長安雪後        長安 雪後 杜牧

  秦陵漢苑参差雪  秦陵しんりょう 漢苑 参差しんしとして雪なり
  北闕南山次第春  北闕ほくけつ 南山 次第に春なり
  車馬満城原上去  車馬しゃば 城に満ちて 原上げんじょうに去
  豈知惆悵有閑人  豈に知らんや 惆悵(ちゅうちょう)として閑人(かんじん)有るを
驪山の陵や上林苑 雪はあたりに舞い散るが
北の皇居や終南山 こちらはようやく春めいてきた
馬車は城内に溢れ 楽遊原へ繰り出してゆく
人々は気づくまい 暇人がここに憂えていることを

 旅の途中、杜牧は牛僧孺が都で亡くなったことを聞きました。
 享年六十九歳であったと言われています。杜牧の生涯に少なからず影響を与えた党争の指導者は、牛李双方とも都から消えてしまったのです。
 杜牧が長安に着いたのは、冬十二月でした。司勲員外郎・史館修撰として、すぐに大明宮の尚書省に出仕をはじめます。明けて大中三年八四九、杜牧は四十七歳になりますが、依然として従六品上の員外郎です。
 この年は春になっても雪が降るほど寒気が厳しく、長安は年が明けても冬景色でした。起句の「秦陵」は驪山の北麓にある秦の始皇帝陵かも知れませんが、つぎに「漢苑」とありますので、秦漢を借りる技法でしょう。
 春の雪もようやく止んで長安に春が訪れ、人々は城内の行楽地楽遊原らくゆうげんへと繰り出してゆきますが、杜牧はそれを斜はすに眺めています。


   春晩題韋家亭子    春の晩 韋家の亭子に題す 杜牧

   擁鼻侵襟花草香   鼻を擁ふさぎ襟きんを侵して 花草かそうかんば
   高台春去恨茫茫   高台こうだい 春去りて 恨み茫茫たり
   蔫紅半落平池晩   蔫紅えんこうなかば落つ 平池へいちの晩くれ
   曲渚飄成錦一張   曲渚きょくしょただよい成す 錦一張きんいっちょう
草花のむせる香が 鼻を塞ぎ襟に満ち
高楼にのぼれば 過ぎゆく春の恨みはつきない
夕闇のせまる池に 花くれないはあでやかに散り
花びらは入江に漂って 一張の錦のようだ

 憂い顔の杜牧ですが、勤めは暇です。杜牧はかねて研究していた『孫子』十三篇に注をほどこす仕事をはじめました。
 『孫子』は兵書であると同時に経国の書でもあります。
 長安の人々は暖かくなると楽遊原へ繰り出しますが、杜牧は郊外の樊川はんせんに出かけます。樊川は川の名前ではありません。
 川は当時、水すいと呼ばれ、川沿いの土地を川せんと言っていました。
 詩題の「韋家いかの亭子ていし」は杜氏と並ぶ名門韋氏の別墅べつしょ:別荘のことで、樊川の韋曲いきょくにありました。
 野山には草花がむせかえるような香りを放って咲き乱れていました。
 杜牧は近くの朱坡しゅはにあった祖父杜佑の別墅も訪れたでしょう。
 春の自然の華やかさのなかで、すべては荒れ果ててしまっていました。


 過田家宅     田家の宅を過ぐ 杜牧

安邑南門外   安邑あんゆう 南門の外
誰家板築高   誰が家か 板築はんちく高き
奉誠園裏地   奉誠園裏ほうせいえんりの地
牆缺見蓬蒿   牆しょうけて 蓬蒿ほうこうを見る
安邑坊の坊門を 南へゆくと
だれが住むのか 高々と塀をめぐらす
豪奢な馬燧の邸宅は 奉誠園となり
土塀は崩れ 茂っているのは蓬だけ

