酒罷張大徹索贈詩時張初効潞幕
         酒罷み 張大徹 贈詩を索む 時に張 初めて潞幕を効く 李賀

  長鬣張郎三十八  長鬣ちょうろうの張郎ちょうろう 三十八
  天遣裁詩花作骨  天は詩を裁さいして 花 骨と作
  往還誰是龍頭人  往還おうかん 誰か是れ龍頭りゅうとうの人
  公主遣秉魚鬚笏  公主こうしゅ 魚鬚ぎょしゅの笏しゃくを秉らしむ
  太行青草上白衫  太行の青草せいそう 白衫はくさんに上り
  匣中章奏密如蚕  匣中こうちゅうの章奏しょうそう 密なること蚕かいこの如し
長い顎鬚の張大徹は 三十八歳
詩を作れば 骨まで花の才能を天から授かる
交際仲間では 君こそが第一人者
職に就くのに 公主の口添えがあったと聞いている
太行山の草が 君の白衫を青衣に変え
上書の箱には 君の文案が蚕のように詰まっている

 長平から左の谷を廻って山を越えると、潞州の広い盆地がひらけてきます。張徹は李賀の来訪を歓迎し、宴を催して遠来の客をもてなしました。
 詩は宴席で主人に求められたもので、張徹を褒めています。
 詩中に「張郎三十八」とありますが、「三十一」とする一本もあり、三十一歳が適当かも知れません。
 李賀は最大級の言葉を用いて張徹の詩才を褒め、上書の箱には君の文案がいっぱい詰まっているであろうと持ち上げています。

   金門石閣知卿有  金門きんもん 石閣せきかくけいの有ゆうなるを知る
   豸角鶏香早晩含  豸角ちかく 鶏香けいこう 早晩そうばん含まん
   隴西長吉摧頽客  隴西ろうせいの長吉 摧頽さいたいの客
   酒闌感覚中區窄  酒闌たけなわにして 中區ちゅうくの窄せまきを感覚す
   葛衣断砕趙城秋  葛衣かつい 断砕だんさいす 趙城ちょうじょうの秋
   吟詩一夜東方白  詩を吟じて一夜 東方とうほうしら
金馬門や石渠閣の地位は君のものだろう
監察御史や尚書郎になる日も遠くはない
隴西の李長吉は うらぶれた旅の者
酒が酣になると この世も狭く感じてくる
趙城に秋がきて 葛の衣も破れてきた
一夜詩を吟じて 東の空が白くなる

 後半はじめの二句は、前半につづいて張徹の将来の出世を寿ぐものです。
 「金門」は金馬門きんばもんのことで、文人学士の控えの場所です。
 「石閣」は石渠閣せききょかくのことで、宮中の書籍の蔵所です。
 「豸角」は法官の被る獬豸冠かいちかんのことで、監察御史にあたるでしょう。
 「鶏香」は天子に奏上するとき、口臭を消すために口に含む鶏舌香けいぜつこうのことで、尚書郎になることを意味します。しかし、これらはすべて漢代の用語で表現されており、直接に書けば阿諛に過ぎるからかもしれません。
 つぎの二句は李賀自身のことで、「隴西」の出身、つまり宗室につながりのある自分は落ちぶれた旅人に過ぎず、酒宴がたけなわになると「中區」世の中が狭くなるのを感ずるというのです。
 結びの二句はまことに歯切れよく書かれていますが、北国の秋というのに葛衣は破れ、詩を吟じて夜明けになったと張徹の同情を求めています。


