題宣州開元寺  宣州の開元寺に題す 杜牧

南朝謝朓城   南朝なんちょう 謝朓しゃちょうの城
東呉最深処   東呉とうご 最も深き処
亡国去如鴻   亡国は 去って鴻おおとりの如く
遺寺蔵煙塢   遺寺いじは 煙塢えんおに蔵かく
楼飛九十尺   楼は飛ぶ 九十尺
廊環四百柱   廊は環めぐらす 四百柱しひゃくちゅう
高高下下中   高高下下こうこうかかの中うち
風繞松桂樹   風は繞めぐる 松桂しょうけいのの樹
南朝は 謝朓ゆかりの城
呉の奥まったところにある
国は鴻のように飛び去って亡び
遺された寺は 霧のわく山の懐にある
高楼は 九十尺の高さにそびえ
回廊には 四百本の柱がならぶ
境内は 高下に波うち
吹く風は 樹々のあいだを駆けめぐる

 宣州は建康からすこし遡った長江右岸にあり、六朝時代からの要地でした。宣州は内陸の街ですが、江岸の渡津当塗安徽省当涂県から水路が通じていますので舟で行けます。
 杜牧は宣州に着くと、すぐに開元寺を再訪しました。
 開元寺は東晋時代に創建された古刹で、もとの名を大雲寺といいます。
 玄宗の開元年間に開元寺と名を改めました。宣州城内の中央部に陵陽山という小丘があり、開元寺は山上の塢窪地一帯を占めています。県衙からも近いので、いつでも行ける寺ですが、詩は春になってからの作品です。
 南朝斉の詩人謝朓は宣州太守になってこの地を治めましたので、謝朓の詩が残されています。
 その山水詠は清麗と評され、唐代の詩人に敬愛されていました。
 詩はまず、開元寺の高楼や回廊の壮大な構えを詠います。

青苔照朱閣   青苔せいたい 朱閣しゅかくに照り
白鳥両相語   白鳥はくちょうともに相語あいかた
渓声入僧夢   渓声けいせい 僧夢そうむに入り
月色暉粉堵   月色げっしょく 粉堵ふんとに暉かがや
閲景無旦夕   景を閲ること 旦夕たんせき無く
憑欄有今古   欄に憑れば 今古きんこ有り
留我酒一樽   我を留むるは 酒さけ一樽いっそん
前山看春雨   前山ぜんざんに 春雨しゅんうを看
緑の苔は 楼閣の朱塗りに映え
白鷺は 向かい合って鳴きかわす
水の音は 僧侶の夢に入り
月の光は 白壁の塀にかがやく
朝な夕な あきることのない景色
欄干によれば 昔のことが懐かしい
こんなところで 一樽の酒を飲みながら
春雨煙る山々を とくと眺めて暮らそうか

 杜牧は開元寺の美しく静かなたたずまいを五言古詩で描きますが、結びの一句で「前山に 春雨を看ん」と憶いを述べています。
 杜牧はこの詩で、隠者へのあこがれを詠っているようです。


    題元処士高亭     元処士の高亭に題す 杜牧

  水接西江天外声  水は西江せいこうに接す 天外てんがいの声
  小斎松影払雲平  小斎しょうさいの松影しょうえい 雲を払いて平たいらかなり
  何人教我吹長笛  何人なんびとか我に長笛ちょうてきを吹くを教えて
  与倚春風弄月明  与ともに春風に倚りて 月明を弄もてあそばん
川の流れは西江に連なり 天上に声がする
亭前の松は 雲を払って聳えている
だれかわたしに 笛を教えてくれないか
春風に吹かれて 月の光と遊んでみたい

 詩題の「処士」しょしは、知識人で在野の者の称号です。
 元処士の山居は陵陽山の見晴らしのよい高台にありました。
 あたりの山から流れ出る渓流は西江に注いでいます。
 長江に注ぐ清弋江せいよくこうは、宣州の西を流れているので西江と称され、南の黄山の水を集めて北へ流れています。
 杜牧は元処士の高亭こうていを訪ね、天上の声を聞いたような思いがします。
 そして「春風に倚りて 月明を弄ばん」と隠者の生活へのあこがれを詠うのです。


      有感          有感 杜牧

  宛渓垂柳最長枝  宛渓えんけいの垂柳すいりゅう 最も長枝ちょうし
  曾被春風尽日吹  曾かつて春風しゅんぷうに 尽日じんじつ吹かる
  不堪攀折猶堪看  攀折はんせつに堪えざるも 猶お看るに堪えたり
  陌上少年来自遅  陌上はくじょうの少年 来ること自おのずから遅し
宛渓の岸の柳は とりわけ長く枝をたれ
春風に吹かれて 日がな一日ゆれている
別れは辛く悲しいが 眺めはいまだ美しい
だが 路上の若者は あえて近寄ろうとしないのだ

