昌谷北園新筍 四首 其一 昌谷北園の新筍 四首 其の一 李賀

   籜落長竿削玉開   籜たく落ちて長竿ちょうかん 削玉さくぎょく開く
   君看母筍是龍材   君きみよ 母筍ぼじゅんは是れ龍材なるを
   更容一夜抽千尺   更に容ゆるさんや 一夜千尺せんせきを抽きんで
   別却池園数寸泥   池園ちえん数寸の泥でいに別却べつきゃくするを
竹の皮が落ち 玉を削いだような竿が現われる
君よ見たまえ この筍こそ龍となる素材ではないか
それがさらに 一夜のうちに千尺も伸びて
池のほとりの数寸の泥と 別れることはできないものか

 詩題の「北園」は、「南園」に対するものと思われます。
 そこに大きな竹林があって、春になると「新筍」しんじゅんが顔を出します。
 転結句で「更に容さんや 一夜千尺を抽きんで 池園数寸の泥に別却するを」と言っているのは、当時、竹が龍になるという伝説があったので、李賀の昌谷滞在も一年がたち、新しい活動の場を求める気持ちが動いているのを、比喩で示しているものと思われます。


   昌谷北園新筍 四首 其二 昌谷北園の新筍 四首 其の二 李賀

   斫取青光写楚辞   青光せいこうを斫り取って 楚辞そじを写うつ
   膩香春粉黒離離   膩香にこう 春粉しゅんぷん 黒くして離離りりたり
   無情有恨何人見   無情むじょう 有恨ゆうこん 何人なんびとか見らん
   露圧煙啼千万枝   露は圧あつし 煙は啼く千万枝せんばんし
青竹の肌を削り そこに詩を書く
新竹の香り 白い粉 黒々と墨の色
無常の世に恨みあり この詩を読むのは誰であろうか
千万の枝の林に 露は重たくてむせび泣く霧

 竹簡に文字を書く習慣は、唐代では過去のものとなっていますので、「青光を斫り取って 楚辞を写す」というのは比喩的に用いているものでしょう。
 しかし、承句が具体的であるのを見ると、李賀はなお古い書写材を好んで、竹簡に楚辞などを写すことがあったのかも知れません。
 「春粉」は新竹の節のあたりに生ずる白い粉のことです。
 転句の「無情 有恨」にはいろいろな解釈があるようです。
 ここでは李賀が世に認められないことを恨んでいると解しました。竹林に露が宿り、霧が立ち込める結びは、李賀の有恨を反映するものでしょう。


   昌谷北園新筍 四首 其三 昌谷北園の新筍 四首 其の三 李賀

   家泉石眼両三茎   家泉かせんの石眼せきがん 両三茎りょうさんけい
   暁看陰根紫陌生   暁に看る 陰根いんこんの紫陌しはくに生ずるを
   今年水曲春沙上   今年こんねん 水曲すいきょく 春沙しゅんさの上
   笛管新篁抜玉青   笛管てきかん 新篁しんこう 玉青ぎょくせいを抜きんでん
泉水の岩の孔から 二三本の竹が芽を出す
あけがたに見ると 路の畔に地下茎が伸びている
今年は水のほとり 春沙の上に新しい竹
笛の管になる様な 碧玉の竹が萌え出るであろう

 泉水の岩の孔から二三本の竹が芽を出しているという叙景は、面白い着眼であると思います。
 「紫陌」は都大路の意味ですが、ここでは小川のほとりの路を大袈裟に言ったものか、もしくは都に出たいという李賀の気持ちの寓意かも知れません。
 それを見て、転結の二句では「今年 水曲 春沙の上 笛管 新篁 玉青を抜きんでん」と言っていますが、今年は何か新しいことが起こりそうだと前途に希望を寄せています。
 希望ではなく、竹が笛になる決意を述べているのかも知れません。


