楽遊原      楽遊原 李商隠

向晩意不適   晩くれに向なんなんとして意こころかなわず
駆車登古原   車を駆って古原こげんに登る
夕陽無限好   夕陽せきよう 限り無く好
只是近黄昏   只だ是れ 黄昏こうこんに近し

日暮れになると 気分がめいり
馬車を駆って 楽遊原に登る
沈む夕陽は 限りなく美しいが
黄昏もまた ひたすらに迫ってくる

 李商隠は杜牧より九歳ほど若く、もっとも晩唐的な詩人と言えます。
 九歳ほど若いと書きましたが、李商隠は生年が不明で、ここでは一応、元和六年八一一の生まれとしておきます。
 文宗が即位した宝暦二年八二六十二月に、李商隠は十六歳であり、この年、「才論」「聖論」という古文を著して名を知られるようになりました。
 李商隠の文人としての人生は、文宗・武宗・宣宗の三代に亘ることになりますが、宣宗の時代は政事に成すところなく、唐朝は衰退の度を深めてゆくだけでした。李商隠の五言絶句「楽遊原」らくゆうげんからは、深い愁いとともに唐朝滅亡への予感が伝わってきます。
 楽遊原は長安城内の東南部にある高台で、「古原」と言っているのは、ここが漢の武帝のころから都人遊覧の地であったからです。
 盛唐のころには曲江につぐ華やかな場所でしたが、安史の乱後は訪れる人も稀になり、さびれた野原になっていました。
 李商隠はかつての遊楽の地に立って、西空に沈みゆく夕日を眺めています。
 城内を照らす夕陽ゆうひは限りなく美しいのですが、詩人の心は、そこに確実に忍び寄る時代の黄昏たそがれの色をみています。


      錦瑟          錦瑟 李商隠

   錦瑟無端五十絃   錦瑟きんしつはし無くも五十絃げん
   一絃一柱思華年   一絃いちげん一柱いつちゅう 華年かねんを思う
   荘生暁夢迷胡蝶   荘生そうせいの暁夢ぎょうむ 胡蝶こちょうに迷い
   望帝春心托杜鵑   望帝ぼうていの春心しゅんしん 杜鵑とけんに托たく
   滄海月明珠有涙   滄海そうかい 月明らかにして 珠しゅ 涙有り
   藍田日暖玉生烟   藍田らんでん 日暖かにして 玉ぎょくけむりを生ず
   此情可待成追憶   此の情じょう 追憶を成すを待つ可けんや
   只是当時已惘然   只だ是れ 当時 已すでに惘然ぼうぜんたり
錦に彩る美しい琴 なぜかそれは五十絃の琴だ
その一絃一柱から 華やかだった愛の年月がよみがえる
荘周の胡蝶の夢は 本当だったかと目覚めて迷い
望帝の恋する心は 死んで地を吐くほととぎすとなる
滄海を月が明るく照らすなか 人魚の涙は真珠となり
藍田山の暖かい日差しのなか 呉姫は玉となり煙と消える
この切なる憶いも やがて追憶となる日が来るのだろうか
そのときすでに 茫然として定かでなかったことが

 「錦瑟」は李商隠の詩集本来の編次では巻頭に置かれ、李商隠の代表作とみられています。李商隠には「無題」と題する作品が幾つもあり、ほとんどが恋愛の詩とみられています。
 「錦瑟」は一見して詩題のようにみえますが、詩の冒頭の二字を取って題としたものであり、実質的には無題と言えるものです。
 唐代にあっては、この種の詩は秘すべきものであり、士人が本気になって詠うものではありませんでした。その秘すべきものを真剣に表現しようとするために、李商隠の詩はおのずから難解になります。
 錦瑟は錦のような彩りを施した大琴ですが、ほかの詩では亡き人の遺品として語られています。「無端」は格別の理由もなくという意味で、詩を不確かな領域に誘い込むために李商隠が好んで用いる語です。瑟はもともと五十絃の楽器でしたが、その音色があまりにも悲しかったために、泰帝伏羲たいていふぎが半分の二十五絃に減らしたという伝説があります。
 だから「端無くも五十絃」というのは、瑟にまつわる悲しみを暗喩するもので、その悲しい出来事は「華年」青春時代に起きたものです。
 瑟によって華やかな青春の日々を思い出し、瑟の「一絃一柱」にかつての愛の出来事を想うのです。つづく四句は、瑟が呼び起こす思い出を比喩を用いて幻想的に描いています。それぞれが故事を踏まえていますので、詳しく説明すると相当に長くなりますので簡単にヒントだけを記しましょう。
 「荘生」は『荘子』に出てくる胡蝶の夢、「望帝」は蜀王杜宇とうの伝説、「滄海」の句は南海の真珠にまつわる伝説、「藍田」の句は呉の王女紫玉しぎょくにまつわる悲恋の物語を踏まえています。
 四句は二聯の対句をなしていて、共に愛の純粋を詠うものです。
 尾聯の二句は結びで、詩は現実に引きもどされます。
 「此の情」が過去の情か、現在の情かは議論のあるところですが、川合康三氏は未来に対する現在の不確かな思いを述べていると解しています。
 自分の心にさえ確信を抱くことができない。
 自分の思いはすでに「惘然」茫然自失のようすとしたものであったと、すべてを不確かなものに溶け込ませてゆく。
 それが李商隠の詩の世界であると言えるでしょう。
 形象と悲傷は渾然一体となって、詩的修辞の世界に昇華してゆくのです。


