歎花           花を歎く 杜牧

  自恨尋芳到已遅  自ら恨む (ほう)を尋ねて 到ること(はなは)だ遅きを
  往年曾見未開時  往年曾かつて見る 未だ開かざるの時
  如今風擺花狼藉  如今じょこん 風擺ふるいて 花狼藉ろうぜきたり
  緑葉成陰子満枝  緑葉りょくようかげを成して 子 枝に満つ
かつてみそめた美しい花 花の蕾を
年へて尋ねると 恨みは深い
風は吹き荒れて 無残に花は散り
緑の葉陰に 実がいっぱいついている

 この詩については『太平広記』に引く『唐闕史』につぎのような話が載せられているそうです。
「杜牧は宣州の幕中にいた若いころ、湖州に遊び、十余歳の美少女を見かけて、その母親に会い、結納金を渡して約束した。私は十年も経たないうちに、ここの長官州刺史となる。もし十年たっても来なかったならば、他の人に嫁がせてよいと。その後、諸州の長官を歴任し、ようやく湖州刺史になったときは、すでに十四年が過ぎていた。約束の娘は三年前に嫁ぎ、三人の子を生んでいた。そこで詩を賦つくりて曰く…」。
 この話のようなことがあったかも知れませんが、巷間の雑書に載せられたこの種のお話は作り話とみるのが無難でしょう。
 この詩は杜牧が自分自身のこと顧みて詠んだと考えるのが、湖州時代の杜牧ににふさわしいと思います。自分は若いときから詩に目覚め、生涯に作った詩は枝に満ちているが、「往年」の詩と比べてすぐれていると思う作品がどれだけあるだろうかと、「花狼藉」ともいうべき自分の生涯に憶いを馳せた作品と考えるのが適当でしょう。


     途中一絶        途中の一絶 杜牧

   鏡中糸髪悲来慣   鏡中きょうちゅうの糸髪しはつ 悲しみ来たるに慣
   衣上塵痕払漸難   衣上いじょうの塵痕じんこん 払うこと漸く難かた
   惆悵江湖釣竿手   惆悵ちゅうちょうす 江湖こうこ 釣竿ちょうかんの手
   却遮西日向長安   却かえって西日せいじつを遮りて 長安に向かうを
鏡のなかの 白髪頭の嘆きにも慣れ
染みついた浮世の塵も 払えないとわかってきた
それが何と 釣り竿になじんだ手を挙げて
西の陽ざしを遮りつつ 都長安へ向かうのだ

 大中五年の仲秋八月に、杜牧は考功郎中・知制誥に任命する告身を受け取ります。先の在京のときの員外郎から郎中になるのですから出世です。
 弟杜顗が亡くなってみれば、江南にとどまる理由もありませんので、杜牧は再び運河を伝い、秋の陽ざしの中を長安へ向かいます。
 杜牧は「衣上の塵痕 払うこと漸く難し」と悟っています。
 閑雅に暮らそうと思っていたけれども、それがまたもや長安をめざして舟行しているのです。隠棲は口でいうほど簡単ではありません。
 汴河のゆくて、西のかた長安はまぶしすぎると、釣り竿に馴染んだ手を挙げて、西日をさえぎるのでした。


     隋堤柳          隋堤の柳 杜牧

  夾岸垂楊三百里  岸を夾はさむ垂楊すいよう 三百里
  秖応図画最相宜  秖だ応まさに図画とがに 最も相宜あいよろしかるべし
  自嫌流落西帰疾  自ら嫌いとう 流落りゅうらく 西帰せいきの疾はやきを
  不見東風二月時  見ず 東風とうふう 二月の時
両岸にしだれ柳はつづく 数百里
絵にふさわしい 美しさ
志を遂げずに 西へ帰るのは残念だ
春二月の東風に 揺れる柳を見ないまま

 杜牧はこれまでに幾度か汴河を航行しましたが、春二月に通ったことは一度もありません。春になって芽吹くころの汴河の柳を見ることもなく終わったが、岸の柳もこれが見納めだろうと思いながら、「自ら嫌う 流落 西帰の疾きを」と嘆きます。船上に坐した杜牧を乗せて、舟はゆっくりと進み、冬のはじめに長安に着きました。


