新定途中        新定の途中 杜牧

   無端偶効張文紀   端はし無くも偶たまたま効ならう 張文紀ちょうぶんき
   下杜郷園別五秋   下杜かとの郷園 別るること五秋ごしゅう
   重過江南更千里   重ねて江南を過ぐ 更に千里
   万山深処一孤舟   万山ばんざんの深き処 一孤舟いちこしゅう
はからずも 張文紀をまねてしまった
古里の下杜を離れて はや五年
江南を過ぎ 千里の旅を重ねている
無数の山々 深い谷 心に沁みいる孤独の舟

 弄水亭の披露も済み、春三月も過ぎようとするころ、都で異変が起きました。不老長生の仙薬を飲み過ぎたのがもとで、武宗が亡くなったのです。
 皇太子が即位して宣宗となりますが、皇太子といっても宣宗は武宗の祖父憲宗の十三番目の子で、穆宗の弟になります。
 皇位が叔父に移ったわけで、正常な継承ではありません。宣宗も宦官が擁立した天子で、当然に政変が起こります。
 廃仏の責任を問われた李徳裕は四月に失脚し、荊南節度使に貶され、牛党の翰林学士承旨白敏中はくびんちゅうが登用されます。
 牛党の牛僧孺と李宗閔は貶謫地から都に近い任地に移されますが、中途半端な異動です。二人はすでに高齢で、世代交替が明瞭です。
 杜牧は新しい人事をみて、悪い予感を覚えました。
 果せるかな九月になると、杜牧のもとに睦州ぼくしゅう刺史に任ずる告身辞令書が届きます。杜牧が李徳裕に送ったさまざまな提言が、李党への加担、牛党への裏切りと目されたのは明らかでした。
 転任地の睦州浙江省建徳市梅城県は、杭州から浙江を南に百八十里約百㌔㍍ほど遡ったところにあります。南は閩地びんちにつらなる僻遠の地です。
 杜牧は流刑になったような気持ちで告身を受けたでしょう。会昌六年八四六冬十月、杜牧は池州を発って長江を下り潤州に停泊します。
 そこから少しまわり道をして揚州に行き、弟杜顗とぎを見舞いました。
 しかし、盲目の弟と語り合う言葉もなく、在り来たりの慰めの言葉を残して別れたでしょう。睦州へは運河を南下して杭州に着き、そこからさらに浙江を南へ遡ってゆくのです。
 詩題の「新定」しんていは睦州の郡名で、「張文紀」は後漢の張綱のことです。
 張綱は侍御史として在任していたとき、外戚で権勢者の大将軍梁冀りょうき兄弟を弾劾しました。
 しかし、順帝に聴き入れられず、広陵の太守に左遷されます。
 「端無くも偶たま効う」は思いがけず同じ轍を踏んでしまったという意味で、杜牧は自分を張綱にたとえて後悔しています。都を出て五年になるというのに、江南の中でも最南端の睦州に赴くはめになった。そのことを嘆きながら、冬の船上で身に沁みるのはどうしようもない孤独感です。


      雨             雨 杜牧

   連雲接塞添迢逓  雲に連なり塞とりでに接して 迢逓ちょうていを添え
   灑幕侵灯送寂寥  幕に灑そそぎ灯ともしびを侵して 寂寥せきりょうを送る
   一夜不眠孤客耳  一夜 眠らず 孤客こかくの耳
   主人窓外有芭蕉  主人の窓外に 芭蕉ばしょう有り
雨は雲に連なって辺塞につづき 故郷はいよいよ遠ざかる
降りこむ雨に灯は陰り わびしい旅心が湧いてくる
耳にまつわる雨の音 眠れないまま夜はあけ
窓辺に近く 芭蕉の茂る宿だった

 この詩も睦州へ赴任する途中の作でしょう。
 「塞」は辺塞であり、国境の意味もあります。
 雨は船の帳幕のあたりまで降り込み、灯火も消えそうです。物淋しい冬の旅、眠れない一夜を明かすと、「窓外に 芭蕉有り」の宿でした。
 僻地への赴任とはいっても官行官吏としての旅行ですから、上陸して渡津の駅亭に泊まることもあったようです。
 冬十二月、杜牧は最果ての地、睦州に着任しました。


