無題二首 其一    無題 二首 其の一 李商隠

  鳳尾香羅薄幾重  鳳尾ほうびの香羅こうら 薄きこと幾重いくえ
  碧文園頂夜深縫  碧文へきもんの園頂えんちょう 夜深くまで縫う
  扇裁月魄羞難掩  扇は月魄げつぱくに裁つも 羞はじらい掩おおい難く
  車走雷声語未通  車は雷声らいせいを走らせ 語未だ通ぜず
  曾是寂寥金燼暗  曾すなわち是れ寂寥せきりょう 金燼きんじん暗く
  断無消息石榴紅  断えて消息しょうそく無く 石榴せきりゅうくれないなり
  斑騅只繋垂楊岸  斑騅はんすい 只だ繋ぐ 垂楊すいようの岸
  何処西南待好風  何いずれの処か 西南 好風こうふうを待たん
鳳凰模様の綾絹は 幾重かさねても薄く透き通り
青色模様の天蓋を 夜更けになるまで縫っています
円月の形に作った扇は 恥じらう私を隠してくれず
雷鳴のように走る車は 話す暇もなしに過ぎてゆきます
灯火も尽きて暗くなり これが寂しさというのでしょうか
お便りも久しく絶えて 柘榴の花は真っ赤になりました
愛用の葦毛の馬は 岸のしだれ柳につながれたまま
西南の素敵な風を どこで私は待てばいいのでしょうか

 其の一の詩の語り手は、婚礼の日を待ちながら晴れの日の準備にいそしんでいる女性です。「鳳尾の香羅」の「鳳尾」は「鳳文」と書くべきところを平仄の関係で「尾」としたもので、鳳凰の模様を織り込んだ薄絹のことです。
 「碧文の園頂」は婚礼のときに用いる青い円錐形の天蓋で、北方民族から伝えられた習俗といいます。
 それを自分で縫っているのですから、形式化した小型の覆いでしょう。
 婚礼のときに持つ扇も自分で作ります。「月魄」は本来、月の欠けた影の部分をいい、そこから月輪そのものを指すようになりました。
 だから、作っているのは中国式の丸い扇でしょう。そんな女性に、ふと不安がよぎります。音を立てて車が通るので、婚約者が来たのかと胸をはずませますが、言葉を交わす間もなく通り過ぎてゆきます。
 婚約者からの便りがしばらく途絶えており、「石榴紅なり」と詠います。
 季節の移り変わりをいうのでしょうが、柘榴の花の真紅の色は恋心の比喩として秀逸です。
 尾聯の「斑騅 只だ繋ぐ 垂楊の岸」は、現実ではなく幻想でしょう。
 男を待っている自分の気持ちを垂楊に繋がれたままの馬に喩えたものと思われます。そして結びで「何れの処か 西南 好風を待たん」と若い娘らしい愛の言葉を投げかけるのです。


    無題二首 其二    無題 二首 其の二 李商隠

  重幃深下莫愁堂  重幃ちょうい 深く下ろす莫愁ばくしゅうの堂
  臥後清宵細細長  臥して後 清宵せいしょう 細細さいさいとして長し
  神女生涯元是夢  神女しんにょの生涯 元と是れ夢
  小姑居処本無郎  小姑しょうこの居処 本と郎ろう無し
  風波不信菱枝弱  風波ふうは 菱枝りょうしの弱きに信まかせず
  月露誰教桂葉香  月露げつろ 誰か桂葉けいようをして香らしめん
  直道相思了無益  直たとえ相思 了ついに益えき無しと道うも
  未妨惆悵是清狂  (いま)だ妨げず 惆悵(ちゅうちょう)は是れ清狂(せいきょう)なるを
幾重にも 帳を下ろした莫愁の部屋
清らかな夜 寝れば時間は細く静かに流れてゆく
巫山の神女の生涯は はじめから一場の夢
青渓の少女の居処に もともと男はいなかったのだ
かよわい菱の枝葉を 波風にさらしてはおけない
冷たい月の露のため 桂花も香りを放たないのだ
たとえ恋は 何の得るところがなくても
この悲しみを 清狂と言ってもいいであろう