    雁門太守行       雁門太守行 李賀

   黒雲圧城城欲摧   黒雲こくうん 城を圧して 城摧くだけんと欲す
   甲光向月金鱗開   甲光こうこう 月に向かって 金鱗きんりん開く
   角声満天秋色裏   角声かくせい 天に満つ 秋色しゅうしょくの裏うち
   塞上燕脂凝夜紫   塞上の燕脂えんじ 夜紫やしを凝らす
   半捲紅旗臨易水   半ば紅旗こうきを捲いて 易水えきすいに臨む
   霜重鼓寒声不起   霜重く鼓寒うして声こえ起こらず
   報君黄金台上意   君が黄金台上の意に報むく
   提携玉龍為君死   玉龍ぎょくりゅうを提携して君が為に死せん
城を覆う黒雲 城内は精気で溢れるほどだ
戦士の甲冑は 月の光を受けて金の鱗のように光る
秋空を満たして 角笛は鳴りわたり
塞の臙脂の土には 夜の精気が立ちこめる
紅旗を半ば捲いて 易水のほとりに布陣し
厳しい霜の寒さに 兵鼓の音も凍えている
黄金台の台上で 男の中の男と見込まれた
玉龍の剣を手に 死んで君恩に報いよう

 李賀は元和八年八一三の秋から元和十年八一五の春まで一年半ほど潞州に滞在しますので、その間に多くの詩を書いたでしょう。
 「雁門太守行」がんもんたいしゅこうは古楽府にある詩題ですので、李賀が楽府題を用いて辺境守備の意義を詠ったものと思われます。冒頭の「黒雲」は堅城の上に屋根のように被さる雲を軍精ぐんせいといい、不吉なものを意味しません。
 だから「城摧けんと欲す」は城内に兵の精気がみなぎっていることを示しています。前半の四句は城内のさま、後半は冬の出陣のようすです。
 潞州の兵は半ば紅旗を捲いて易水のほとりに布陣するのですが、易水は幽州の近くを流れる川ですので、河朔三鎮の勢力圏になります。
 実際に出陣したのではなく、結びの二句にある『史記』刺客列伝の荊軻の「易水の別れ」の故事を持ち出して、忠義の心を言うための布石です。


  塞下曲      塞下の曲 李賀

胡角引北風   胡角こかく 北風ほくふうを引き
薊門白于水   薊門けいもん 水よりも白し
天含青海道   天は青海せいかいの道を含ふく
城頭月千里   城頭じょうとう 月 千里なり
露下旗濛濛   露つゆ下りて 旗 濛濛もうもう
寒金鳴夜刻   寒金かんきん 夜刻やこくを鳴らす
蕃甲鏁蛇鱗   蕃甲ばんこう 蛇鱗だりんを鏁
馬嘶青塚白   馬嘶いなないて 青塚せいちょう白し
秋静見旄頭   秋静かにして旄頭ぼうとうを見る
沙遠席箕愁   沙すな遠くして席箕せきき愁う
帳北天応尽   帳北ちょうほくてんまさに尽くるなるべし
河声出塞流   河声かせいさいを出でて流る
胡族の角笛は 北風を巻き起こし
薊門の地は 水よりも白い
青海への道は 天へとつづき
万里の長城を 月は千里も照らし出す
露が降りて 黒々と旗ははためき
板鉦は鳴って 寒々と夜の時刻を報せる
蛮族の鎧は 蛇の鱗を刺しつらねたようで
馬はいななき 王昭君の塚を踏み荒らす
静かな秋の夜 昴の星の輝きを見上げ
砂漠は遠いが 席箕草も心配そうである
天幕の北 天はここに尽きるかと思われ
黄河の音だけが 塞の外へ流れ出る