     歳日朝迴        歳日 朝より迴る 杜牧

  星河猶在整朝衣  星河せいがお在りて 朝衣ちょういを整え
  遠望天門再拝帰  遠く天門てんもんを望んで 再拝して帰る
  笑向春風初五十  笑って春風しゅんぷうに向かう 初めて五十
  敢言知命且知非  敢えて言わんや 命めいを知り 且つ非を知ると
星の瞬く夜明け前 礼服をまとって参内し
遥かに玉座を望み 二度跪いて帰ってきた
本日 私は五十歳 笑って春風に向かう
知命知非というが 聖人のようにはいかないものだ

 考功郎中は尚書省吏部考功曹の郎中で、杜牧ははじめて五品の品階を得ました。中国の王朝では、五品と六品との間に大きな身分の差があり、五品と四品は大夫たいふ、三品以上は卿けいと称します。
 六品までは士身分であり、五品以上は貴族の身分といえます。
 五品以上の官人については同居の親族にも公課租税と兵役が免除され、子孫は貢挙を経ずに官吏になれる特権があります。杜牧はさらに知制誥ちせいこうを帯びており、制誥は詔書や用命の草案を起草することです。
 制誥は中書舎人の重要な役目で、知とあるのはその見習いを仰せつかったことになります。
 才能があれば中書舎人に登用するという意味が含まれているのです。
 杜牧は着任すると、その冬、樊川の祖父の別墅を修復して、年来の望みを達しました。
 しかしこの年、宰相の周墀しゅうちが亡くなり、有力な理解者を失います。
 明ければ大中六年八五二の春、杜牧は五十歳になりました。
 新春元旦には大明宮の含元殿で荘重な元会げんかいの儀式が催されます。
 百官は星のまたたく早朝から儀式に参列し、天子を拝します。
 参内後、杜牧は帰宅しますが、帰宅したのはどの家でしょうか。
 杜牧は安仁坊の祖父の邸を回復したと言われていますが、はっきりしたことは分かりません。「知命」は孔子の「五十にして天命を知る」であり、「知非」は春秋衛の大夫遽伯玉きょはくぎょくの故事で、「年五十にして、四十九年の非有り」を指します。杜牧は自分の五十年の人生を省みて、聖人のように悟りきるのは難しいと春風の中で苦笑いするのでした。


 逢故人       故人に逢う 杜牧

年年不相見   年年ねんねん 相見あいみ
相見却成悲   相見れば 却かえって悲しみを成す
教我涙如霰   我をして 涙 霰あられの如く
嗟君髪似糸   君が髪の 糸に似たるを嗟なげかしむ
正傷攜手処   正に傷む 手を携たずさう処ところ
况値落花時   况たまたま値う 落花の時
莫惜今宵酔   惜しむ莫かれ 今宵こんしょうの酔い
人間忽忽期   人間じんかん 忽忽こつこつたる期なれば
幾年も会わずにいると
会えば却って悲しくなる
霰のように 涙はほとばしり
衰えた君の白髪が 嘆かわしい
連れだって歩くと 胸は痛むが
いままさに 落花の季節
今夜は おおいに飲もうではないか
人生は あっというまに過ぎ去るのだ

 大中六年八五二の二月、杜牧は弟杜顗の遺骨を揚州から郷里の万年県洪原郷陵の先祖の墓地に改葬しました。
 すでに妹と弟妹の家族は引き取っていたでしょう。
 それが家長としての務めです。
 晩春の落花の季節に、杜牧は街で「故人」旧知の友に出会いました。
 それが誰であるかは分かりませんが、「惜しむ莫かれ 今宵の酔い」と消渇しょうかちの疾であることも忘れて、おおいに飲みました。
 杜牧の揚州時代の友人韓綽かんしゃくは、その後の経歴が不詳ですが、杜牧が三十一歳から三十二歳のころ、揚州の妓楼でともに遊んだ仲間です。
 その韓綽と十八年振りに長安の街で再会したとも考えられます。


