感懐詩一首    感懐詩一首 杜甫

高文会隋季   高文こうぶん 隋季ずいきに会かい
提剣徇天意   剣を提ひっさげて天意に徇したが
扶持万代人   万代ばんだいの人を扶持ふじ
歩驟三皇地   三皇さんこうの地を歩驟ほしゅう
聖云継之神   聖と云い之これに継ぐに神しん
神仍用文治   神は仍すなはち 文を用もって治む
徳沢酌生霊   徳沢とくたく 生霊せいれいを酌
沉酣薫骨髄   沉酣ちんかん 骨髄こつずいに薫くん
唐の高祖は隋の文帝をつぎ
剣をひっさげて天命に従う
万代まで人をやすらかにし
いにしえの聖王道を歩まれた
聖帝といい これに継ぐのが神
神帝は文を以って治める
恩沢は生きる者にゆきわたり
あまねく骨髄にしみわたる

 杜牧が十歳になった元和七年八一二に、祖父杜佑は官をしりぞき、その年の十一月に安仁坊の自宅で亡くなりました。享年七十八歳です。
 ところが、それから五年もたたない内に、今度は杜牧の父杜従郁が急逝しました。
 このことは幼い杜家の兄弟に多大の影響を及ぼすことになります。
 父親を亡くした杜牧一家は、伯父杜式方などの援助を受けながら、しばらくは住居を転々と移す生活をつづけたようです。
 そうした不安定な生活の中で杜牧は『書経』『詩経』『左伝』『国語』など経史書の勉強をはじめることになります。長慶四年八二四正月に穆宗が亡くなると、十七歳で帝位についた敬宗は皇帝の器ではありませんでした。
 皇帝になるとすぐに歓楽にふけり、政事は紊乱してしまいます。それにつけ入るように、河朔河北地方の藩鎮が再び叛旗をひるがえしはじめます。
 杜牧が貢挙をめざして勉学に励んでいたのは、このような時期でした。
 進士科の試験には詩賦の制作が重視されますので、杜牧もその制作を練習します。敬宗の宝暦二年八二六、二十四歳の杜牧は全七百余字の大作「阿房宮賦」を作っています。この作品は秦の始皇帝が奢侈と驕慢の限りをつくした結果、国を亡ぼすに到ったことを詠うもので、敬宗の政事の乱れを憂え、暗にそれを批判したものとみられます。この賦は作られてほどなく太学博士呉武陵ごぶりょうの目にとまり、のちに礼部侍郎崔郾さいえんに推薦されて、杜牧の進士及第に寄与することになります。同じころ杜牧は百六句、五百三十字の五言古詩「感懐詩一首」を書きました。
 この詩には「時に滄州 兵を用う」の自注がありますので、河北の兵乱に際会して作った国を憂える作品であることがわかります。詩の冒頭の「高文 隋季に会し」というのは唐の高祖が隋の文帝の天下統一の事業を継いでという意味で、杜牧は感懐詩を唐の創業から説き起こします。

関西賤男子   関西かんせいの賤男子せんだんし
誓肉虜杯羮   虜りょを杯羮はいこうに肉にせんと誓う
請数係虜事   請う数々しばしば虜を係つなぐの事
誰其為我聴   誰か其れ我が為に聴く
蕩蕩乾坤大   蕩蕩とうとう乾坤けんこん大に
曈曈日月明   曈曈とうとう日月じつげつ明なり
叱起文武業   文武ぶんぶの業を叱起しっきして
可以豁洪溟   以て洪溟こうめいを豁かつにすべし
安得封域内   安いずくんぞ得ん封域ほういきの内うち
長有扈苗征   長く扈苗こびょうの征せい有るを
ここに関西のしがない男がいて
敵の捕虜を肉料理にしょうと誓う
しばしば叛徒誅滅の策を献じたが
耳を貸してくれる者はない
天地は ひろびろとして大きく
日月は こうこうとして明るい
文武両王の大業を奮い起こして
大海原の果てまで広げたい
事は国内だけにとどまらず
群小の叛徒に いつまで手間どっているのか

