題安州浮雲寺楼寄湖州張郎中 杜牧
           安州の浮雲寺の楼に題し 湖州の張郎中に寄す

去夏疎雨余   去夏きょか 疎雨そうの余のち
同倚朱欄語   同ともに朱欄しゅらんに倚りて語る
当時楼下水   当時 楼下ろうかの水
今日到何処   今日 何いずれの処ところにか到れる
恨如春草多   恨みは 春草しゅんそうの如く多く
事与孤鴻去   事ことは 孤鴻ここうと与ともに去る
楚岸柳何窮   楚岸そがんやなぎ何ぞ窮きわまらん
別愁紛若絮   別愁べつしゅうふんとして絮じょの若ごと
去年の夏は ちょうど小雨がやんだあと
紅欄にもたれて語り合う
あのときの 楼下の水は
今ごろどこを 流れているのか
無念の思いは 春草のように深く
昔のことは 鴻とともに飛び去った
楚地の岸辺に 果てしなくつづく柳の木よ
別れの愁いは 柳絮のように舞っている

 杜牧の一行は陸路をとり、安州湖北省安陸県に着きます。
 安州は去年の夏に訪れた城市で、そのとき「浮雲寺楼」ふうんじろうに上って張文規と飲み明かしました。浮雲寺は安州の州廨内にあった寺の名ですが、寺ははやくに廃され、高楼だけが残っていました。
 高楼は浮雲楼とも呼ばれ、遊宴の場所になっていました。杜牧は浮雲楼の壁に詩を書きつけ、ここでも「恨みは 春草の如く多く」と詠います。あわせてその詩を湖州浙江省呉興県の任地にいる刺史の張文規に送りますが、詩題に「張郎中」とあるのは、張文規がかつて尚書省の郎中であったからです。
 「楚岸」とあるのは、安州がいにしえの楚の国であったからです。楚地を言うことによって、憂国の詩人屈原を暗示しているのかもしれません。
 失望の思いを湖州の友に伝えて、杜牧は夏四月、黄州に着任します。


      早雁          早雁 杜牧

  金河秋半虜弦開  金河きんが 秋半なかばにして 虜弦りょげん開く
  雲外驚飛四散哀  雲外うんがいに驚飛けいひして 四散して哀しむ
  仙掌月明孤影過  仙掌せんしょう 月明らかにして 孤影こえい過ぎ
  長門燈暗数声来  長門ちょうもんともしび暗くして 数声すうせい来たる
  須知胡騎紛紛在  (すべか)らく知るべし 胡騎(こき)紛紛(ふんぷん)として在るを
  豈逐春風一一廻  豈あにに春風を逐って 一一廻かえらんや
  莫厭瀟湘少人処  厭いとう莫なかれ 瀟湘しょうしょう 人少まれなる処と
  水多菰米岸莓苔  水に菰米こべい多く 岸に莓苔ばいたいあり
仲秋八月 金河の畔 胡人の矢が放たれた
雁は驚き四方へ飛び 空に哀しく鳴きわたる
月影明るい承露盤を 孤雁の影はかすめ
灯火くらい長門宮に すすり泣く雁の声がする
雁よ 胡騎が紛々と 乱れ飛ぶのを知るべきだ
もはや春風を追って 故郷へはもどれない
瀟湘の地は 人の住めない荒地ではなく
池に真菰の実は多く 岸には苔もはえている