 睦州四韻      睦州四韻 杜牧

州在釣台辺   州は釣台ちょうだいの辺ほとりに在り
渓山実可憐   渓山けいざん 実に憐れむ可し
有家皆掩映   家いえ有りて 皆掩映えんえい
無処不潺湲   処ところとして潺湲せんえんたらざるは無し
好樹鳴幽鳥   好樹こうじゅに 幽鳥ゆうちょう鳴き
晴楼入野煙   晴楼せいろうに 野煙やえん入る
残春杜陵客   残春ざんしゅん 杜陵とりょうの客
中酒落花前   酒に中あたる 落花の前
睦州は 釣台の近くにあって
山紫水明 まことに美しい
家々は 木立に隠れてちらほら見え
谷川は いたるところでさらさらと流れる
木の間隠れに 鳥は鳴き
晴れた高楼に 霞は淡く流れ入る
晩春の花散る中 杜陵の客は
いつしか酔いに 身をまかす

 冬が去れば、睦州ぼくしゅうにも春がめぐってきます。
 睦州は江南でも最南端に近い土地ですので、春はどこよりも早く来たと言うべきでしょう。山間の春の姿は、思いもよらない美しさでした。
 浙江は下流を銭塘江、中流を富春江、上流を新安江といいます。
 南から流れて来る東陽江が西から流れて来る新安江と合流する地点に睦州はあります。
 この合流点の北が富春江で、すこし下ったところに「釣台」がありました。
 釣台は富春江西岸にある平たい岩で、後漢の高士厳光げんこうが釣り糸を垂れたことで有名でした。
 厳光は光武帝の旧友で後漢の創業に功績がありましたが、光武帝の勧めを辞退して任官せず、富春山の山麓に隠棲しました。厳光はこの地で悠悠自適の生活を送り、釣台で釣り糸を垂れる毎日であったといいます。
 「杜陵の客」は杜牧自身であり、大中元年847の春、晩春の花吹雪のなか、杜牧は酒に酔い痴れる毎日でした。


      寓言           寓言 杜牧

   暖風遅日柳初含   暖風だんぷう 遅日ちじつやなぎ初めて含む
   顧影看身又自慙   影を顧み 身を看て 又た自ら慙
   何事明朝独惆悵   何事ぞ明朝めいちょうに 独り惆悵ちゅうちょうする
   杏花時節在江南   杏花きょうかの時節 江南に在り
暖かい風 のどかな春よ おぼろに霞む柳の木
改めてわが身を顧みれば 悔いる思いが湧いてくる
聖明の御代に どうして悲しみにくれているのか
杏の花咲く宴の季節に 遠く離れた江南の地で

 春は貢挙の季節であり、都長安の杏園きょうえんで新進士たちの祝宴がひらかれる季節でもあります。
 かつて杜牧も、新進士として希望に燃えていた時期がありました。
 それがどうしてこんな惨めな状態になってしまったのかと、「自慙」し「惆悵」する杜牧です。
 この年の閏三月、宣宗は廃仏の停止を命じ、仏寺の復興を許しました。
 武宗の政策、つまりはそれを推進した李党の政策はつぎつぎに否定され、党争は牛党の完全な勝利に帰したかのようでした。
 長安では老いた牛党の指導者に代わって白敏中白居易の二従兄弟をはじめとする牛党の若手が宰相になり、李党の官僚を排斥しています。
 しかし、睦州の杜牧には都からの音沙汰はありません。


      猿            猿 杜牧

  月白煙青水暗流  月つき白く 煙青くして 水みずあんに流る
  孤猿銜恨叫中秋  孤猿こえん 恨みを銜ふくんで 中秋ちゅうしゅうに叫ぶ
  三声欲断疑腸断  三声(さんせい)()えんと欲して (はらわた)断ゆるかと疑う
  饒是少年須白頭  (たと)い是れ少年なりとも (すべか)らく白頭なるべし
青い靄のなかの白い月 ひそやかに水は流れ
中秋の孤猿の鳴き声が 恨むように聞こえてくる
三声まさに絶えんとし 腸も千切れるほどだ
その悲しげな啼き声に 若い黒髪も白髪となる