 この詩は辺塞詩とみることができますが、場所が東西に移り変わり、潞州での作と断定できない節があります。はじめの二句には「薊門」の語があり、戦国燕の都薊、つまり唐代の幽州北京の雅称と考えられます。
 その地が水よりも白いというのは雪が積もっているのでしょう。
 河北の胡族が敵対していることを示していますが、三句目には「青海」の語があり、西の青海地方を指しています。
 四句目の「城頭」は万里の長城の上、もしくはほとりを言うのでしょう。つまり、東西と北の辺塞国境のとりですべてを取り上げていることになります。
 中四句は辺塞の状況で、秋の夜を描きます。「寒金」は軍中で夜の警備のために刻を告げるもので、銅板の鉦が寒々と鳴ります。
 「蕃甲」は蛮族の着ている鎧で、蛇の鱗のような細密な鎖になっています。
 「青塚」は金河県内蒙古自治区呼和浩特ふふほと市の南にあった王昭君の墓のことで、常に草に覆われて青々としていたことから青塚と呼ばれました。その青い塚が「白」というのは、胡騎に踏み荒らされて白くなっているのです。最後の四句は辺塞での感懐ですが、全体として西北国境の感じがあります。「旄頭」は昴すばるの星のことですが、昴は胡族の星とされ、昴が激しく輝くと胡騎の侵入があるとされていました。だから不吉なものとして見上げるのです。「席箕」は胡地の草の名ですが、その草も心配そうに生えていると詠います。
 結びでは、天幕の北を眺めると天はここに尽き果てるかと思われ、黄河の水だけが塞の外へ音を立てて流れ出ていると詠い、辺塞詩らしい勇ましさはありません。


潞州張大宅病酒遇江使寄上十四兄
 潞州張大の宅にて酒を病む 江使に遇い 十四兄に寄上す 李賀

秋至昭関後   秋は昭関しょうかんに至りて後のち
当知趙国寒   当まさに知るべし 趙国ちょうこくの寒きを
繋書随短羽   書を繋けて 短羽たんうに随い
写恨破長箋   恨みを写して 長箋ちょうせんを破る
病客眠清暁   病客びょうかく 清暁せいぎょうに眠れば
疎桐墜緑鮮   疎桐そとう 緑鮮りょくせんを墜とす
城鴉啼粉堞   城鴉じょうあ 粉堞ふんちょうに啼き
軍吹圧芦煙   軍吹ぐんすい 芦煙ろえんを圧す
昭関に秋が来れば
趙国が寒くなったとお分かりになるでしょう
緊急の羽書が出るので
悩みを伝えたく 長い手紙を差し上げます
多病の私が 爽やかな朝の眠りをむさぼっていると
桐の木立から 緑の葉が落ちてくる
城壁の鴉は 白い女墻の上で鳴き
兵営の角笛は 芦叢の靄を破って響きます

 李賀には潞州長史・昭義軍節度使郗士美ちしびの知遇を得て任用されたいという気持ちがあったと思われますが、その希望は達せられませんでした。
 虚弱体質で病気がちであった李賀は、武人である郗士美の好意を得るに至らなかったようです。李賀の官途への志は実現せず、張徹の客のまま潞州で二度目の秋を迎えます。そんな元和九年の秋、李賀は和州安徽省和県にいる十四兄従兄に長い手紙を書き、詩を添えました。詩題によると李賀は張徹の官舎に寄寓していて、酒ばかり飲んで病気をしたというのです。
 「昭関」は和州含県の西にあり、十四兄の住んでいるところ、「趙国」は戦国時代の趙で、趙の上党の地であった潞州をさしています。
 李賀は潞州で一冬を過ごし、冬の寒さが身にしみたように書いていますが、本当は仕官の望みがかなえられないのです。詩ははじめの四句で書信を送る理由を述べ、以下十句にわたって潞州での生活が李賀の意に染まないものであることを訴えていますが、今回はそのはじめの四句が出ています。

岸幘褰紗幌   幘さくを岸かたむけて紗幌さこうを褰かかぐれば
枯塘臥折蓮   枯塘ことうに折蓮せつれん
木窻銀跡画   木窻もくそうには銀跡ぎんせきの画
石磴水痕銭   石磴せきとうには水痕すいこんの銭せん
旅酒侵愁肺   旅酒りょしゅ 愁肺しゅうはいを侵し
離歌遶懦絃   離歌りか 懦絃だげんを遶めぐ
詩封両条涙   詩には封ず 両条りょうじょうの涙
露折一枝蘭   露には折る 一枝いっしの蘭
幘を斜に被り 紗の垂れ幕を挙げると
枯れた池に 蓮が折れて倒れている
木造の窓には 銀泥の絵の跡があり
庭の石段には 銭苔が水痕をつけている
旅路の酒は 愁いがちの胸にしみ通り
別れの歌は だれた絃の調べに縺れている
同封の詩には 二筋の涙がこめられ
蘭の一枝は 露に濡れながら折ったもの

