寄牛相公       牛相公に寄す 杜牧

   漢水横衝蜀浪分   漢水かんすい横に衝いて 蜀浪しょくろう分かれ
   危楼点的払孤雲   危楼きろう 点的てんてきのごとく 孤雲を払う
   六年仁政謳歌去   六年の仁政 謳歌おうかし去り
   柳遠春隄処処聞   柳 春隄しゅんていに遠くして 処処しょしょに聞こゆ
漢水の合するところ 長江は二分して波立ち
黄鶴楼のいただきは 点となって雲に達する
六年間の仁政に 賞讃の声は満ち
春の柳は江堤に列なり 別れを惜しむ声がする

 大和四年八五〇正月、武昌軍節度使牛僧孺ぎゅうそうじゅが兵部尚書・同中書門下平章事に任ぜられ、都にもどることになりました。
 平章事べんじょうじは宰相ということで、複数任命されるのが通例ですが、政府の政策を決定する立場になるのです。
 杜牧は牛僧孺の栄転を祝って詩を贈ります。
 話は二十年ほど前に遡りますが、杜牧が五歳であった元和二年八〇七に憲宗は李吉甫りきっほを宰相に任じて藩鎮に対する強硬策を推進しました。
 牛僧孺はその二年前に二十六歳で進士に及第し、任官していました。
 元和三年八〇八に憲宗は制挙を実施しますが、牛僧孺は李宗閔りそうびんらとともに賢良方正能直言極諌科を受験し及第します。
 そのとき牛僧孺と李宗閔は、李吉甫の政策が無謀であるとして強く批判しましたので、ふたりは李吉甫に疎まれ、制挙の成績が優秀であったにもかかわらず重用されませんでした。
 いわゆる「牛李の党争」はこのときにはじまります。
 「牛李の党争」は政策論としてはじまりますが、その裏には、李吉甫のように試験を受けずに先祖の功績によって任官し高官になっていく恩蔭系の官僚と、家が寒門高官を出していない士の家であるため受験によって任官する貢挙系の官僚との対立があり、次第に党派抗争の様相を呈してきます。
 杜牧は名門の生まれでしたので、恩蔭で任官することも可能でした。
 事実、杜牧の従兄弟の多くは祖父杜佑の恩蔭で任官しています。
 しかし、士人のあいだでは進士になって、つまり自己の実力によって任官するのを誇りに思う風潮が育っていましたので、詩文にすぐれていた杜牧は、あえて進士に挑戦し、制挙にも合格したのです。
 だから杜牧は出身は恩蔭系ですが、任官は貢挙系という微妙な立場にあり、両方に友人知人が多かったのです。牛僧孺に対しては尊敬する先輩官僚として接しており、詩で見るかぎり武昌の節度使の使府に立ち寄ったこともあり、武昌にある黄鶴楼にも上ったと見られます。
 杜牧は「六年の仁政 謳歌し去り」と牛僧孺を賞讃していますが、このことは恩蔭系李党の李徳裕りとくゆう:李吉甫の息子からみれば、牛党貢挙系に組する行為とみなされたでしょう。杜牧のどちらの党にも通じているという中間的な立場は、このあと杜牧の人生に大きな影響を及ぼすことになります。


代人寄遠 其一    人に代わりて遠きに寄す 其の一 杜牧

河橋酒旆風軟    河橋かきょうの酒旆しゅはい 風軟らかに
候館梅花雪嬌    候館こうかんの梅花ばいか 雪のごとく嬌なまめか
宛陵楼上瞠目    宛陵えんりょうの楼上に 瞠目どうもく
我郎何処情饒    我が郎ろういずれの処にか情じょうおお
橋のたもとの酒屋の旗 風やわらかにそよいでいる
旅籠に咲く梅の花は 雪のようになまめかしい
宛陵の高い楼から ぱっちり眼で見張っている
わたしの愛しい恋人よ 何処で浮気をしているの