 この詩を含め、次回と次々回の三首は制作年不明の詩ですが、三首に際立っている特徴は「月白」「白頭」「白髪」「雪」と白の基調がつづくことです。
 白は衰退を予感させる語で、杜牧は自分の未来に希望をなくしているようです。江南の猿の鳴き声は、李白も杜甫も詠っています。
 その音色の違う三つの泣き声は、はらわたが千切れるほどに悲痛なもので、杜牧は若者の黒い髪も白髪になるほどだと言っています。


    送隠者一絶       隠者を送る 一絶 杜牧

   無媒径路草蕭蕭   無媒むばいの径路けいろくさ蕭蕭しょうしょうたり
   自古雲林遠市朝   古いにしえより 雲林うんりん 市朝しちょうに遠ざかる
   公道世間唯白髪   公道こうどう 世間 唯だ白髪はくはつのみ
   貴人頭上不曾饒   貴人の頭上とうじょうかつて饒ゆるさず
取り持つ人もない細路で わびしく草は揺れている
雲の湧き出る林中は 名利の外にあるという
世の中で公平なもの それは白髪だけ
高貴な人の頭上にも きっと必ずやってくる

 起句の「無媒の径路 草蕭蕭たり」は意味深長な句で、杜牧は誰かの援けを期待しています。屈原も「無媒」を同じような意味で使っていますので、楚辞を踏まえていると考えていいでしょう。承句の「雲林」は「市朝市場と朝廷、つまり都から遠くにあるもので、隠者の棲むところです。自分は隠者の棲むような山の中に住んでいて、帰任を取り持つ人もいないと嘆いています。
 そして、「白髪」だけが貴人の頭にも公平にやってくると詠うところは、恥も外聞もないといった気分のようです。


     初冬夜飲        初冬の夜飲 杜牧

   淮陽多病偶求懽  淮陽わいよう多病 偶たまたま懽かんを求む
   客袖侵霜与燭盤  客袖かくしゅう 霜に侵されて 燭盤しょくばんに与むか
   砌下梨花一堆雪  砌下せいかの梨花りか 一堆いったいの雪
   明年誰此凭欄干  明年 誰たれか此ここに 欄干らんかんに凭らん
淮陽の太守は疾がち 酒を飲んで憂さを晴らす
旅人に寒気は厳しく 燭台に向かって坐している
石階にうず高い雪 梨花のように真っ白だ
来年いまごろ欄干に 寄りかかるのは誰だろう

 詩題に「初冬」しょとうとありますので冬十月の作でしょう。冬を詠う作品は少ないので、この年の冬に作られた可能性が高いと思います。
 起句の「淮陽多病」は、漢代の汲黯きゅうあんが病弱を理由に淮陽太守の職を辞した故事をさします。
 汲黯は景帝・武帝に仕え、直言してはばからぬ剛直の士でした。
 東海太守に任ぜられたときは、郡内がよく治まったといいますが、のちに淮陽の郡守に任ぜられたときは疾を理由に断りました。
 しかし、聴き入れられず、赴任して任地で亡くなったといいます。
 杜牧は自分を汲黯に重ね合わせて詠っており、「石階」きざはしの上の「一堆の雪」には不吉なものさえ感じます。
 江南で大雪が積もるのは珍しかったかもしれません。
 気温の急激な低下は、温暖化の場合と同様、自然災害の原因となり、農業の不振をもたらします。
 江南の大雪は中国の治安が乱れる予兆であったかもしれません。
 そうした冬のさなかの十二月、李徳裕が潮州広東省潮州市司馬に流されたという報せが届きました。
 李徳裕は従六品上に落とされたはずで、流刑に等しい異動です。
 ここに李党の息の根は完全に止められたと言っていいでしょう。