 其の二の詩の語り手は男性であり、恋をしている女性がひとり寂しく過ごしているようすを詠っています。
 首聯ではまず女性の居処きょしょと状態が設定されます。「莫愁」は南朝時代の楽府に出てくる洛陽の女児で、年十五にして盧家に嫁いだといいます。
 通用の名前を使うことで、恋の相手を示したものでしょう。
 中四句では、それぞれ故事を用いて恋の虚妄を指摘しています。
 「神女…」の句は楚の懐王が夢の中でちぎりを結んだという巫山の神女であり、一場の夢に過ぎないと詠いまます。
 「小姑…」の句は南朝の楽府「青渓小姑曲」を引くもので、南朝宋の趙文韶ちょうぶんしょうが青渓のほとりで若い美女と一夜を過ごしました。別れに際して互いに贈り物をしましたが、翌日、趙文韶は青渓の廟の中に自分の贈った品物があるのを見て、女が青渓の神女であったことを知ります。
 「郎」は女が男の恋人を指していう語ですので、趙文韶が美女と一夜を過ごしたのは夢の中の出来事だったというのでしょう。
 「風波…」の句は故事があるかどうか不明ですが、「菱枝」は弱々しいもの、女性の比喩とみなされます。
 「月露…」の句は月に生えているという桂の木は冷たい月の露のために香りを発することができないということで、弱々しい女性とその女性が冷たくしか接してくれないことへの失望感を合わせて詠っているものでしょう。
 尾聯は「相思」に対する作者の認識をいうもので、たとえ何も得るところがなくても、恋に狂うという心情は「清狂」といってよく、世間一般の基準には合わないものであると、一種の恋愛論を述べていることになります。


      破鏡          破鏡 李商隠

   玉匣清光不復持   玉匣ぎょくこうの清光せいこうた持ぜず
   菱花散乱月輪虧   菱花りょうか散乱して月輪げつりん
   秦台一照山鶏後   秦台しんだいひとたび山鶏さんけいを照らして後のち
   便是孤鸞罷舞時   便すなわち是れ孤鸞こらん 舞いを罷むるの時
玉の箱の中 鏡はもはや清らかな光を放たない
円月も欠け 菱の模様も乱れ散る
秦台の鏡に 山鶏が姿を映してからは
孤独な鸞は 鏡の前で舞うのをやめた

 李商隠には「無題」と題していない恋愛詩もありますので、二、三取り上げてみます。まず「破鏡」は詩題から失恋の歌と思われます。鏡は玉で作った箱に大切にしまってありましたが、もはや清らかな光を放ちません。
 「菱花」は鏡を日光に反射させると、菱の模様が浮かぶ特別な鏡であったようです。「月輪」は満月のことで、鏡は欠けてしまい菱の模様はばらばらにしか映りません。
 転句の「秦台」は秦の宮殿に置かれていた鏡のことで、その鏡に「一たび山鶏を照らして後」というのは、南朝宋の劉敬叔りゅうけいしゅくの「異苑」に出てくる説話で、山鶏は自分の美しい羽根を自慢にしており、山鶏を鏡の前に置くと鏡に映る自分の姿に魅せられて、死ぬまで舞いつづけると言われています。
 鸞も鏡に映った自分の姿を見て鳴きつづけ、絶命するまで舞うのを止めなかったといいます。転結の二句では比喩が凝らされていますが、「破鏡」の原因を示唆するものでしょう。つまり山鶏が現われて鏡の前で舞い始めたので、霊鳥である鸞は恋をするのをやめたと、恋敵の出現によって破れた恋を詠うものであると解されます。


      為有           有るが為に 李商隠

   為有雲屏無限嬌   雲屏うんぺい有るが為に 無限の嬌きょうあり
   鳳城寒尽怕春宵   鳳城ほうじょうかん尽きて 春宵しゅんしょうを怕おそ
   無端嫁得金亀壻   端はし無くも 金亀きんきの婿むこに嫁とつぎ得て
   辜負香衾事早朝   香衾こうきんに辜負こふして早朝に事つと
雲母の屏風があるので 愛らしさは限りない
都に冬の寒さが消えて 春の宵が去るのが怖い
図らずも金亀の高官を 婿に迎えはしたものの
夫は夜具に背を向けて 朝の勤務に出かけてしまう

