江南春絶句       江南の春 絶句  杜牧

千里鶯啼緑映紅   千里 鶯啼いて 緑 紅くれないに映ず
水村山郭酒旗風   水村すいそん 山郭さんかく 酒旗しゅきの風
南朝四百八十寺   南朝 四百しひゃく 八十寺はっしんじ
多少楼台烟雨中   多少の楼台ろうだい 烟雨えんうの中うち
みわたせば 花紅に緑映え 鶯がしきりに鳴いている
川辺の村よ 山里よ 風にはためく酒屋の旗
南朝に 四百八十寺
無数の堂塔は烟雨のなか 夢まぼろしと浮かんでいる

 杜牧の詩のなかで、もっとも人口に膾炙しているには、この詩でしょう。
 日本人の好きな漢詩についてのアンケートで、「江南の春」は杜甫の「春望」国破れて山河あり…についで第二位を占めているそうです。
 この作品の制昨年は不明ですが、二十歳代の後半、杜牧が洪州江西省南昌市に赴任し、はじめて江南の春を迎えたころの作品であろうと思います。
 唐の文宗の大和三年八二九、杜牧二十七歳のときの作である可能性が高いと思うのです。この詩は江南の春を絵のように美しく、というよりも絵画以上のものとして詠っています。現前の色と姿と音と動き、吹く風の肌ざわりまでが秀麗な複合した姿で統合され、そこに二重写しになって浮かんでいるのは、過去の幻影、時の経過への哀惜です。起承の二句は晴れた春景色、転結の二句は霧雨におぼろに霞む寺々の幻影です。
 南朝梁の武帝は篤く仏教に帰依し、都建康江蘇省南京市には五百余の堂塔伽藍が立ち並び、僧尼十余万人がいたといいます。
 その南朝も最後の王朝陳が滅亡してから、二百四十年が経っていました。
 「江南の春」を作ったとき、杜牧はまだ建康の地を踏んでいなかったと推定されます。だから杜牧が想い描いたのは、現実の建康ではなく、滅び去った古都の幻影です。若い杜牧は七言絶句二十八字のこの詩で、浪曼的ロマンチックともいえる詩の想念をみごとに描いて見せたのです。


      清明           清明  杜牧

   清明時節雨紛紛   清明せいめいの時節じせつ 雨紛紛ふんぷん
   路上行人欲断魂   路上ろじょうの行人こうじん 魂を断たんと欲す
   借問酒家何処有   借問しゃもんす 酒家しゅかいずれの処ところにか有る
   牧童遥指杏花村   牧童ぼくどう 遥かに指さす 杏花きょうかの村
清明の時節というのに 雨がしとしと降っている
こんな旅路を歩いていると 魂も滅入るばかりだ
どこかに飲み屋はないかね 尋ねると
牧童のゆびさす方に 杏の花咲く村があった

 この詩は『樊川集』はんせんしゅう以下三巻の杜牧の詩集にはみえない作品だそうです。南宋の劉克荘りゅうこくそうが唐宋時の詩選を出したとき、杜牧の詩十首のなかのひとつとして、はじめて世に出たとされています。
 この詩が杜牧の作としていまも愛唱されているのは、「江南の春」と同じ浪曼的な輝きがあるからでしょう。
 清明節は晩春三月はじめの節気で、杏の花の咲く季節です。
 この詩からは、江南の村を雨に濡れながらいきいきと歩いている杜牧の若々しい姿が、目に見えるように浮かんできます。


 自宣州赴官入京 路逢裴坦判官帰宣州 因題贈  杜牧
  宣州より官に赴き京に入らんとし 路に裴坦判官の宣州に帰るに逢う
                                     因りて題贈す
   敬亭山下百頃竹   敬亭山下けいていさんか 百頃ひゃくけいの竹
   中有詩人小謝城   中うちに詩人 小謝しょうしゃの城有り
   城高跨楼満金碧   城高くして楼に跨のぼれば 金碧きんぺき満ち
   下聴一渓寒水声   下に聴く 一渓いっけい 寒水かんすいの声
   梅花落径香繚繞   梅花ばいかこみち落ちて 香り繚繞りょうじょうたり
   雪白玉璫花下行   雪白せっぱくの玉璫ぎょくとう 花下かかに行く
   縈風酒旆挂朱閣   風に縈まとう酒旆しゅはい 朱閣しゅかくに挂かか
   半酔遊人聞弄笙   半酔はんすいの遊人ゆうじんしょうを弄くを聞く
敬亭山のほとりに 広さ百頃の竹林があり
詩人謝朓 ゆかりの城がある
高い城壁 城楼に登れば 金碧の甍はつらなり
清らかな流れの音が 下のほうから聴こえてくる
梅花は小径に散って ふくよかな香りがあふれ
耳飾りの乙女たちは 落花のなかを歩みゆく
楼閣の朱塗のあたり 春風に酒旗はゆれ
ほろ酔いの遊客達は 流れる笛の音を聞く