  正初奉酬歙州刺史邢群 正初 歙州の刺史邢群に酬い奉る 杜牧

  翠巌千尺倚渓斜  翠巌すいがん千尺 渓けいに倚りて斜めなり
  曾得厳光作釣家  曾かつて厳光をして釣家ちょうかと作ら得
  越嶂遠分丁字水  越嶂えつしょう遠く分かる 丁字ていじの水
  臘梅遅見二年花  臘梅ろうばいひさしく見る 二年の花
  明時刀尺君須用  明時めいじの刀尺とうせき 君須すべからく用うべし
  幽処田園我有涯  幽処ゆうしょの田園 我われがい有り
  一壑風煙陽羨里  一壑いちがくの風煙ふうえん 陽羨里ようせんり
  解亀休去路非賖  亀を解いて休め去らん 路みちとおきに非あら
岩山は高さ千尺 谷川の上に聳え立つ
厳光が隠れ住み 釣り糸を垂れた場所
越の山々は 丁字の流れにへだてられ
臘梅は越年して 冬から春へと咲きつづける
いまは泰平の世 存分に手腕を発揮されよ
だが私の人生は 片田舎の田園にある
谷に吹く風 湧き出る雲 山中深い陽羨里
印綬を外して隠退を思う 余生も残り少ないのだ

 明けて大中二年八四八、杜牧は四十六歳になっていました。
 睦州での二度目の春を迎え、正月元日に歙州刺史しょうしゅうししの刑群けいぐんに次韻の詩を返しました。
 次韻の詩というのは、自分に贈られた詩に対して、その詩と同じ詩形、韻字も同じ韻字を同じ順序で用いて作った詩を返すものです。
 歙州安徽省歙県は、睦州から西へ新安江の谷を八十八里約百五十㌔㍍ほど遡ったところにあり、隣りの州です。
 刑群は大和三年八二九の進士で、杜牧よりは一年の後輩になります。
 刑群はこのとき都に帰任することになっていて、年末に詩を寄せてきたので、正月になって返詩したのでしょう。
 「厳光」げんこうの釣台は、睦州時代の杜牧の心情をあらわす象徴でした。
 「丁字の水」とは西から流れこむ新安江が、北へ流れる東陽江・富春江と丁字に合流しているようすをいいます。
 「臘梅遅しく見る 二年の花」と詠うのは、杜牧が睦州で越年したことをいうのであり、「明時の刀尺 君須らく用うべし」と都へもどる刑群を激励していますが、本心は羨んでいるのでしょう。
 杜牧自身は隠退への憶いを述べます。
 「陽羨里」は常州義興県江蘇省宜興県内の里で、太湖の西にあります。
 杜牧はこの地を隠棲の地にふさわしいと思っていたようです。「路 賖きに非ず」は余生も残り少ないという意味で、自分は老いたいうのです。ところが皮肉にも、帰任した刑群のほうが翌年六月に洛陽で亡くなっています。


     柳絶句          柳絶句 杜牧

   数樹新開翠影斉  数樹すうじゅ新たに開く 翠影すいえいひと
   倚風情態被春迷  風に倚る情態じょうたい 春に迷わさる
   依依故国樊川恨  依依いいたり 故国 樊川はんせんの恨み
   半掩村橋半払渓  半ばは村橋そんきょうを掩おおい 半ばは渓けいを払う
数樹の柳 芽吹く春 緑の影も濃くなった
春風に揺れる姿は 酔い痴れているようだ
断ち難い故郷への思い なつかしい樊川よ
枝は小径の橋に被さり 半ばは流れに垂れている

 春も深まってきました。杜牧は睦州の春の美しさを繊細に詠い、かつまた、それを望郷の思いへと結びつけます。憶いは村橋の柳のように「半なかばは村橋を掩い 半ばは渓を払う」のであって、美しく巧みな望郷の表現です。


  有寄        寄する有り 杜牧

雲闊煙深樹   雲闊ひろくして 煙けむりに深く
江澄水浴秋   江こう澄みて 水 秋を浴よく
美人何処在   美人 何いずれの処にか在る
明月万山頭   明月 万山ばんざんの頭うえ
雲は天空に満ち 靄はおぼろに木立をつつみ
川は澄み切って 秋の色を帯びて流れる
すぐれた人は いったいどこにいるのか
明月は峰の上を あまねく照らし出している

 春は去り、夏も過ぎ、秋の色が濃くなりましたが、「美人 何れの処にか在る」と中央に用いられないことを嘆いています。杜牧の帰心はつのっており、そうした思いを詩文によって訴えたと思います。それが効を奏したのか、杜牧は秋八月になって司勲員外郎・史館修撰に任ぜられました。
 宰相周墀しゅうちの斡旋であったといいます。帰任することにはなったものの、職務は黄州刺史になって都を出る前とほとんど変わりません。
 比部が司勲になっただけで、員外郎の身分はそのままです。
 しかし、杜牧にとって都に帰られることは喜びでした。
 晩秋九月のはじめ、杜牧は睦州の城を離れます。