 杜牧が牛僧孺の栄転に詩を寄せた大和四年八三〇の秋九月に、江西観察使沈伝師が宣歙せんきゅう観察使に転任となり、杜牧も沈伝師に従って宣州安徽省宣城県に移りました。張好好も沈伝師にともなわれて洪州から宣州に移り、宣州の楽籍に転じています。
 杜牧の職務も生活も洪州時代と同じようにつづいたようです。
 その年の冬、杜牧は都への使者を命ぜられ、公務で帰京しました。観察使としての上申や報告事項などがあり、毎年冬には都への使者が出るならわしになっていましたので、その役目が杜牧に廻ってきたということでしょう。
 二年振りにみる長安でしたが、そのころ都では牛党の牛僧孺や李宗閔が李党を排斥して政権を固めていました。弟の杜顗とぎは二十四歳になっていて、都で受験勉強の最中です。
 杜牧はしっかりやれと励まして宣州にもどっていったことでしょう。
 掲げた詩は題名に示されているように、他人に代わって詠う詩であり、遊戯的な気分の強い作品です。
 「宛陵」は宣州のことで、漢代の県名で呼んだものです。
 宣州の酒楼の妓女を相手に戯れている趣きがあり、六言の詩であることにも注目してください。


   代人寄遠 其二    人に代わりて遠きに寄す 其の二 杜牧

   繍領任垂蓬髻    繍領しゅうりょうは 蓬髻ほうけいを垂るるに任まか
   丁香閑結春梢    丁香ていこうは 閑しずかに春梢しゅんしょうに結ぶ
   賸肯新年帰否    賸まことに肯えて 新年を帰るや否いな
   江南緑草迢迢    江南こうなんは 緑草りょくそう迢迢ちょうちょうたり
刺繍の衿に 髷を散らして垂れたまま
春の枝先に 丁子はひっそりと蕾をつける
年が明けたら ほんとにもどってくださるの
緑の草は江南に 見わたす限り生えそろう

 杜牧はのちに艶麗詩の詩人とみなされますが、それはこのころの作品に原因があるようです。初句の「蓬髻を垂るるに任し」は当時流行した髪形というか、唐代後半の頽廃した風俗の一種でしょう。
 「丁香は 閑かに春梢に結ぶ」の丁香は春に果実のような蕾をつけ、夏になると薄紅色の花をひらく丁子ちょうじのことです。
 また中国では夫婦の固いちぎりや結婚の約束のことを同心結といいますので、「結」は恋心を結ぶ意味に解されます。杜牧は年末になると、使者として遠くへ派遣されることが多かったようです。長安へ使者として赴いたときも、宣州にもどってきたのは年が明けてからでした。
 結句の「緑草迢迢たり」は春に萌え出る若草のことで、しばしば燃え上がる恋の慕情に喩えられます。
 胸一杯の愛情で待っていますと妓女に詠わせた形になっていますが、作者は杜牧ですので、どちらの胸の内か分かったものではありません。


   寄遠           遠きに寄す 杜牧

前山極遠碧雲合   前山ぜんざん極めて遠く 碧雲へきうんがっ
清夜一声白雪微   清夜せいや 一声いっせい 白雪はくせつかすかなり
欲寄相思千里月   相思そうしを寄せんと欲す 千里の月に
渓辺残照雨霏霏   渓辺けいへん 残照ざんしょう 雨霏霏ひひたり
前方の山は遠くはるか 碧の雲にさえぎられ
黄昏の澄んだしじまに 白雪の曲は流れる
あまねく照らす月影に つきぬ思いを託そうとすれば
川の岸辺に夕日は残り 雨がしとしと降ってきた

 詩題の「遠きに寄す」は、人に預けて遠方の人に詩文を送ることです。
 この詩は旅先から馴染の妓女に送ったものかも知れません。
 「白雪」は琴の曲名で、高雅な曲として有名だったようです。
 杜牧が旅先でその曲が流れてくるのを聞き、離れている妓女を想い出したという趣きがあります。
 もしくは相手の女性の得意とする曲であった可能性もあります。
 「千里の月」には、月の光が遠く離れている二人を結びつけているという意味が含まれているでしょう。