 杜牧は久し振りの長安城内を歩いてみます。注意して見ると、城内には新しい大きな邸宅もあり、荒れた邸の跡もあります。
 「安邑」は長安東街の安邑坊のことで、その南の坊門から少し南へ行ったところとは宣平坊のあたりでしょう。長安城内の南部の坊は、城内とはいっても農家や寺院、農地や林地などが多く、詩題の「田家でんかの宅」というのは、そうした城内の田園地帯の家のことです。宣平坊は楽遊原のある台地を背にした微高地にあり、緑の多い地帯でした。
 そのあたりが高級官吏の住む新しい住宅地になっていて、「板築高き」、つまり板築で高く築いた塀の邸ができていたりしました。
 安邑坊は東市の南に隣接する坊で、「奉誠園」は安邑坊内にありました。
 もとは馬燧ばすいの邸宅でしたが、馬燧の死後、半ば強制的に朝廷に献上させられました。
 豪奢な建物は解体されて宮中に運ばれ、跡地は奉誠園になっていましたが、それもいまは板築の土塀も崩れ、蓬蒿の茂る荒れ地になっていたのです。


     過勤政楼        勤政楼に過る 杜牧

  千秋佳節名空在  千秋せんしゅうの佳節かせつむなしく在り
  承露糸嚢世已無  承露しょうろの糸嚢しのうすでに無し
  唯有紫苔偏称意  唯だ紫苔(したい)のみ (ひと)えに(こころ)(かな)う有りて
  年年因雨上金鋪  年年 雨に因りて 金鋪きんぽに上る
玄宗の千秋節も いまはその名を残すだけ
承露嚢の習慣も 絶えてしまった
はびこっているのは 赤むらさきの苔
毎年雨が降るたびに 門環の金具へはいあがる

 杜牧は若いころ、楊貴妃事件を題材として幾つかの詠史詩を書きましたが、それとは違う感じの懐古詩を残しています。
 それらは、このころの杜牧の褪めた感情を反映する作品と思われます。
 詩題の「勤政楼」きんせいろうは玄宗皇帝の勤政務本楼のことで、興慶宮の西南隅にありました。
 そこからは、にぎやかな春明門街と東市を見下ろすことができました。
 「千秋の佳節」は開元十七年七二九に設けられた祝日で、玄宗の誕生日八月五日を祝うものです。その日には「承露の糸嚢」を贈答し合う習慣がありましたが、それも廃れてしまい、目立つのは興慶宮の「金鋪」門環の金の台座まで這い上っている赤い苔です。
 盛唐の都は物心ともに荒れ果てようとしていました。


     村舎燕         村舎の燕 杜牧

  漢宮一百四拾五 漢宮かんきゅう 一百四拾五いっぴゃくししゅうご
  多下朱簾閉瑣窗 多く朱簾しゅれんを下して 瑣窓さそうを閉ざす
  何処営巣夏将半 何れの処にか巣を営んで 夏(まさ)に半ばならんとす
  茅簷煙裏語双双 茅簷ぼうえんの煙裏えんりかたること双双そうそう
漢の都城の内外に 一百四拾五の宮殿がある
多くは珠簾をおろし 飾り窓を閉じている
夏の半ばというのに 燕はどこに巣をかけた
茅屋にたなびく炊煙 燕が軒端で鳴いている

 杜牧は長安城の内外を歩きまわります。宮殿は多くが閉鎖され、荒廃していました。燕が巣をかける場所もなく、つがいの燕が農家の軒端で鳴いているのでした。この詩は劉禹錫りゅううしゃくの「烏衣巷」ういこうを踏まえていると思われますので、前出を参照してください。


     宮人塚         宮人塚 杜牧

  尽是離宮院中女  尽ことごとく是れ 離宮院中いんちゅうの女じょ
  苑牆城外塚累累  苑牆しょうえん城外 塚つか累累るいるいたり
  少年入内教歌舞  少年にして入内にゅうだいし 歌舞かぶを教えらるるも
  不識君王到老時  君王を識らずして 老時ろうじに到る
この墓はみな 離宮の院中に仕えた女たち
宮苑のそとに重なり合って 累々とつづく
幼くして宮中に召し出され 歌や踊りを教えられたが
君公に知られることもなく 年老いてしまう

