作った膠にかわのことで、弓や弩の弦の切れたものを繋ぐことができるほどに強力な接着力があったとされています。
 「鶏翹」は鶏の羽毛と鈴をつけた天子の旗です。武帝はお忍びで出遊することを好んだので、「属車」従車も鶏翹をつけずに従いました。頚聯の「玉桃」は崑崙山にあるという伝説の桃で、長生不死の仙薬とされていました。
 東方朔とうほうさくはその玉桃を三度も偸んだと西王母に言われ、武帝は東方朔を寵臣に取り立てたと言われています。
 「阿嬌」は武帝の「おば」長公主の娘で、長じて武帝の皇后になりました。
 武帝は「おば」との約束通り、阿嬌を「金屋」美しい宮殿に住まわせました。
 このように何ごとも可能であった武帝でしたが、尾聯にいうように匈奴に使者となった「蘇卿」蘇武が匈奴に捕らえられて十九年目に帰国したときには、すでに崩じて茂陵に葬られていました。陵墓に植えてあった松柏に雨がものさびしく降っていたと、詩は見事に結ばれます。


      南朝           南朝 李商隠

  玄武湖中玉漏催  玄武湖中げんぶこちゅう 玉漏ぎょくろううなが
  鶏鳴埭口繍襦廻  鶏鳴埭口けいめいたいこう 繍襦しゅうじゅまわ
  誰言瓊樹朝朝見  誰か言う 瓊樹けいじゅ 朝朝ちょうちょうに見あらわるるは
  不及金蓮歩歩来  金蓮きんれん 歩歩ほほに来たるに及ばずと
  敵国軍営漂木柹  敵国の軍営 木柹ぼくしを漂ただよわし
  前朝神廟鏁煙煤  前朝の神廟 煙煤えんばいに鎖とざさる
  満宮学士皆顔色  満宮の学士 皆な顔色がんしょくあり
  江令当年只費才  江令こうれい 当年 只だ才を費ついやす
玄武湖の行楽では 漏刻を惜しんで時を過ごし
鶏鳴埭の御幸では 宮女の繍襦が舞いめぐる
誰が言うのか 朝ごとに玉樹がひかり輝いても
潘妃の一足ごとに咲き出る 金の蓮には及ばないと
敵国隋の陣営は 造船の木屑を流して警告したのに
前朝陳の霊廟は 煤けるままに捨て置かれた
宮廷の女学士は いずれ劣らぬ美貌の者ばかり
尚書令の江総は 賛辞に詩才を費やしただけ

 詩は南朝の衰亡を詠う詠史詩ですが、李商隠の詠史詩には滅びゆくものへの妖しげな嗜好が漂っています。「玄武湖」は南朝宋の文帝が都建康江蘇省南京市の北に開鑿した湖で、いまも広大な公園として残っています。
 文帝はこの湖を行楽の場として、しばしば宴遊を催しました。
 「鶏鳴埭」は玄武湖の北にある堰のことで、南朝斉の武帝は宮女を引き具して琅邪城に行幸し、早朝に宮殿を発って玄武湖の堰まで来ると鶏が鳴いたので、「鶏鳴埭」と呼ぶようになったと言われています。
 「瓊樹」は玉のように美しい樹のことで、南朝陳の後主陳淑宝ちんしゅくほうが愛妃の美貌を讃えて作ったという「玉樹後庭歌」にも出てくる伝説の樹です。
 「金蓮 歩歩に来たる」は南朝宋の東昏侯とうこんこうの説話で、東昏侯は黄金で蓮の花を作らせ、その上を愛妃の潘妃はんひに歩ませて、「此の歩歩に蓮華を生ずるなり」と言ったといいます。
 以上の四句は南朝諸帝の逸楽の数々ですが、頚聯では隋の文帝が南朝を攻めるために艦船を建造させたとき、天誅を加えるのだから隠す必要はないと言って造船の木屑を川に流させたことを言っています。隋が攻撃の準備をしているのに、陳の後主は先祖の祀りを怠って酒色に耽っていました。
 また美貌の宮女を女学士に取り立てて、宴遊に際して詩を作らせたので、陳の尚書令江総こうそうは帝を賛美する詩を作るのにいそがしく、陳は隋に亡ぼされてしまいました。