 宣州城の東には宛渓と句渓の二水が北へ流れており、やがて合流して青弋江に注ぎます。
 かつて宛渓のほとりで「尽日」春風に吹かれていたのは誰でしょうか。
 昔なじんだ妓女と再会したけれども、すでに盛りを過ぎていて、憐れんで作ったという説もあります。
 しかし、柳の枝を「攀折」引き寄せて折るのは再会を祈るためです。
 折楊柳は別れの鎮魂を意味し、自分を離別する、もしくは自己を捨て去ることの辛さを言っているとも解されます。杜牧はすでに三十六歳になっており、中央のしかるべき地位についていてもいい年齢です。
 それが暇な地方勤めをしています。
 「陌上の少年」が難解ですが、役所の若者と解しました。
 若者たちは中年の杜牧に声をかけようともしませんが、杜牧自身は「猶お看るに堪えたり」と思っています。
 まだ捨てたものじゃないぞ、と思っているわけです。


   宣州開元寺南楼    宣州開元寺の南楼 杜牧

   小楼纔受一床横   小楼纔わずかに受く 一床いっしょうの横たわるを
   終日看山酒満傾   終日 山を看て 酒さけ満傾まんけい
   可惜和風夜来雨   惜しむ可し 風に和して 夜来やらい雨ふるも
   酔中虚度打窗声   酔中すいちゅう虚しく度わたる 窓を打つの声
小楼は狭くて 寝床を置ける大きさだ
ひねもす山を眺めて酒を飲む
昨夜は雨まじりの風が吹いたが 残念だ
酔いつぶれて 窓打つ声を聞きそこねる

 開成三年八三八秋七月二十五日に、日本の遣唐使一行が揚州に到着しています。天台宗請益僧円仁えんにんも、随員の一人として加わっていました。
 その遣唐使を現地で応接したのが淮南節度使李徳裕で、そのことは円仁の有名な日記に書かれています。李徳裕はこの年、杜顗を淮南支使・試大理評事兼観察御史に任じますが、兄杜牧とともに宣州にいた杜顗は、眼病のため勤務につけないと断っています。
 断りましたが、これが杜顗の最終官歴になっています。
 一方、杜牧は春から秋へかけて幾度も開元寺を訪れ、寺の小楼で泊まることもあったようです。詩の結びの「窓を打つの声」は何でしょうか。
 唐朝の危機を伝える時代の足音かも知れませんし、杜牧の不遇を払いのける天来の声かも知れません。


   題宣州開元寺水閣 宣州開元寺の水閣に題す 杜牧

   六朝文物草連空  六朝りくちょうの文物 草 空そらに連なり
   天澹雲閑今古同  天澹やすらかに雲閑しずかにして 今古きんこ同じ
   鳥去鳥来山色裏  鳥去り鳥来たる 山色さんしょくの裏うち
   人歌人哭水声中  人歌い 人哭こくす 水声すいせいの中うち
   深秋簾幕千家雨  深秋しんしゅう 簾幕れんばく 千家せんかの雨
   落日楼台一笛風  落日らくじつ 楼台ろうだい 一笛いってきの風
   惆悵無因見范蠡  惆悵ちゅうちょうす 范蠡はんれいを見るに因よし無きを
   参差煙樹五湖東  参差しんしたる煙樹えんじゅ 五湖ごこの東
六朝の栄華の地も 天までつづく草の原
青い空と雲だけは 昔と変わらず静かである
鳥たちは 緑の山を自由に飛びかい
流れの音を聞きながら 人は喜びかつ悲しむ
深まる秋 簾をおろした家々に雨はそぼ降り
落日と楼台 風のまにまに笛は流れる
ああもはや 范蠡のような壮士に遇うことなく
東に太湖を望んでも 樹々が霞んで見えるだけ

 この詩のはじめ六句は、開元寺の秋を詠うものでしょう。それはすでに滅んでしまった六朝の文物、自然の静かな佇まいとして描かれます。
 それが一転して、結びの二句では現実への批判、詠嘆になります。
 その対比、結びつきが見事です。結びの「五湖」は太湖のことで、宣州の東にありますが、見えるような位置ではありません。
 山々に隔てられています。
 その太湖を持ち出したのは、春秋時代の越王勾踐こうせんの功臣「范蠡」の功業と、そのいさぎよい人生を指摘したかったからです。
 杜牧にはもともと救国の英雄を求める心があります。
 しかし、太湖の方と同じように、皇帝のいる都長安も樹々の向こうに茫漠としてかすんでいると、現在の状況を嘆き悲しんでいると解されるのです。