 城外のかつて離宮のあったあたりを歩いてみると、宮苑の牆外に残っているのは、名もない宮女たちの墓だけです。彼女たちは幼いころに宮中に召し出され、天子にまみえることもなく年老いてしまいました。
 そしていまは、墓だけが累々とつらなっています。
 杜牧は樊川の朱坡にもたびたび出かけました。前に掲げた「朱坡に遊びしを憶う四韻」も、この年の秋の作品と思われます。
 懐かしい樊川の地を幾度も訪ねて、今を昔にもどせないことは分かっていますが、できれば祖父の別墅を修復したいと思うのでした。


   将赴呉興 登楽遊原一絶 杜牧
                 将に呉興に赴かんとして 楽遊原に登る 一絶

   清時有味是無能  清時せいじに味わい有るは 是れ無能むのう
   閒愛孤雲静愛僧  閑かんは孤雲こうんを愛し 静せいは僧を愛す
   欲把一麾江海去  一麾いっきを把りて 江海こうかいに去かんと欲し
   楽遊原上望昭陵  楽遊原上 昭陵しょうりょうを望む
泰平の世を 楽しく暮らす能なしよ
ぽっかり浮かぶちぎれ雲 僧侶と語る閑雅がよい
今まさに一本の旗を持ち 江南の海辺へゆこうとし
楽遊原上 はるかに昭陵を眺めやる

 杜牧は『孫子注』三巻を書き上げると、それを宰相周墀しゅうちに献上しました。杜牧の軍備・用兵・戦術、経世済民の思想を集大成したもので、心を込めて書いたものですが、受納され書庫に納められただけでした。
 杜牧は次第に官途への関心を失いはじめていました。
 大州の刺史になってもどってくるという弟杜顗との約束も思い出され、閏十月に杜牧は「宰相に上りて杭州を求める啓」を上書しました。杭州刺史への転出を願い出たのですが、聴き入れる返事はありませんでした。
 十二月になって李徳裕が厓山の任地で病没したという報せが届きましたが、杜牧にはもはや何の感慨もありません。この年、従兄の杜悰とそうも再度の剣南西川節度使に任ぜられ、都をあとにしました。年が明けて大中四年八五〇になり、杜牧は吏部員外郎の告身を受けました。
 吏部員外郎は文官の職事官の人事を行う部署ですので、万人の望む地位でしたが、杜牧にはいまさらという感情があります。家長として家属のために収入の増加をはかる必要も肩に重くのしかかっていました。
 そのころ杜牧は、湖州刺史が満期になるのを知りました。
 吏部員外郎であれば、当然知りえる情報です。
 湖州は友人の張文規ちょうぶんきがかつて赴任した地であり、その地の豊かな土地柄については耳にしていましたので、杜牧は意を決して「宰相に上りて湖州を求める啓」を上書しました。
 希望地を杭州よりも一段下げての転出願いです。
 それが聴き入れられないとみるや、第二啓、第三啓と立てつづけに上書をし、最後には揚州にいる家属の面倒をみなければならないという個人的な理由まで持ち出して請願しました。その結果、願いは秋七月になってやっと認められ、湖州にゆくことになりました。掲げた詩は、湖州への出発を前にして、初秋の楽遊原に登り、長安の都を一望したときの作品です。
 詩題で「呉興」ごこうと言っているのは湖州のことです。
 起句で「無能」と言っていますが杜牧自身のことで、自分を能なしと嗤い、「閑は孤雲を愛し 静は僧を愛す」と隠者への思いを詠います。
 しかし、現実には刺史の旗を立てて江南へ赴く身です。
 「昭陵」は唐の太宗李世民りせいみんの眠る陵で、杜牧は楽遊原の高台から北に望む皇陵を祈るような気持ちで眺めます。
 杜牧は国家の将来について不安を感じていたようです。