   昌谷北園新筍 四首 其四 昌谷北園の新筍 四首 其の四 李賀

   古竹老梢惹碧雲   古竹こちくの老梢ろうしょう 碧雲へきうんを惹
   茂陵帰臥嘆清貧   茂陵もりょうの帰臥きが 清貧せいひんを嘆く
   風吹千畝迎雨嘯   風吹きて 千畝せんぽ 雨を迎えて嘯うそぶ
   鳥重一枝入酒樽   鳥重くして一枝いっし 酒樽しゅそんに入る
古びた竹の老いた梢は 碧雲を払って伸び
病のために故郷に帰り 清貧を嘆いている
千畝の竹林に風が吹き 雨が降って鳴り渡る
鳥の重さで垂れた枝が 樽の酒に映っている

 其の四の詩の前半では、空を払うように勢いよく伸びている古竹の梢と健康を害して故郷に帰り、清貧を嘆いている自分を対比して描いています。
 「茂陵の帰臥」は前にも出てきましたが、漢の司馬相如が晩年に官を辞して茂陵の陵邑に隠退したことを引くもので、李賀自身を比喩するものでしょう。北園の竹林は「千畝」と書いてありますので、相当広い竹林であったようです。後半では、その広い竹林が風雨を受けて揺れ動き、泣くような音を立てています。
 これは実際の描写であると同時に、李賀の心象風景でもあるでしょう。
 結びは「鳥重くして一枝 酒樽に入る」と小景を繊細にとらえて一句としていますが、この対照の妙は技巧的でかつ象徴的であると思います。


勉愛行二首送小季之廬山 其一
        勉愛行 二首 小季が廬山に之くを送る 其の一 李賀
洛郊無爼豆    洛郊らくこう 爼豆そとう無く
弊厩慚老馬    弊厩へいき 老馬に慚
小雁過鑪峰    小雁しょうがん 鑪峰ろほうを過ぎれば
影落楚水下    影かげは落ちん 楚水そすいの下した
長船倚雲泊    長船ちょうせん 雲に倚りて泊するは
石鏡秋涼夜    石鏡せききょう 秋涼しゅうりょうの夜
豈解有郷情    豈に 解く郷情きょうじょう有りて
弄月聊嗚唖    月を弄ろうして聊いささか嗚唖おあせんや
洛陽郊外で 旅の別れのお供えもなく
古びた馬屋 老いた馬が恥ずかしい
小さな雁が 香炉峰を過ぎるとき
雁の影は 楚の川面に映るであろう
細長い船が 雲に閉じ込められて泊まるとき
石鏡峰の麓 秋の日の淋しい夜もあるだろう
望郷の心で 胸が一杯になるときは
月を眺めて 啜り泣く声を上げるがよい

 詩題にある「小季」しょうきは末の弟のことですので、李賀にはすくなくとも二人の弟がいたようです。元和八年八一三の晩春、末弟が廬山江西省九江市にある山に行くことになり、李賀は洛陽郊外まで見送りました。
 二十歳前であったと思われる末弟が、どのような目的で廬山に行くことになったのか分かりませんが、あまり明るい旅立ちではなかったようです。
 華やかな門出ではなく、見送りも淋しいものでした。「洛郊 爼豆無く」といっている「爼豆」は旅立つときに道路の神を祀るための蔡具です。
 蔡具によって祀ること自体を表わしているともいえます。
 李賀は自分を「老馬」に喩え、小季を「小雁」に喩えて、廬山で淋しい思いをしたときは、月を見上げて「聊か嗚唖せんや」と言っています。
 詩でも作って淋しい気持ちを慰めなさいと言っているのでしょう。


勉愛行二首送小季之廬山 其二
       勉愛行 二首 小季が廬山に之くを送る 其の二 李賀
別柳当馬頭       別柳べつりゅう 馬頭ばとうに当たり
官槐如兎目       官槐かんかい 兎目ともくの如し
欲将千里別       千里の別れを将って
持此易斗粟       此れを持して斗粟とぞくに易えんと欲す
南雲北雲空脈断   南雲 北雲 空しく脈みゃく
霊台経絡懸春綫   霊台の経絡けいらく 春綫しゅんせんを懸
青軒樹転月満牀   青軒せいけんじゅ転じて 月 牀しょうに満つ
下国飢児夢中見   下国かこくの飢児きじ 夢中むちゅうに見えん
別れの柳が 馬の頭に垂れ下がり
槐の並木は 兎の目のような新芽を吹いている
千里の別れ 遥かな地へ行こうというのに
一首の詩を 一斗の粟の代わりに贈るのだ
南の雲と北の雲 別れてしまえば繋がりは絶え
心の糸の縦枠も 愁いの色を増すばかり
樹影は母屋に移って 月の光は寝床に満ち
母上の夢に出るのは 田舎で腹をへらしている子