 都で黄州刺史の発令を受けたころ、杜牧は眼医ならば石公集よりも、その姻戚の周師達しゅうしたつのほうが技術は上だと耳にしていました。
 そこで黄州に着くと、すぐに大金を払って周師達を呼び寄せ、弟のいる蘄州きしゅうに連れてゆきました。
 周師達は杜顗の目をひとめ見て、目に赤脈があり、この症状では針は効かない、よい薬もないので治療は引き受けられないと辞退しました。
 杜顗夫妻はもちろん、杜牧も事の意外に愕然としましたが、石公集を信用したために手遅れになったのは明らかでした。ちょうどそのとき、もうひとりの従兄杜悰とそうが、剣南西川節度使四川省成都に在府から淮南節度使になって、揚州江蘇省揚州市に赴任するという知らせが入りました。
 揚州ならば南蛮人の渡来も多く、眼科に特別な技能を持つ者に逢えるかも知れないと思い、秋になると杜牧は弟一家を連れて揚州に行きました。
 杜悰のはからいもあって、杜顗一家は揚州に住むことになります。
 杜牧が揚州から黄州にもどってすぐのころ、回鶻ウイグルが南下して中国の北方辺境を侵したとの報せが届きました。
 回鶻は安史の乱のとき、粛宗を援けて乱の平定に功績があり、唐と西方との交易を独占して繁栄するようになっていました。
 しかし、開成五年840、つまり文宗が亡くなった年に黠戛斯キルギス族の襲撃を受け、回鶻王国は崩壊しました。追われた回鶻の一部が雲州山西省大同市に侵入して住民を襲い、唐側に大量の流民が発生しました。
 詩の冒頭の「金河」はひろく北辺を流れる河をいい、国境を意味します。
 「仙掌」は漢の武帝が建章宮内に設けた承露仙人掌のことで、仙薬を作るための露を集める盤です。「長門」は同じ武帝のとき寵を失った陳皇后が退去させられて住んでいた宮殿です。
 つまりこの詩は、回鶻の侵入によって生じた流民を雁に喩え、時代を漢に借りて、事件が宮廷に驚愕をもたらしたことを詠っています。
 そして、もう動乱の北へはもどれない、南の「瀟湘」洞庭湖の南方の地に住んだらどうかと呼びかけ、南方は豊かな土地だと訴えています。
 胡族南下の報に接して、杜牧は国を憂え、民の生活を案ずるのでした。


    題桃花夫人廟     桃花夫人の廟に題す 杜牧

   細腰宮裏露桃新  細腰さいようの宮裏きゅうり 露桃ろとう新たなり
   脉脉無言度幾春  脈脈みゃくみゃくげん無く 幾たびの春をか度わた
   至竟息亡縁底事  至竟しきょうそくの亡ぶは 底事なにごとにか縁
   可憐金谷堕楼人  憐れむ可し 金谷きんこく 堕楼だろうの人
楚王の宮殿の庭に立つ 新しい桃の花
細腰の美女は押し黙り 歳月は無駄に過ぎ去った
一体 息が滅んだのは どんな理由があったのか
金谷園の美女も あわれ高楼から身を投げた

 安史の乱後、唐朝は西方の支配を回鶻にゆだね、回鶻の王に公主を降嫁させて和親を図ってきました。
 穆宗の長慶元年八二一に、唐は太和公主を回鶻の王に降嫁させますが、太和公主は憲宗の皇女で、武宗にとっては叔母にあたります。
 ところで回鶻王朝の崩壊によって、会昌三年八四三三月に太和公主が長安にもどってきました。唐は弱体化した回鶻から真制公主養女でない本当の公主を取りもどしたのです。杜牧は太和公主の運命に同情し、春秋時代の陳の公女息嬀そくきにたとえて詩を作ります。詩題の「桃花夫人廟」とうかふじんびょうは黄陂県湖北省黄陂県の東三十里約十七㌔㍍のところにあり、黄州管下の県です。
 廟は楚の文王夫人の墓と伝えられており、杜牧は訪ねていったのでしょう。
 文王夫人はもと春秋陳の厲公れいこうの公女で、嬀姓の陳から息侯そくこうに嫁したので息嬀といいます。いろいろの経緯があって、息はやがて楚の文王に滅ぼされ、息嬀は楚に連れ去られて文王夫人になりますが、夫の息侯を殺した文王に口をききませんでした。
 「金谷堕楼の人」は前にも出てきましたが、晋の富豪石崇せきすうの愛妾緑珠のことで、金谷園の高楼から身を投げて死にました。
 二人とも男の身勝手な争いに巻き込まれた美女であり、杜牧は二人を回鶻からもどってきた太和公主の姿に重ね合わせて同情を寄せているのです。
 なお、息嬀の話は『春秋左伝』の荘公十年と十四年の伝に詳しい話が載っていますので、興味のある方はご覧になってください。
 ここでは繁雑になるので省略しました。