  大雨行         大雨の行うた 杜牧

東垠黒雲駕海水   東垠とうぎんの黒雲こくふう 海水に駕
海底巻上天中央   海底巻きて上のぼる天の中央
三呉六月忽悽惨   三呉さんご 六月 忽ち悽惨せいさん
晩後点滴来蒼茫   晩後ばんご 点滴 蒼茫そうぼうより来たる
錚桟雷車軸轍壮   錚桟そうさん 雷車らいしゃ 軸轍じくてつさかん
嬌躩蛟龍爪尾長   嬌躩きょうかく 蛟龍こうりゅう 爪尾そうび長し
東天の果てから 黒雲は海水に乗り
海底を宙に巻き上げる勢いだ
三呉の六月 たちまち惨状を呈し
夜更けまで 蒼茫の野に雨は降る
叩きつける金音 桟車は雷車の車輪のように鳴り
掴みかかる蛟龍 爪と尾は強力で長い

 杜牧は諦念のただよう詩を書きながら、一方では二十六句、百八十二字の七言古詩も書いています。この詩には「開成三年宣州開元寺作」との自注があり、開成三年の夏六月に開元寺に泊まっていたとき大雨に遭い、作ったものであることが明らかです。
 杜牧は豪壮活発な表現を駆使して、大雨のすさまじさを描きます。

神鞭鬼馭載陰帝   神鞭しんべん 鬼馭きぎょ ぞ顛狂てんきょう
四面崩騰玉京仗   四面 崩騰ほうとうす玉京仗ぎょくけいじょう
万里横牙羽林槍   万里 横牙おうが 羽林槍うりんそう
雲纏風来乱敲磕   雲纏まとい風来たりて乱れて敲磕こうかい
黄帝未勝蚩尤強   黄帝こうてい未だ勝たず 蚩尤しゆう強し
百川気勢苦豪俊   百川ひゃくせんの気勢 苦はなはだ豪俊ごうしゅん
坤関密鎖愁開張   坤関こんかん密鎖みつさして開張かいちょうを愁う
神の鞭をふるう鬼人は 陰帝を載せ
往復して狂ったように水を吹き出す
四方は 玉京の兵仗によって崩れ飛び
万里は 羽林の刀槍によって薙ぎ倒される
雲は絡まり風は吹き荒れて石を叩きつけ
黄帝いまだ勝利せず 蚩尤は強い
天下の河川は 勢威はなはだ強く俊敏で
関門を閉じて 開かないようにするのがやっとだ

 杜牧は神話伝説を借りて、縦横に雨の凄さを描きます。
 それが涿鹿たくろくの野における黄帝と蚩尤の闘いに及ぶとき、杜牧は安史の乱と、それからの政事の乱れに思いを馳せるのかも知れません。

   太和六年亦如此  太和六年 亦た此かくの如し
   我時壮気神洋洋  我れ時に 壮気そうき神洋洋しんようよう
   東楼聳首看不足  東楼 聳首しょうしゅして看て足らず
   恨無羽翼高飛翔  恨むらくは 羽翼うよくの高く飛翔する無きを
   尽召邑中豪健者  尽く邑中ゆうちゅうの豪健者ごうけんしゃを召し
   闊展朱盤開酒場  闊ひろく朱盤しゅばんを展てんして酒場しゅじょうを開く
   奔光槌皷助声勢  奔光ほんこう 槌皷ついこ   声勢せいせいを助け
   眼底不顧繊腰娘  眼底がんてい顧みず 繊腰娘せんようじょう
   今年闒茸髪己白  今年こんねん 闒茸とうしょうかみ既に白く
   奇遊壮観唯深蔵  奇遊きゆう 壮観そうかんだ深く蔵す
   景物不尽人自老  景物けいぶつ尽きず 人ひとおのずから老い
   誰知前事堪悲傷  誰か知らん 前事ぜんじの悲傷に堪えたるを
思えば 太和六年の雨もこうだった
あのときはまだ若く 意気揚々としていた
東楼に上り 見わたしても足りず
翼がなくて 飛べないのが残念だった
村中のいなせな若者をあつめ
朱塗りの大杯で酒盛りをした
杯を飛ばし 太鼓をたたいて気勢をあげ
楚腰の美女も眼中にない
いまはすっかり衰え 白髪もはえて
珍しいものを観たい気持ちも抑えている
自然の風物は限りないのに人は老い
かつての悲しい出来事を 誰が知ってくれようか