柳枝五首 其一 柳枝 五首 其の一 李商隠

花房与蜜脾   花房かぼうと蜜脾みつひ
蜂雄蛺蝶雌   蜂の雄おすと蛺蝶きょうちょうの雌めす
同時不同類   時ときを同じくするも類るいを同じくせず
那復更相思   那なんぞ復た更に相い思わんや
花の子房と蜜蜂の巣
雄の蜂と雌の蝶
生まれた時は同じでも 種類が異なる
だからまた 愛し合うすべもないのだ

 李商隠は祖父も父も地方の官署を転々と異動して、最後は県令どまりで官を終える寒門の家の生まれでした。李商隠は父親の転勤に従って各地を転々としながら幼少期を過ごしますが、十一歳のときに父親を亡くし、祖父が住んでいた鄭州滎陽けいよう:河南省滎陽県にもどって喪に服します。
 父の喪が明けた十三歳のとき、洛陽に出て勉学に励みます。
 李商隠の若いころの作品の多くは失われていると思われますが、「柳枝 五首」には長文の序が付いており、洛陽の若い娘との別れを反映する詩であることが分かります。「柳枝」りゅうしというのは洛陽にいた娘の名です。柳枝の父親は豊かな商人でしたが、旅中に湖上で風雨に遭って亡くなります。
 柳枝は十七歳になっても、化粧もほどこさずに外に出て、草花と興ずるような無邪気な乙女でした。琴や笛にも長じていましたが、掴みどころのない性格がわざわいして嫁に迎える者がいません。
 李商隠の従兄弟の譲山じょうざんは柳枝の家の近くに住んでいて、ある春の日に李商隠の「燕台詞」えんだいしを口ずさんでいますと、柳枝がそれを聞いて、「どなたがお作りになった詩ですか」と尋ねます。譲山が答えると、柳枝は自分の帯を断ち切って結び目をつくり、その方に贈ってほしいと頼みました。
 翌日、李商隠が譲山と馬を並べて小路から出ると、柳枝はすっかりおめかしをして扉の前で揖ゆうしました。そして「三日後に、わたしは水辺にいって禊みそぎをします。あなたもご一緒しませんか」と誘いました。
 李商隠は承諾しましたが、たまたま一緒に都へ行くことになっていた友人が、ふざけて李商隠の荷物をこっそり持って行ってしまいました。
 李商隠は柳枝との約束を果たせませんでした。
 冬になって譲山が雪のなかを都にやってきて、「柳枝は東方の諸侯に連れていかれてしまった」と告げました。翌年、譲山が東へ行くことになったので、李商隠は詩を託して柳枝の旧居に書きつけるように頼んだといいます。
 それが「柳枝 五首」です。
 其の一の詩では、花と蜜蜂の巣、雄蜂と雌蝶は同じ春に生を享けても、種類が違うので「相思」相手を思うことができないと詠います。
 身分が違う男女は想いを通わすことができないと嘆いているのです。


柳枝五首 其二 柳枝 五首 其の二 李商隠

本是丁香樹   本もとより是れ丁香ていこうの樹
春条結始生   春条しゅんじょうけつ 始めて生ず
玉作弾棋局   玉ぎょくもて弾棋だんきの局きょくを作るも
中心亦不平   中心ちゅうしんた平らかならず
あなたはもともと丁子の樹
春の小枝に蕾をつける
玉で作った弾棋の盤も
真ん中は平らではなく 盛り上がっている