      蘭渓          蘭渓 杜牧

  蘭渓春尽碧泱泱  蘭渓らんけい 春尽きて 碧みどり泱泱おうおうたり
  映水蘭花雨発香  水に映ずる蘭花らんか 雨に香りを発す
  楚国大夫憔悴日  楚国そこくの大夫たいふ 憔悴しょうすいの日
  応尋此路去瀟湘  応まさに此の路を尋ねて瀟湘しょうしょうに去くべし
去りゆく春の蘭渓に 水は流れて碧色
水面にうつる春蘭は 雨に打たれて匂い立つ
楚の大夫屈原は 憂国の情に疲れ果て
水路を辿って瀟湘へ ひとり寂しく去ったのだ

 黄州の東端、蘄州との境に「蘭渓」浠水:きすいが流れています。杜牧はこの美しい川の岸辺を訪れて、春蘭が雨に濡れて咲いているのを目にします。
 楚の詩人屈原三閭大夫は、このあたりから江水を渡って南の瀟湘の地に去っていったのだと、屈原の憂国の至情に思いをはせるのでした。


      赤壁           赤壁 杜牧

  折戟沉沙鉄未銷  折戟せつげきすなに沈んで 鉄未いまだ銷けず
  自将磨洗認前朝  自おのずから 磨洗ませんを将って 前朝ぜんちょうを認む
  東風不与周郎便  東風とうふう 周郎しゅうろうの与ために便ぜずんば
  銅雀春深鎖二喬  銅雀どうじゃく 春深くして 二喬にきょうを鎖とざさん
戟の切片を掘り出した 鉄はまだ錆びてはおらず
洗って磨くと 三国時代の遺物であった
呉の将軍周瑜のために 東風が吹いてくれなければ
喬家の姉妹は捉えられ 春の夜を銅雀台で嘆いたであろう

 秋になると、杜牧は三国魏の曹操が呉に敗れたことで有名な「赤壁」せきへきを訪ねました。赤壁は三国志で名高い古戦場で、呉の将軍周瑜しゅうゆが曹操の水軍を火攻めで破りました。「二喬」は呉の喬家の姉妹で、姉は呉王孫策そんさくに嫁し、妹は周瑜に嫁しました。
 杜牧はここでも歴史に「もし…」を適用し、周瑜が魏軍を破らなければ、喬家の姉妹は魏都鄴ぎょう:河北省臨漳県の銅雀台に囚われの身となって、不運を嘆くことになったであろうと詠います。
 ただし、杜牧が訪ねた黄州の赤壁は長江北岸にある赤鼻山湖北省黄岡市の西北の赤壁で、長江南岸にある実際の古戦場よりは下流になります。
 赤壁という地名はほかにもあり、当時は史跡の考証も充分でなかったので、杜牧は間違いの赤壁に行ったことになります。


    東兵長句十韻      東兵長句十韻 杜牧

   上党争為天下背   上党じょうとういかんぞ 天下の背せきたる
   邯鄲四十万秦阬   邯鄲かんたん四十万 秦しんこう
   狂童何者欲専地   狂童きょうどう何者ぞ 地を専もっぱらにせんと欲す
   聖主無私豈翫兵   聖主せいしゅ無し 豈に兵を翫もてあそばんや
   元象森羅揺北落   元象げんしょう森羅しんら 北落ほくらくに揺らぎ
   詩人章句詠東征   詩人の章句しょうく 東征とうせいを詠ず
上党はどうして 争乱の的になるのか
邯鄲の兵四十万 秦はその地で穴埋めにした
沢潞の叛徒は 勝手に土地を占領し
聖上に私心なく 兵を弄ぶはずはない
北落のあたりで 天象はさまざまに兆し
詩人はまさに 東征の詩句を詠むべし