 この詩は冒頭の二語を取って題としていますので、「無題」に等しいとみなされます。閨怨詩の系統を継ぐものですが、起承句では第三者の立場に立っているようです。「金亀」は高位の者が身につける割り符のことで、唐代では魚をかたどった魚符でした。
 亀の形が用いられたのは則天武后時代の一時期です。割り符は袋に入れて身につけるものですが、それが金で出来ているものは三品以上の身分の場合ですので、かなりの高官と結婚したことになります。
 しかし、早朝からの朝見は身分の高下を問いませんので、高官の妻であろうと、夫が朝早く出かけるのは同じであると妻の嘆きを詠うのです。


 独居有懐      独居 懐う有り 李商隠

麝重愁風逼   麝じゃは重くして 風の逼せまるを愁うれ
羅踈畏月侵   羅は踈にして 月の侵おかすを畏おそ
怨魂迷恐断   怨魂えんこん 迷いて断たれんかと恐れ
嬌喘細疑沈   嬌喘きょうぜん 細くして沈まんかと疑う
数急芙蓉帯   数々しばしばきつうす 芙蓉ふようの帯
頻抽翡翠簪   頻しきりに抽く 翡翠ひすいの簪かんざし
柔情終不遠   柔情じゅうじょうついに遠からず
遥妬已先深   遥妬ようとすでに先んじて深し
立ちこめる麝香の香 風に吹かれたらどうしよう
羅の帳のあいだから 月光が射しこまないかと心配だ
怨みに思う心は 迷って千切れてしまいそう
悩ましい喘ぎは ため息となって細く消えてゆく
緩くなった芙蓉の帯を 幾度も締めなおし
落ちそうな翡翠の簪を 幾度も挿しなおす
あの人を慕う気持ちに 変わりはないが
遠くから妬む気持ちは それよりも深い

 詩題の「独居 懐う有り」は不遇の詩人の感懐詩のようにみえますが、五言排律の恋愛詩です。語り手は洛陽にひとり残された女性で、詩は始めから閨房の濃厚な雰囲気をただよわせています。
 「麝」は麝香の香りであり、「羅」は薄絹の帳とばりです。
 「嬌喘」は悩ましい喘ぎ声と考えられ、女性は芙蓉の模様の帯を締め直したり、翡翠の簪を挿し直したりして落ちつかない様子です。
 夫もしくは恋人は、長安でほかの女と浮気をしているのではないかと「遥妬」遠くから思う嫉妬の思いがつのります。

浦冷鴛鴦去   浦うらは冷やかにして鴛鴦えんおう去り
園空蛺蝶尋   園そのは空しくして蛺蝶きょうちょう尋ぬ
蠟花長逓涙   蠟花ろうかとこしえに涙を逓てい
筝柱鎮移心   筝柱そうちゅうつねに心を移す
覓使嵩雲暮   使いを覓もとむるも 嵩雲すううん暮れ
廻頭覇岸陰   頭こうべを廻らすも 覇岸はがんくも
只聞涼葉院   只だ聞く 涼葉りょうようの院
露井近寒砧   露井ろせい 寒砧かんちん近きを
水辺は寒々として 鴛鴦もいなくなり
ひっそりした庭に 一羽の蝶が飛んでいる
蝋燭の雫が垂れるように 涙は途切れず
筝の琴柱を動かすように 胸の思いは定まらない
便りを届けてくれる人を捜すが 嵩山の雲は日暮れて
あの人の姿を求めて振り返るが 灞陵の岸は雲のなか
聞こえてくるのは 枯れ葉の舞い散る中庭の
井戸の辺りに寒々と ひびく砧の音ばかり