 其の二の詩では、はじめの五言四句で旅の支度を充分に整えてやれない現状を重ねて嘆いています。「官槐」は官道に植えた槐えんじゅの並木でしょう。それが「兎目」を生じているのは、晩春三月の季節であることを示しています。
 江南へ旅立つ弟に、李賀が餞別として贈ることのできるのは一篇の詩だけです。「南雲 北雲」とうのは南の廬山と北の昌谷と考えられますが、李賀もこのころは北に旅立つ計画があったとも考えられます。いずれにしろ遠く離れてしまえば、心の糸も途絶えがちになると愁えます。「青軒」は老母の住んでいる部屋のことで、母上も夜になれば、月の光のなかで「お前が腹をへらしていないか」と心配し、夢に見るであろうと慰めるのです。

維爾之昆二十余   維れ爾なんじの昆あに 二十余
年来持鏡頗有鬚   年来 鏡を持するに頗すこぶる鬚ひげ有り
辞家三載今如此   家を辞して三載さんさい 今 此かくの如し
索米王門一事無   米を王門に索もとむるに 一事いちじ無し
荒溝古水光如刀   荒溝こうこうの古水 光 刀とうの如く
庭南拱柳生蠐螬   庭南の拱柳こうりゅう 蠐螬せいそうを生ず
江干幼客真可念   江干こうかんの幼客ようきゃく 真に念おもう可し
郊原晩吹悲号号   郊原こうげんの晩吹ばんすい 悲しんで号号
兄の私は 二十を越え
鏡を見れば 頬に鬚も生えてきた
世に出て三年だが いまだにこのざまだ
朝廷には仕えたが 禄米をもらう以外に何もない
溝の古びた溜水は 刀のように光っており
南庭の古木の柳は きくい虫にやられている
長江の岸に旅立つ弟よ 私はとても気にかかる
洛陽郊外日暮れの風も 声をあげて悲しんでいる

 後半八句の前半は、兄として何もしてやれない李賀が、自分の不甲斐無さを詫びる言葉です。その苦しい胸の内を、あたりの風景に託してみごとな対句で表現しています。


 河陽歌       河陽の歌 李賀

染羅衣       羅衣らいを染むるに
秋藍難着色    秋藍しゅうらん 色着け難がた
不是無心人    是れ無心むしんの人ならず
為作台邛客    為に台邛だいこうの客と作
花焼中燀城    花は焼く 中燀城ちゅうたんじょう
顔郎身已老    顔郎がんろうすでに老ゆ
惜許両少年    惜しみ許す 両少年
抽心似春草    心を抽ぬきんずること春草しゅんそうに似たり
薄絹の衣は 染めようとしても
秋の藍でも 色をつけにくい
だが私は 自然のままに過ごせないので
こうして 臨邛の酒場にやってきた
中燀城に 花は燃えるように咲いているが
若かった私は すでに老いた
許し合った若い男女は
春草のように すくすくと心を伸ばすのに

 末弟を江南に送り出した李賀は、その年の六月下旬に李賀自身が潞州山西省長治市に旅立つことになりました。いったん郷里に帰ったものの、二十四歳の李賀はまだ若く、政事への志を断ち切ることはできませんでした。
 無収入のまま詩文に没頭できるほど、李賀の家が豊かでなかったことも理由のひとつでしょう。長安にいたころ、李賀は韓愈の門人の張徹ちょうてつと交友を深めていましたが、この年に張徹は潞州長史・昭義軍節度使郗士美ちしびの辟召を受け、潞州ろしゅうに赴くことになりました。李賀は張徹の推薦で郗士美に仕えることを考え、潞州に行くことにしたのです。潞州は太行山中の盆地にあり、東に山脈を越えると河朔三鎮の勢力圏に接しています。昌谷から潞州に行くには洛陽の北の孟津渡もうしんとで黄河を渡り、対岸の河陽河南省孟県を通ります。李賀は河陽の街で旧知の者の宴席に招かれました。
 詩のはじめの四句は導入部で、李賀は自分を「羅衣」に喩えています。
 自分は自然のままにじっとしておれない性分だから、こうして「台邛の客と作る」というのです。台邛は臨邛四川省邛峡県の誤りで、司馬相如が臨邛で酒廬を開いた故事を踏まえて、こうして酒席に出ていると詠うのです。
 一度は隠退した身が再び職を求めて旅に出てきたことを弁解しているとも解されます。「中燀城」は河陽に三つあった城のうち中央の一番堅牢な城で、李賀はその郭内の酒楼で催された宴席に出たのでしょう。
 李賀はまだ二十四歳なのに、「顔郎 身 已に老ゆ」と言っていますが、それには理由があるようです。