 陳後宮        陳の後宮 李商隠

茂苑城如画    茂苑もえん 城は画の如し
閶門瓦欲流    閶門しょうもん 瓦 流れんと欲す
還依水光殿    還た水光殿すいこうでんに依り
更起月華楼    更さらに月華楼げっかろうを起つ
侵夜鸞開鏡    夜を侵して 鸞らんの鏡を開き
迎冬雉献裘    冬を迎えて 雉きじの裘かわごろもを献ず
従臣皆半酔    従臣 皆な半なかば酔い
天子正無愁    天子 正まさに愁い無し
広大な茂苑 城は絵のように美しく
閶門の瓦は 水が流れるように輝く
水光殿では 水と光の戯れを眺め
月華楼は 月見のために立てられた
夜遅くまで 鸞鏡を開いて化粧がつづき
冬になると 雉の頭の裘が献上される
廷臣はみな ほろ酔い気分で
天子は正に 北斉の無愁天子のように愁いがない

 この詩も前回「南朝」の後半と同じように故事を使いながら、陳王朝が快楽におぼれて滅亡の危機に気づかなかったことを詠っています。
 首聯の「茂苑」は呉都建業南京市の庭苑ですが、左思さしの「呉都賦」以来、庭園の雅称として通用する語です。「閶門」は呉都の西門であり、まず呉都を借りて都城の広大さと美しさを詠います。
 頷聯の「水光殿」と「月華楼」は実在の宮殿楼閣の名ではなく、水光と月華を楽しむ宮殿の意味です。陳の後主がつぎつぎと宮殿を営んで、遊び暮らしたことを比喩するものでしょう。
 後半頚聯からは、宮殿内の生活の描写になります。詩は都全体の俯瞰から城内、宮殿、室内へと視点が絞られていくことに注目してください。
 「鸞開鏡」は「開鸞鏡」の倒置形で、南朝宋の「鸞鳥詩序」にみえる話を踏まえています。
 鸞のことはすでに幾度か説明していますので省略しますが、ここでは宮女たちが鸞鏡を開いて夜通し化粧をつづけたことをいうものでしょう。
 「雉献裘」も「献雉裘」の倒置形で、晋の武帝のとき、雉の頭で作った裘かわごろもが献上され、武帝はそれを不吉として焼き捨てたそうです。
 尾聯の「天子 正に愁い無し」は北斉の後主高緯こういの故事であり、高緯は琵琶の演奏を好み、みずから「無愁曲」という曲を作曲しました。
 それで世人は高緯を「無愁天子」と称したそうです。
 陳の後宮の話はまったく出てきませんが、題名からして陳の後宮も同じようなものであったというのでしょう。


     景陽井          景陽の井 李商隠

  景陽宮井剰堪悲  景陽けいようの宮井きゅうせいお悲しむに堪えたり
  不尽龍鸞誓死期  尽くさず 龍鸞りょうらん 誓死せいしの期を
  腸断呉王宮外水  腸断ちょうだんす 呉王宮外ごおうきゅうがいの水
  濁泥猶得葬西施  濁泥だくでいお西施せいしを葬るを得たり
景陽の井戸の物語は まことにいたましい
天子と愛妃の誓いは ついに果たされず
悲しみは同じだが 呉王の宮殿の外の水
濁った泥のなかに 西施はともかくも葬られた

 「景陽」は南朝陳の後宮にあった井戸の名です。隋の兵が陳の都建康南京市に攻め入った夜、陳の後主は宴遊にふけっていました。
 逃げ遅れた後主は愛妃の張麗華ちょうれいか、孔貴嬪こうきひんとともに景陽の井戸に隠れましたが、見つかって捕らえられます。「龍鸞 誓死の期」の龍鸞は天子と愛妃のことで、万一のときは共に死のうと誓っていました。
 誓いは果たされず、三人とも生き恥じをさらす結果となったのです。
 それに比べれば、「西施」越から呉に贈られた美女は呉の滅亡後、呉宮の近くの湖水に沈められましたので、陳の愛妃よりはましだというのです。


      隋宮            隋宮 李商隠

  紫泉宮殿鎖煙霞  紫泉しせんの宮殿 煙霞えんかに鎖とざされ
  欲取蕪城作帝家  蕪城ぶじょうを取りて帝家ていかと作さんと欲す
  玉璽不縁帰日角  玉璽ぎょくじ 日角にっかくに帰するに縁らざれば
  錦帆応是到天涯  錦帆きんはんまさに是れ天涯てんがいに到るべし
  於今腐草無蛍火  今に於いては腐草ふそうに蛍火けいか無く
  終古垂楊有暮鴉  終古しゅうこ 垂楊すいように暮鴉ぼあ有り
  地下若逢陳後主  地下に若し陳の後主こうしゅに逢わば
  豈宜重問後庭花  ()(よろ)しく重ねて後庭花(こうていか)を問うべけんや
長安の宮殿は 靄に閉ざされ
荒れた古城を 帝都にしようとする
伝国の玉璽が 唐の天子に帰さなかったら
錦の帆船は 天の果てまで行ったであろう
今は枯れ草に 蛍の光の輝きはなく
しだれ柳には 日暮れの鴉がとまっている
黄泉の国で煬帝が 陳の後主と出逢っても
玉樹後庭歌の愚かさを 問い糾したりはできないだろう