 詩中の「結」は花の蕾つぼみのことで、春心恋情のきざすときをいいます。
 「弾棋」は碁盤のようなものですが、中央が丸く盛り上がっていて、両端から駒を弾いて相手の駒に当てる遊びです。
 「中心 亦た平らかならず」は弾棋の形状をいうと同時に、恋に障害があって心中平らかでないことを言うのでしょう。
 恋には苦悩がともなうことを暗喩していると思われます。


柳枝五首 其三 柳枝 五首 其の三 李商隠

嘉瓜引蔓長   嘉瓜かかつるを引くこと長く
碧玉冰寒漿   碧玉へきぎょく 寒漿かんしょう氷る
東陵雖五色   東陵とうりょう 五色ごしきと雖いえど
不忍値牙香   牙香がこうに値うに忍しのびず
瓜の蔓は 勢いよく伸びてめでたい
碧い実は 口にひんやりと心地よい
東陵の瓜は 五色に輝くというが
噛んで香りを散らすのはしのびない

 瓜は蔓がよく伸びることから、中国ではめでたい植物とされています。
 だから「嘉瓜」というのです。また「瓜」の字は八の字ふたつに分解できますので、十六歳を意味し、「碧玉破瓜の時」といって女性の年ごろに喩えます。
 転句の「東陵」は秦の東陵侯邵平しょうへいの故事を踏まえており、邵平は秦が滅亡したあと布衣ほいの身となり、長安の門の東で瓜を栽培していました。
 その瓜は美味で有名でしたので、「牙」噛むのは惜しいと言っています。
 眺めるだけにしておこうという意味を含んでおり、十六歳の少女をいとおしむ気持ちをあらわすものでしょう。


柳枝五首 其四 柳枝 五首 其の四 李商隠

柳枝井上蟠   柳枝りゅうし 井上せいじょうに蟠わだかま
蓮葉浦中乾   蓮葉れんよう 浦中ほちゅうに乾く
錦鱗与繍羽   錦鱗きんりんと繍羽しゅうう
水陸有傷残   水陸すいりく 傷残しょうざん有り
柳の枝は 井戸のほとりでうずくまり
蓮の葉は 入江のほとりで枯れている
錦のような魚 刺繍のような羽根の鳥
水の中でも陸の上でも 傷ついている

 詩の冒頭にある「柳枝」は序に出てくる洛陽の娘の名で、詩は娘が不幸な運命に陥っていることを暗示するものであろう。
 李商隠は娘が東方の諸侯に連れ去られたことを悲しんでいる。


柳枝五首 其五 柳枝 五首 其の五 李商隠

画屏繍歩障   画屏がへい 繍歩障しゅうほしょう
物物自成双   物物ぶつぶつおのずから双そうを成す
如何湖上望   如何いかんぞ 湖上に望めば
只是見鴛鴦   只だ是れ鴛鴦えんおうを見る
絵のある屏風 刺繍の歩障
物はみな一組になっている
なんと湖上を眺めると
そこにもまた つがいの鴛鴦がいる

 「画屏」は絵の描いてある屏風であり、「繍歩障」は晋の石崇せきすうと王愷おうがいの贅沢競争の説話として有名です。歩障は外を歩くときに他から見えないように路の両側に張る幔幕のことで、画屏も歩障も二枚一組で用いるものであることから「双を成す」と言っています。ふと湖上を見ると、鴛鴦おしどりもつがいで泳いでおり、李商隠は柳枝と結ばれなかったことを悲しんでいます。


     随師東         随師東す 李商隠

  東征日調万黄金  東征とうせい 日に調ちょうす 万黄金まんおうごん
  幾竭中原買闘心  幾ほとんど中原ちゅうげんを竭つくして闘心を買う
  軍令未聞誅馬謖  軍令ぐんれい 未だ聞かず 馬謖ばしょくを誅するを
  捷書唯是報孫歆  捷書しょうしょ 唯だ是れ孫歆そんきんを報ず
  但須鸑鷟巣阿閣  但だ鸑鷟がくさくの阿閣あかくに巣くうを須
  豈暇鴟鴞在泮林  ()鴟鴞(しきょう)泮林(はんりん)に在るに(いとま)あらんや
  可惜前朝玄菟郡  惜しむ可し 前朝ぜんちょうの玄菟郡げんとぐん
  積骸成莽陣雲深  積骸せきがいもうを成して 陣雲じんうん深し
東方遠征のために 日に一万金を費やし
中原の富を尽くして 兵士の戦意をあおる
だが泣いて馬謖を斬るほどに 軍令の厳しさはなく
勝利の報せは孫歆の首を取ったと嘘ばかり
必要なのは 鸑鷟のような人物が朝廷に集まること
鴟鴞のような逆賊を 教化するゆとりがあろうか
残念ながら 漢王朝が開いた玄菟郡
そこには屍が積み重なり 戦雲が深く垂れこめている