 「感懐詩」は長大ですので途中を省略しますが、書いてあるのは唐の歴史です。玄宗のとき安史の乱が起き、やがて乱は鎮圧されますが、今度は節度使の跋扈、横暴が激しくなります。それも憲宗が元和年間によい宰相を用いて、長慶の初年には燕趙の故地河北省一帯も政府の手に帰しました。
 しかし、いままた天下は乱れていると現在の状況を指摘し、杜牧は自分の決意を述べます。「関西の賤男子」というのは、函谷関の西、つまり長安にいるしがない男子ということで、杜牧は自分のことを言っているのでしょう。
 もちろん政府に献策するような身分ではありませんので、国を憂える気持ちを誇張して表現しているのです。「文武の業」とは周の文王、武王のことで、政事は国内のことだけにとどまらないのだと大きく出ます。「長く扈苗の征有るを」と、敬宗の政府の手ぬるさを杜牧は叱責しています。

七十里百里   七十里しちじゅうり 百里
彼亦何常争   彼も亦た何ぞ常に争わん
往往念所至   往往おうおうねん至る所
得酔愁蘇醒   酔すいを得て蘇醒そせいを愁う
鞱舌辱壮心   鞱舌とうぜつ 壮心そうしんを辱はずかしめ
叫閽無助声   叫閽きょうこん 助声じょせい無し
聊書感懐韻   聊いささか感懐の韻いんを書し
焚之遺賈生   之これを焚きて賈生かせいに遺る
湯王は七十里 文王は百里の地から興るが
いつも争い事をしていたわけではない
時に応じて思いつめれば
酔っていても 醒めるのがこわい
黙っていることができなくて
宮門で叫ぶが 助勢の声はない
そこで感懐の詩をつづり
焚いて天上の賈誼に贈るのだ

 「七十里 百里」は、殷の湯王とうおうは方七十里の地から国を興し、周の文王は方百里の地から立って殷を滅ぼしたことを指します。
 そうした創業の王も、いつも争い事をしていたわけではなく、平和なときもあったのだと杜牧は詠います。そして、最近の唐の乱れを思うと黙っていることができず、宮門で叫ぶが応ずる声はないと嘆くのです。
 最後の二句の結びは簡潔でよく締まっています。
 「賈生」は漢の賈誼かぎのことで、賈誼は若くして文帝に用いられますが、讒構ざんこうされて長沙湖南省長沙市に左遷されました。その途中、湖水を渡るとき「屈原を弔する賦」をつくって水中に投じ、屈原の霊を弔ったといいます。
 杜牧が「賈生に遺る」というとき、屈原と賈誼が二重写しになって憂国の忠臣を指していると思われます。
 この詩を書いたとき、杜牧はまだ進士に及第していませんでした。
 二十四、五歳であった杜牧が、剛直な憂国の詩人、古風な五言古詩の詩人として現われたことは、注目しておくべきことです。


   秋感           秋の感い 杜甫

金風万里思何尽   金風きんふう万里 思い何ぞ尽きん
玉樹一窗秋影寒   玉樹ぎょくじゅ一窓いっそう 秋影しゅうえい寒し
独掩柴門明月下   独り柴門さいもんを掩おおう 明月の下もと
涙流香袂倚欄干   涙 香袂こうべいに流れて 欄干らんかんに倚
冷たい風が万里の彼方から吹き 慕情はつのる
窓いっぱいの槐の影 寒々とした秋
月あかりのもと ひとり淋しく門を閉ざし
楼上の欄干に倚れば 袖は涙でしとどに濡れる

 大成した詩人は、自分の若いころの作品を未熟として破棄する場合が多いので、残っている若いころの作品は少ない傾向があります。杜牧も五十歳のときに手もとの詩文稿を整理して「十に二、三」をとどめて他は焼却したと言っていますので、若いころの作品の多くは廃棄されたと思います。
 杜牧の詩は制作年の特定できないものが多いのですが、若いころの作ではないかと推定できるものもあります。
 閨怨詩はそのひとつで、詩作の技量を競う遊びの要素の強い作品です。唐代を通じて多くの閨怨詩が作られ、杜牧にも幾つかの作品があります。
 本人は廃棄したつもりでも、他人の手に残っていたものが、死後に編纂されて詩集に残ることがあるのです。
 「秋の感おもい」は西北辺境に出征した夫を思慕する若い妻になり代わって作ったもので、「金風」は秋に吹く西風、西の戦場から吹いてくる風です。
 「玉樹」は長安の街路樹であった槐えんじゅのことで、「金風」と対句にするために用いたものでしょう。