 「隋宮」ずいきゅうは隋の煬帝ようだいが江都江蘇省江都県に設けた離宮のことです。
 「紫泉」は長安を流れる川の名で、本来は紫淵というのですが、唐の高祖李淵の名を避けて紫泉と改められました。
 「蕪城」は荒れ果てた城のことですが、ここでは煬帝が長安を捨てて広陵江蘇省揚州市を帝都にしようとしたことを指しています。頷聯の「日角」は皇帝の骨相をいうことばで、額が丸く突き出た顔をいいます。
 伝国の玉璽が隋から唐の高祖に渡らなかったら、煬帝は天の果てまで行ったであろうと、煬帝の無謀な行いを批判しています。頚聯の「腐草に蛍火無く」は煬帝が無数の蛍を集めて山に放ち、周囲をひかり輝かせたことをいい、「垂楊に暮鴉有り」は煬帝が大運河の岸に植えさせた柳には日暮れの鴉が止まっていると、煬帝の栄華がいまは無に帰していることを詠います。
 そして尾聯では、煬帝が黄泉よみの国で陳の後主と出逢うようなことがあっても、「玉樹後庭歌」の愚かさを口にすることはできないであろうと、陳が滅んだのも隋が滅んだのも同じだと批判するのです。


    馬嵬二首 其一     馬嵬 二首 其の一 李商隠

  冀馬燕犀動地来  冀馬きば 燕犀えんさい 地を動どよもして来たり
  自埋紅粉自成灰  自ら紅粉こうふんを埋め 自ら灰と成
  君王若道能傾国  君王くんのうし能く国を傾くと道れば
  玉輦何由過馬嵬  玉輦ぎょくれん 何に由りてか馬嵬ばかいを過ぎらん
冀州の馬 燕の鎧が地を揺るがせて押し寄せ
帝はみずから 妃を土に埋め 灰土と化した
もしも皇帝が 美女の傾国に気づいていたら
鳳輦が馬嵬を 通ることもなかったであろう

 詩題の「馬嵬」は、玄宗皇帝が蜀へ落ち延びる途中、楊貴妃をはじめとする楊家の一族が殺された場所です。
 長安から西へ五十㌔㍍余のところにあります。起句の「冀馬 燕犀」は冀州の馬と燕の鎧のことで、幽州范陽北京市で挙兵した安禄山の兵のことです。
 天宝十四載七五五十一月九日早朝に兵を挙げた安禄山は、十二月十三日には洛陽に入り、翌天宝十五載六月八日に潼関のまもりを破りました。
 玄宗皇帝は六月十三日未明に長安を脱出し、翌十四日、馬嵬まで来たとき、近衛の兵の要求を拒みきれずに楊貴妃を縊死させました。
 承句はそのことを言っています。転結句では歴史に仮定を持ちこんでいますが、この手法は杜牧に例があり、李商隠の独創ではありません。
 なお、唐では天宝三載七四四から至徳三載七五八までは「年」を「載」といい、至徳三載は二月に改元されて乾元元年になります。聖帝堯・舜の時代は年ではなく載を用いていたとされていたことから、玄宗は堯舜の政事にあやかりたいとして載を用いるようにしたと言われています。


    馬嵬二首 其二     馬嵬 二首 其の二 李商隠

  海外徒聞更九州  海外かいがいいたずらに聞く 更に九州ありと
  他生未卜此生休  他生たしょういまだ卜ぼくせずして此の生しょう
  空聞虎旅鳴宵柝  空しく聞く 虎旅こりょの宵柝しょうたくを鳴らすを
  無復鶏人報暁籌  復た鶏人けいじんの暁籌ぎょうちゅうを報ずる無し
  此日六軍同駐馬  此の日 六軍りくぐんともに馬を駐とど
  当時七夕笑牽牛  当時 七夕しちせき 牽牛けんぎゅうを笑う
  如何四紀為天子  如何いかんぞ四紀しき 天子と為りて
  不及盧家有莫愁  盧家ろかに莫愁ばくしゅう有るに及ばざる
海外にさらに九州があるというが 話に聞くだけ
来世を占う暇もなしに この世の命は尽き果てる
近衛の鳴らす拍子木も 夜空に虚しく消えてゆき
夜明けを告げる鶏人も いまは報せる必要もない
この日 禁軍の兵士は 馬をとどめて動こうとせず
あの時 七月七日には 牽牛・織女を二人で笑った
天子となって四十五年 如何なる在位であったのか
盧家にとついだ莫愁の 小さな幸せにも及ばないとは