     登楽遊原        楽遊原に登る 杜牧

   長空澹澹孤鳥没   長空ちょうくう澹澹たんたんとして 孤鳥こちょう没す
   万古銷沈向此中   万古ばんこ銷沈しょうちんして 此中ここに向
   看取漢家何似業   看取かんしゅせよ 漢家かんか 何似いかなる業ぎょう
   五陵無樹起秋風   五陵 樹の 秋風しゅうふうを起こす無し
果てしない空の彼方 一羽の鳥が消え去った
悠久の時は流れて ここに埋まっている
見よ 漢の王朝も いかなる功業を残したのか
五陵のあたり秋の風 樹々を揺るがすこともない

 この詩も湖州への出発を前にして楽遊原に登ったときの作品と思われます。空の果てに消えた「孤鳥」とは、杜牧自身の姿もしくは心でしょう。
 杜牧は楽遊原に登って、みずからの人生をかえりみ、漢を借りて唐朝の衰亡に思いを馳せるのです。「五陵」ごりょうは漢の皇帝の陵墓の集中する地区ですが、遠くに五陵のあるあたりを望み見て、「五陵 樹の 秋風を起こす無し」と、胸には虚ろな感慨、茫々とした思いが湧いてくるのでした。


  将赴湖州留題亭菊 杜牧 将に湖州に赴かんとして 亭菊に留題す

   陶菊手自種   陶菊とうきく 手自てずから種
   楚蘭心有期   楚蘭そらん 心に期する有り
   遥知渡江日   遥かに知る 江こうを渡るの日
   正是擷芳時   正まさに是れ 芳ほうを擷むの時なるを
陶淵明が愛した菊は 自分で庭に植え
屈原のゆかりの蘭に やがて会うのが楽しみだ
長江を渡るころには 菊の花も摘みごろだろう
菊花の節句は はるか遠くから偲ぶとしよう

 杜牧は湖州への出発に際し、陶淵明の生き方や屈原の運命に思いをいたし、自宅の庭に菊の種をまきました。
 やがて咲くであろう菊の花に題して、留別の詩を残します。
 長江を渡るころには重陽の節句になっており、菊の花も摘みごろに育っているであろうと詠います。
 自分で希望した地方勤めとはいえ、中央での出世をあきらめて出てゆくような転勤ですので、杜牧の心にはひそかな哀惜の思いがあったでしょう。


     汴河懐古        汴河懐古 杜牧

   錦䌫龍舟隋煬帝  錦䌫きんらんの龍舟りゅうしゅうは 隋の煬帝ようだい
   平台複道漢梁王  平台へいだいの複道ふくどうは 漢の梁王りょうおう
   遊人閑起前朝念  遊人ゆうじんすずろに起こす 前朝の念ねん
   折柳孤吟断殺腸  折柳せつりゅうひとたび吟ずれば 腸はらわたを断殺す
錦䌫の龍舟 栄華をきわめる隋の煬帝
平台の複道 贅美をつくした漢の梁王
汴河を往けば かつての御代を想い出し
折楊柳の一曲に 私の腸は千切れるようだ

 長安を発った杜牧は、船で江南へ向かいます。汴河べんがは江南への運河に連なる水路で、滎陽けいよう:河南省滎陽県で黄河とわかれ、黄河の南を併行して東へ流れています。
 一昨年の冬に西へたどった水路を、今度は秋おそく東へ下るのです。
 杜牧は揚州の街を築いた煬帝を評価していた時期もありました。
 しかし、いまは亡国の帝王という思いを強く感じています。煬帝は「龍舟」に乗って運河をゆききしたと詠い、漢の「梁王」は雎陽すいよう:河南省商丘市の南の景勝地に梁園や平台を設け、詩人たちを集めて贅沢を極めたと詠います。
 そうした王侯貴族の栄華のさまを想うにつけ、杜牧は唐朝の未来に、はらわたが千切れるような不安を覚えるのでした。
 湖州への途中、杜牧は揚州の杜顗の家に立ち寄りますが、杜顗はもはや光を感ずることができず、すっかり老いて弱々しくなっていました。
 杜牧は弟を励まし、妹に世話を頼んで、冬十一月に湖州に着きました。