 窓の垂れ幕を挙げて外を眺めても、枯れた池に蓮が折れて倒れており、寒々とした風景です。旅の身の酒は寂しく胸にしみ通り、詩を作ってもうまく調子に乗りません。私はこんなに寂しい気持ちでいますというのが、李賀の言いたいことでしょう。だから「詩には封ず 両条の涙 露には折る 一枝の蘭」と、従兄の同情をかおうとするのです。この対句には、それぞれ先行の類似作があって、李賀の独創ではありません。

莎老沙鶏泣   莎老いて 沙鶏さけい泣き
松乾瓦獣残   松まつ乾いて 瓦獣がじゅうざん
覚騎燕地馬   覚めては燕地えんちの馬に騎
夢載楚渓船   夢には 楚渓そけいの船に載
椒桂傾長席   椒桂しょうけい 長席ちょうせきに傾き
鱸魴斫玳筵   鱸魴ろぼう 玳筵たいえんに斫
豈能忘旧路   豈に能く 旧路きゅうろを忘れて
江島滞佳年   江島こうとうに 佳年かねんを滞とどこおらんや
この地では 萱草がしなびかけ沙鶏はたおりが鳴き
瓦松も枯れて 古びた獣面の瓦が載っている
目覚めては 燕の馬に騎り
夢の中では 楚の流れで舟に乗る
山椒や桂花の酒を飲み 長い筵に横になり
玳瑁で飾った筵の上で 鱸や魴を料理なさる
よもや兄上は 故郷への路を忘れて
長江の島々で 歳月を無駄にはなさらないでしょう

 最後の八句では、李賀は楚江南の川で舟に乗る夢をみ、「椒桂 長席に傾き 鱸魴 玳筵に斫る」と、江南での十四兄の優雅な生活を想像して詠います。
 「椒桂」とは楚辞に出てくる桂酒と椒漿しょうしょうのことで、共に江南での酒の飲み方です。また「鱸魴」は淡水魚で共に江南の珍味として有名でした。
 だから李賀は、従兄が江南の地で優雅に暮らし、「旧路」故郷への路を忘れて歳月を無駄に過ごしておしまいになるのではないでしょうね、と気を引いているのです。


  客遊        客遊 李賀

悲満千里心   悲しみは満つ 千里の心
日暖南山石   日は暖かなり 南山の石
不謁承明廬   承明しょうめいの廬に謁えつせず
老作平原客   老いて平原へいげんの客と作
四時別家廟   四時 家廟かびょうに別れ
三年去郷国   三年 郷国きょうこくを去る
旅歌屢弾鋏    旅歌 屢々しばしばきょうを弾だん
帰問時裂帛   帰問 時に帛きぬを裂く
千里異郷の客となり 悲しみに満たされる
日は暖かに 南山の石を照らしている
承明廬に宿直して 天子に謁することもなく
老いて平原君の客となる
四季ごとの先祖の祀りも行わず
故郷を離れて 三年になる
旅先の詩も 馮諼の弾鋏歌
時には帛を切り取って 故郷への便りとする

 年が明けて元和十年八一五の春になると、李賀は潞州での将来に見切りをつけ、故郷に帰ろうと思ったようです。
 故郷を離れて暮らす李賀は、悲しみに満たされています。春になって陽は南の山に暖かく照っていますが、李賀の心は冷え切っているようです。
 「承明廬」は漢代の官吏の宿舎で、都で奉礼郎になったが、天子に拝謁することもなく辞めてしまったと長安時代を振りかえります。
 「平原の客」は戦国趙の平原君趙勝ちょうしょうの客という意味で、潞州で張徹のもとに滞在して客となっていることをいうのです。
 元和八年六月に昌谷を出てから三年目の元和十年を迎えたけれども、成し得たことは「旅歌 屢々鋏を弾じ」たことでしかない。「弾鋏」は『史記』孟嘗君列伝に出てくる馮諼ふうけんの説話で、馮諼は孟嘗君の食客になったが、待遇が悪いと言って鋏剣の柄を叩いて歌をうたったといいます。
 李賀は自分の詩も馮諼のように不平不満を言い立てるだけで何の役にも立たないと述べ、帰郷の意思のあることを詠うのです。