 其の二の詩は白居易の「長恨歌」を踏まえています。
 「長恨歌」については、前出を参照してください。
 首聯の「海外…」の句は、蜀から都にもどった玄宗上皇が道士を遣わして世界の隅々まで楊貴妃の霊魂を捜させたことをいいます。
 「虎旅」は『周礼』夏巻にある官名で、宮中の警備兵のことです。
 近衛の兵が蒙塵する玄宗を守備していました。「鶏人」も『周礼』春巻にある官名で、宮中の漏刻水時計を管理する役人です。
 頚聯の「此の日」は玄宗一行が「馬嵬」に至った六月十四日のことで、「当時」は長恨歌に出てくる話で、七月七日、七夕の夜に玄宗と楊貴妃が「比翼連理」の誓いをしたことを指します。尾聯の「四紀」は歳星木星の周期のことで、一紀は十二年ですので四紀は四十八年になります。
 玄宗の在位四十五年を指すものです。
 結びに出てくる「莫愁」は南朝の楽府に詠われている女性で、十五歳で盧家に嫁ぎ、幸福な結婚生活を送りました。ここでは在位「四紀」の皇帝が庶民の平凡な夫婦の幸福にも及ばないのはどうしたことかと批判しています。


    寄令狐郎中       令狐郎中に寄す 李商隠

   嵩雲秦樹久離居   嵩雲すううん 秦樹しんじゅ 久しく離居りきょ
   双鯉迢迢一紙書   双鯉そうり 迢迢ちょうちょうたり一紙いっしの書
   休問梁園旧賓客   問うを休めよ 梁園りょうえんの旧賓客きゅうひんきゃく
   茂陵秋雨病相如   茂陵もりょうの秋雨しゅうう 病相如びょうしょうじょ
雲は嵩山にたなびき 都から離れて暮らす私に
はるばると 書信を寄せて下された
どうか気にかけないでいただきたい かつての梁園の賓客も
いまは茂陵の秋の雨 病に臥せる司馬相如です

 会昌五年八四五の年明けに、李商隠の服喪は三年目になり、足かけ三年の喪が明けます。しかし、朝廷からは復職の沙汰がありません。そのとき鄭州刺史の李褒りほうから招きがあり、李商隠は鄭州に赴きました。
 鄭州行きの目的は不明ですが、就職がからんでいたでしょう。
 話は不首尾に終わったらしく、帰途、李商隠は洛陽に立ち寄ります。
 洛陽に滞在していたとき、李商隠の身分を気づかう書簡が令孤綯れいことうから届きます。令孤綯はすでに尚書省戸部員外郎従六品上になっており、李商隠の力になろうと思ったようです。
 詩はその申し出を断った作品と思われます。
 起句の「嵩雲」は、嵩山にかかる雲のことで鄭州からも望めますが、嵩山は一般的には洛陽の霊山です。「秦樹」は秦の都咸陽の樹ということですが、ここでは長安の都を指しています。承句の「双鯉」は漢代の楽府に書信を鯉の腹中に蔵して送ったという故事があり、書信の雅称です。
 転句の「梁園の旧賓客」は漢の孝王が梁の居城に文人を招いたことの比喩で、かつて令孤楚に厚遇してもらったことをいうのでしょう。
 しかし、いまは茂陵の秋雨の中で病に臥している「相如」司馬相如ですと言って、令孤綯の誘いを婉曲に断っています。


     春日寄懐         春日 懐いを寄す 李商隠

   世間栄落重逡巡   世間の栄落えいらく 重ねて逡巡しゅんじゅん
   我独邱園坐四春   我れ独り邱園きゅうえんに四春ししゅんを坐す
   縦使有花兼有月   縦使たとえ花有り 兼ねて月有らしむるも
   可堪無酒又無人   堪う可けんや 酒無く又た人無きに
   青袍似草年年定   青袍せいほう 草に似て年年ねんねん定まり
   白髪如糸日日新   白髪はくはつ 糸の如く日日ひび新たなり
   欲逐風波千万里   逐わんと欲す 風波 千万里
   未知何路到龍津   未いまだ知らず 何れの路か龍津りゅうしんに到る
人の世の栄枯盛衰は 堂々めぐりを繰りかえし
ひとり故園を守って 四年の歳月が流れる
たとえ花が咲き 月が夜空を照らしても
酒なく友がなければ どうして堪えることができよう
青衣は草に似て 年ごとに身につき
糸のような白髪が 年ごとに増えてゆく
風波を越えて千万里 栄誉を追おうとするが
登龍門へと到る路が 私にはさっぱりわからない