 杜牧は北辺における胡族の侵入が、どのような災厄をもたらすであろうかと心配していましたが、会昌三年八四三に昭義軍節度使の劉稹りゅうしんが叛しました。太行山中の沢州・潞州山西省東南部に拠る劉従諌りゅうじゅうかん・劉稹父子は、かねてから中央政府の指示に従わないことがしばしばでした。杜牧は「昭義劉司徒に上る書」を呈して、劉従諌を諌めたこともあります。
 兵乱を耳にした杜牧は、黙っていることができません。
 秋になると「李司徒相公に上りて兵を論ずる書」を李徳裕に送り、叛徒鎮圧の用兵について意見を述べました。李徳裕は武宗の信任を受けて会昌二年842正月には司空になり、会昌三年六月には司徒になっていました。
 李徳裕は杜牧の献策を採用し、河陽・河東・魏愽・成徳・河中の節度使に動員令を下し、沢州と潞州は包囲されました。掲げた二十句十韻の排律は、潞州の叛徒がまだ鎮圧されていない冬のあいだの作品でしょう。
 「邯鄲四十万 秦阬す」は『史記』にも載っている戦国末の戦争で、趙軍は上党山西省長治県付近で秦の将軍白起はくきの軍に敗れ、趙の降卒四十余万人は上党で生き埋めにされたといいます。

   雄如馬武皆弾剣  雄きゅうは馬武ばぶの如く 皆みな剣を弾だん
   少似終軍亦請纓  少しょうは終軍しゅうぐんに似て 亦た纓えいを請
   屈指廟堂無失策  廟堂びょうどうを屈指くっしするも 失策無く
   垂衣堯舜待昇平  垂衣すいいの堯舜ぎょうしゅん 昇平しょうへいを待つ
   羽林東下雷霆怒  羽林うりんは東下とうげして 雷霆らいてい怒り
   楚甲南来組練明  楚甲そこうは南来なんらいして 組練それん明らかなり
   即墨龍文光照曜  即墨そくぼくの龍文りゅうぶん 光照曜しょうようたり
   常山虵陣勢縦横  常山じょうざんの虵陣だじんせい縦横じゅうおうたり
諸将は 馬武のように剣を叩き
若者は 終軍のように参陣を願う
指折り数えても 政事に失策はなく
堯舜泰平の世を 待つばかりである
羽林の軍は東下して 雷霆の怒りを発し
楚甲の兵は南下して 武勇を明らかにする
即墨 火牛の龍文は ひかり輝き
常山の虵陣のように 兵は縦横に展開する

 「馬武」は後漢の光武帝に仕えた将軍で、群賊を平定しました。「終軍」は漢代、年少の身でありながら、すすんで南越に使者となった勇者です。
 「即墨の龍文」は戦国斉の田単でんたんが火牛の計で燕軍に反撃した故事を指し、これも『史記』で有名な戦争です。「常山の虵陣」は常山の蛇のように「其の首を撃てば即ち尾至り、その尾を撃てば即ち首至り、その中を撃てば即ち首尾倶に至る」という変幻自在の用兵をいいます。
 杜牧はさまざまな戦史をあげて、用兵の妙を示唆するのです。

   落鵰都尉万人敵   落鵰らくちょう都尉は 万人の敵
   黒矟将軍一鳥軽   黒矟こくさく将軍は 一鳥いっちょう軽し
   漸見長囲雲欲合   漸く見る長囲ちょういくも合せんと欲するを
   可憐窮塁帯猶縈   憐れむ可し窮塁きゅうるいおび猶お縈まとうを
   凱歌応是新年唱   凱歌がいかまさに是れ新年の唱しょうなるべし
   便逐春風浩浩声   便すなわち逐う 春風しゅんぷう浩浩こうこうの声
落鵰都尉は 万人を相手とし
黒矟将軍は 飛鳥を一閃する
包囲の態勢は 雲のように相い合わさり
哀れな賊塁は 帯で締めつけられる
勝利の凱歌は 新年の賀に間に合うだろう
春風を追って 歓びの声が湧き立つのだ

 「落鵰都尉」は南北朝北斉の将軍斛律光こくりつこうのことです。
 「黒矟将軍」は北魏の大官于栗磾うりつていのことです。
 いずれも戦で武勇を現わし、勳功を立てた者で、新年には勝利の凱歌を歌うことができるでしょうと言っています。
 杜牧の憂国詩は故事や人物の引用が多く、後世に読まれなくなる原因のひとつですが、当時としては知識人なら当然知っていることを書いているわけで、知識をひけらかしているわけではありません。しかし、杜牧は憂国詩こそ自分の本分と考えており、詩中前出参照で「詩人の章句 東征を詠ず」と張り切っているのは、本心からのものと考えるべきです。