     南陵道中        南陵の道中 杜牧

   南陵水面漫悠悠   南陵なんりょうの水面 漫まんとして悠悠ゆうゆうたり
   風緊雲軽欲変秋   風緊きびしく雲軽くして 秋に変ぜんと欲す
   正是客心孤迥処   正まさに是れ 客心 孤迥こけいの処ところ
   誰家紅袖凭江楼   誰が家の紅袖こうしゅうか 江楼に凭れる
南陵のひろい川面を ゆるやかに水は流れ
風は厳しいが軽やかな雲 秋はそこまでやてきた
これぞ旅心というものか 淋しさの深まるところ
どこの家の娘であろう 江楼の欄干の乙女子は

 「南陵」安徽省南陵県は宣州管下の町で宣州城の西七十余里約四十㌔のところにあります。舟で管内を旅していると秋風が吹いてきて、さすがに淋しさが湧いてきます。
 ふと見ると、川辺の楼の欄干に紅い袖をたらした乙女が凭れています。
 杜牧の目がそれを捉えるのです。杜牧は「誰が家の」と言っていますが、そこが酒楼であることは分かっているのです。


  独柳         独柳 杜牧

含煙一株柳    煙けむりを含む 一株いっしゅの柳
払地揺風久    地を払はらい 風に揺うごくこと久し
佳人不忍折    佳人かじん 折るに忍びず
恨望廻纎手    恨望ちょうぼうして 纎手せんしゅを廻かえ
薄緑にかすむ柳 一株の柳の木よ
枝を地にたれ 風に吹かれて揺れている
手折ろうとするが 折るに忍びない美しい人
恨めしそうに顧みて 細くて白い手を引っこめる

 春風にひとり揺れているのは柳でしょうか、誰かの心でしょうか。
 その柳の枝を折り取るのは別れのためです。
 細くて白い手の「佳人」は、枝を折ろうとしてためらっています。
 ほんとうに行っておしまいになるの、と恨めしそうに流し目を送ります。
 この詩には、違った解釈もできそうです。というのも「独柳」どくりゅうという題名は、艶麗詩にしてはややきつい表現です。
 大きな柳の木がほかと離れて一本、孤独に立っている感じがします。
 屈原の楚辞『離騒』では、「佳人」は君主の意味に用いられています、「佳人」を君主と解すれば、国に用いられないことを嘆く詩にもなりそうです。


     紫微花         紫微花 杜牧

   暁迎秋露一枝新   暁に秋露しゅうろに迎いて 一枝いっし新たなり
   不占園中最上春   占めず 園中 最上さいじょうの春を
   桃李無言又何在   桃李とうりげん無く 又た何いずくにか在る
   向風偏笑豔陽人   風に向かって偏ひとえに笑う 艶陽えんようの人を
夜明の露に濡れながら 一枝の花が咲き出した
華やぐ春の庭園に 咲きほこる気持ちはない
桃や李は見る影もなく いったい何処へ消えたのか
秋風に吹かれて百日紅 春好みを笑っている

 杜牧は進士に及第して、すでに四年がたっています。
 同年同期の進士及第者のなかには、そろそろ出世する者も出てくるでしょう。
 詩題の「紫微」しびは百日紅さるすべりのことで、陰暦では秋に咲く花木になります。杜牧は秋の紫微花に託して、春の盛りに咲き誇る気持ちはないと強がりを言っています。「桃李 言無く」というのは『史記』李将軍列伝の論賛に出てくる「桃李言ものいはざれども、下自ら蹊こみちを為す」を踏まえており、黙っていても実績があれば名声はおのずからついてくるという意味です。
 そんな謙虚な人物は何処に行ってしまったのかと杜牧は嘆き、紫微花は秋風に吹かれながら華やかな春を好む者を笑っていると、みずからを慰めているのでしょう。