 庭に目をやると、池にいた鴛鴦おしどりもいなくなり、ひっそりした庭に蝶が一羽飛んでいます。寂しさに涙はとまらず、心は揺れ動いています。
 「嵩雲暮れ」によって女は嵩山に近い洛陽にいると推定されます。
 「覇岸陰る」は王粲おうさんの「七哀詩」を踏まえており、「覇岸」は長安の東郊を流れる灞水の岸で、灞陵といいます。だから洛陽からは見えません。
 この句は「嵩雲」の句と対句になっていて、長安の方向を振り向いたという意味でしょう。
 最後の二句は、五言の詩にふさわしい簡潔な表現で鮮やかに結ばれており、李商隠の閨怨詩のなかでは秀作と言っていいのではないでしょうか。


      春雨           春雨 李商隠

  悵臥新春白袷衣  新春に悵臥ちょうがす 白袷衣はくこうい
  白門寥洛意多違  白門はくもん寥洛りょうらくとして 意多く違たが
  紅楼隔雨相望冷  紅楼こうろう 雨を隔へだてて相い望めば冷やかなり
  珠箔飄燈独自帰  珠箔しゅはくともしびに飄ひるがえって独自ひとり帰る
  遠路応悲春晼晩  遠路えんろまさに春の晼晩えんばんたるを悲しむべし
  残宵猶得夢依稀  残宵ざんしょうお夢の依稀いきたるを得たり
  玉璫緘札何由達  玉璫ぎょくとう 緘札かんさつなにに由りてか達せん
  万里雲羅一雁飛  万里の雲羅うんら 一雁いちがん飛ぶ
新春に白い袷をまとい 鬱々として臥している
白門は静まりかえり 思いは叶わぬことばかり
そぼ降る雨の向こうに 紅楼は冷えびえと見え
真珠の簾の煌めくなか 私はひとりで帰ってきた
あの人は遠い旅路で 暮れゆく春を惜しんでいるのか
眠られぬ夜明けのころ ぼんやり夢にあらわれる
耳飾りを添えた便りを 届けるにはどうしたらいいのか
空一面にかすむ雲の網 一羽の雁が飛んでいる

 閨怨詩に物語的な関係をつけることはできませんが、「春雨」の女性を「独居 懐う有り」のつづきとみれば、男は新春になっても帰って来なかったことになります。「袷衣」は春や秋に着る袷あわせのことで、白に特別の意味があるかどうかは分かりません。
 蝉聯体の詩のように次句の「白門」と繋がっています。
 白門は男女の逢瀬の場として南朝時代から慣用されている詩語で、首聯ではかつての逢瀬を思い出して、女性はもんもんとして臥せっています。
 頷聯の「紅楼」も「珠箔」も女性の居処を詩的に飾っていう語で、妓楼のような建物を想定する必要はないでしょう。
 雨が降っていて、女性はひとりで家に帰って来た日のことを思い出します。
 頚聯では、「遠路」遠い旅路にいる男が春の日暮れをどうして過ごしているだろうかと思いやり、「残宵 猶お夢の依稀たるを得たり」と結びます。
 「依稀」はおぼろげな様子をいう語で、夢にぼんやりと出てきたのです。
 中四句は女性の思いですが、尾聯では現実にかえります。
 「玉璫」は耳飾りで、便りに添えて男が女に贈る習慣でした。
 ここでは女性が男に送ろうとしていますので、男がいまも自分を思っているかどうか問おうとしているのでしょう。女性は思いのたけを届けようと思いますが、その方法がわかりません。男の住所が分からないのでしょう。
 見上げると、空にはかすみ網のような雲が一面に広がっており、一羽の雁が飛んでいます。雁は普通、群をなして飛びますので、孤独な自分を投影する詩情を表すものです。
 結びの一句は常套的ながら、きりりと締まっています。