      秋夕           秋夕 杜甫

  紅燭秋光冷画屏  紅燭こうしょくの秋光しゅうこう 画屏がへいに冷ややかなり
  軽羅小扇撲流蛍  軽羅けいらの小扇しょうせん 流蛍りゅうけいを撲
  瑤階夜色涼如水  瑤階ようかいの夜色やしょくりょう 水の如し
  坐看牽牛織女星  坐そぞろに看る 牽牛けんぎゅう織女しょくじょの星
紅い蝋燭は秋の色 ひややかに屏風を照らし
薄絹の扇子で 飛んでくる蛍をはらう
宮殿の奥の階に 夜気は冷たく澄みとおり
宮女はじっと見詰めている 牽牛織女の輝く星を

 この詩「秋夕」しゅうせきは天子の寵愛を失った宮女の悲しみを詠うもので、よくある題材です。「軽羅の小扇 流蛍を撲つ」は秋の到来とともに不要になる団扇のことで、天子の寵愛の衰えを喩えるものです。
 よくある喩えで、牽牛織女の星をみあげて羨むという情景とともに、着想としては平凡なものです。


      月            月 杜甫

  三十六宮秋夜深  三十六宮 秋夜しゅうや深く
  昭陽歌断信沉沉  昭陽しょうよう 歌断えて 信まことに沈沈ちんちんたり
  唯応独伴陳皇后  唯だ応まさに独り陳ちん皇后に伴ともないて
  照見長門望幸心  長門ちょうもんみゆきを望む心を照見しょうけんすべし
秋の気配の深まる中 漢の宮殿は並び立つ
昭陽殿の宴もやんで 夜はしんしんと更けてゆく
そのときまさに 月は長門宮の上にあり
行幸を望む陳皇后の せつない心を照らし出す

 この詩は漢を借りるもので、武帝の寵愛が衛子夫えいしふに移り、昭陽殿では連日の饗宴が催されています。
 深夜、宴もやんで月は晧々と照っているけれども、武帝の皇后陳阿嬌ちんあきょうは長門宮にあって、ひとり切なく帝のおいでを待っていると詠っています。
 「長門宮」は武帝の姑おば、あの館陶公主の別荘のあったところで、武帝に献上されて離宮になっていました。
 陳皇后はこのとき、城外の園林に追いやられていたのです。
 このように宮女の閨怨を詠うのは、唐代の詩の遊びであり、杜牧は別に宮廷の在り方を批判しているわけではありません。
 伝統的な閨怨詩の発想のもとで、詩の技巧を凝らしているだけです。


   過華清宮絶句 其一 華清宮に過る 絶句 其の一 杜甫

   長安廻望繍成堆  長安より廻望かいぼうすれば 繍しゅうたいを成す
   山頂千門次第開  山頂の千門せんもん 次第に開く
   一騎紅塵妃子笑  一騎の紅塵こうじん 妃子ひし笑う
   無人知是荔枝来  人の 是れ荔枝れいしの来きたるを知る無し
長安から東を見れば まるで錦の小山のようだ
宮殿はひしめき合って 山の頂まで並び立つ
砂塵を捲いて一騎の馬 楊貴妃はにっこり笑う
それが荔枝の到着とは 誰も御存知ないないだろう

 白居易の「長恨歌」は玄宗皇帝と楊貴妃の物語を題材とした大作で、当時は人口に膾炙していました。
 「長恨歌」は伝奇的詩作品で詠史詩ではありませんが、歴史に題材を求めた作品という意味では、杜牧にも楊貴妃を題材にした作品があります。
 長安の東に驪山があり、華清宮が営まれていました。
 そこに砂塵を巻き上げて一騎の騎馬が到着し、楊貴妃を喜ばせます。それは嶺南広東省地方から運び込まれた荔枝ライチーで、楊貴妃の好物でした。
 この絶句は三首連作ですが、劇的ななかなかよい滑り出しです。


   過華清宮絶句 其三 華清宮に過る 絶句 其の三 杜甫

   万国笙歌酔太平   万国ばんこく笙歌しょうかして 太平に酔い
   倚天楼殿月分明   天に倚る楼殿 月つき分明ぶんめいなり
   雲中乱拍禄山舞   雲中うんちゅうに拍はくを乱して 禄山ろくざん舞い
   雲過重巒下笑声   雲は重巒ちょうらんを過ぎて 笑声しょうせい下る
天下はどこも笛や歌 太平の世に酔いしれて
天までとどく高楼に 月は明るく射している
禄山が胡旋を舞えば 万殿に拍手は乱れ飛び
峰に吹く風 笑声は 麓の村まで下りてくる