 杜秋娘詩      杜秋娘の詩 杜牧

京江水清滑    京江けいこう 水は清く滑らかに
生女白如脂    女じょを生めば 白きこと脂あぶらの如し
其間杜秋者    其の間かん 杜秋としゅうなる者
不労朱粉施    朱粉しゅふんの施を労せず
老濞即山鋳    老濞ろうひ 山に即きて鋳
後庭千双眉    後庭こうてい 千の双眉そうびあり
秋持玉斝酔    秋しゅうは玉斝ぎょくかを持って酔い
与唱金縷衣    与ともに唱う金縷きんるの衣
濞既白首叛    濞 既に白首はくしゅにして叛し
秋亦紅涙滋    秋しゅうも亦た 紅涙こうるい多し
京口の流れは 澄んでなめらか
娘たちの肌は 凝脂のように白い
なかでも杜秋娘は
化粧もいらぬ美しさである
呉王劉濞は銅を掘って銭を鋳し
後宮に千の美女を擁したという
杜秋は李錡に侍って玉坏に酔い
声を合わせて「金縷の衣」を唄う
劉濞と同様 李錡は白髪の身で叛し
杜秋は悲しみの涙にくれた

 杜牧と張好好の仲がどれほどのものであったか、分かりません。
 大和六年八三二に秘書省著作郎従五品上の沈述師しんじゅつしが、たまたま宣州にやってきて張好好にほれこみ、大金を出して買い取り、家妓として長安に連れて帰りました。
 だから、杜牧とのあいだに深い関係はなかったと思われます。
 この年、杜牧は三十歳になっていました。春に弟杜顗とぎが進士に及第し、秘書省正字正九品下に任官したという報せがきました。
 杜牧は家長として肩の荷がひとつ下りたことでしょう。
 大和六年の冬十二月、都では政変があり、牛僧孺は中書侍郎を免ぜられ、十二月に揚州大都督長史・充淮南節度使に左遷されました。
 かわって翌大和七年八三三二月に、李党の李徳裕が剣南西川節度使から兵部尚書に転じ、同中書門下平章事に復帰します。しかし、宣州の使職の僚佐に過ぎない杜牧には、何のかかわりもない中央の出来事です。大和七年の春、杜牧は使者として揚州江蘇省揚州市に行くことになりました。
 その途中、潤州江蘇省鎮江市に立ち寄り、友人の刑群けいぐんを訪ねます。
 杜牧はそのとき刑群から杜秋としゅうの話を聞いたようです。
 「杜秋娘の詩」の序によりますと、杜秋は潤州の生まれで、十五歳のときに鎮海軍節度使李錡りきの侍妾になりました。
 ところが憲宗の元和二年八〇七に李錡は謀叛の罪で誅され、杜秋は官没されて長安に連れてゆかれました。掖廷の奴婢として仕えていたところを憲宗の目にとまり、寵愛を受けます。憲宗の死後は穆宗の皇子李湊りそうの傅姆めのとになって平安に暮らしていましたが、文宗の大和五年八三一に宗申錫そうしんしゃくの事件が起きて運命が一変します。
 宗申錫の事件は謀叛事件として多くの連座の罪人を生じますが、実は文宗が宦官勢力を排除しようとして宗申錫を用いようとしたとき、そのことが宦官勢に洩れて謀叛の罪として処理されたものでした。
 そのころ漳王になっていた李湊も連座して巣県公そうけんこうに貶されました。
 杜秋も罪に問われて、故郷の潤州に返されました。杜牧が潤州を訪れたのは、事件の二年後になるわけですが、当時、四十四、五歳であった杜秋は、零落して潤州の道観道教の寺に身を寄せていました。「杜秋娘の詩」の制作年は不明ですが、杜牧は杜秋の数奇な運命に同情を寄せ、百十二句、六百五十字の五言古詩を書きました。杜牧の詩では最長篇の物語詩です。
 はじめの十句は、詩の序章となる部分で、「京江」は京口けいこうの流れのことで、京口は南北朝時代の潤州の古名です。
 そこで生まれた若く美しい杜秋は節度使李錡の侍妾になりますが、李錡が謀叛の罪で誅されたところから物語がはじまります。