      昨日           昨日 李商隠

   昨日紫姑神去也  昨日さくじつ 紫姑しこの神 去れり
   今朝青鳥使来賖  今朝こんちょう 青鳥せいちょうの使 来たること賖おそ
   未容言語還分散  未だ言語を容れざるに還た分散し
   少得団円足怨嗟  団円だんえんを得ること少まれにして怨嗟えんさ足る
   二八月輪蟾影破  二八にはちの月輪 蟾影せんえい破れ
   十三絃柱雁行斜  十三の絃柱げんちゅう 雁行がんこう斜めなり
   平明鐘後更何事  平明の鐘の後のち 更に何事かあらん
   笑倚牆辺梅樹花  笑いて牆辺しょうへんに倚る 梅樹ばいじゅの花
昨日私を訪れた 紫姑の女神は去っていった
今朝になっても 青い鳥の使いは来ない
言葉を交わす暇もなく 離ればなれになって
仲睦まじく過ごせずに 怨みはつのる
十六夜の月に映るのは くずれたひき蛙
十三絃の琴の琴柱は 斜に飛びゆく雁の群れ
夜明けの鐘のあと 何が起こるというのか
垣根に寄り添って 笑っているのは梅の花

 詩題「昨日」は冒頭の二語を取っていますので、無題の詩と同じです。
 「紫姑の神」は正月十五日の元宵節上元節の夜に現われて、吉凶を占う女神とされています。その夜、語り手の男は女性と逢いましたが、充分に心を通わせることなく別れてしまいました。
 だから翌朝、女からの使いが来はしないかと待っています。
 中四句は恋の未練を語り、月や雁を見上げて怨みの比喩を述べます。
 頚聯の「二八の月輪」は十六夜の月ですので、十六日の夜は眠らずに夜明けを迎えますが、何も起こりません。
 垣根のかたわらに梅の花が咲いています。
 「笑」は笑う意味と咲く意味がありますので、女から冷たくあしらわれている自分を自嘲していると解されます。


    北斉二首 其一    北斉 二首 其の一 李商隠

  一笑相傾国便亡  一笑いっしょうして相い傾くれば 国便すなわち亡ぶ
  何労荊棘始堪傷  何ぞ労せん 荊棘(けいきょく) 始めて(いた)むに堪うるを
  小憐玉体横陳夜  小憐の玉体 横陳おうちんするの夜
  已報周師入晋陽  已に報ず 周師しゅうし 晋陽しんように入ると
美女が一笑すれば 国はたちどころに亡んでしまう
都に茨が生えてから 滅亡を悲しむ必要はない
愛妃小憐の玉体が 身を牀上に横たえたとき
すでに北周の軍勢は 晋陽の城に攻め込んでいた

 李商隠は厳格な韻律の律詩で新しい閨怨詩を創出した詩人といえますが、唐代の詩人が必ず取り組む詠史詩においても、一種独特の濃艶な美女を描いています。
 これらも「無題」の詩を作っていたころと同じ時期の作品と思われます。
 詩題の「北斉」ほくせいは南北朝時代の北朝のひとつで、国を立ててから五世二十八年、承光元年五七七に亡びました。「一笑」は周の幽王が寵妃褒娰ほうじの一笑を得るために烽火を上げたことをさし、亡国の故事です。
 「荊棘」にも故事があり、『呉越春秋』夫差内伝に伍子胥ごししょが呉王夫差ふさを諌める言葉の中に出てきます。国の滅亡の悲しみは、都にいばらが生い茂り、荒れ果てるのを待つ必要はないというのです。
 「小憐」は北斉の後主高緯こういの寵妃馮淑妃ふうしゅくひのことで、高緯は政事に関心も能力もなく、歌舞音曲に明け暮れていたといいます。「玉体」と「横陳」は美女の肉体が横に長く横たわることで、艶詩に多用される語です。
 北斉の武平七年576十二月、北周の宇文邕うぶんようは晋陽山西省太原市に攻め込んできました。後主高緯は都の鄴河北省臨漳県に逃げ、ほどなく八歳の太子高恒こうこうに位を譲りますが、翌年、鄴城も北周に奪われます。
 高緯は南朝の陳に逃げる途中、捕らえられて殺されました。


    北斉二首 其二    北斉 二首 其の二 李商隠

  巧笑知堪敵万機  巧笑こうしょうは万機ばんきに敵たるに堪うと知る
  傾城最在著戎衣  傾城けいじょうは最も戎衣じゅういを著ちゃくするに在り
  晋陽已陥休廻首  晋陽(しんよう) 已に()つるも(こうべ)を廻らすを()めよ
  更請君王猟一囲  更に請う 君王くんおう 一囲いちいを猟りょうせんことを
愛妾の媚笑は 天下の政務に太刀打ちできる
傾国の美女が 男の軍服を着ればなおさらだ
晋陽はすでに落城 でも振り返るのはよしましょう
もう一度天子さま 勢子に野原を囲ませて猟をするのです