 そして後半、杜牧は太和六年832の大雨もこんなだっと、六年前の自分を思い出します。
 しかし、杜牧の心はすでに憂国の思いと隠遁者への思いに引き裂かれており、かつてのような元気はありません。


 念昔遊 其三      昔遊を念う 其の三 杜牧

李白題詩水西寺   李白 詩を題す 水西寺すいせいじ
古木廻巌楼閣風   古木 廻巌かいがん 楼閣ろうかくの風
半醒半酔遊三日   半醒はんせい半酔 遊ぶこと三日さんじつ
紅白花開山雨中   紅白 花は開く 山雨さんうの中うち
李白がかつて 詩に詠った水西寺
深山幽谷 古木は茂り 風は高楼に吹きわたる
ほろ酔い気分で三日間 心ゆくまで楽しんだ
山の小雨に濡れながら 紅白の花が咲いている

 杜牧は引き裂かれた心のまま、いろいろな寺を巡り歩き、車で遠くまで出かけることもありました。「水西寺」は李白が晩年に訪ねたことのある寺で、涇県安徽省涇県の西五里三㌔㍍の奥深い山中にあります。
 涇県けいけんは青弋江の上流の町で、黄山の東北山麓にあたります。
 なお、詩題の「昔遊」せきゆうは、其の一の詩後出に「十載 飄然たり」とありますので、李白が昔遊んだことではなく、杜牧の一度目の江南在勤のときをいうと思われます。
 一度目の宣州勤務のときに訪ね、今度また訪れたもののようです。


   山行          山行 杜牧

   遠上寒山石径斜   遠く寒山かんざんに上れば 石径せきけい斜めなり
   白雲生処有人家   白雲はくうん生ずる処 人家じんか有り
   停車坐愛楓林晩   車を停とどめて坐そぞろに愛す 楓林ふうりんの晩くれ
   霜葉紅於二月花   霜葉そうようは 二月の花よりも紅くれないなり
はるか寒山に登ると 石畳の径が斜めにつづく
白雲の湧いている辺に 人家があった
車を停めて 楓林の暮れゆくさまに見とれていると
霜葉は二月の花よりも 紅だった

 「山行」さんこうは有名な詩ですが、制昨年不明です。
 「白雲生ずる処 人家有り」は隠者の存在を示唆するもので、この時期の作品にふさわしいと思います。「楓」は江南のいたるところに自生していますが、日本の「かえで」とは違う落葉高木です。
 春の盛りの二月に花を咲かせますが、二月に咲く花よりも秋の紅葉のほうが美しいと、杜牧はくれないの林にみとれています。


    送李群玉赴挙      李群玉の 挙に赴くを送る 杜牧

   故人別来面如雪   故人こじん   別来べつらいおもは雪の如し
   一榻払雲秋影中   一榻いっとう 雲を払う 秋影しゅうえいの中うち
   玉白花紅三百首   玉白ぎょくはく花紅かこう 三百首
   五陵誰唱与春風   五陵ごりょう 誰か唱いて 春風しゅんぷうに与かう
一別来君と会えば 雪のような清らかさ
秋の郷試に合格し めでたく一榻の待遇をえた
玉白花紅 詩経のような見事な詩
春風のなか 都でだれが唱うのか

 杜牧の詩名を慕って、遠くから訪ねてくる若い詩人もいました。
 詩題の「李群玉」りぐんぎょくは澧州れいしゅう:湖南省澧陽県の出身といいますから、秋の郷挙に合格し、春に都で行われる貢挙の本試験を受けるために上京する途中、杜牧を訪ねてきたのでしょう。
 李群玉はこのとき二十歳代の末で、杜牧より七歳ほど若かったようです。
 「別来」と言っているのは、杜牧が最初に宣州に勤務したときに交流があり、再来したものと思われます。
 「三百首」は『詩経』の詩数で、『詩経』のような見事な詩が「五陵」で理解されればいいのだがと、才能のある若い詩人を励ましています。