   春日茶山 病不飲酒 因呈賓客 杜牧
             春日の茶山 病みて酒を飲まず 因りて賓客に呈す

   笙歌登画船   笙歌しょうか 画船がせんに登のぼ
   十日清明前   十日じゅうじつ 清明せいめいの前
   山秀白雲膩   山秀ひいでて 白雲はくうんつややかに
   渓光紅粉鮮   渓たに光りて 紅粉こうふん鮮かなり
   欲開未開花   開かんと欲して 未だ開かざる花
   半陰半晴天   半ば陰くもり 半ば晴れたる天てん
   誰知病太守   誰たれか知らん 病太守びょうたいしゅ
   猶得作茶仙   猶お茶仙ちゃせんと作るを得たり
音曲も賑やかに画船に乗る
あと十日で 清明節だ
山はひいで 白雲は空につややか
谷川は煌めいて流れ 歌姫の紅もあざやか
咲こうとして いまだ開かぬ花々よ
半ばはくもり 半ばは晴れの青空だ
誰も知るまい この病身の太守殿
酒仙はだめでも 茶仙になれる

 明ければ大中五年八五一の春です。湖州の春を杜牧はやすらかな気持ちで迎えました。中国における飲茶の風習は、このときから百年ほど前に民間に拡がったもので、安史の乱後になります。江南の山間地は茶の自生地として有名ですが、なかでも湖州産の茶は最高とされ、湖州の西北五十里余約三十㌔㍍のところにある顧渚山こしょさん:湖州市長興県の北は別名茶山と称され、紫筍茶しじゅんちゃの産地として知られていました。紫筍茶は深山幽谷に自生する茶で、宮廷用の貢茶こうちゃに指定されていました。
 毎年二月になると、現地に入って献上茶の採取と製造を監督するのが、湖州刺史の役目のひとつでした。杜牧は清明節も近い二月中旬、湖に画船彩色した遊覧船を浮かべて賓客をもてなしました。杜牧はこのころ消渇しょうかちの疾、つまり糖尿病を患っていて酒をつつしんでいました。
 だから船上での酒宴の座興に詩を呈し、酒仙はだめだが「茶仙」にはなれると詠って、一座の気分を盛り立てます。
 船上には州廨州の役所の歌妓もはべり、にぎやかな音楽が演奏されます。


   入茶山下 題水口草市 絶句 杜牧
                 茶山の下に入り 水口の草市に題す 絶句

   倚渓侵嶺多高樹   渓たにに倚り嶺みねを侵して 高樹多し
   誇酒書旗有小楼   酒さけを誇り旗はたに書して 小楼有り
   驚起鴛鴦豈無恨   驚起けいきせる鴛鴦えんおうに恨み無からんや
   一双飛去却廻頭   一双いっそう飛び去り 却た頭こうべを廻めぐらす
谷川から山の上 木立は繁り
旗に銘酒の名前 小さな酒楼がある
人の影に驚いて 鴛鴦が飛び立った
つがいの鳥は去りながら 恨めしそうに振りかえる

 茶山に入るには、谷川の径を登って山間に分け入らなければならなりません。詩題の「水口」すいこうは水口鎮浙江省長興県の西北のことで、茶山の麓にある郷村です。そこの「草市」そうし:村市場に酒屋があり、銘酒の名前を書いた旗がなびいています。「却た頭を廻らす」のは飛び立った「鴛鴦」おしどりではなく、好きな酒を飲めない杜牧自身でしょう。
 この詩は自分を材料におどけてみせる社交の詩と思います。


 茶山下作     茶山の下にて作る 杜牧

春風最窈窕   春風しゅんぷう 最も窈窕ようちょうたり
日晩柳村西   日は晩る 柳村りゅうそんの西
嬌雲光占岫   嬌雲きょううん 光りて岫みねを占め
健水鳴分渓   健水けんすい 鳴りて渓たにを分かつ
燎巌野花遠   巌いわおを燎いて 野花やか遠く
戛瑟幽鳥啼   瑟しつを戛って 幽鳥ゆうちょう啼く
把酒坐芳草   酒を把りて 芳草ほうそうに坐せば
亦有佳人攜   亦た佳人かじんの携たずさうる有り
軽やかに 春風は吹き
夕陽は 村の西にかたむく
茜の雲は 峰に照り映え
流れは迸つて 谷川に轟きわたる
野の花は 岩山に紅く燃え
葉陰では 鳥が瑟を掻き鳴らす
草むらに坐して 酒杯を把れば
そばに寄りそう 美女がいる