秋晩早発新定  秋の晩 早に新定を発す 杜牧

解印書千軸   印いんを解く 書しょ千軸せんじく
重陽酒百缸   重陽ちょうようさけ百缸ひゃくこう
涼風満紅樹   涼風りょうふう 紅樹こうじゅに満ち
暁月下秋江   暁月ぎょうげつ 秋江しゅうこうを下る
巌壑会帰去   巌壑がんがくに 会かならず帰り去らん
塵埃終不降   塵埃じんあいに 終ついに降りず
懸纓未敢濯   纓えいを懸けんとして 未だ敢あえて濯あらわず
厳瀬碧淙淙   厳瀬げんらいみどり淙淙そうそうたり
腰の印綬をはずせば 千巻の書がある
重陽の節句に乗じて たっぷり酒を飲む
紅葉の樹々に 涼しい風が満ち
有明の月に照らされ 晩秋の川をくだる
いつかきっと 山水の間を住居としよう
いつまでも 俗塵に塗れるつもりはない
隠退の思いは募るが 冠はまだそのままだ
厳陵瀬のあたりに 淙々と水はながれて碧色

 睦州ぼくしゅうを発つときの詩です。
 杜牧は晩秋の朝早く舟を出して、富春江をくだります。「巌壑に 会ず帰り去らん 塵埃に 終に降りず」と、杜牧は隠退への思いを口にしますが、隠退に踏み切ることのできない自分であることもわかっています。
 杜牧を乗せた舟は流れを下ってゆき、釣台ちょうだいの前に差しかかります。
 釣台の前の早瀬を厳陵瀬げんりょうらいといい、碧色みどりいろの水が淙々と流れています。杜牧は厳光げんこうの悠々自適の生活の象徴として厳陵瀬を描いているのであり、結びの一句には冠をつけたままの杜牧の尽きせぬ思いが込められているように思います。


夜泊桐廬 先寄蘇台盧郎中 杜牧
             夜 桐廬に泊し 先ず 蘇台の盧郎中に寄す

水檻桐廬館   水檻すいかん 桐廬とうろの館かん
帰舟繋石根   帰舟きしゅう 石根せきこんに繋つな
笛吹孤戍月   笛は吹く 孤戍こじゅの月
犬吠隔渓村   犬は吠ゆ 渓けいを隔へだつる村
十載違清裁   十載じつさい 清裁せいさいに違たが
幽懐未一論   幽懐ゆうかいいまだ一ひとたび論ぜず
蘇台菊花節   蘇台そだい 菊花きくかの節せつ
何処与開罇   何いずれの処にか 与ともに罇そんを開かん
水辺の欄干 桐廬の館
岸の岩根に 舟をつなぐ
月は昇り 塞に笛の音は流れ
対岸の村で 犬がしきりに吠えている
この十年 会えないままに過ぎ
胸中の思い 伝えずにきた
蘇州に着くころは重陽の節句
何処かで酒を飲みながら つもる話をしよう

 桐廬浙江省桐廬県は、新定の城から五十余里約三十㌔㍍ほど川を下ったところにあります。舟で二日以内の行程です。杜牧は桐廬の駅亭に一泊し、そこから蘇州刺史の盧簡求ろかんきゅうに詩を送りました。詩題に「盧郎中」とあるのは、盧簡求が中央にいたときの官名で呼んだものです。風景の描写は暗く寂しげですが、杜牧にはまだ政事を論ずる気持ちはあります。「蘇台」蘇州に着くころは、九月九日の「菊花節」重陽節のころになるので、久し振りに会って、つもる話をしようではないかと友を懐かしむ気持ちを伝えます。
 盧簡求と過ごした蘇州の夜は楽しいものであったでしょう。