 文宗の大和三年八二九三月、令孤楚れいこそが検校兵部尚書正三品東都留守となって洛陽に赴任してきました。東都留守というのは洛陽の長官です。
 十九歳になっていた李商隠は令孤楚の知遇を得て、令孤楚の次男令孤綯れいことうの学友に選ばれました。令孤楚は唐初の重臣令孤徳棻れいことくふんの後裔であり、このとき六十四歳、宰相も務めたことのある官界の重鎮でした。
 その息子の学友になったことで、李商隠の人生は令孤綯の人生と複雑に絡み合っていくようになります。
 同じ年の十一月、令孤楚は検校右僕射従二品天平軍節度使・鄆曹濮観察使になって鄆州うんしゅう:山東省東平県に赴くことになりました。
 李商隠は節度使の巡官に辟召へきしょうされ、鄆州ゆきに従います。
 これが李商隠が官界に足を踏み入れた最初です。李商隠は鄆州に行ったとき、滄州そうしゅう:河北省滄県の戦乱の跡を目撃したと思われます。この乱の征討は文宗の大和元年に始まったもので、大和三年に終わっていますので、令孤楚の鄆州派遣は、乱後の治安回復のためであったかもしれません。
 詩題の「随師ずいし東す」は「師に随いて東す」と読むこともでき、隋の煬帝ようだいの高句麗征討と滄州の乱が二重写しになって描かれていると解することができます。詩の頷聯と頚聯では故事を用いて軍規の厳正と人材登用の必要性を詠っていますが、詳しい説明ははぶきます。
 尾聯の「玄菟郡」は漢の武帝が朝鮮の地に置いた四つの郡のひとつで、隋の高句麗遠征のときに戦場となりました。
 漢代には中国の一部であった地に戦死者の遺骸がうず高く積り、殺気を孕んだ雲が深く垂れ込めていると、李商隠は河朔かさくの地がいまだ充分には唐朝に服していない現実を憂えています。


  鸞鳳        鸞鳳 李商隠

旧鏡鸞何処   旧鏡きゅうきょうらんは何処いずこ
衰桐鳳不棲   衰桐すいどうほうは棲まず
金銭饒孔雀   金銭きんせん 孔雀くじゃくに饒ゆず
錦段落山鶏   錦段きんだん 山鶏さんけいに落つ
王子調清管   王子おうし 清管せいかんを調ちょう
天人降紫泥   天人てんじん 紫泥しでいを降くだ
豈無雲路分   豈に雲路うんろの分ぶん無からんや
相望不応迷   相い望みて応まさに迷うべからず
古びた鏡 鸞はどこへ行ってしまったのか
衰えた梧桐の木に 鳳凰は棲みつかない
孔雀には 銭のような模様があり
山鶏は錦のようだが 鳳凰にはそれがない
王子喬は笛を吹いて 鳳凰を呼び寄せ
天子は紫泥を下して 賢者を招く
雲上の路へと進む方法は きっとある
それを見据えて 迷ったりしてはならないのだ

 翌大和四年八三〇の春、二十歳になった李商隠は令孤綯とともに都に上り、進士科の試験を受けました。
 結果は令孤綯は及第し、李商隠は落第でした。嬉しそうな令孤綯の側で、李商隠は寒門の悲哀を噛み締めたことでしょう。
 「鸞鳳」らんぽうの詩では失望が語られ、失望にもかかわらず将来に希望はあると気を持ち直しています。首聯の「鸞」は鳳凰の雛とも言われ、鏡に映った自分の姿を見て死ぬまで鳴きつづけたといいます。
 「鳳」は梧桐ごとうの木に棲むとされていますが、衰えた梧桐には棲みつかないと、朝政の衰退を嘆いています。
 頷聯では表面の華やかさにおいて、鳳凰は孔雀や山鶏やなどりに及ばないといい、頚聯では仙人の王子喬おうしきょうが笙笛の一種を吹いて鳳凰を呼び寄せ、天子は紫泥で封じた詔書によって賢者を招くと詠います。人は見かけよりも内実の誠によって評価されるべきであると主張するのです。
 そして尾聯では、雲上朝廷への路へ進む方法はきっとあると自分に言い聞かせ、将来への希望をつないで結ぶのです。