 それでは、杜牧自身は自分の若いころをどのように考えていたでしょうか。
 掲げた詩は開成四年八三九春二月、杜牧三十七歳のときの作品です。
 このとき杜牧は左補闕・史館修撰に任ぜられ、宣州安徽省宣州市宣城県の任地から都にもどる途中でした。詩題中の「裴坦」はいたんは宣州の使府の同僚で、舒州安徽省潜山県に出張し、役目を終えて宣州にもどる途中でした。
 このふたりが長江のどこかで、多分池州安徽省貴池県のあたりで出逢って、渡津で一夜の酒宴を催したときの作品と思われます。
 全二十八句の七言古詩ですので、三回に分けて掲げますが、はじめの八句では、宣州の美しい自然と楽しい生活が描かれます。宣州はいいところだったと懐かしみながら、酒を酌み交わしている姿が想像されます。

  我初到此未三十  我れ初めて(ここ)に到りしとき (いま)だ三十ならず
  頭脳釤利筋骨軽  頭脳は釤利せんり 筋骨きんこつかろやかなり
  画堂檀板秋拍砕  画堂の檀板だんばん 秋に拍ち砕き
  一引有時聯十觥  一引いちいんとき有りて 十觥じっこうを聯つら
  老閑腰下丈二組  (つね)(なおざり)にする 腰に丈二の(くみひも)を下ぐるを
  塵土高懸千載名  塵土じんどにす 高く千載せんざいの名を懸くるを
  重遊鬢白事皆改  重ねて遊べば 鬢びんは白く 事こと皆改まり
  唯見東流春水平  唯だ見る 東流 春水しゅんすいの平らかなるを
  対酒不敢把      酒に対むかいて 敢えて把らず
  逢君還眼明      君に逢いて 還た眼まなこ明らかなり
私がこの地に来たのは三十歳になる前だ
頭脳は明敏 筋骨も軽やかだった
秋の堂宇の大広間で 檀板を打ち割るほどに歌い
ひとたび飲めば 大杯に十杯は飲みほした
高官の印綬の事など気にかけず
千載に残す名前は 塵芥も同然だった
だが再遊すれば 鬢に白髪 すべては変わり果て
変わらないのは 春水に満ちて流れる長江だけ
酒をまえに あえて飲もうとせず
君と会って また元気が湧いてくる

 詩に「我れ初めて此に到りしとき 未だ三十ならず」とありますが、杜牧がはじめて江南に赴任したのは二十六歳のときで、江西観察使沈伝師しんでんしの幕僚として洪州江西省南昌市に着任しました。
 その二年後の秋九月、沈伝師が宣歙せんきゅう観察使に転じたので、杜牧も沈伝師に従って宣州に移り、三十歳の春まで宣州にいました。
 だから「未だ三十ならず」というのは洪州から宣州に移る前後のことで、そのころの杜牧は「檀板」カスタネットを打ち割るほどにたたいて歌い、「觥」大杯で浴びるほどに酒を飲んだと詠います。
 二十代末の杜牧は元気一杯で青春を謳歌していたのです。
 ところが、それから五年後の開成二年八三七の秋九月、三十五歳の杜牧は宣歙観察使崔鄲さいたんの辟召へきしょうを受けて、再度宣州に赴任します。
 これが「重遊」で、一年半ほど宣州に滞在してから都にもどることになったのです。その間に杜牧にはいろいろなことがありました。
 そのことについては、これから逐次述べてゆくつもりですが、三十七歳の杜牧は欝屈した心情をかかえて友と対しています。
 「白髪」が増えただけではなく、すべてが変化していました。
 変わらないのは雪解けの水をたたえて満々と流れる春の長江だけです。

   雲罍看人捧       雲罍うんらいは 人の捧ささぐるに看したが
   波臉任他横       波臉はけんは 他ひとの横うかぶるに任まか
   一酔六十日       一たび酔うこと六十日
   古来聞阮生       古来 阮生げんせいを聞く
   是非離別際       是非す 離別の際さい
   始見酔中情       始めて見ん 酔中すいちゅうの情
   今日送君話前事   今日こんにち 君を送りて 前事ぜんじを話かた
   高歌引剣還一傾   高歌こうか 剣を引いて 還た一たび傾けん
   江湖酒伴如相問   江湖こうこの酒伴しゅはんし相あい問わば
   終老煙波不計程   老を煙波えんぱに終えて 程ていを計らずと
大杯は 人のすすめるままに飲み
秋波は 流れるままにしておこう
六十日間 酔って禍患を避けたのは
昔の阮籍の智恵という
君と別れるこの時に 是非を論じてみるのだが
酔っぱらいの真情は もう読みとってくれたはず
今日 君を見送って 昔のことなど語り合い
志高く歌う剣の舞い さらに一献かたむけよう
江南の酒の仲間が尋ねたら
煙波の土地に隠れ住み 老いるつもりと伝えてくれ