 猛虎行      猛虎行 李賀

長戈莫舂    長戈ちょうかも舂く莫
強弩莫枰    強弩きょうども抨はじく莫し
乳孫哺子    孫まごに乳にゅうし 子を哺はぐく
教得生獰    教え得て生獰せいどうなり
挙頭為城    頭こうべを挙ぐれば城と為
掉尾為旌    尾を掉ふるえば旌はたと為る
東海黄公    東海の黄公こうこう
愁見夜行    夜行やこうを見るを愁うれ
長い鉾でも突かれない
強い弓でも射抜けない
乳をやり 食を与えて子を育て
獰猛な虎に仕立て上げた
頭をもたげれば城となり
尾を振れば旗となる
東海の黄公ほどのお方でも
こいつの夜歩きは心配だ

 昌谷とのあいだで、どのような書信のやりとりがあったかは不明ですが、李賀としては潞州まで来て何事もなしえずに帰郷するのも辛い面があったと思います。李賀はほどなく張徹に別れを告げ、和州の十四兄のところに行くことになりました。ところがそのころ、河南から淮水にかけての地域は、戦乱に見舞われていました。
 前年の元和九年八一四閏八月に淮西節度使の呉少陽ごしょうようが死ぬと、その子の呉元済ごげんさいが留後となって政府に叛旗を翻しました。政府は淮西の使府のある蔡州河南省汝南県周辺の節度使に命じて呉元済の討伐を行いますが、兵の動きは鈍く、元和十年になっても征討はつづいていました。そこで李賀は大きく東に迂回して、東魯の地をたどって南下することになります。
 ただし、泰山の麓まで行ったかについては疑問もあります。
 詩題の「猛虎行」もうここうは楽府題で、ここでは藩鎮の専横を虎に喩えるものでしょう。はじめの六句は節度使が私兵を養い、獰猛どうもうな虎のような兵を育成したことを詠っています。
 「東海黄公」は仙術をよくし、蛇を制し虎を御したと言われていますが、その黄公でさえ藩鎮の兵は手に負えないというのです。

道逢騶虞    道に騶虞すうぐに逢えば
牛哀不平    牛哀ぎゅうあい 平らかならず
何用尺刀    何を用って尺刀せきとう
壁上雷鳴    壁上へきじょうに雷鳴らいめいする
泰山之下    泰山たいざんの下ふもと
婦人哭声    婦人の哭く声
官家有程    官家かんかてい有り
吏不敢聴    吏あえて聴かず
道で騶虞に出逢えば
公牛哀は じっとしておれないのだ
どうしたわけで短刀は
城壁の上で吼えるのか
泰山の麓をゆけば
婦人の泣き声がする
役所には定まった期限があって
婦人が泣いて訴えても 聴く耳はない

 「騶虞」は架空の動物で、外形は虎に似ていますが肉食せず、徳のある人に従ったといいます。「牛哀」は昔、公牛哀こうぎゅうあいという男が病気になり、七日間で虎に化したといいます。
 だから虎はおとなしい騶虞に逢えば、襲わずにはいられないというのです。
 「婦人の哭く声」には故事があり、孔子が泰山の麓を過ぎたとき、婦人が墓の前で泣いていました。孔子が車を止めて子路に訳を尋ねさせると、婦人は舅・夫・子を虎に殺されたと答えます。孔子がそんな危険な土地ならどうして立ち去らないのかと尋ねると、婦人はこの地は政道が厳しくないので、よその土地よりもいいのですと答えたそうです。
 「苛政は虎よりも猛し」ということですが、李賀の詩では「官家 程有り 吏 敢て聴かず」と結ばれています。
 この句の解釈には諸説がありますが、役人が婦人の訴え虎退治もしくは納税の延期を聴き入れようとしないと考えて訳しました。泰山のあたりは、当時は平盧節度使の管下にあって、順州ではありませんでした。