      牡丹           牡丹 李商隠

   錦幃初巻衛夫人   錦幃きんい 初めて巻く 衛夫人えいふじん
   繍被猶堆越鄂君   繍被しゅうひお堆うずたかし 越の鄂君がくくん
   垂手乱翻雕玉珮   手を垂れて乱れ翻る 雕玉ちょうぎょくの珮はい
   折腰争舞鬱金裙   腰を折りて争い舞う 鬱金うつこんの裙くん
   石家蝋燭何曾翦   石家せっかの蝋燭 何ぞ曾かつて翦りし
   荀令香炉可待熏   荀令じゅんれいの香炉 熏かおるを待つ可けんや
   我是夢中伝彩筆   我れは是れ 夢中むちゅうに彩筆さいひつを伝う
   欲書花葉寄朝雲   花葉かように書して朝雲ちょううんに寄せんと欲す
錦の帳が巻き上げられ 姿をあらわす衛の霊公夫人南子
刺繍の夜具で包みこみ 越の男をこんもりと抱く楚の鄂君
舞の手に調子を合わせ 乱れて揺れる雕玉の珮
腰で裳裾をくねらせて あたりに漂う鬱金の馨
石崇の蝋燭は 芯を切らずにまばゆく輝き
荀彧の香炉は 香を焚かなくても芳ばしい
私は夢の中で 筆の力を授かった江淹のような者
この花と葉に詩を書きつけて 巫山の朝雲に捧げたい

 進士になっても任官するには吏部試を受ける必要がありますので、令孤綯と李商隠はそのまま都に滞在していました。
 長安の開化坊にあった令孤楚の邸ではしばしば宴会がひらかれ、李商隠も席に列なることが多かったようです。
 令孤綯は大和五年の春に吏部試に及第して弘文館校書郎正九品上になりますので、二人は引きつづき都ぐらしです。令孤楚の邸の庭苑には見事な牡丹園があったらしく、「牡丹」の詩はそれを詠ったものです。この七言律詩は首聯・頷聯・頚聯がそれぞれ対句になっており、しかも各句は故事を用いた比喩によって牡丹の姿かたちを描くという凝った作品になっています。
 故事についてはいちいち説明すると長くなりますので略しますが、できるだけ訳に盛り込んでおきました。一説では宴席に侍る妓女をからかって作ったとも言われ、いずれにしろ宴席の座興として主人の家の牡丹、もしくは妓女を褒めるものですから阿諛的な詩といえます。
 尾聯の「夢中に彩筆を伝う」にも「朝雲」にも故事があり、若いころの李商隠の才気がいかんなく発揮された作品といえるでしょう。


   有感二首 其一 感有り 二首 其の一 李商隠

   九服帰元化   九服きゅうふく 元化げんかに帰し
   三霊叶睿図   三霊さんれい 睿図えいとに叶かな
   如何本初輩   如何いかんぞ 本初ほんしょの輩やから
   自取屈氂誅   自ら取る 屈氂くつりの誅ちゅう
   有甚当車泣   車に当たりて泣かしむるより甚だしき有るも
   因労下殿趨   因りて殿でんを下りて趨はしるを労せしむ
天下は隈なく 天子の大いなる徳に服し
天地の三霊も 叡慮の存するところと違わない
それがあらぬか 袁紹のような輩があらわれて
みずから策して 劉屈氂と同様の誅滅を招く
昔天子の車から 宦官を引きずり下ろした者はいる
ところが今度は 天子が宮殿を下りて逃げまわる