    念昔遊 其一       昔遊を念う 其の一 杜牧

   十載飄然縄検外   十載じっさい 飄然ひょうぜんたり 縄検じょうけんの外そと
   罇前自献自為酬   罇前そんぜん 自ら献けんじ 自ら酬しゅうを為
   秋山春雨閑吟処   秋山しゅうざん 春雨しゅんう 閑吟かんぎんの処ところ
   倚遍江南寺寺楼   倚りて遍あまねし 江南 寺寺じじの楼ろう
気ままに過ごした十年間 自由の日々が懐かしい
酒壷を引き寄せ ひとりで飲んだこともある
秋の山よ 春雨よ 暇にまかせて詩を吟じ
江南の寺 高楼を 訪ねつくして果てもない

 冒頭の「十載」は一回目の江南勤務のことで、杜牧は気ままに過ごした若い日々を懐かしみながら、暇にまかせて各地の寺をめぐり歩きます。
 「秋山 春雨 閑吟の処」と、どの寺も秋の風情は深く、詩興のつきることはありません。


寄題宣州開元寺    宣州の開元寺に寄題す 杜牧

松寺曾同一鶴棲   松寺しょうじかつて一鶴いっかくと同ともに棲む
夜深台殿月高低   夜深よふけて 台殿だいでん 月に高低こうてい
何人為倚東楼柱   何人なんびとか為に倚らん 東楼とうろうの柱
正是千山雪漲渓   正まさに是れ 千山 雪 渓けいに漲みなぎ
松林 緑の寺で 鶴と暮らしたこともある
夜更けて月は 仏閣の甍を照らし出す
東楼の柱の陰に もたれているのは何者か
山には雪が降りしきり 眼下の谷を埋めつくす

 杜牧は冬の夜更けに開元寺を訪れたこともありました。詩題に「寄題」とありますので、詩は後に送って寺院の壁に書きつけてもらったものです。
 それにしても「為に倚らん 東楼の柱」の人物は誰でしょうか。
 隠者とも思われますが、何者かと杜牧は自分自身に問いかけ、みずからを励ましているようにも見えます。
 千山に雪は降り、眼下の谷川は雪に埋めつくされています。
 この叙景には、杜牧の悲痛な想いが込められているように思います。


 宣州送裴坦判官往舒州時牧欲赴官帰京 杜牧
  宣州にて裴坦判官の舒州に往くを送る
                時に牧 官に赴き京に帰らんと欲す
  日暖泥融雪半銷  日暖かく泥融けて 雪半ば銷
  行人芳草馬声驕  行人こうじん 芳草ほうそう 馬声ばせいおご
  九華山路雲遮寺  九華きゅうかの山路 雲 寺を遮おお
  清弋江村柳払橋  清弋せいよくの江村 柳 橋を払はら
  君意如鴻高的的  君が意は鴻おおとりの如く 高く的的てきてきたり
  我心懸旆正揺揺  我が心は(はた)()くるがごとく 正に揺揺(ようよう)たり
  同来不得同帰去  同ともに来たりて 同に帰り去るを得ず
  故国逢春一寂寥  故国にて春に()うとも (いつ)寂寥(せきりょう)たらん
陽ざしを受け 凍土はゆるみ雪も半ばは消えている
春草は萌えて 旅人の馬はいななく
九華山の路に 寺は雲に覆われ
清弋江の辺り 橋に柳は垂れている
君のこころは 鴻のように高く飛び
わたしの心は 旗のようにゆれ動く
共に赴任して来たが いっしょに帰れない
長安の春に逢っても 寂しい思いがするだろう

 その年の冬も深まったころ、杜牧は左補闕・史館修撰に任命されます。左補闕従七品上は門下省に属し、皇帝を諷諌し、大臣を糾察する役目です。
 杜牧の父親もこの職に就いたことがあります。
 ただし、杜牧は史館修撰を兼務しています。
 史館は中書省集賢殿書院に属し、国史の編纂に当たるのが役目です。修撰はその属官ですが、弘文館と同様、史館には固有の品階がありません。
 だから杜牧の本務は史館修撰の方で、左補闕は寄禄官であったかもしれません。杜牧が帰京の命令を受けたころ、同僚の裴坦はいたんは舒州安徽省潜山県に出張することになっていました。明けて正月、裴坦の出発に際して送別の宴が開かれ、杜牧は裴坦に詩を贈りました。
 杜牧も都に帰ることが決まっており、裴坦が出張先から帰るのを待つことなく都へ発つ予定でしたので、留別の詩でもあります。舒州じょしゅうへの道は、清弋江せいよくこうを西へ渡って、南陵なんりょうから九華山の麓を通ります。
 九華山の寺は杜牧も訪ねたことがあり、よく知っている道です。
 杜牧は「同に来たりて 同に帰り去るを得ず」と裴坦も都への転任を期待していただろうと思い、友の心情を気遣っています。

目次