     公無出門        公 門を出づる無かれ 李賀

  天迷迷 地密密    天は迷迷めいめい 地は密密みつみつ
  熊虺食人魂      熊虺ゆうき 人の魂たましいを食くら
  雪霜断人骨      雪霜せつそう 人の骨を断
  嗾犬狺狺相索索  嗾犬そうけん 狺狺ぎんぎんあい索索さくさく
  舐掌偏宜佩蘭客  掌を舐むるは 偏ひとえに佩蘭はいらんの客に宜よろ
  帝遣乗軒災自滅  帝は軒けんに乗らしめて災わざわい自おのずから滅す
  玉星点剣黄金軛  玉星ぎょくせい 剣に点じ 黄金おうごんの軛くびき
  我雖跨馬不得還  我 馬に跨またがると雖も 還かえるを得ず
  歴陽湖波大如山  歴陽れきようの湖波こは 大きさ山の如し
天は暗くさまよい 地はひしとして動かない
熊虺は人の魂を食い
寒気は人の骨を断ち切る
犬は嗾けられて吠え 人を嗅ぎまわり
獲物となるのは 蘭を帯びた旅人だ
天帝は雲車を遣わし 黄金の軛の馬車
玉星を点じた剣で 災いを取り除く
私は馬に跨るが 帰ることができず
歴陽の湖水には 山のような波が立っている

 李賀は乱世の農民の辛苦を見ながら南へ旅し、夏のはじめには和州に着きました。李賀には十四兄のもとで仕官の途を捜せないかという期待があったと思われますが、見込みがなければ故郷に帰るつもりであったようです。
 ところが、和州から昌谷に行くには蔡州の北を西に辿ることになり、危険でした。都では時の宰相武元衡ぶげんこうが暴漢に襲われて死亡するという事件もあり、戦乱は激しくなる一方です。
 李賀は現状に憤慨して詩を作ります。
 詩題の「公」が具体的に誰を指しているのか不明ですが、世の中が乱れているので、門を閉じて隠棲せよと言っているのでしょう。詩のはじめの四句は天下の乱れたさまを描き、藩鎮の凶悪残忍を指摘しています。
 「熊虺」は楚辞「招魂」に出てくる雄虺ゆうきのことで、九首の蛇です。
 人を呑んで自分の心臓を大きくすると言われています。
 「佩蘭の客」は屈原が「離騒」で「秋蘭を紉つないで以て佩と為す」と詠ったことに基づいており、修養を積んだ旅人のことです。
 有徳の者は恰好の餌食になるが、天帝は雲車をつかわして災いを取り除くと、戦乱がいずれ終わることを示唆します。しかしいまは、「歴陽の湖波 大きさ山の如し」であり、危険で故郷に帰ることができません。
 「歴陽」は和州の郡名で、県城の西三十里約十七㌔㍍のところに湖があり、歴湖と呼ばれていました。

   毒虯相視振金環   毒虯どくきゅうあい視て 金環きんかんを振るい
   狻猊鍥貐讒吐涎   狻猊しゅんげい 鍥貐けつゆ 讒涎ざんせんを吐
   鮑焦一世披草眠   鮑焦ほうしょう 一世 草を披ひらいて眠り
   顔回廿九鬢毛斑   顔回がんかい 廿九 鬢毛びんもうまだらなり
   顔回非血衰       顔回は血の衰えたるに非ず
   鮑焦不違天       鮑焦は天に違たがわず
   天畏遭銜噛       天は銜噛かんごうに遭わんことを畏おそ
   所以致之然       所以ゆえに之これが然しかることを致す
   分明猶懼公不信   分明ぶんめい 猶お懼おそる 公の信ぜざるを
   公看呵壁書問天   公こうよ 壁に呵して書して天に問いしを
虯は私を視て 金環のような声をあげ
狻猊や鍥貐は 涎を垂らしている
鮑焦は生涯の間 草のあいだで眠り
顔回は二十九で 鬢毛に白髪がまじる
顔回は 血の気が衰えたわけではなく
鮑焦は 天道に背いたわけではない
天は彼らが 噛み殺されるのを心配し
天上に迎えるため あのような運命を与えたのだ
これは明白なこと あなたが信じないことを私は恐れる
壁に「天問」を書き付けた 屈原の怒りをご覧ください