 大和六年八三二二月、令孤楚は太原尹北都留守になり、河東節度使を兼ねて太原山西省太原市に移ることになりました。
 李商隠は令孤楚の幕下に従って太原に行きます。
 ところが翌大和七年六月になると、令孤楚は検校右僕射従二品兼吏部詔書に任ぜられて都にもどることになります。
 進士に及第していない李商隠は中央の官に就くことはできませんので、幕府を辞して故郷の滎陽けいよう:河南省滎陽県に帰りました。
 令孤楚がこのように次々と任地を変えるのは、当時熾烈を極めていた牛李の党争のせいと思われます。滎陽にもどった李商隠は、鄭州刺史蕭瀚しょうかんの知遇を得て華州陝西省華県刺史崔戎さいじゅうに紹介されます。翌大和八年834の春、李商隠は再度貢挙に挑みますが、またも落第してしまいました。
 そのとき華州刺史の崔戎が兗海観察使になって兗州山東省兗州市に赴任することになりましたので、辟召されて兗州に行きました。
 ところが兗州に着くとすぐに崔戎が亡くなってしまいましたので、李商隠は再び失職して滎陽にもどります。
 二十四歳になっていた李商隠は不安定な身分のままでした。そんななか、大和九年八三五十一月二十一日の早朝、都で大事件が起きました。
 史書に言う甘露の変です。李商隠はそのころ無職のまま滎陽と長安のあいだを行き来することが多かったので、甘露の変を都で見たかもしれません。
 「感有り 二首」は甘露の変に際会して感じたことを、翌年の開成元年八三六に詩に詠ったものです。
 甘露の変は、当時それを口にすることさえ危険な政事事件でした。
 李商隠がそれをあえて詩に詠ったということは、大変勇気のいることです。
 その反面、官吏としての地位のない李商隠は、世間の注目をあびた事件をあえて詩にすることによって、自分を売り込もうとしたとも考えられます。
 詩ははじめに天子の徳は天下にあまねく行き渡り、「三霊」日月星もしくは天地人も安穏であると、文宗の世を讃えます。
 三句目の「本初」は後漢末の豪雄袁紹えんしょうの字あざなで、袁紹は大将軍何進かしんと謀って宦官を皆殺しにしました。四句目の「屈氂」は漢の武帝の甥で、武帝を呪詛していると宦官に誣告され、腰斬の刑に処せられました。
 二句とも甘露の変の首謀者李訓りくんと鄭注ていちゅうになぞらえるものです。
 五句目は漢の文帝の故事を用いており、六句目は南朝梁の武帝にまつわる故事です。これらのくだりは、李訓・鄭注らが宮殿に攻め入ったとき、宦官の仇士良きゅうしりょうが文宗を宮殿から連れ出したことを示唆しています。

何成奏雲物   何ぞ成さん 雲物うんぶつを奏するを
直是滅萑蒲   直だ是れ萑蒲かんふを滅めつ
証逮符書密   証しょうとらえられ符書ふしょ密なり
詞連性命倶   詞つらなれば性命せいめいともにす
竟縁尊漢相   竟ついに漢相かんしょうを尊たっとぶに縁
不早弁胡雛   早つとに胡雛こすうを弁べんぜず
鬼籙分朝部   鬼籙きろく 朝部ちょうぶを分かち
軍烽照上都   軍烽ぐんぽう 上都じょうとを照らす
敢云堪慟哭   敢えて慟哭どうこくに堪うと云わんや
未免怨洪爐   未いまだ洪爐こうろを怨むを免まぬがれず
瑞兆がくだると なにを目的に奏上したのか
結果はあたかも 萑蒲の盗賊が滅びたようなものだ
証人まで逮捕せよとの 政府の命令
証言に名前が出れば 命をなくす
漢の宰相王商の再来と 信じたばかりに
胡の石勒のわざわいを 見抜くことができなかった
朝廷は 死者と生者に二分され
戦の烽火が 唐の都を照らし出す
その痛ましさは 泣き叫んでも叫びきれない
荒らぶる天地を 怨まずにはいられないのだ

 後半初句の「雲物」は雲のようすを見て吉凶を占うことで、李訓が宦官をおびき出すために甘露が降ったと奏上したことを指します。
 そのことが発端となって、「萑蒲を滅す」る事態になります。
 萑蒲は沼沢の名で、盗賊の棲みかとして有名でした。「証逮…」「詞連…」の二句は事件後の追求が厳しかったことを述べており、それも文宗が李訓を漢の宰相王商おうしょうの再来と信じたために起こったと詠います。
 「胡雛」は五胡十六国時代の石勒せきろくのことで、胡人の子であった石勒は後に後趙を興して天下に害をなしました。
 そんな子供の将来を見抜けなかったと嘆くのです。石勒の話は人物の将来を占うことのできなかった例として、当時しばしば用いられました。
 最後の四句は事件の惨禍を述べるもので、朝臣は死者と生者に二分され、都は戦乱の巷と化しました。無実であるのにそば杖をくらって死んだ者の悲しみは、いくら慟哭しても悲しみ足りないと嘆きます。
 「洪爐」は大きな溶鉱炉のことで、天地を意味し、すべてを熔かし尽くす天地を怨まずにはいられないというのです。


有感二首 其二 感有り 二首 其の二 李商隠

丹陛猶敷奏   丹陛たんへいお敷奏ふそうするに
彤庭歘戦争   彤庭とうていたちまち戦い争う
臨危対盧植   危あやうきに臨みて盧植ろしょくに対し
始悔用龐萌   始めて悔ゆ 龐萌ほうもうを用いしを
御仗収前殿   御仗ぎょじょう 前殿ぜんでんを収め
兇徒劇背城   兇徒きょうと 背城はいじょうに劇げき
蒼黄五色棒   蒼黄そうこうたり 五色ごしょくの棒
掩遏一陽生   掩遏えんえつす 一陽いちよう生ずるを
朱塗りの階に 甘露降るとの奏上があると
宮中の前庭は たちまち戦場と化した
危機に臨んで 漢の盧植のような忠臣に援けられ
帝ははじめて 逆賊龐萌を用いたことを後悔した
禁軍は 正殿を奪還したものの
賊徒は 追い詰められて激戦はつづく
五色の警棒が 振りまわされ
混乱は天に及び 春の到来も遅くなる