地尽有何物    地尽きて 何物なにものか有る
天外復何之    天の外そとた何いずくにか之かん
指何為而捉    指は何為なんすれぞ捉とら
足何為而馳    足は何為れぞ馳する
耳何為而聴    耳は何為れぞ聴き
目何為而窺    目は何為れぞ窺うかが
己身不自暁    己おのが身すら 自みずから暁さとらざるに
此外何思惟    此の外ほか 何をか思惟しいせん
因傾一樽酒    因りて一樽いっそんの酒を傾け
題作杜秋詩    題だいして作る 杜秋としゅうの詩
愁来独長詠    愁来しゅうらい 独り長詠ちょうえい
聊可以自怡    聊いささか以て自ら怡たのしむ可
大地の果てに何があるだろう
天を抜けてどこに行けるというのか
指はどうして物をつかみ
足はどうして走れるのか
耳はどうして音を聞き
目はどうして物を見れるのか
わが身のことさえわからないのに
ほかのことなど考えても仕方ない
そこで一樽の酒をかたむけ
杜秋娘と題して詩をつくる
うさばらしに長々と諷詠し
みずからをいささか慰めるのだ

 長篇の物語詩ですので、途中九十句を省略します。
 杜牧は漳王湊しょうおうそうの降封を誣告による冤罪と考え、宋申錫そうしんしゃく事件の裏にある事情までは知りません。
 それは当時は隠されていましたので当然のことです。
 杜牧は杜秋の数奇な運命を語りつくすと、人生のはかり難いことは女も男も同じであると論じ、歴史上の例をつぎつぎに上げて語ります。そして結びの十二句で改めて人の運命のはかり難いことを嘆き、悲しいときに詩を吟ずれば、いくらか心もなごみ、「聊か以て自ら怡しむ可し」と結ぶのです。


 揚州 其三      揚州 其の三 杜牧

街垂千歩柳    街まちに垂る 千歩せんぽの柳
霞映両重城    霞かすみに映ず 両重りょうちょうの城
天碧台閣麗    天は碧みどりにして 台閣だいかく麗しく
風涼歌管清    風は涼しくして 歌管かかん清し
纎腰間長袖    纎腰せんようは長袖ちょうしゅうを間まじ
玉佩雑繁纓    玉佩ぎょくはいは繁纓はんえいを雑まじ
柂軸誠為壮    柂軸たじく 誠に壮そうと為
豪華不可名    豪華ごうか 名づく可からず
自是荒淫罪    自おのずから是れ荒淫こういんの罪
何妨作帝京    何ぞ帝京ていきょうと作すを妨さまたげんや
街路の柳 千歩もつづく並木路
紅い霞が 二重の城を照らし出す
青空に 楼閣は映えて麗しく
涼しい風 清らかに楽は流れる
楚腰の美女の 袖ひるがえす舞い姿
貴人の佩玉 飾り立てた馬
都城の設計は まことに壮大で
豪華さは 言葉につくせない
煬帝が滅びたのは 荒淫の罪
揚州は 帝都にふさわしい街だった

 揚州は潤州の対岸瓜洲鎮かしゅうちんから、北へ六十里三十㌔㍍余ほど運河を遡ったところにあります。当時は有数の国際都市で、大食タージー・波斯ハシ・新羅しらなどから海船も出入りしていました。
 杜牧は揚州をひとめで気に入りました。
 揚州は帝都にしてもいいくらいの街だと褒めちぎっています。
 揚州の北には蜀岡しょくこうという丘があり、その南斜面の一角に子城があります。子城の南に接して羅城があり、ここが住民の居住区です。
 揚州を「両重の城」と呼んでいます。
 羅城内には縦横に水路が張りめぐらされ、無数の橋がかかっていました。
 水路に沿った十里の長街には「千歩の柳」が並木を成し、妓楼が立ち並んでいました。