 貢茶監督の一行は、すでに茶山の近くに到着しています。
 「柳村」は水口鎮の東にあり、柳の美しい小村でした。
 製品になった紫筍茶は、ここで船に積み込まれて運び出されます。杜牧ら監督官の一行は官妓をともなっており、晩春の野で酒宴がひらかれます。
 「亦た佳人の携うる有り」と、そばに美人を寄りそわせているのです。
 杜牧はいささか浮かれ過ぎていたようです。
 茶山に滞在していたとき、揚州の弟杜顗の死去の報せが届きました。
 享年四十五歳でした。眼疾のため一生をなすところなく過ごした杜顗の死は二月のことで、報せは杜牧の出張先に届いたのです。
 杜牧は愕然として、しばらくは口をひらくことができませんでした。


     題禅院         禅院に題す 杜牧

   觥船一棹百分空   觥船こうせん一棹いっとうすれば 百分ひゃくぶんむな
   十歳青春不負公   十歳の青春 公こうに負そむかず
   今日鬢糸禅榻畔   今日こんにち 鬢糸びんし 禅榻ぜんとうの畔ほとり
   茶煙軽颺落花風   茶煙ちゃえん軽く颺あがる 落花らっかの風
杯をぐいと飲めば 酒はたちまち空になる
青春の日々を十年 赴くままに生きてきた
両鬢もいまは衰え 禅寺の椅子に坐す
立ち昇る茶の煙に 落花の風が吹いている

 詩題の「禅院」は柳村にあったかも知れません。
 また水口鎮の吉祥院の東廊には貢茶院も設けられていたといいますので、吉祥院にあったかも知れません。「觥船」は舟の形をした大杯で、酒を断っていた杜牧は、それを一気にぐいと飲み干します。「十歳の青春 公に負かず」であった自分の人生を思えば、飲まずにはいられない心境であったでしょう。
 茶釜からは茶を煮る湯気が立ち昇り、風に落花が舞っていました。
 この詩からは、弟の死に遇った杜牧の落胆の憶いが切々と伝わってきます。
 茶山のつとめがまだ終わっていませんので、杜牧は揚州に行って弟の仮埋葬に立ち会うこともできません。
 つとめが終わっていても、州刺史はみだりに任地の外に出るのを禁ぜられていましたので、送金をして埋葬させたかも知れません。


  沈下賢         沈下賢 杜牧

斯人清唱何人和   斯の人の清唱せいしょう 何人なんびとか和せん
草径苔蕪不可尋   草径そうけい 苔蕪たいぶ 尋ぬ可からず
一夕小敷山下夢   一夕いっせき 小敷山下しょうふさんかの夢
水如環珮月如襟   水は環珮かんぱいの如く 月は襟えりの如し
清らかな詩のかずかず いったい誰が唱和できよう
草むす小径に苔が生え 旧居を訪ねるすべもない
ある夜の夢の中 小敷山の麓に遊べば
水の音は佩玉のように冴え 月は白い襟のように穢れがない

 やがて夏になり、寝苦しい夜がつづきます。
 そんな一夜、杜牧は「沈下賢」しんかけんの旧居を訪ねる夢をみました。沈下賢は湖州呉興浙江省烏程県の人で、杜牧の恩人沈伝師しんでんしの一族でした。
 憲宗の元和十年八一五に進士に及第し、杜牧の先輩にあたります。
 詩人・伝奇作者として名を挙げますが、官途は不遇でした。「小敷山」しょうふさんは湖州の西南にある福山のことで、沈下賢の旧居の地でした。
 杜牧は二十年前に郢州湖北省鍾祥県の司戸参軍という微官でなくなった詩人の夢をみて、その清らかな詩風を「水は環珮の如く 月は襟の如し」と称えるのでした。

目次