 其二の詩も、甘露の変の経過を追うことからはじまります。
 「丹陛…」の句は事の発端で、李訓は甘露が降ったと正殿含元殿の朱塗りの階きざはしで奏上します。
 君側にいる宦官を宮殿の外に誘い出して一網打尽にする計画でした。
 ところが、兵を伏せていることが甘露を確かめに出て来た宦官側に分かり、宦官たちは宮殿に引きかえします。
 事が破れたのを知った李訓は、宮殿に兵を入れて宦官たちを殺そうとし、「彤庭」正殿の前庭は戦場と化しました。三句目の「盧植」は後漢末の忠臣で、何進かしんが宦官を誅殺しようとしたとき、少帝を連れて逃げようとする宦官を追いかけて少帝を奪い返した人物です。
 李商隠の自注によると、甘露の変の夜、文宗は令孤楚らを宮中に召して善後策を講じたといいますので、「盧植」は令孤楚を意味し、「感有り 二首」は令孤楚に捧げた詩かも知れません。四句目の「龐萌」は後漢初期の人物で、はじめ光武帝に仕えて信任されましたが、後に叛して殺されました。文宗は事が破れてはじめて「龐萌」のような逆臣を用いたことを知ったと言っていますが、史書によると文宗は李訓らの企てをあらかじめ知っていたといいます。ここでは「龐萌」は李訓を指しています。
 以下の四句は、戦闘とその後の経過を述べており、「御仗」は宦官が掌握する禁中の兵のことです。禁軍は正殿を奪還しましたが、李訓の兵は「背城」、つまり城を背にして激戦がつづきます。「五色の棒」というのは三国魏の曹操が用いたもので、法を犯した者を取り締まることを意味しています。
 つまり乱に与したと見られる者の逮捕と処刑が行われ、そのために春の訪れも遅れたというのです。

古有清君側   古いにしえより君側くんそくを清むる有り
今非乏老成   今も老成ろうせいとぼしきに非あら
素心雖未易   素心そしんいまだ易かわらずと雖いえど
此挙太無名   此の挙きょはなはだ名無し
誰瞑銜寃目   誰か寃えんを銜ふくむ目を瞑めいせん
寧呑欲絶声   寧なんぞ絶えんと欲する声を呑まん
近聞開寿讌   近ごろ聞く 寿讌じゅえんを開きて
不廃用咸英   咸英かんえいを用いるを廃はいせずと
古来君側の奸を 一掃した例はあり
忠実な老臣は いまもいないわけではない
帝への忠誠心に 変わりはなくても
今度の一挙には 名分のかけらもない
罪なく殺された者は 目を閉じていられようか
消え入りそうな声を 黙って飲み込むことができようか
ところが近ごろ宮中では 天子の生誕の宴が開かれ
咸池・六英の歌舞音曲を 控えることもなかったと聞く

 其の二の詩の後半八句は、甘露の変に対する李商隠の感想です。「老成」は古くからの忠実な臣下を意味し、ここでは老臣の令孤楚を指しています。
 令孤楚が文宗を援けて、事件が帝の身に及ばないように適切な処置を行ったことを詠っているのです。今度の李訓らの一挙には何の名分もなく、事件に巻き込まれて罪なくして死んだ人々はどうして瞑目できようかと、多くの無実の人が宦官側に逮捕され処刑されたことを嘆きます。
 最後の二句は、事件後の宮中への批判であり、悲惨な事件があったにもかかわらず、宮中では天子の誕生日を祝う宴がひらかれ、「咸英を用いるを廃せずと」聞いていると言っています。
 「咸英」は古代の雅楽咸池かんちと六英りくえいのことで、無実の死者を悼むことなく、歌舞音曲が演じられていることを批判しているのです。