 絶句三首の順序は、歴史としては其の一、三、二の順になりますので、其の三を先に出します。安禄山あんろくざんは巧みな世渡り術で平盧へいろ、范陽はんよう、河東かとうの節度使を兼ねる有力者になり、体重は三百三十斤約一九七㌔とも三百五十斤約二〇九㌔ともいわれる肥満体でした。ところが胡旋舞こせんぶを舞えば、風のように速く旋回し、手拍子も追いつかないほどでした。
 安禄山は両親が西域人で、胡旋舞は彼の民族舞踊だったわけですが、兵力最大の節度使が芸人のようなことをしなくてもよかったでしょう。しかし、巨体で舞えば、玄宗や楊貴妃が面白がることも心得ていたのです。


   過華清宮絶句 其二 華清宮に過る 絶句 其の二 杜甫

   新豊緑樹起黄埃   新豊しんぽうの緑樹に 黄埃こうあい起こり
   数騎漁陽探使廻   数騎の漁陽ぎょようの 探使たんしかえ
   霓裳一曲千峯上   霓裳げいしょうの一曲 千峰せんぽうの上
   舞破中原始下来   中原を舞破ぶはして 始めて下くだり来きた
新豊の緑の樹に 湧き起こる黄色い塵
駆けもどる騎馬は 漁陽探査の使者たちだ
霓裳羽衣の一曲は 峰から峰へ鳴りやまず
中原を撃破されて ようやく驪山を下りてきた

 安禄山叛すの報に、玄宗は何かの間違いではないかと思い、中使を漁陽幽州:北京市に派遣して様子を探らせます。「新豊」は華清宮の近くの街で、使者が砂埃を上げてもどってきますが、玄宗は宴をやめようとしません。
 十一月に挙兵した安禄山は、十二月には洛陽に入城する勢いでした。
 それを聞いて、玄宗はようやく驪山をおりるのです。
 この三首の連作は巧みな構成其の二と其の三が後先になっているのは後世の誤編でしょうになっていて、場面場面を劇的にとらえています。
 酒宴の席などで朗詠され、喝采を浴びたことでしょう。


   及第後寄長安故人  及第後 長安の故人に寄す 杜甫

   東都放榜未花開   東都とうとの放榜ほうぼういまだ花開かず
   三十三人走馬廻   三十三人 馬を走らせて廻かえ
   秦地少年多辦酒   秦地しんちの少年 多く酒を弁べん
   却将春色入関来   却すなわち春色を将って 関かんに入り来きたらん
春まだ浅い洛陽で 合格者の名前が発表された
新進士は三十三人 馬を飛ばして都へ向かう
長安の友人たちよ 酒の準備はできたであろう
浮き立つ心で関門を通り つぎの関試もひと飛びだ

 文宗の大和元年827、杜牧は二十五歳になっていました。
 その夏、杜牧は従兄の杜悰とそうを訪ねて江南に旅をしています。杜悰は伯父杜式方としきほうの三男で、杜牧が十二歳のときに憲宗の長公主岐陽公主きようこうしゅを妻に迎え、銀青光禄大夫殿中駙馬都尉ふばといを授けられました。
 皇帝の長女の婿になったわけですから、将来の出世は有望です。
 大和元年のころには澧州れいしゅう:湖南省澧県の刺史しし:州知事として江南に赴任中でした。この旅の翌大和二年八二八の正月に杜牧は貢挙の進士科を受け、二月に「放榜」合格者の発表がありました。
 杜牧は三十三人の合格者中五番で及第したようです。
 尚書省礼部が行う貢挙は長安で行われるのが通常ですが、この年は東都の洛陽で行われ、放榜も洛陽であったのです。
 杜牧は長安の故人親友に歓びの詩を送ります。結句の「関」は関中への入口である潼関とうかんと関試かんしをかけたもので、貢挙に及第した者は尚書省吏部が行う関試を受けて吏部の所管に移されます。
 この試験は形式的なもので落第者はいませんが、関試は長安で行われるので皆急いで都にもどるのです。杜牧は都の友人たちに、祝いの酒の準備はできているだろうなと喜び勇んで馬を走らせます。