 其の二の詩では美女の「巧笑」蠱惑的な笑みは「万機」天下の政務に打ち勝つといっています。また、「傾城」傾国の美女の魅力は「戎衣」軍服を着たときにもっとも発揮されると詠っています。戎衣といっても、ここでは狩りの服装です。
 「晋陽 已に陥つ」とありますので、晋陽から都の鄴に逃げてきてからの話でしょう。北周はいまや北斉の都に攻め寄せようとしています。
 それなのに、馮淑妃ふうしゅくひは狩りの遊びを止めようとしません。
 もう一度、勢子に野原を囲ませて猟を楽しみましょうと言うのです。
 しかしこの詩では、女色に溺れる「君王」を批判するよりも、「戎衣」を着た男装の美女という設定に李商隠の倒錯した美意識があることを読み取るべきでしょう。


      曲江           曲江 李商隠

  望断平時翠輦過  望断ぼうだんす 平時 翠輦すいれんの過よぎりしを
  空聞子夜鬼悲歌  空むなしく聞く 子夜しやおにの悲歌するを
  金輿不返傾城色  金輿きんよは返らず 傾城けいせいの色かんばせ
  玉殿猶分下苑波  玉殿は猶お分かつ 下苑かえんの波
  死憶華亭聞唳鶴  死に憶う 華亭かていに唳鶴れいかくを聞きしことを
  老憂王室泣銅駝  老いては 王室を憂えて銅駝どうだに泣く
  天荒地変心雖折  天荒れ地変じ 心折ると雖いえど
  若比傷春意未多  ()し春を(いた)むに比ぶれば(こころ)未だ多からじ
いつも通った乗輿の列は もう見られない
真夜中に 幽魂のむなしい哭き声を聞く
傾国の美女の車 美貌は二度とかえらず
苑池の水は 宮殿の影を映して揺れるのみ
死に臨んで 華亭の鶴の鳴き声を思い出し
宮中を憂えて 老人は駱駝の像に涙する
天は荒れ 地は変じ 心は砕けても
春のようなあの方の 死の痛みには比べられない

 開成四年八三九の春に流入して秘書省校書郎正九品上になっていた李商隠は、ほどなく虢かく州弘農県河南省霊宝県の県尉に異動します。
 これは左遷ではなく、流入した官吏はしばらく中央の部署を経験したあと、地方の県尉に出されるのが通例でした。弘農県は長安と洛陽の中間にある県ですので、むしろ順当な転勤といえます。
 ところが李商隠は、弘農県で重要な挫折を味合うことになります。李商隠は県尉としての職権で弘農県の獄内にいた囚人の死罪を免じました。
 この措置が陝虢観察使孫簡そんかんの譴責を受けることになり、李商隠は腹を立てて辞表を提出します。孫簡にかわって八月に陝虢観察使になった姚合ようごうは李商隠を慰留しますが、李商隠は辞表を撤回せずに県尉をやめ、長安にもどってしまいます。
 開成四年は文宗の病が重くなった年で、十月に敬宗の六男、陳王李成美りせいびが皇太子に立てられました。この擁立を推進したのは牛党でしょう。
 翌開成五年の正月、文宗の病が悪化すると、宦官の仇士良、魚宏志らは詔書を偽って頴王李炎りえんを太弟太子とし、皇太子李成美をもとの陳王にもどしてしまいました。天子擁立の政争です。文宗はその月のうちに崩じ、二十六歳の太弟太子李炎が即位して武宗となります。
 武宗は文宗の弟ですから敬宗を含めて穆宗の皇子が三代つづけて天子になったことになります。皇統からすると皇位は成人になっていた敬宗の系統から立てるのが正当ですので、武宗の即位は異例でした。
 武宗は即位するとすぐに文宗の愛妃楊賢妃ようけんひ、陳王李成美、安王李溶りように死を命じ、政権の威厳を示します。
 李商隠は楊賢妃のあわれな運命に涙して詩を作りました。
 曲江は安史の乱後、荒れ果ていましたが、文宗はそれを修復して寵妃楊賢妃を伴なってしばしば曲江に遊びました。
 甘露の変後は行幸も止んでいましたが、詩の前半はかつての楊賢妃の華やかな生活が二度ともどって来ないことを嘆きます。頚聯の「華亭に唳鶴を聞きしことを」は三国呉の陸機りくきの故事を踏まえており、呉の滅亡後、晋に仕えていた陸機は八王の乱のときに敗れて陣中で処刑されます。
 詩句は陸機の死に臨んでの歎きの言葉を指しています。「王室を憂えて銅駝に泣く」は晋の五行学者索靖さくせんの故事を踏まえています。
 「銅駝」は洛陽の王宮の南を東西に走る街路の名で、その十字路に青銅の駱駝の像が一対立てられていました。
 索靖は天下大乱を予見して銅駝の前で涙を流したといいます。李商隠もやがて乱れた世が来るのではないかと予想して、たとえ天変地異が起ころうとも楊賢妃の死を悼む心に比べたら何ほどのこともないと詠うのでした。