     哭韓綽         韓綽を哭す 杜牧

   平明送葬上都門   平明へいめいそうを送る 上都じょうとの門
   紼翣交横逐去魂   紼翣ふつしょう交横こうおうして 去魂きょこんを逐
   帰来冷笑悲身事   帰来きらい冷笑す 身事しんじを悲しむを
   喚婦呼児索酒盆   婦を喚び児を呼んで 酒盆しゅぼんを索もと
薄明かりの朝はやく 長安城門で葬列を送り
紼や翣は千々に乱れ 去りゆく君の霊魂を思う
帰宅して不遇を嘆き 苦い笑いを噛みしめ
大声で妻子を呼んで 大杯の酒を運ばせた

 長安で再会したのが韓綽であるとすれば、韓綽はほどなく死亡したことになります。というのも「上都の門」は都の城門ですから、韓綽は長安で亡くなったことになるからです。
 韓綽が長安にいれば、友人思いの杜牧は生前に会っているはずです。
 前回の詩「故人に逢う」に「正に傷む 手を携う処」とありますので、故人旧友は韓綽である可能性が高く、連れ立って歩くのも傷ましいほどにやつれていたのです。「紼翣」つな・はねかざりは柩車を引く綱と棺の両側に立てる羽根飾りのことで、葬列のさまを示しています。杜牧は不遇に終わった友の人生を思い、またみずからの人生を顧みて悲しむのです。だが、そういう自分の感情も気に入らず、そんな複雑な気持ちを払い除けようと、つい大きな声を出して妻子を呼び、大杯の酒をかたむけるのでした。


   秋晩与沈十九舎人期 遊樊川不至 杜牧
         秋の晩 沈十九舎人と期して 樊川に遊ばんとするも至らず

   邀侶以官解   侶ともを邀むかうも 官を以て解かれ
   泛然成独遊   泛然はんぜんとして 独遊どくゆうを成す
   川光初媚日   川光せんこう 初めて日に媚うるわしく
   山色正矜秋   山色さんしょくまさに秋に矜おごそかなり
   野竹疎還密   野竹やちくまばらに還た密しげ
   巌泉咽復流   巌泉がんせんむせびて復た流る
   杜村連潏水   杜村とそんは 潏水けつすいに連なる
   晩歩見垂鉤   晩くれに歩めば 垂鉤すいこうを見る
友を招いたが 仕事でだめと言ってきた
そこで気ままに ひとりでゆく
川の面に きらめく光
山の姿は おごそかに深まる秋の色
竹林は 疎らと思えば生い茂り
岩の泉は 咽ぶと思えば急流となる
潏水のほとり 下杜の村里よ
日暮れに歩めば 悠々自適の人に逢う

 杜牧はこのころ中書舎人正五品上に昇進しました。
 中書舎人は文士の極官と称され、政事の中枢に達したことになります。
 しかし、政事に対する往年の熱意も冷め、自分の病気が思わしくないことにも気づいていました。
 杜牧は仕事を休んで樊川の別墅に出かけることが多くなります。詩題の「沈十九舎人」は恩人沈伝師しんでんしの息子で、沈詢しんじゅんといいます。
 このとき杜牧と同じ中書舎人でした。
 杜牧は沈詢を野遊びに誘い、いっしょに出かける約束をしていましたが、沈詢は仕事が忙しくて行けなくなったと断ってきました。
 だからひとりで樊川はんせんに出かけたのです。
 朱坡のあたりは自然が豊かで、杜牧は下杜かとの村里の野径をゆっくりと歩きながら、秋の田園の美しい風景を描きます。
 日暮れになって、小川で釣り糸を垂れている人を目にしました。「垂鉤」は隠者の表象であり、杜牧はそうしたものに心惹かれる自分を描くのです。