 雪中書懐     雪中書懐 杜牧

臘雪一尺厚   臘雪ろうせつ 一尺厚く
雪凍寒頑癡   雪ゆきこおりて寒かん頑癡がんちなり
孤城大沢畔   孤城こじょう 大沢だいたくの畔ほとり
人疎煙火微   人ひとにして煙火えんかなり
憤悱欲誰語   憤悱ふんぴ誰にか語らんと欲するも
憂慍不能持   憂慍ゆううんする能あたわず
晩冬十二月 雪が一尺も積もり
凍てついて あきれるほど寒い
孤城は 大沢のほとりにあり
住む人は少なく炊煙もわずか
憤りを語りたいが誰にもいえず
憂憤は抱えきれないほど大きい

 杜牧は唐代の知識人であり、憂国の詩人でした。
 「東兵長句十韻」と同じ年の冬に作ったと思われる作品に、三十二句、百六十字の五言古詩「雪中書懐」せっちゅうしょかいがあります。はじめの六句は序の部分で、「孤城」といっているのは黄州の州府のある県城のことでしょう。
 城が「大沢」のほとりにあったことは、後の詩に出てきます。
 杜牧は国難に際して「憂慍」をかかえていますが、その「憤悱誰にか語らんと欲するも」語り合う相手がいません。
 語り合う相手とは、志を同じくする者のことです。

天子号仁聖   天子 仁聖じんせいと号し
任賢如事師   賢けんに任ずる 師に事つかうる如し
凡称曰治具   凡すべて称して治具ちぐと曰うもの
小大無不施   小大しょうだいほどこさざる無し
明庭開広敞   明庭めいてい 開きて広敞こうしょう
才儁受羇維   才儁さいしゅん 羇維きいを受く
如日月緪升   日月の緪升こうしょうの如く
若鸞鳳葳蕤   鸞鳳らんぽうの葳蕤いすいの若ごと
天子は 仁聖と称し
賢者を用いて師と仰ぐ
およそ政事に必要なことがらは
大事小事 すべてを行なう
明主の朝廷は 広々として高く
人才はあげて 政事に携わる
日が昇り月が満ちるのと同様で
旗に鸞鳳の垂れるのと同一だ

 杜牧は憂慍ゆううんをかかえながらも、天子を信じ朝廷に期待し、「才儁 羇維を受く」といいます。
 朝廷には人材が溢れていると讃えますが、これは自分がその一員として中央の政事に参与していないことを言うための前言です。

人才自朽下   人才じんさいおのずから朽下きゅうか
棄去亦其宜   棄去ききょた其の宜のみ
北虜壊亭障   北虜ほくりょ 亭障ていしょうを壊こぼ
聞屯千里師   千里の師を屯とんすと聞く
牽連久不解   牽連けんれん 久しく解けざれば
他盜恐旁窺   他盜たとう 恐らくは旁窺ぼうきせん
臣実有長策   臣 実まことに長策ちょうさく有り
彼可徐鞭笞   彼 徐おもむろに鞭笞べんちすべし
如蒙一召議   如し一召議いっしょうぎを蒙こうむらば
食肉寝其皮   肉を食し 其の皮に寝ねん
人才が朽ちるのは 各自の責任
棄て去られても仕方がない
北狄が国境の番所を侵し
遠征の軍を出したと聞き及ぶ
ことが延びて 片づかなければ
ほかの賊がすきを窺うであろう
われに討伐の良策あり
徐に敵を手懐けるべきである
ひとたびお召しがあれば
彼らを酒の肴にいたしましょう

 天子は明主であるので、人才が朽ちるのは、その者の責任であり、「棄去 亦た其の宜のみ」と杜牧はいいます。
 そして回鶻が北辺の地を侵し、遠征の軍が出たことに言及します。
 杜牧は「臣 実に長策有り」と決意を述べ、ひとたびお召しがあれば、「肉を食し 其の皮に寝ねん」と勇壮な意見を述べるのです。
 