今日見銀牌    今日こんにち 銀牌ぎんぱいを見る
今夜鳴玉讌    今夜こんや 鳴玉めいぎょくの讌えん
牛頭高一尺    牛頭ぎゅうとう 高きこと一尺
隔坐応相見    坐を隔へだてて応まさに相見るべし
月従東方来    月は東方より来たり
酒従東方転    酒は東方より転ず
觥船沃口紅    觥船こうせん 口に沃そそいで紅くれない
蜜炬千枝爛    蜜炬みつきょ 千枝せんしらんたり
見れば今日 君は変わらず銀牌をつけている
玉佩を鳴らし 今夜の宴を賑やかにするのか
牛頭の酒樽は 高さ一尺もあり
座席をへだて 久し振りの酒宴を共にしよう
月は東から昇り
酒も東の方から廻ってくる
酒をそそげば 大杯で唇は紅く濡れ
千本の蝋燭が 煌々とあたりを照らす

 後半冒頭の句の「銀牌」は、唐代の官妓が佩びていた銀製の牌で、妓女の名前が刻んであったといいます。
 李賀はその宴席で、むかし馴染んだ妓女に遇ったのでしょう。
 だから前半で、君は変わらず若くて花のように美しいが、自分は老いてしまったと言ったのでしょう。最後の六句は宴会のようすで、「牛頭」の飾りをつけた大きな酒樽が据えてあります。
 李賀は主客ではなく、末席に連なっているのでしょう。
 妓女は主客の席の近くにいるので「坐を隔てて」います。
 「酒は東方より転ず」というのは、酒も月と同じく主人のいる東の方から廻ってくるというのであり、李賀は無官の知識人、詩人としても有名ではありませんので、宴席に出ていても華やかな存在ではないようです。


七月一日暁入太行山 七月一日の暁 太行山に入る 李賀

一夕繞山秋    一夕いっせき 山を繞めぐりて秋
香露溘蒙菉    香露こうろ 蒙菉もうろくに溘こう
新橋倚雲阪    新橋しんきょう 雲阪うんぱんに倚
候虫嘶露樸    候虫こうちゅう 露樸ろぼくに嘶すだ
洛南今已遠    洛南らくなん 今已すでに遠く
越衾誰為熟    越衾えつきんが為に熟す
石気何淒淒    石気せきき 何ぞ淒淒せいせいたる
老莎如短鏃    老莎ろうさ 短鏃たんぞくの如し
一夜のうちに 山は一面の秋景色
免糸や王芻に 芳しい露が宿っている
雲の靡く阪に 橋が架かっているのが見え
樹々の茂みで 秋の虫が鳴いている
洛南の故郷は 遠くへだたり
林檎の実は 誰のために熟するのか
岩のあたりに 寒々とした気がただよい
老いた莎草は 鏃のように尖っている

 まず訳の植物名にふりがなをつけます。
 「免糸」ねなしかずら、「王芻」かりやす、「莎草」かやつりぐさ
 さて、河陽から北に路を取り、李賀は七月一日には太行山の南麓にさしかかっていました。七月一日は陰暦秋の初日です。
 一夜のうちに山が秋の色に染まったのを見て、李賀は洛陽の南の昌谷から遥かに遠く来たことを痛感します。
 「越衾」は「越禽」と記す異本もあり、「林檎」りんごの異称と解されています。
 故郷の昌谷では林檎の実も熟するころだが、誰のために熟するのかと、故郷を懐かしく思うのです。
 そのことが、太行山の山道の寒々とした景色と対比して描かれています。