 長安秋望     長安の秋望 杜甫

楼倚霜樹外   楼ろうは倚る 霜樹そうじゅの外
鏡天無一毫   鏡天きょうてん 一毫いちごうも無し
南山与秋色   南山なんざんと秋色しゅうしょく
気勢両相高   気勢きせいふたつながら相あい高し
楼閣はそびえて 紅葉の梢よりも高く
晴れた空に ひとすじの雲もない
終南山の山々と いちめんの秋の色
共に競って 意気軒昂

 新進士は関試によって吏部の所管に移されたあと、守選という期間があります。進士科の場合は、三年後でないと任官のための吏部試を受けられないのです。ところがこの年は、閏三月に制挙せいきょがあり、杜牧は賢良方正能直言極諌科を受験して及第しました。制挙は天子が主宰して行う臨時の人材登用試験で、すでに任官している者でも受けることができます。
 守選の進士にとっては絶好の機会です。敬宗が乱行の末、近くに仕える宦官の個人的な怨みを買って殺されたあと、宦官たちに擁立された文宗は兄敬宗と違って政事の刷新に熱意がありました。
 即位三年目実質は在位一年五か月の文宗は、この年に制挙を実施してみずからの人材を登用しようと思ったのでしょう。
 こときの制挙では十五人が及第しましたが、杜牧は第四等でした。
 ところで第四等というのは四番という意味ではありません。
 制挙の及第者は五等に分けられ、第一等と第二等は通常該当者なし、三等と四等が及第者で五等は落第を意味します。だから杜牧は及第二等の成績であり、特に優秀というわけではありませんでした。
 しかし、制挙は天子がみずからの名で行うものですので、吏部試よりも上の試験とみなされます。杜牧はもちろん喜んだでしょう。
 「長安の秋望しゅうぼう」は制挙に及第したあと、大慈恩寺の仏塔大雁塔に上ったときの詩と思われます。進士及第者も大雁塔に上って壁に自分の名前を書き付ける習慣がありましたので、春につづいて再度「楼」に上ったのでしょう。
 詩からはそんな喜びが感ぜられます。杜牧の詩で、こんなに伸び伸びとして晴れやかなものは滅多にありません。杜牧は若くて張り切っていました。


     薔薇花        薔薇の花 杜甫

   朶朶精神葉葉柔   朶朶だだ精神あり 葉葉ようよう柔らかなり
   雨晴香払酔人頭   雨晴れ 香り払いて 人頭じんとうを酔わしむ
   石家錦障依然在   石家せきかの錦障きんしょう 依然として在り
   閑倚狂風夜不収   閑しずかに狂風に倚りて 夜に収めず
どの花も生気にあふれ 葉はしなやかに延びている
雨が晴れて湧き立つ薫 酔っぱらってしまいそうだ
晋の石崇の幔幕が いまも張られているように
気紛れな風に吹かれて のんびり夜まで咲いている