 揚州 其一      揚州 其の一 杜牧

煬帝雷塘土    煬帝ようだい 雷塘らいとうの土
迷蔵有旧楼    迷蔵めいぞう 旧楼きゅうろう有り
誰家唱水調    誰が家か 水調すいちょうを唱う
明月満揚州    明月めいげつ 揚州ようしゅうに満つ
駿馬宜閑出    駿馬しゅんめ 閑出かんしゅつするに宜よろしく
千金好暗遊    千金せんきん 暗遊あんゆうするに好よろ
喧闐酔年少    喧闐けんてんは 年少ねんしょうを酔わしめ
半脱紫茸裘    半なかば脱す 紫茸しじょうの裘きゅう
隋の煬帝は 雷塘の土と化したが
歓楽の地に 迷楼はまだ立っている
どこからか 水調の曲が流れ
月の光は 揚州の街に満ちわたる
駿馬に跨り 気ままに出かけ
大金をはたいて妓楼に遊ぶ
若者は 宴に酔いしれ
毛皮の外套は 半ば肩からずれ落ちる

 揚州は淮南節度使の使府の地で、牛僧孺はすでに着任していました。
 杜牧は子城にあった節度使の使府で役目を終えると、いったん宣州にもどりました。すると夏四月、宣歙観察使の沈伝師が尚書省吏部侍郎正四品上になって都に帰任することになりました。
 杜牧は宣州の僚佐の地位を失うことになりますが、淮南節度使の牛僧孺から声がかかって、淮南節度使推官・観察御史裏行に任ぜられました。
 観察御史正八品上は先にも説明した寄禄官で、使府の推官としての食禄を示すものです。杜牧は秋になって揚州に着任し、ほどなく節度推官から節度掌書記に昇進しました。掌書記は使府の僚佐の中では節度判官検勾官の下に位置し、副使につぐ官職です。杜牧は揚州でも遊んだようです。
 韓綽かんしゃく判官という遊び仲間もできました。判官は使職の僚佐をまとめて判官という場合があるので、韓綽は同僚でしょう。
 詩中の「迷蔵」は目かくしの鬼ごっこのことで、宴会のときの遊びです。
 目かくしをして妓女と遊び戯れるのでしょう。
 「旧楼」は隋の煬帝が蜀岡に立てた江都宮こうときゅうの迷楼のことで、煬帝は村里の稚女ちじょを迷楼に集めて楽しんだと言われています。
 揚州は誘惑の多い街でした。
 「紫茸の裘」というのは褐色柔毛の毛皮の外套のことで、それが酔っぱらいの肩からずれ落ちそうになって懸かっているのです。杜牧らしい斬新な表現であり、毛皮の外套を着ているのですから冬の作品でしょう。


    贈別二首 其一     贈りて別る 二首 其の一 杜牧

   娉娉裊裊十三余   娉娉ほうほう裊裊じょうじょうたり 十三余り
   荳蔲梢頭二月初   荳蔲とうこうの梢頭しょうとう 二月の初め
   春風十里揚州路   春風しゅんぷう 十里 揚州の路
   巻上珠簾総不如   珠簾しゅれんを巻き上ぐるも 総べて如かず
ほっそり嫋やかな身のこなし 年のころは十三余
蕾ふくらむ枝先の 二月はじめの荳蔲のようだ
華やかな揚州の街よ 十里の長街に春風は吹き
どの妓楼を覗いても 君にまさる歌妓はいない