     読韓杜集        韓杜の集を読む 杜牧

   杜詩韓筆愁来読   杜詩とし 韓筆かんぴつ 愁い来たりて読めば
   似倩麻姑癢処抓   麻姑まこに倩いて 癢かゆき処を抓くに似たり
   天外鳳凰誰得髄   天外てんがいの鳳凰 誰か髄ずいを得ん
   無人解合続弦膠   人の 解く続弦膠ぞくげんこうを合わす無し
寂しいときに 杜甫と韓愈の詩文を読めば
麻姑の手のように 痒いところにゆきとどく
天外にひそむ鳳凰よ その精髄を手に入れて
続弦膠を作れる者は もはやどこにもいないのだ

 都に帰った杜牧は、自分の詩文稿の整理を手がけていました。
 詩文は千百稿ほどあったといいますが、そのうち十分の二、三を残して、あとは焼却したといいます。精選した詩文稿を甥姉の子の裴延翰はいえんかんに託して、『樊川集』の編纂を依頼しました。
 十一月になると、杜牧は自分の墓誌銘を撰しました。その中に妻は「若干時先」に死んだとあり、妻裴氏は杜牧よりすこし前に亡くなったようです。
 十二月ごろ杜牧は安仁坊の自宅で病没したと史書は記しています。
 実は杜牧の正確な卒年月日は不明で、翌大中七年に五十一歳で亡くなったという説もあります。杜牧は杜甫のように戦乱に巻き込まれ、妻子をともなって流浪することもありませんでした。また、名門の出でしたので、寒門出身の韓愈のように任官に苦労することもありませんでした。しかし、官への流入の時期が、牛李の党争の最盛期にあたっていたのは不運でした。
 杜牧の生涯については、すでに述べましたが、杜牧が詩文の模範を杜甫と韓愈に見出していたことは、掲げた詩によって分かります。
 「杜詩 韓筆」というのは杜甫の詩と韓愈の文章という意味です。
 「麻姑」は仙女の名で、手の爪が鳥の爪のように長く伸びていたので痒いところに届いたといいます。
 「続弦膠」とは切れた弓の弦をつなげるほど強力な膠のことで、鳳凰の嘴と麒麟の角を合わせて煮た膏であったといいますので、伝説の膠でしょう。
 言語の精髄を選び出して、それを続弦膠でつなぎ合わせるように緊密な揺るぎのない詩に仕上げる。そのような詩を創り出せる詩人は、もはやどこにもいないと杜牧は嘆いています。ですが、杜牧こそが唐代最後の「解く続弦膠を合わす」詩人であったかもしれません。


冬至日寄小姪阿宜詩 冬至日 小姪阿宜に寄する詩 杜牧

小姪名阿宜   小姪しょうてつ 名は阿宜あぎ
未得三尺長   未いまだ三尺の長ちょうを得ず
頭円筋骨緊   頭とうまるく 筋骨きんこつかた
両臉明且光   両臉りょうけん明らかに且つ光れり
去年学官人   去年 官人かんじんを学び
竹馬遶四廊   竹馬ちくば 四廊しろうを遶めぐ
指揮群児輩   群児輩ぐんじはいを指揮して
意気何堅剛   意気 何ぞ堅剛けんごうなる
小さな甥 名前は阿宜
まだ七八歳にならない
頭はまるくて筋骨はしまり
眼は黒白はっきりと光っている
去年は 役人のまねごとをし
竹馬で 廊下を駆けめぐる
近所の子供らの先頭にたって
意気軒昂そのものだった

 杜牧には遺言と言ってもいい長詩があります。
 五言八十六句、四百三十字の大作ですので、十一回に区切って掲げます。
 詩題にある「小姪阿宜」は姪甥のことと呼ばれていますので、兄弟の子ということになります。
 唯一の兄弟杜顗には男児がいますが、阿宜とは言わなかったようです。
 当時は従兄を兄と呼ぶことも多かったので、従兄の子かもしれません。
 この詩には杜牧の教育観や処世観などが直截に出ており、同時代の詩人の評価に触れる部分もあります。まず、はじめの八句は阿宜の紹介で、「三尺」約九三㌢㍍は数えで七八歳のことです。
 阿宜は利発で元気というより、腕白な子供でした。