 制挙に及第した大和二年八二八の秋のはじめ、杜牧は弘文館校書郎・試左衛兵曹参軍に任ぜられました。弘文館は門下省に属する図書館で、皇族や三品以上の高官の子弟の学校を兼ねていました。その校書郎ですので、図書の管理を掌る事務官ということでしょう。試左衛兵曹参軍というのは弘文館校書郎の職禄を指定する寄禄官で、正九品上の品階とみられます。
 唐の官制では館院の職には固有の品階がありませんので、左衛兵曹参軍と同じ職禄を給するために兼務形式をとるものです。「試」がついているのは定員外の試官に任ずるという意味で仮り採用といった意味はありません。
 なお、左衛は近衛軍である十六衛のひとつで、兵曹参軍は兵員のことを掌る事務官です。
 しかし、寄禄官ですので仕事にたずさわるわけではありません。
 杜牧のこの職は、制挙の合格者として特に不名誉な地位ではありませんでしたが、任官してほどない十月に、江西観察使沈伝師しんでんしの辟召へきしょうを受け、洪州江西省南昌市に行くことになります。沈伝師は尚書省都省の右丞正四品下でしたが太和二年十月に江西観察使に任ぜられました。
 だから杜牧は、いっしょに江南に行こうと誘われたのです。
 沈伝師はかつて杜牧の祖父杜佑から引き立てられたことがあり、今回流入官に就くことした旧上司の孫の後ろ盾になってやろうと思ったのでしょう。
 辟召というのは節度使や観察使などの使職令外の官が自分の僚佐を独自に採用することで、貢挙に合格していても合格していなくても、また現に任官している者でも採用することができました。だから使職は自分の意に適った人材を広く物色して、配下に採用することができました。
 杜牧がこれに応じたのは、弘文館校書郎の地位に不満があったというよりも、より多くの収入を得たかったからだと思われます。
 杜牧の家は父親の死後、収入がありませんでしたので、伯父たちの援助があったとしても借金が嵩んでいたと思われます。杜牧は任官して、いまや一家の家長として生計を担わなければならない立場になっていました。
 当時の江南は物産が豊かで物価も安く、地方官は本俸以外にいろいろな収入があったらしく、都での勤務よりも収入が多かったのです。杜牧は洪州で、江西団練府巡官・試大理評事という官職を与えられますが、ここでも試大理評事というのは寄禄官で、江西団練府巡官というのが本務です。
 江西団練府は江西観察使が兼務する江西団練使の使府のことで、その巡官になったということになります。巡官は使職の僚佐のひとつで、管下の団練府地方の自衛を主務とする軍事組織の状況を監察するなどの役目でしょう。
 年が明けると、杜牧は洪州ではじめての江南の春を迎え、管下の山野を歩きながら巡官としての仕事をはじめます。
 江南の花々はどれも匂い立つように萌えて咲き誇っています。
 薔薇そうびは唐代には観賞用として栽培されていたようですが、ここでは蔓草の野茨でしょう。「石家の錦障」は晋の富豪石崇の説話で、石崇は散歩の小径に錦の歩障道の両側に張る眼隠しの幔幕を五十里も張り巡らして、暮らしの豪勢さを誇ったといいます。
 杜牧は沿道の花々が石崇の歩障のように風に吹かれて咲いており、夜になっても仕舞われることがないと詠っているわけです。


     山石榴         山石榴 杜甫

   似火山榴映小山  火の似ごとき山榴さんりゅう 小山しょうざんを映おお
   繁中能薄艶中閑  繁中はんちゅうく薄く 艶中えんちゅうかんなり
   一朶佳人玉釵上  一朶いちだ 佳人かじん 玉釵ぎょくさのごとく上のぼせば
   秖疑焼却翠雲鬟  秖だ疑う 翠雲すいうんの鬟わげを焼却せんかと
燃えるような躑躅の花 丘の面を埋めつくす
繁っていながら薄紅く あでやかにして淑やかだ
一枝折って頭に挿せば 美しい人よ
豊かな黒髪は いまにも焼けてしまいそう

 詩題の「山石榴」さんせきりゅうは躑躅つつじのことです。くれないの花が丘の斜面をおおっている姿は、日本でも目にすることができます。
 山石榴は江南を代表する花でした。晩春の汗ばむくらいの陽気の中で、雲鬟うんかんの美女を持ち出したのは閨怨詩の流れをくむ技巧でしょうか。
 「鬟」わげは女性の髪を環のかたちに結い上げるもので、唐代の流行でした。
 なかでも華やかなものを双鬟望仙髻そうかんぼうせんきつといいます。


 張好好詩      張好好の詩 杜甫

君為豫章姝   君は豫章よしょうの姝しゅたり
十三纔有余   十三纔わずかに余有り
翠茁鳳生尾   翠茁すいさつ 鳳尾ほうびを生じ
丹葉蓮含跗   丹葉たんよう 蓮跗はすふを含む
高閣倚天半   高閣こうかく 天半てんぱんに倚
章江聯碧虚   章江しょうこう 碧虚へききょに聯つらな
此地試君唱   此の地 君の唱しょうを試こころ
特使華筵鋪   特に華筵かえんを鋪か使
君は豫章の美少女で
十三をすこし出たばかり
鳳凰の尻尾に翡翠の羽根
蓮の葉が 萼をくるんでいる感じ
楼閣は 中天にそびえ
章江は 天につらなる
そこで 君の歌声を試そうと
特に豪華な宴席が開かれた

 杜牧は洪州で張好好ちょうこうこうという歌妓に出会いました。
 張好好はときに十三歳、洪州の楽籍がくせきに属し、使職の家妓として宴席に侍っていました。杜牧はのちに洛陽で張好好と再会し、そのときに五十八句、二百九十字の五言古詩を書いています。
 今回はその前半三十二句を四回に分けて掲げます。というのは、その部分が洪州での最初の出会いを回想する部分になっているからです。
 冒頭の「豫章」江西省南昌市は洪州の郡名で、杜牧は洪州に赴任してほどなく十三歳の張好好と宴会の席で顔を合わせます。その美少女を「翠茁 鳳尾を生じ 丹葉 蓮跗を含む」と言っているのは、実に巧みな表現ですね。