 会昌五年八四五の七月、都では廃仏の風雨あらしが最高潮に達していました。
 宗教弾圧は道教以外のすべての宗教に及びましたので、これらの寺院の多い長安は大混乱に陥りました。
 日本の修行僧円仁えんにんも長安を逃れて楊州へもどっています。そんななか李商隠は都にもどって、十月にもとの秘書省正字の職に復帰しました。
 明ければ会昌六年八四六です。
 掲げた詩は春の作であり、「邱園に四春を坐す」とありますので、会昌二年の冬に母親の喪に服してから四年目の会昌六年春の作品でしょう。
 「青袍」は処士や下級官吏の用いる服で、低い身分が身についてしまったというのです。
 それに引き換え、頭は年ごとに白くなると嘆いていますが、このとき李商隠は三十六歳ですので、年齢が増えてゆくことへの定石的な表現でしょう。
 自分には「龍津」山西省河津県にある黄河の瀧へ到る道が一向に分からないと、いい歳をして秘書省正字の微官にとどまっている自分を嘆いています。
 漢学者として李商隠の研究者であった小説家の高橋和巳氏は、このころから李商隠の詩風が変化し、引用や比喩の多い若いころの作風が、中唐の白居易や元稹の詩に近いものになったと指摘しています。


  細雨         細雨 李商隠

瀟洒傍廻汀    瀟洒しょうしゃとして廻汀かいていに傍
依微過短亭    依微いびとして短亭たんていを過ぐ
気涼先動竹    気涼しくして先に竹を動かし
点細未開萍    点てん細くして未いまだ萍うきくさを開かず
稍促高高燕    稍や促す 高高こうこうたる燕
微疎的的蛍    微かに疎にす 的的てきてきたる蛍
故園煙草色    故園こえん 煙草えんそうの色
仍近五門青    仍お近し 五門の青あお
軽く緩やかに 曲がる汀に沿って
ぼんやり煙る 駅舎を過ぎてゆく
涼しげな風が 竹の葉をゆらして吹き
小さな雨粒は 浮き草を乱すほどではない
空を飛ぶ燕は いささか慌て
蛍のひかりは やや疎らになったようだ
小雨に濡れて 故郷に生える草の色も
五門に生える 草の青さと変わるまい

 会昌六年春三月も過ぎようとするころ、都でひとつの異変が生じました。
 不老長生の仙薬を多用したのがもとで、武宗が崩じたのです。宦官たちがすでに皇太子を擁立しており、李忱りしんが即位して宣宗となります。
 皇太子といっても李忱は武宗の祖父憲宗の十三番目の皇子で、武宗の父穆宗の弟にあたります。
 皇位が甥から叔父に移ったわけで、異常な皇位継承です。
 皇位の変更はただちに政変を呼びます。
 李徳裕は廃仏政策の責任を問われて四月に失脚し、代わって宰相になったのは翰林学士承旨の白敏中はくびんちゅうでした。
 白敏中は白居易の祖父の兄の孫にあたり、幼いころから白居易が目をかけ、将来を期待していた人物でした。白敏中は南方に貶謫されていた牛僧孺と李宗閔を北の地、つまり都に近い任地に移します。
 量移りょういしたことになりますが、若い世代である白敏中は牛党の長老政事家の処遇に慎重でした。白敏中は長慶元年八二一の進士ですので、李商隠よりは年長であったと思われます。李商隠と同じ寒門の出身であり、寒門出の翰林学士が宰相に抜擢されたことは、いまだに秘書省正字で低迷している李商隠には驚きであったでしょう。詩題の「細雨」さいうは李商隠好みの風物であり、同題の詩がほかにもあります。詩の制作年は不明ですが、この詩には「春日寄懐」の詩と似た気分があり、このころの作品と考えました。
 詩中に「雨」の語を出さず、空間の広がり、時間の流れのなかで、そぼ降る雨のようすを繊細に描いています。
 「五門」は宮廷の五つの門のことで、都そのものを指します。
 都にいて宮門に生えている青草から、雨にけむる故郷の草も同じように青く濡れているであろうと、望郷の憶いを詠うものです。

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