今年始読書   今年こんねん 始めて書を読み
下口三五行   口に下くだす 三五行
随兄旦夕去   兄に随いて旦夕たんせきに去り
歛手整衣装   手を歛おさめ衣装を整う
去歳冬至日   去歳きょさい 冬至とうじの日
拝我立我旁   我を拝して我が旁かたわらに立つ
祝爾願爾貴   爾なんじを祝し爾の貴とうとからんことを
仍且寿命長   仍お且つ寿命の長きを願う
今年になって 書物を読みはじめ
三行五行を暗誦する
父親に従って 朝夕を過ごし
手をきちんと揃え衣装も正す
去年 冬至の日
私を拝し 私の横に立った
お前を祝賀し将来の出世と
寿命の長久を祈る

 はじめの八句では元気のよかった子供が、書を読み服装や礼儀も正しくなったことを詠っています。
 この詩では、詩中に「爾を祝し」という言葉が幾度も出てきますが、杜牧が成人式の冠親になったのではないかと想像されます。長安で冬至の日に「小姪阿宜」の祝い事を行い、それから杜牧は江南に赴任したようです。

今年我江外   今年こんねん 我れ江外こうがいにあり
今日生一陽   今日こんにち 一陽いちようを生ず
爾憶不可見   爾なんじを憶おもうも見るべからず
祝爾傾一觴   爾を祝し一觴いつしょうを傾けん
陽徳比君子   陽ようの徳は君子くんしに比し
初生甚微茫   初生しょせいはなはだ微茫びぼうなり
排陰出九地   陰を排して九地きゅうちを出
万物随開張   万物ばんぶつしたがいて開張かいちょう
今年 私は江南にいて
今日 冬至の日を迎えた
お前のことを思うが会えないので
遠くから祝賀して杯をあげる
陽の徳は 君子に比べられるが
はじめは微かでぼんやりしている
陰の気を排して九地から出ると
万物は その力で成長する

 「小姪阿宜」の祝い事をしてから一年後の冬至に日に、この詩は江南の任地で書かれたことがわかります。
 杜牧は遠くから「爾を祝し一觴を傾けん」と言っており、陽の徳は陰の気を排して九地から生まれてくると、阿宜の成長を寿ぎます。
 冬至は極陰の日であり、陽のはじまりの日でもあります。

一似小児学   一いちに小児しょうじの学に似
日就復月将   日に就り 復た月に将すす
勤勤不自已   勤勤きんきんみずから已まざれば
二十能文章   二十 文章を能くせん
仕宦至公相   仕宦しかんして公相こうしょうに至り
致君作堯湯   君を致いたして堯湯ぎょうとうと作さん
我家公相家   我が家いえは公相家こうしょうか
剣佩嘗丁当   剣佩けんぱいかつて丁当ちょうとうたり
まことに子供が学問をするのに似て
日ごと月ごとに進歩する
熱心に学び 途中でやめなければ
二十歳のころには文章も書けよう
官吏となって 三公輔相になれば
主上を帝堯にも湯王にもできる
わが家は 公相の家柄で
かつては 剣や佩玉を帯びていた

 子供の学問というものは、自然が日々生長してゆくようなもので、途中でやめなければ二十歳になるころには文章もかけるようになるだろうと諭します。官吏になって出世をすれば、将来は主上を輔佐する身分にもなれると励まし、杜家はもともと宰相の家柄で、剣や佩玉を帯びる身分であったと阿宜の自覚を促します。