 明ければ大和八年八三四の春ですが、九年春の作品をここに掲げます。
 詩題が「贈りて別る」となっているのは、杜牧が都に帰るときに作った留別の詩だからです。洪州の張好好もはじめて会ったときは十三歳でしたが、揚州で杜牧が通った歌妓も十三、四歳であったようです。
 「十三余り」は若い女をいうときの常套表現かもしれませんが、杜牧は少女のような若い娘を好んだようです。
 「娉娉裊裊たり」は杜牧ならではの表現ですが、ほっそりとしてたおやか、身のこなしも軽い楚腰そようの美女をいいます。
 楚の女性は腰が細いので有名でした。荳蔲ずくは仲春の二月に蕾を開きはじめ、初夏には淡紅色の花を咲かせます。花がひらけば蕊心ずいしんには両瓣がならび、胸もときめくあでやかな風情です。
 女性の比喩として書いたとすれば、とても色っぽい表現ですね。


     隋宮春          隋宮の春 杜牧

   龍舟東下事成空  龍舟りゅうしゅう東に下りて 事ことくうと成る
   蔓草萋萋満故宮  蔓草まんそう萋萋せいせいとして 故宮こきゅうに満つ
   亡国亡家為顔色  国を亡ぼし家を亡ぼすは 顔色がんしょくの為なり
   露桃猶自恨春風  露桃ろとうすら猶自なお 春風しゅんぷうに恨む
かつて龍船は 運河を東へ下ったがいまは儚い
隋宮の址に 草はぼうぼうと茂っている
国を滅ぼし 家を滅ぼしたのは美女のため
桃の花さえ春風に 揺れて恨みを告げている

 揚州での杜牧は、毎日遊び惚けて過ごしていたわけではありません。
 蜀岡の丘に上って煬帝の宮殿の址を訪ね、国が滅び家が滅ぶのは「顔色」美女のためと、隋の滅亡を嘆いてもいます。
 このころ唐では、再び藩鎮の問題が生じていました。河北一帯の河朔三鎮は、憲宗の末年には中央の支配に服していましたが、その後十余年を経過して再び反抗的な態度に出ることが多くなっていました。
 杜牧はこの状況に憤激し、「罪言」「守戦」「戦論」といった論策を書いて、藩鎮討伐のための戦術論や用兵論を政府に上申しています。
 「罪言」ざいげんというのは、身分をわきまえずに上申するのは罪に当たるかも知れませんがあえて言上しますと、決死の覚悟を示す題名です。


    懐呉中馮秀才      呉中の馮秀才を懐う 杜牧

  長洲苑外草蕭蕭  長洲ちょうしゅう苑外 草蕭蕭しょうしょうたり
  却算遊程歳月遥  却かえって遊程ゆうていを算かぞうれば 歳月遥かなり
  唯有別時今不忘  唯だ別時べつじの 今に忘れざる有り
  暮煙秋雨過楓橋  暮煙ぼえん 秋雨しゅうう 楓橋ふうきょうを過ぐ
長洲苑のほとりに 草は寂しく揺れていた
かつての旅を顧れば はるか昔のことになる
君と別れたあの時を いまも忘れることはない
秋雨けむる夕間暮れ 靄の楓橋を通っていった

 この年の秋、杜牧は節度使牛僧孺の命令で越州浙江省紹興市に使者として赴いています。揚州から越州へ行くには運河を南へ下るのですが、その途中に蘇州江蘇省蘇州市があります。
 「長洲苑」は漢代の呉王劉濞りゅうひが太湖のほとりに築いた苑囿えんゆうの名ですが、唐代では蘇州の別称として用いられていました。
 杜牧はこの旅で、呉中の「馮秀才」ふうしゅうさいと知り合いになりました。
 「呉中」ごちゅうも蘇州のことで、春秋時代に呉の都があったことから呉中といいます。「秀才」というのは郷貢きょうこうに及第して進士科を受ける資格を与えられた者のことで、蘇州の若い詩人であったと思われます。
 詩はこのときのことを後に回想して作ったもので、秋雨のけむる日暮れに楓橋を過ぎて蘇州に近づいていったのです。楓橋は蘇州の閶門しょうもんの西にあり、北から蘇州に向かうときにかならず通過する場所です。

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