 「波臉」が妓女の秋波ながしめなどでないことは、すぐあとの二句に「阮生」が取り上げられていることでわかります。魏晋の交替期に魏の権力者司馬昭しばしょうが阮籍げんせきに縁組みを持ちかけてきました。
 のちに晋の武帝となる司馬炎しばえんの家との縁組みです。
 そのとき阮籍は六十日間酔いつづけて、相手が縁談を言い出すきっかけを与えなかったと言われています。杜牧は酔っぱらいの真情こころはもう読みとってくれたはずと言って、裴坦の目をみつめたと思います。
 七言古詩の途中に五言の句を八句もはさみこんでいますが、この八句に特別の意味を与え、結句では隠棲への思いさえ口にします。
 二十代の末に青春を謳歌していた杜牧とは大変な違いです。


憶遊朱坡四韻  朱坡に遊びしを憶う四韻 杜牧

秋草樊川路   秋草しゅうそう 樊川はんせんの路みち
斜陽覆盎門   斜陽しゃよう   覆盎門ふうおうもん
猟逢韓嫣騎   猟に逢う 韓嫣かんえんの騎
樹識館陶園   樹に識る 館陶かんとうの園えん
帯雨経荷沼   雨を帯びて 荷沼かしょうを経
盤煙下竹村   煙を盤めぐらせて 竹村ちくそんに下る
如今帰不得   如今じょこん 帰り得ず
自載望天盆   自ら載いただく 望天ぼうてんの盆ぼん
秋草茂る樊川の路
夕陽に映える覆盎門
狩装束の韓嫣に逢い
木立をみれば 館陶公主の別荘とわかる
雨に濡れつつ 蓮池を過ぎ
靄につつまれ 竹林の村に降りてゆく
だがいまは かつての日々にもどれない
盆を頭に天を望む そんなことはできないのだ

 杜牧字は牧之ぼくしは徳宗の貞元十九年八〇三に、長安の安仁坊にあった祖父杜佑とゆうの邸で生まれました。杜佑は安史の乱後の財政再建に功績があり、海塩の産地である淮南節度使を十四年間もつとめたあと、杜牧が生まれた年の三月に検校司徒に任ぜられ、都にもどって宰相になりました。
 杜佑は官僚として最高の位につきましたが、学者としても有名でした。
 杜牧が生まれる二年前に、三十五年の歳月をかけて『通典』二百巻を完成しています。杜佑には師損しそん、式方しきほう、従郁じゅういくの三子があり、杜牧の父従郁は杜佑の三男でした。杜従郁は憲宗の元和初年に門下省左補闕従七品上であったとも、秘書省秘書丞従五品上であったともいい明確でありませんが、杜牧が名門の子として裕福に育ったことは確かです。
 杜牧が五歳のときに弟杜顗とぎが生まれ、他に姉妹があり、姉は後に裴儔はいちゅうに嫁し、妹は李氏に嫁しましたがはやくに寡婦になりました。
 杜佑の邸のあった安仁坊は、長安第一の大街である朱雀門街に面し、左街一列目、北から三番目に位置しています。
 皇城にも近く、高級官僚の住宅地です。坊内の西北隅に浮図院ふといんがあり、高さ十六丈約五十㍍、十五層の仏塔が聳えていました。
 この仏塔はいまは小雁塔と呼ばれ、明代の地震で上階の二層が崩れ、十三層の塔として残っています。杜牧はこの塔を見上げながら育ったはずです。
 杜牧は幼少のころ、しばしば樊川はんせんの祖父の別荘に行って遊びました。
 長安の東南郊外、終南山の山麓には三筋の台地が北へ伸びており、台地のあいだを川が流れています。
 樊川は川ではなく地名で、潏水きつすい沿いの地を樊川といいました。
 ここに杜氏の別荘があり、杜佑は晩年になると、この別荘でしばしば宴会を開き、憲宗から酒食を賜わることもありました。
 杜牧は死の前年、四十九歳のときに樊川の別荘を修復しています。「朱坡しゅはに遊びしを憶う四韻」は秋の作品ですので、杜牧が湖州浙江省湖州市刺史になる前、大中三年八四九の秋、長安に在任していたときの作でしょう。
 とすれば四十八歳のときの作品になります。
 詩中の「覆盎門」は漢代の名称で、唐の長安の啓夏門に相当します。
 「韓嫣」と「館陶」はともに漢の武帝時代の人物で、秦漢を借りて唐を詠う手法です。
 樊川への道が都の貴人たちの遊楽や別荘地であったことを示しています。
 そうした華やかな時代はもう二度ともどって来ないと、杜牧は世の移り変わりを嘆き、昔を懐かしむのです。

目次