     江南懐古        江南懐古 杜牧

   車書混一業無窮   車書しゃしょ混一こんいつぎょうきわまり無く
   井邑山川古今同   井邑せいゆう 山川さんせん 古今きんこ同じ
   戊辰年向金陵過   戊辰ぼしんの年 金陵きんりょうを過ぎ
   惆悵閑吟憶庾公   惆悵ちゅうちょう閑吟して 庾公ゆこうを憶おも
天下一統の大業は 永く保たれ
村里城邑 山川の姿に変わりはない
いままさに戊辰の年 金陵の地を過ぎながら
悲運の庾信を思いやり 静かに詩を口ずさむ

 蘇州をあとにした舟は、潤州で長江に達します。
 この古い城邑で、杜牧は江南の地を懐古します。
 「車書混一」は車軌と文字を同一にすることで、天下統一を意味します。
 ここまでは唐のことで、天下は統一され、村里城邑山川の姿に変わりはありません。
 潤州には東晋時代に北府が置かれ、都建康金陵の防衛拠点でした。当時、潤州は長江最大の渡津であり、金陵渡きんりょうととも呼ばれていました。
 そこから潤州を「金陵」ともいうのです。
 大中三年八四八は「戊辰年」で、その三百年前にあたる南朝梁りょうの武帝の戊辰年に侯景こうけいの乱が起きました。南朝梁の詩人庾信ゆしんは乱を避けて江陵湖北省江陵県に逃れ、そののち北朝の西魏に使いしました。ところが使者として西魏にいるときに梁が滅亡し、帰国できなくなります。
 庾信はやむなく北朝に仕え、異郷で生涯を終えました。
 杜牧は蘇州刺史盧簡求と、侯景の乱や梁の滅亡、庾信のことなどを話題にしたのかもしれません。
 潤州で庾信の不運に思いを馳せ、詩を口ずさむのです。


     汴河阻凍        汴河にて凍れるに阻まる 杜牧

   千里長河初凍時   千里の長河ちょうが 初めて凍こおる時
   玉珂瑤珮響参差   玉珂ぎょくか 瑤珮ようはい 響き参差しんしたり
   浮生恰似冰底水   浮生ふせいは恰あたかも似たり 冰底ひょうていの水に
   日夜東流人不知   日夜東流して 人ひと知らず
遠く連なる汴河の水が いま凍りはじめ
凍る音は 玉珂瑤珮と川面にひびく
人生は 氷のしたの水のように
昼夜わかたず東に流れ 人に知られることもない

 都への旅の途中の九月、杜牧は李徳裕が潮州司馬からさらに遠く厓州海南省海口市の司戸参軍に再貶されたことを耳にします。
 かつて正二品の宰相であった李徳裕は、辺境州の従七品下、諸曹参軍に落とされてしまったのです。
 杜牧は人生の有為転変に粛然とした気持ちにならざるを得ません。
 潤州から揚州までは長江を渡ってすぐです。
 杜牧は弟杜顗とぎの住まいに立ち寄ります。
 揚州の杜顗の家には弟夫婦と一男一女のほかに、李氏に嫁いで寡婦となった妹が子供を連れて同居していました。
 二家族六人は杜牧の仕送りによって質素な暮らしをしていました。
 杜牧は弟の眼病を見舞い、都へ帰ったら今度は大郡の太守になって江南にもどってくる。そうなったらお前の医薬や家族の衣食、妹一家の面倒もいまよりはましにみることができるだろう、心配するなと励まします。
 杜牧は眼医の名人の噂などもして杜顗夫婦に希望を持たせ、三十日間ほど滞在して北へ向かいました。
 冬の運河をつたって北上する途中、汴河べんがを通ります。
 杜牧が冬の汴河を通過するのは、このときだけです。
 この冬は、汴河の水も凍るほどの寒さでした。詩題の「凍れるに阻まる」は、氷結のために航行できなかったことを意味します。
 「玉珂瑤珮」は馬のおもがいにつける玉製の飾りと腰に下げる佩玉のことで、いずれも高位の人を示すものです。
 汴河の氷結する音が玉珂瑤珮の触れ合う音のように響いたと言うことで、富貴の人々の豪奢な生活に警鐘を鳴らしているとも受け止められますが、杜牧は氷の下を流れる水の永遠の流れに目を向けています。結句の「日夜東流して 人知らず」は、杜牧自身のことを言っているのかも知れません。

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