旧第開朱門   旧第きゅうだい 朱門しゅもんを開き
長安城中央   長安城の中央
第中無一物   第中だいちゅう 一物いちぶつ無く
万巻書満堂   万巻 書 堂に満つ
家集二百編   家集二百編
上下馳皇王   上下しょうか皇王を馳
多是撫州写   多く是れ撫州ぶしゅうの写しゃ
今来五紀強   今来こんらい 五紀強ごききょうなり
尚可与爾読   尚お爾に与えて読ましめ
助爾為賢良   爾を助けて賢良と為すべし
古い屋敷は 朱塗りの門をかまえ
長安の中央に位置していた
家の中に これといった物はないが
万巻の書物が書堂を埋めつくす
なかでも 通典二百巻は
皇王の治績を縦横に論じつくす
大半は祖父が撫州刺史のときに著し
いまから六十年前になる
これらの書をお前に与えて読ませ
お前を賢良な人士に育てたい

 杜牧の家の書堂には万巻の書物がありました。
 なかでも祖父杜裕の著わした『通典』つてん二百巻は聖君明主の政事を縦横に論じたもので、これらの書物を汝に与えるので、よく読んで賢良な人物になるようにと杜牧は言い遺します。

経書括根本   経書けいしょは根本を括かつ
史書閲興亡   史書ししょは興亡を閲えつ
高摘屈宋豔   高く屈宋くつそうの豔えんを摘てき
濃薫班馬香   濃あつく班馬はんばの香こうを薫くん
李杜泛浩浩   李杜りと 浩浩こうこうに泛うか
韓柳摩蒼蒼   韓柳かんりゅう 蒼蒼そうそうに摩
近者四君子   近ごろの四君子しくんし
与古争強梁   古いにしえと強梁きょうりょうを争う
経書は 万物の根本を締めくくり
史書は 国家の興亡を明らかにする
屈原や宋玉の高い詩美をくみとり
司馬遷や班固の芳香に触れるべきだ
李白と杜甫は 広大な海に浮かび
韓愈と柳宗元は 天に達する
当代の四詩人は
いにしえの大詩人と競い合う

 杜牧は諸書のなかから特に経書と史書を取り上げ、司馬遷や班固の芳香に触れるべきであると言っています。詩では屈原や宋玉の詩美をくみ取り、唐代の詩文人としては李・杜・韓・柳を四大家と称揚しています。
 詩では李白と杜甫、文章では韓愈と柳宗元を並び称していますが、同時代の大家白居易を挙げていません。白居易は杜牧とは一部時代を重ねて生きた先輩詩人であり、存命中から大家として、その名と作品は遣唐使を通じて日本にも伝わっているほどでした。
 白居易は杜甫と並ぶ憂国済民の詩人として杜牧の先達であった時期もあるはずですが、杜牧は白居易やその友人の元稹らを嫌っていたようです。
 白居易らの詩風を「俗に習い綺麗平明」「壮士雅人にあらず」と批判しています。

願爾一祝後   願う 爾 一祝いっしゅくの後のち
読書日日忙   読書 日日ひびぼう
一日読十紙   一日いちにち十紙じっしを読み
一月読一箱   一月いちげつ一箱いっそうを読む
朝廷用文治   朝廷 文治ぶんじを用もち
大開官職場   大おおいに官職の場じょうを開く
願爾出門去   願う 爾 門を出でて去り
取官如駆羊   官を取る羊を駆るが如きを
ひとたび祝賀を受けたのちは
日々読書にいそしみ
一日に十枚の書を読み
ひと月に一箱の読書が望ましい
朝廷は 文治を方針としており
おおいに官職への道は開かれている
いずれお前は 家門を出て
羊を追うように官職に就くべきだ

 ついで杜牧は、成人後の阿宜の進路について忠告します。毎日毎日、規則正しく読書をつづけて勉学に励めば、朝廷は文治を方針としているので、官吏への道はおのずから開けてくると、官職に就くことを期待します。

吾兄苦好古   吾が兄 苦はなはだ古いにしえを好み
学問不可量   学問 量はかるべからず
昼居府中治   昼は府中の治に居り
夜帰書満牀   夜 帰れば 書 牀しょうに満つ
後貴有金玉   後貴こうき 金玉きんぎょく有るも
必不為汝蔵   必ず汝なんじの為に蔵ぞうせざらん
わが兄は おおいにいにしえを好み
学問の量りがたいのを知っている
昼間は 役所で事務をとり
帰れば 寝床は書籍で一杯になる
今後出世をして 収入が増えても
お前のために遺すことはあるまい