     重有感          重ねて感有り 李商隠

  玉帳牙旗得上游  玉帳ぎょくちょう 牙旗がき 上游じょうゆうを得たり
  安危須共主分憂  安危あんきすべからく主しゅと共に憂いを分かつべし
  竇融表已来関右  竇融とうゆうの表ひょうは已に関右かんうに来たり
  陶侃軍宜次石頭  陶侃とうかんの軍は宜よろしく石頭せきとうに次やどるべし
  豈有蛟龍愁失水  豈に蛟龍こうりゅうの水を失うを愁うる有らんや
  更無鷹隼与高秋  更に鷹隼ようじゅんの高秋を与ともにする無からんや
  昼号夜哭兼幽顕  昼号ちゅうごう夜哭やこく 幽顕ゆうけんを兼ね
  早晩星関雪涕収  早晩いつか 星関せいかんなみだを雪すすぎて収めん
官軍の幔幕 将軍の旗 高官となったからには
天子と心をいつにして 国家の安危を憂えねばならない
竇融の上書は 函谷関を越えて届いており
陶侃の軍勢は 石頭城に陣を布くべきだ
蛟龍が水を失う そのようなことがあってはならないが
猛禽は秋の空を わが物顔に飛びまわっている
真昼の号泣 闇夜の慟哭 生者も死者も泣いている
いつの日か天子の居所を 涙で濡れた手に取りもどしたい

 甘露の変で無実の人も多く殺され、変後の朝廷は仇士良きゅうしりょうら宦官の牛耳るところとなりました。この事態を重くみた昭義節度使の劉従諌りゅうじゅうかんは、開成元年三月、宰相王涯おうがいらは何の罪があって殺されたのかと問う上書を再三にわたって文宗に呈しました。当時は宦官の勢威に恐れをなして口をつぐむ者が多かったなかで、劉従諌の態度は勇気のあるものでした。李商隠はその態度に感じて詩を書きます。
 首聯の「玉帳 牙旗 上游を得たり」というのは節度使のことで、昭義節度使は潞州ろしゅう=山西省潞城県に使府を置いていました。頷聯の「竇融」は後漢の建国に功績のあった武将で、前漢末の混乱に乗じて帝を僭称した泰州甘粛省天水市の隗囂かいごうを攻めるように光武帝に進言しました。
 「陶侃」は東晋の蘇峻そしゅんの乱に際して、軍勢を石頭城江蘇省南京市の西郊に結集して都建康を奪還しました。李商隠は国家の危機に際して勇敢であった者の名を挙げて、劉従諌の勇気を讃えるのです。
 頚聯の「蛟龍」は天子を意味し、「鷹隼」は宦官の比喩でしょう。
 この異常な事態に、生きている者も死んでいる者も慟哭していると詠い、宦官に専断されている「星関」皇居をいつの日か奪い返したいと決意を述べます。
 このとき李商隠は二十六歳、進士にも及第していない一介の詩人でしたが、詩に比喩が多いのは、宦官批判の詩を書くことが非常に危険なことであったことを示しています。


      霜月           霜月 李商隠

   初聞征雁已無蝉   初めて征雁せいがんを聞き 已すでに蝉せみ無し
   百尺楼南水接天   百尺の楼南 水みず 天に接す
   青女素娥倶耐冷   青女せいじょ 素娥そがともに冷たきに耐え
   月中霜裏闘嬋娟   月中げっちゅう 霜裏そうり 嬋娟せんけんを闘わす
初雁の声を聞き 蝉の鳴き声は絶え
百尺の楼の南に 水は拡がって天につらなる
青女も嫦娥も 寒さに耐えて
月のなか霜の下 共にあでやかさを競い合う

 開成元年四月、令孤楚は興元尹・山南西道節度使になって興元府陝西省南鄭県に赴任することになりました。
 李商隠はこれに従わず、母を伴なって済源河南省済源県に居を移します。
 済源は黄河の北、玉陽山の麓にあり、居を移したのは玉陽山の道観にある書巻を読むためでしょう。
 李商隠は改めて勉学に努める気持ちであったと思われますが、このとき道観の女道士と恋愛関係になったという説もあります。
 「霜月」そうげつは制作年不明の詩ですが、嫦娥じょうがが出てくる詩は他にもあり、恋の詩と見られています。
 霜月は月の名ではなく、霜の降る寒い夜の月という意味です。
 当時、霜は空中から降りてくると考えられていました。起句に出てくる「蝉」は孟秋、「雁」は仲秋の景物ですので、詩は秋八月ころの作品でしょう。
 高さ百尺の高楼があって、その南に大河、もしくは広い池があります。
 転句の「青女」は霜や雪を司る女神であり、「素娥」は嫦娥姮娥ともいうのことで、月の女神です。この二人の神女が寒さに耐えて「嬋娟を闘わす」というのですから、季節の比喩のようでもあり、自分に冷たい女性を「青女」と「素娥」に喩えたとも思われます。

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