 「毒虯」みずちも「狻猊」も「鍥貐」も悪事をなす怪獣で、戦乱のために西へ行くことが困難であることを言っています。ついで一転して鮑焦と顔回に思いを致しますが、「鮑焦」は周の隠者で、あるとき山中で飢えて棗を食べました。
 通りかかった人が、この棗はあなたが植えたものですかと問うと、鮑焦は棗を吐き出して餓えて死んだそうです。
 「顔回」孔子の弟子については説明の必要はないでしょう。
 天は鮑焦や顔回が世の悪人たちに殺されるのを避けるために、夭折の運命を与えたのだと李賀は言います。結びの二句では、「公」がもし天意を信ずることができないならば、屈原が書いた「天問」を読んで、世の不合理に対する屈原の怒りを知るべきであると詠います。


  追賦画江潭苑四首 其一 画江潭苑を追賦す 四首 其の一 李賀

   呉苑暁蒼蒼   呉苑ごえんの暁あかつきは蒼蒼そうそうとして
   宮衣水濺黄   宮衣きゅういは水濺黄すいせんこう
   小鬟紅粉薄   小鬟しょうかん 紅粉こうふん薄く
   騎馬珮珠長   騎馬 珮珠はいしゅ長し
   路指台城迴   路みちは台城だいじょうを指して迴はるか
   羅薫袴褶香   羅薫じて 袴褶こしゅうかんば
   行雲霑翠輦   行雲こううん 翠輦すいれんを霑うるおし
   今日似襄王   今日こんにち 襄王じょうおうに似たり
江潭苑の朝は蒼暗く
宮女の衣は 薄黄色
小さい髷に うっすらと紅をつけ
馬に跨って 腰には揺れる長い佩玉
台城に向かって 路は遥かに延び
薄絹の乗馬袴に 香の薫りが漂う
雲は舞い降りて 天子の車を潤し
行幸のさまは 楚の襄王が往くようだ

 昌谷への道が塞がれていることを知った李賀は、この機会に江南を旅してみたいと思ったようです。李賀の友人には南方出身の者が多かったので、江南の美しい風光のことは耳にしていました。李賀はまず、和州から東北へ長江を五〇㌔㍍ほど下ったところにある金陵に向かいました。金陵は南朝の都建康の雅称で、李賀の時代には昇州江蘇省南京市と言っていました。
 おりしも秋のはじめのころで、李賀は金陵の知識人の家に招かれ、壁に掛けてあった絵を題材に四首の詩を作りました。詩題の「江潭苑」こうたんえんは金陵の東南二十里十㌔㍍余のところにあった梁代の御苑で、それを絵に描いたものに詩を賦したのです。「呉苑」は金陵が三国呉の都であったことから雅称したもので、江潭苑のことです。
 絵には江潭苑の朝、帝の行楽の模様が描かれており、「台城」は晋の建康宮を梁の武帝が改修したもので、梁の皇居です。
 その台城から延びた路を行列は進んでいました。
 李賀がまず目をつけたのは、帝の行列に侍している乗馬の宮女ですが、その描写は微に入り細を穿って見事です。