主公顧四座   主公しゅこう 四座しざを顧かえり
始訝来踟蹰   始はじめは訝いぶかる来て踟蹰ちちゅうするを
呉娃起引賛   呉娃ごあい 起ちて引賛いんさん
低徊映長裾   低徊ていかい 長裾ちょうきょに映ず
双鬟可高下   双鬟そうかん 高下こうげすべく
纔過青羅襦   纔わずかに青羅襦せいらじゅを過ぐ
盼盼乍垂袖   盼盼へんぺんたちまち袖しゅうを垂れ
一声雛鳳呼   一声いっせい 雛鳳すうほう呼ぶ
主人公が 満座をみわたし
怪訝にも 君は躊躇いがちに来る
呉の美女が案内して紹介し
ゆきつもどりつ裳裾は映える
双の髷は 高く低くゆれ動き
薄絹の青い衣が過ぎるだけ
美しく目をみひらいて袖を垂れ
ひと声発する雛鳥の声

 つぎの八句は、張好好がはじめて宴席に出てくるところです。
 後の回想ですので、あのとき君はまだ初心で、ためらいがちに出て来たねと、杜牧は笑いながら詠っていると想像してください。
 「双鬟」は前々回「山石榴」で紹介した双鬟望仙髻のことで、高い髷が揺れ動き、薄絹の青い裳裾が杜牧の前を通り過ぎただけでした。
 それから張好好は美しい目をみひらいて歌をうたい始めます。
 その声は雛鳥の声のように澄んで愛らしかったというのです。

繁弦迸関紐    繁弦はんげん 関紐かんちゅうを迸ほう
塞管裂円蘆    塞管さいかん 円蘆えんらを裂く
衆音不能逐    衆音しゅうおんう能あたわず
裊裊穿雲衢    裊裊じょうじょう 雲衢うんくを穿うが
主公再三嘆    主公しゅこう 再三嘆たん
謂言天下殊    謂言いげんす 天下の殊しゅ
贈之天馬錦    之これに天馬錦てんばきんを贈り
副以水犀梳    副うるに水犀梳すいさいそを以てす

琴の音は 弦からほとばしり
笛の音は 管を裂いて鳴りひびく
並の音は追いつけず
朗々と雲間にひびく
主人公は 幾度も感嘆し
天下の妙技とほめたたえた
褒美には 天馬の錦を贈り
水犀の櫛を副える

 この八句は、張好好の歌声がすばらしかったことを褒めるものです。
 「主公」というのは宴席の主人公のことで、江西観察使沈伝師ですが、沈伝師も感嘆の声をあげ、褒美に天馬の錦や水犀の櫛を与えました。

龍沙看秋浪    龍沙りゅうさ 秋浪しゅうろうを看
明月遊東湖    明月めいげつ 東湖とうこに遊ぶ
自此毎相見    此れ自り毎つねに相見あいみ
三日已為踈    三日さんじつ 已に踈と為
玉質随月満    玉質ぎょくしつ 月に随いて満ち
豔態逐春舒    豔態えんたい 春を逐いて舒
絳脣漸軽巧    絳脣こうしんようやく軽巧けいこう
雲歩転虚徐    雲歩うんぽうたたた虚徐きょじょたり
龍沙に行っては 秋の浪を眺め
東湖に遊んでは 明月を賞する
それからはいつもお供を命じ
三日も会わねば ご無沙汰となる
玉のような美質は日ごとに満ち
なまめかしさは春を追って伸びる
深紅の唇は 次第に軽やかになり
歩く姿は緩やか 雲の上をゆくようだ

 つづく八句は、宴席でのはじめての出会いのあとのつき合いです。
 張好好は使職に付属する家妓であって、沈伝師の侍妾ではありません。
 だから使府の催すさまざまな遊宴の席に侍ります。
 杜牧も主人に従って宴席に列座しますので、三日も会わないと、長く会わなかったような気になると詠います。
 最後ただし全体の詩では中間の四句は、張好好が日ごとに美しくなまめかしくなったと褒めているわけで、杜牧は張好好に好意を抱いていたと思います。
 このようにして、江南での一年はあっという間に過ぎてゆきました。

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