    贈劉司戸蕡       劉司戸蕡に贈る 李商隠

   江風揚浪動雲根   江風こうふうは浪を揚げて雲根うんこんを動かし
   重碇危檣白日昏   重い碇いかり 危い檣ほばしら 白日昏くら
   已断燕鴻初起勢   已に断つ 燕鴻えんこう初めて起つの勢せい
   更驚騒客後帰魂   更に驚かす 騒客そうきゃくのちに帰るの魂こん
   漢廷急詔誰先入   漢廷の急詔きゅうしょう 誰か先ず入る
   楚路高歌自欲翻   楚路そろの高歌 自おのずから翻えらんと欲す
   万里相逢歓復泣   万里 相い逢いて歓よろこび復た泣く
   鳳巣西隔九重門   鳳巣ほうそうは西に隔へだつ 九重きゅうちょうの門
風は大河の浪を巻き上げ 雲の根元を揺り動かす
重い碇 高い帆柱は揺れ 白日は陰っている
君は燕を出て 国家に役立とうとしたが翼は折れ
遂には 屈原の魂を驚かす事態となった
漢の朝廷は 賈誼を措いて誰を招こうとするのか
楚狂接輿の高歌も 虚しく空に飛び散るだけだ
遇えて歓んだのも束の間 万里の別れに涙を流す
朝廷は西に隔たり 九重の門は固く閉ざされている

 天子が変われば必ず政変が起こります。
 四月になると、武宗は淮南節度使の李徳裕りとくゆうを都に呼びもどして、吏部尚書同中書門下平章事に任じました。
 宰相になったわけで、牛党から李党への政権交替です。
 李商隠はこうした政変劇を横目で見ながら、人影もまばらな曲江のあたりを散策していたのでしょう。
 しかし、家族をかかえて無職のまま長安で生活するのは困難です。
 李商隠は夏になると済源せいげんの家を処分して、長安郊外の樊南はんなん:樊川の南の地に家を移しました。
 一方、李徳裕は秋八月になると門下侍郎を兼務し、それまで門下侍郎であった楊嗣復ようしふくは潮州広東省潮安市刺史に貶謫されます。
 劉蕡りゅうふんが柳州広西壮族自治区柳州市の司戸参軍しこさんぐんに流されたのも、同じ時期であったと思われます。劉蕡は宝暦二年八二六の進士で、李商隠よりも十一年の先輩に当たります。劉蕡は文宗期にあって宦官の専横を激しく論難し、硬骨正義の士として有名でした。
 李商隠が劉蕡と知り合ったのは、令狐楚の招きに応じて興元府に赴いたときであり、そのとき劉蕡も令狐楚の幕下にいたのです。
 劉蕡の柳州赴任に際し、李商隠は送別の詩を贈ります。
 首聯の二句は、今回の政変を比喩的に言うものでしょう。劉蕡は幽州昌平北京市昌平県の出身でしたので、「燕鴻初めて起つの勢」と詠います。
 そして湖南のさらに南の柳州に流されることになったので、「騒客後に帰るの魂」と言います。「騒客」とは楚辞「離騒」の作者屈原のことで、追放されて湖南をさまよった屈原の魂を呼び起こすような事態になったというのです。
 「漢廷の急詔 誰か先ず入る」というのは漢の文帝が長沙に流されていた賈誼かぎを呼びもどした故事を指し、賈誼ほどの人物を措いて誰を呼びもどそうとするのかと問うのです。「楚路の高歌」は『論語』微子篇にみえる有名な故事で、楚狂接輿せつよが孔子に向かって歌った歌をさします。
 その歌も空中に飛び散ってしまったと李商隠は嘆くのです。
 問題は「万里 相い逢いて歓び復た泣く」の解釈ですが、万里を「逢いて歓び」にかけると、李商隠が柳州に訪ねていったことになり、「復た泣く」にかけると劉蕡との別れを悲しんで泣くことになります。ここでは後者でしょう。
 「鳳巣」は宮廷のことで、湖南に去る者を見送るときは、長安の東郊まで出かけていって送別します。
 だから宮廷は西にあって九門は閉ざされていることになるのです。