 「吾が兄」、つまり阿宜の父親も学問を好んでおり、昼間は役所で仕事をしても、家に帰れば読書にふけるような生活だから、今後出世をしたとしても、阿宜に金銭を遺すようなことはあるまいといいます。書物には金銭をおしまないが、富貴を好むような人物ではないというのでしょう。

崔昭生崔芸   崔昭さいしょう 崔芸さいうんを生み
李兼生窟郎   李兼りけん 窟郎くつろうを生む
堆銭一百屋   銭せんを堆たいす 一百屋いっぴゃくや
破散何披猖   破散はさん 何ぞ披猖ひしょうなる
今雖未即死   今 未だ即死せずと雖いえど
餓凍幾欲僵   餓凍がとうほとんど僵たおれんと欲す
参軍与県尉   参軍さんぐんと県尉けんい
塵土驚劻勷   塵土じんど 劻勷きょうじょうに驚く
崔昭は 崔芸の父親で
李兼は 窟郎の父親だ
遺産は 百屋というが
破産して なんと惨めなことか
いまはまだ瀕死とまではいかないが
餓えと寒さで倒れようとしている
ひとりは参軍ひとりは県尉というが
この世の急迫は 驚くほどだ

 「崔昭」と「李兼」は不明ですが、いずれも沢山の遺産を残した人でしょう。しかし子供の崔芸は参軍、窟郎は県尉になったようですが、いずれも破産して餓えと寒さで倒れようとしていると杜牧はいいます。
 この世の変化は、驚くほど速いというのです。

一語不中治   一語いちごに中あたらざれば
笞箠身満瘡   笞箠ちすいに満瘡まんそうたり
官罷得糸髪   官かんめて糸髪しはつを得
好買百樹桑   好し 百樹の桑を買うも
税銭未輸足   税銭 未だ輸足しゅそくせず
得米不敢嘗   米を得て敢あえて嘗めず
願爾聞我語   願う 爾 我が語を聞き
懽喜入心腸   懽喜かんき 心腸しんちょうに入るを
もし 一語でも法に触れれば
笞刑に遭って満身創痍となる
官を退いて 頭髪も薄くなり
百本の桑の木を買ったのはいいが
それではまだ 税金も払えず
米を手に入れても安心して食べられない
お前に希望するのは わが言を聞き
心から肝に銘じてもらいたいことだ

 役人として注意すべきことは法に触れないことだと、杜牧は注意を促します。法に触れたら笞打たれて官を退くことになり、桑の木を買って農業をはじめても、税金は払えず安心して食事もできない。だから、私の言うことによく耳を傾け、注意して生きるようにと念を押します。

大明帝宮闕   大明たいめい 帝の宮闕きゅうけつ
杜曲我池塘   杜曲ときょくは我が池塘ちとう
我若自潦倒   我れ若し自ら潦倒りょうとうなるも
看汝争翺翔   汝が争いて翺翔こうしょうするを看
総語諸小道   総べて諸小しょしょうに語りて道
此詩不可忘   此の詩 忘る可からずと
大明宮は 皇帝の御座所であり
杜曲は わが家の池にひとしい
たとえ私がうらぶれの身になっても
お前が高く飛ぶのを見たいものだ
すべてのことを少年たちに語って
この詩を忘れるなと伝えてほしい

 最後の六句は結びです。杜牧はたとえ自分が「潦倒」うらぶれの身になっても、小姪阿宜が出世をして高く飛ぶのを見たいものだと期待します。
 この自分の思いをすべての親戚の少年たちに語って、この詩を忘れないように伝えてほしいと言って、江南からの詩を結びます。杜牧は自分の果たされない思いを、阿宜をはじめとする次ぎの世代に託そうとしています。
 しかし、杜牧の次ぎの世代は唐の滅亡に遭遇することになりますので、杜牧の思いは永遠に果たされることはありませんでした。
 阿宜のその後の人生も不明のままです。

目次