斯乃廟堂事   斯れ乃すなわち廟堂びょうどうの事
爾微非爾知   爾なんじの微 爾の知るところに非ず
向来躐等語   向来こうらい 躐等語りょうとうご
長作陥身機   長く陥身機かんしんきと作らん
行当臘欲破   行々ゆくゆくまさに臘ろう破れんと欲するに
酒斉不可遅   酒斉しゅせい 遅るべからず
且想春候暖   且つ想う 春候しゅんこうの暖だん
甕間傾一巵   甕間おうかん 一巵いっしを傾けん
しかし それは朝廷の大事
汝ら微臣には関係のないことか
昔から 身分をわきまえない言葉は
身の破滅のもとと伝えている
冬はもはや過ぎ去ろうとして
酒つくりの遅れは許されない
あわせて春の暖かさを想えば
酒甕のそばで大杯を傾けよう

 杜牧の言葉は、大言壮語のようにも聞こえますが、それにつづけて召議は廟堂でおきめになること、微臣の与かり知ることではないとおっしゃるなら、その通りですと言っていますので、杜牧は本気だったのです。
 この詩は中央の誰か、たぶん李徳裕に贈ったものと思われます。
 だから昔から身分をわきまえない言葉は破滅のもとと言っていますのでと言って、「甕間 一巵を傾けん」と韜晦した結びにしていると思います。


 郡斎独酌     郡斎独酌 杜牧

前年鬢生雪   前年 鬢びん雪を生じ
今年鬚帯霜   今年 鬚しゅ霜を帯ぶ
時節序鱗次   時節 鱗次りんじを序じょ
古今同雁行   古今 雁行がんこうに同じ
甘英窮西海   甘英 西海せいかいを窮きわ
四万到洛陽   四万 洛陽に到る
東南我所見   東南 我が見る所
北可計幽荒   北 幽荒ゆうこうを計はかる可し
去年は 鬢に白髪が出たが
今年は 鬚に白いもの
時節の移りかわりは
古今をつうじて変わりない
後漢の甘英は 西の果てまでゆき
四万里の路を歩いて洛陽についた
東南の地は いささか経験したので
北のようすも推量できる

 国難に際して杜牧の創作意欲は高まります。
 「郡斎独酌」ぐんさいどくしゃくは郡の役所の部屋でひとり酒を飲むという意味ですが、この詩は百八句、五百六十八字の長短句からなる長篇です。
 杜牧はまず自分の老いたことを述べます。
 「甘英」かんえいは後漢のとき、班超はんちょうに従って西域を旅し、偵察者として地中海に達したとされる人物です。その壮挙述べて、自分は東南の地江南地方はいささか経験したので、「北 幽荒を計る可し」と抱負を述べます。以下八十八句を省略しますが、まず描くのは都長安の栄華のようすです。
 ついで侍中李光顔りこうがんの気力充分な活躍を述べます。
 李光顔は元和年間に淮西の反側藩鎮を鎮定し、また吐蕃の侵入を撃退して大功があり、穆宗・敬宗の時代に宰相を務めました。
 つぎに一転して処士朱道霊しゅどうれいの隠棲のようすを描き、十三年前に杜牧が朱道霊の棲み家を訪ねたときのことを物語ります。
 杜牧は朱道霊に向かって天下国家を論じますが、朱道霊はそれがどうしたと言って一顧だにしませんでした。杜牧はそれもいまは懐かしい思い出であると詠いますが、杜牧の本心は李光顔にあり、国難に尽くしたいけれども用いられない自分の気持ちを、朱道霊に託しているのでしょう。