  追賦画江潭苑四首 其二 画江潭苑を追賦す 四首 其の二 李賀

   宝袜菊衣単   宝袜ほうまつ 菊衣単きくいたん
   蕉花密露寒   蕉花しょうか 密露みつろ寒し
   水光蘭沢葉   水は光る蘭沢らんたくの葉
   帯重剪刀銭   帯おびは重くして刀銭とうせんを剪
   角暖盤弓易   角つの暖かにして弓を盤めぐらすこと易やす
   靴長上馬難   靴長くして馬に上のぼること難かた
   涙痕霑寝帳   涙痕るいこん 寝帳しんちょうを霑うるおし
   匀粉照金鞍   匀粉いんふん 金鞍きんあんを照らす
豪奢な脇当 薄絹の黄色の単衣
紅蕉の花に ひんやり宿る露のようだ
髪には蘭の香油 水に濡れた葉のように光り
帯は重く垂れて 刀銭の模様が浮かぶ
角筈が暖められ 弓は曲げ易くなり
靴が長くて 馬に乗るのが難しそうだ
ひとり寝の涙の痕が 寝屋の帳を濡らしても
美しく化粧を整えて 黄金の鞍に照り映える

 其の二の詩では、従う宮女の姿をさらに詳しく描いています。「宝袜」は婦人の脇腹にあてる下着の上等のもの、「菊衣単」は黄菊色の上着です。「蕉花」は紅蕉こうしょうの花のことで、宝袜の色を言っているものと思われます。
 つまり、紅と黄色の衣装が宮女を艶やかに彩っているのです。
 宮女は武装しており、美女の男装した姿は魅力をそそるものでした。
 李賀はさらに空想を逞しくして、乗馬の宮女が夜は空閨に涙を流し、夜が明けて帝の行楽に扈従するときは美しく化粧をして、その姿が黄金の鞍の上で映えていると詠います。


 安楽宮       安楽宮 李賀

深井桐烏起   深井しんせい 桐烏とうう 起き
尚復牽清水   尚復しょうふく 清水せいすいを牽
未盥邵陵瓜   未だ盥あらわず 邵陵しょうりょうの瓜うり
瓶中弄長翠   瓶中へいちゅう 長翠ちょうすいを弄ろう
新成安楽宮   新あらたに成る 安楽宮
宮如鳳凰翅   宮は鳳凰の翅はねの如し
歌廻蝋板鳴   歌廻めぐりて 蝋板ろうばん鳴り
左官提壷使   左官さかんは提壷ていこの使たり
緑繁悲水曲   緑繁りょくはん 水曲すいきょくに悲しみ
茱萸別秋子   茱萸しゅゆ 秋子しゅうしに別る
深井戸の側で 桐の枝から烏が飛び立ち
尚服の女官が 清らかな水を汲む
洗っていない邵平瓜が
瓶の水のなか 緑の色に揺れている
新築の安楽宮は
鳳凰の翼をひろげたようだ
歌声は巡って 拍板はくばんは鳴り
高位の宦官は 酒壷の配り役だ
だが今は池の畔で 白蓬は悲しげに生え
茱萸の実は熟して 枝から落ちる

 李賀は金陵に幾日か滞在して都城の旧蹟を歩き、栄華を極めたかつての宮殿のさまを想像するのでした。
 詩題の「安楽宮」あんらくきゅうは鄂州湖北省武漢市武昌区の西北にあった呉の宮殿で、のちに建業呉時代の建康に移築転用されたものです。
 詩中の「尚復」は尚服の誤記とされており、尚服は宮中で衣服のことをつかさどる女官のことです。宮殿の跡に井戸が残されていたのでしょう。
 井戸の傍らの桐の木から烏が飛び立ちました。
 そのことから、女官が井戸水を汲み上げているようすを想像するのです。「邵陵の瓜」については説が分かれていますが、秦の東陵侯召平邵平とも書きますが、秦の滅亡後、長安の青門外で作っていた瓜は美味なことで有名でした。
 その瓜を冷やすために女官が井戸水を汲み上げ、甕に注いでいると考えたのでしょう。李賀は新装成った宮殿のようすを想像します。
 宮殿では酒宴が催され、「左官」高位の宦官が酒壷を配って歩きます。
 しかし今は、それも滅び去って、池のほとりに「緑繁」白蓬が生え、茱萸「ぐみ」とは違うものですの実が赤く熟れて落ちるのです。

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