      日日           日日 李商隠

   日日春光闘日光   日日ひびに春光しゅんこう 日光を闘たたかわわす
   山城斜路杏花香   山城さんじょうの斜路しゃろ 杏花きょうかかぐわし
   幾時心緒渾無事   幾時いくときぞ 心緒しんしょすべて事こと無く
   得及遊糸百尺長   及ぶを得んや 遊糸ゆうしの百尺ひゃくせきの長きに
日ごとに春は深まり 万物は光と競う
山塞につづく坂道の 杏の花は香しい
胸にからまる情念は いつになったら解けるのか
空に漂う糸のような のどかな日々は来るのだろうか

 このころの李商隠の動静には不明の部分がありますが、樊南への転居後は、ときどき長安に出かける程度の生活ではなかったかと思われます。
 李商隠の作品は、制作年の特定できないものがほとんどですが、この時期にふさわしいと思われる詩を五首ほど掲げてみます。詩題の「日日」は冒頭の二字を取っていますので、無題と考えていいでしょう。
 詩はまず起承の二句で春の日の豊かさを詠います。「山城の斜路」は山の塞とりでから下りる路で、路傍に杏あんずの花が咲いています。
 しかし、転結句では一転して「心緒」心の糸、とぎれない情念にからめ取られている自分が、いつになったら風になびく「遊糸」空中にただよう蜘蛛の糸、もしくは蜉蝣のように自由になれるだろうかと歌っています。
 李商隠は人の情念の深さに思いを致しているのですが、それが恋の情念なのか、官途、つまり世に出ることへの情念なのかは分かりません。


      柳            柳 李商隠

   曾逐東風払舞筵   曾かつて東風とうふうを逐い 舞筵ぶえんを払う
   楽遊春苑断腸天   楽遊らくゆうの春苑しゅんえん 断腸だんちょうの天
   如何肯到清秋日   如何いかんぞ 肯あえて清秋せいしゅうの日に到り
   已帯斜陽又帯蝉   已に斜陽を帯び 又た蝉を帯ぶ
かつて春風になびき 舞姫の席をはらった枝
春たけなわの楽遊原 無限の空が胸にせまる
その柳がどうしてか 清らかな秋を迎え
沈みゆく夕陽の中で 蝉の鳴き声に満ちている

 李商隠は詠物詩も多く作っていますが、制作年の特定できない作品がほとんどです。「柳」と題する詩は五首もありますが、この詩では春の柳と秋の柳を対比して詠っています。柳は曲江に近い楽遊原の柳です。春風に吹かれた柳の枝は、柳の下での野宴で舞う舞姫の姿をかすめますが、秋になると、柳は「斜陽」を浴びて、秋蝉の弱々しい鳴き声だけが纏いついています。
 李商隠は柳に託して唐朝の凋落を悲しんでいるようです。

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