腥膻一掃灑     腥膻せいせんは一掃灑いっそうしゃ
兇狠皆披攘     兇狠きょうかんは皆みな披攘ひじょう
生人但眠食     生人せいじんは但だ眠食みんしょく
寿域富農桑     寿域じゅいき 農桑のうそうに富ましめん
孤吟志在此     孤吟こぎんこころざし此れに在り
自亦笑荒唐     自みずから亦た荒唐こうとうを笑う
江郡雨初霽     江郡こうぐん 雨初めて霽
刀好截秋光     刀とうは好し 秋光しゅうこうを截るに
池辺成独酌     池辺ちへんに独酌どくしゃくを成
擁鼻菊枝香     鼻を擁ようして菊枝きくしかんば
醺酣更唱太平曲  醺酣くんかん更に唱う 太平の曲
仁聖天子寿無疆  仁聖天子 寿じゅきわまり無し
北に夷狄を一掃し
悪党はみな退治する
民に安眠と食事をあたえ
農桑ゆたかな世にしたい
ここに詩を ひとり吟ずる志はまことだが
とりとめもないのに笑ってしまう
臨江の斉安郡に雨はやみ
すっきり晴れた秋びより
池のほとりで独酌すれば
鼻に満ちるのは菊酒のかおり
心地よい酔いにまかせて太平の曲
仁聖天子の寿 無窮を祈る

 杜牧はそのご観察御史になり、東都分司に任ぜられたが、なすところもなく過ごしたとみずからを反省して長い詩を結びます。
 この十二句は、それにつづく結びの部分です。
 杜牧は北に夷狄を一掃し、悪党はみな退治して「生人は但だ眠食し 寿域 農桑に富ましめん」と憂国済民の志を述べますが、「自ら亦た荒唐を笑う」と無力な自分を笑ってみせます。「江郡」というのは江に臨む斉安郡のことで、黄州を郡として呼んだものです。秋の登高のころでしょうか、杜牧は池のほとりでひとり菊酒菊の花を浮かべた酒を飲んで太平の曲を唱い、「仁聖天子 寿疆まり無し」と皮肉たっぷりに自嘲するのでした。
 結びの二句が七言になっていることに注目してください。


  題木蘭廟        木蘭廟に題す 杜牧

彎弓征戦作男児   弓を彎いて征戦し 男児だんじと作
夢裏曾経与画眉   夢の裏うちに曾経かつてために眉を画えが
幾度思帰還把酒   幾度か帰るを思いて 還た酒を把
払雲堆上祝明妃   払雲堆上ふつうんたいじょう 明妃めいひに祝いの
男装して弓を引き 国難に赴いたが
夢のなかでは 乙女ごころの眉をひく
望郷の想い募れば 酒を供えて祈る
払雲堆上は 王昭君の祠の前で

 明ければ会昌四年八四四です。黄州で二度目の春がめぐってきます。やがて三度目の夏がおとずれますが、沢潞での包囲戦はまだつづいています。
 そのころ杜牧は「木蘭廟」もくらんびょうに詣でました。
 木蘭の廟は黄州の州廨の西、木蘭山にありました。木蘭は北魏のころの伝説の少女で、長編叙事詩「木蘭詩」に歌われています。
 木蘭は召集された老父の身替わりになり、男装して従軍し、十二年間も遠征に従事して凱旋したといいます。
 木蘭が向かったのは、黒山の頭、燕山の胡騎の地とされており、遠征中に「明妃」王昭君の廟に祈ったという伝えはありませんが、杜牧は木蘭の遠征地を黄河の北岸にある「払雲堆」のあたりと考えていたようです。
 望郷の想いがつのると、木蘭は払雲堆の上にあった王昭君の廟に詣でて心を励ましたと詠います。


   斉安郡後池絶句    斉安郡の後池絶句 杜牧

   菱透浮萍緑錦池   菱ひしは浮萍ふひょうを透とおす 緑錦りょくきんの池
   夏鶯千転弄薔薇   夏鶯かおう千転して 薔薇しょうびに弄たわむ
   尽日無人看微雨   尽日じんじつ 人の 微雨びうを看る無く
   鴛鴦相対浴紅衣   鴛鴦えんおう相対いて 紅衣こういを浴す
菱の葉は浮き草と混じり合い 池は緑の錦織り
夏鶯は囀りつづけ 薔薇の花とたわむれる
一日けむる霧雨を 共に眺める人もなく
鴛鴦は向き合って 羽根に清水を振りかける

 黄州の州廨しゅうかい:州の役所の裏手に池があり、菱の葉が浮き草のあいだから顔を出して、池は緑の錦織りのようでした。
 杜牧は共に時世を語り合う友もなく、池の鴛鴦おしどりを眺めています。
 憂国の心はあっても、州刺史の杜牧にできることは何もないのです。

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