    長平箭頭歌       長平の箭頭の歌 李賀

   漆灰骨末丹水砂   漆灰しつかい 骨末こつまつ 丹水たんすいの砂
   淒淒古血生銅花   淒淒せいせいたる古血こけつ 銅花どうかを生ず
   白翎金簳雨中尽   白翎はくれい 金簳きんかん 雨中うちゅうに尽き
   直余三脊残狼牙   直ただ余す 三脊さんせきの残狼牙ざんろうが
   我尋平原乗両馬   我われ 平原を尋ねて両馬りょうばに乗る
   駅東石田藁塢下   駅東の石田せきでん 藁塢こううの下もと
   風長日短星蕭蕭   風長く 日短くして 星蕭蕭しょうしょうたり
   黒旗雲湿懸空夜   黒旗こくき 雲湿うるおうて 空夜くうやに懸かか
漆のような黒い灰 白骨のような粉 赤い丹砂
すさまじい血潮が 銅をさまざまに錆びさせる
白い矢羽根 堅い矢柄は雨に朽ち
三稜の鋭い刃だけが 残っている
私は二匹の馬を乗り換えて 平原を尋ね
長平駅の東 石だらけの畑 蓬の生えた丘につく
風は吹きつのり 日は短く 星は淋しく光りはじめ
旗のような雲が 湿った夜空にかかっている

 泫水げんすいの流れに沿って山路を上ってゆくと、やがて長平山西省高平県の西北の平原に出ます。ここは戦国時代の有名な古戦場で、秦の将軍白起はくきが趙の大軍を破り、降卒四十万人を生き埋めにしたところです。
 そこには青銅の鏃や折れた鉾先が散乱し、黒、白、赤、いろいろな色が混ざり合った銅錆が生じています。矢羽根や矢柄、鉾の柄は朽ち果て、「三脊」の尖った刃だけが残っていると、李賀は古戦場の壮絶なさまを描きます。
 替え馬を伴ない、二頭の馬を乗り換えながら、長平駅の東の石だらけの路をたどる内に秋の日は暮れ、空には星が光りはじめ、いまにも雨の降り出しそうな夜空に黒い雲が低く垂れ下がっています。

  左魂右魂啼飢痩  左魂さこん 右魂ゆうはく 飢痩きそうに啼
  酪瓶倒尽将羊炙  酪瓶らくへい 倒し尽くして羊炙ようしゃを将すす
  虫棲雁病芦筍紅  虫棲み 雁かり病みて 芦筍ろじゅんくれないなり
  廻風送客吹陰火  廻風かいふう 客を送って 陰火いんかを吹く
  訪古汍瀾収断鏃  古いにしえを訪い 汍瀾がんらんとして断鏃だんぞくを収む
  折鋒赤璺曾刲肉  折鋒せっぽう 赤璺せきもんかつて肉を刲
  南陌東城馬上児  南陌なんぱく 東城とうじょう 馬上の児
  勧我将金換尞竹  我に勧む 金を将もって尞竹りょうちくに換えよと
痩せ衰えた魂魄が 飢えて左右から泣き叫ぶので
乳酪の瓶を傾けて 羊の焼肉を供える
虫が棲み 雁は病み疲れて 芦の芽は赤く
つむじ風は旅人に 青い鬼火を吹きつける
古戦場を訪れて 涙を流しつつ折れた鏃を拾い
錆びた鉾の罅割れは 人肉を突いた痕だ
南の街道 城の東で 馬に乗った少年に遇い
拾った金属を売って 祭肉の器を買えと勧められる

 痩せ衰えた戦死者の魂魄が、左右に泣き叫ぶのを聞きながら、李賀は地に乳酪にゅうらくを注ぎ、羊の焼肉を供えて死者を祀ります。
 「汍瀾」涙の流れ落ちるさまとして涙を流しながら、鏃や鉾の切片を拾って長平の野を去るのでした。ところが結びでは、城の近くで「馬上児」に遇い、少年は李賀が拾ってきた金属類を売って「尞竹」宗廟で肉を盛る竹器を買ったらどうかと、はなはだ現実的なことを言うのです。
 感傷的にならないところが、李賀的と言うべきでしょう。

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