示弟         弟に示す 李賀

別弟三年後    弟に別れて三年の後のち
還家十日余    家に還かえって十日とおか余り
醁醽今夕酒    醁醽ろくれい 今夕こんせきの酒
緗帙去時書    緗帙しょうちつ 去時きょじの書
病骨猶能在    病骨びょうこつなおく在り
人間底事無    人間じんかん 底事なにごとか無からん
何須問牛馬    何ぞ 牛馬ぎゅうばを問うを須もちいん
抛擲任梟盧    抛擲ほうてき 梟盧きょうろに任まかさん
弟よ 別れて三年がたち
家に帰って 十日あまりだ
今宵は 醁醽の美酒でもてなしてくれたが
持ち帰った書物も いまは虚しい
病気を抱え どうにか生きて還ったが
醜い世間も いろいろと経験した
もはや 牛馬と呼ばれようとかまわない
投げた骰子の目に 任すほかはないだろう

 李賀は三年振りに昌谷にもどってきました。疲れた体をやすめていると、十日あまり経って、弟が帰郷の祝宴を催してくれました。失意の帰郷ですので、内輪の宴でしょう。李賀は一詩を賦して感懐を示します。李賀は当主でしたが、上京中、留守を預かって家を守ってくれたのは弟です。
 李賀には当然、弟に対する感謝の気持ちと引け目があります。
 「醁醽」は湖南省衡陽県付近で産する緑酒の銘柄という説もありますが、洞庭湖の南に産する酒が洛陽近くの田舎町まで来るはずはありませんので、ここでは美酒と言った程度の意味でしょう。「緗帙」はあさぎ色の書巻カバーのことですが、「緗帙 去時の書」にはふたつの解し方があります。
 ひとつは自分の持っていた書物の色が昔と変わっていない。
 つまり役に立たなかったという意味です。もうひとつは、家にある書物が家を出たときと同じ色で重ねてあるのが懐かしいという意味です。訳では李賀の悔しさや、弟への詫びの気持ちを含めて前者の訳としました。
 最後の二句は、このときの李賀の心境を語る重要な部分です。
 「何ぞ 牛馬を問うを須いん」は『荘子』天道篇にある文を踏まえるもので、他人が何と言おうと意に介さない。
 批判は甘んじて受けるという意味です。
 「梟盧」は骰子さいころ五個を投げたときの目のことで、今後のことは運命に任せるしかないという投げやりな気持ちを表わしています。


蘭香神女廟    蘭香神女廟 李賀

古春年年在    古春こしゅん   年年ねんねん在り
閑緑揺暖雲    閑緑かんりょく 暖雲だんうんに揺らぐ
松香飛晩華    松香かんばしく 晩華ばんかを飛ばし
柳渚含日昏    柳渚りゅうしょ 日を含みて昏くら
沙砲落紅満    沙砲さほうに落紅らくこう満ち
石泉生水芹    石泉せきせんに水芹すいきん生ず
幽篁画新粉    幽篁ゆうこう   新粉しんふんを画えが
蛾緑横暁門    蛾緑がりょく   暁門ぎょうもんに横たわる
弱蕙不勝露    弱蕙じゃくけい 露に勝えず
山秀愁空春    山秀ひいでて 空むなしき春を愁う
春は昔から 年ごとに巡ってくる
暖かい雲が 緑の草木をのどかに揺らす
松は香ばしく 遅咲きの花は舞い散り
日を受けて 柳は渚に暗い影をさす
砂や小石には 紅の花が散り敷き
泉の岩には 芹が生えている
茂った竹林は 描いたように白い粉を吹き
緑の山々は 夜明けの廟門の前に横たわる
か弱い蕙草は 露の重さに耐えられず
山は高く秀で ひと気のない春を愁えている

 李賀はやがて落ち着きを取りもどし、改めて故郷の自然の美しさに心癒やされる思いがします。
 李賀は昌谷の山野を歩きまわり、前の長詩「昌谷詩」をまとめます。
 「蘭香神女廟」らんこうしんにょびょうの詩には「三月中の作」という題注があり、「昌谷詩」よりも先に書かれた作品です。神女廟は女几山じょきさんにあって、まずはじめの十句は廟への道中と廟のあたりの風景が描かれます。

舞珮翦鸞翼    舞珮ぶはい 鸞翼らんよくを翦
帳帯塗軽銀    帳帯ちょうたい 軽銀けいぎんを塗
蘭桂吹濃香    蘭桂らんけい 濃香のうこうを吹き
菱藕長莘莘    菱藕りょうぐう 長く莘莘しんしんたり
看雨逢瑤姫    雨を看ては瑤姫ようきに逢
乗船値江君    船に乗りては江君こうくんに値
吹簫飲酒酔    簫しょうを吹き 酒を飲みて酔い
結綬金糸裙    綬じゅを結ぶ 金糸きんしの裙くん
走天呵白鹿    天に走りて白鹿はくろくを呵
遊水鞭錦鱗    水に遊んで錦鱗きんりんを鞭むちうつ
舞の衣には 鸞鳥の羽根を切ったような環珮
帳の紐には 銀粉が薄く塗ってある
蘭桂の香は 濃い香りを放ち
菱や蓮の根 お供え物の絶える日はない
雨を見ては 巫山の瑤姫と逢い
船に乗っては 湘水の女神と会う
簫を吹き 酒を飲んでは酔い
金糸の裙には 綬が結んである
天を走る時は 乗用の白鹿を叱咤し
川で遊べば 錦の鯉に駕して鞭打つ

 以下二十句にわたり、李賀は神女の姿や廟のようすを描き、行動を想像します。「瑤姫」は巫山四川省巫山県にある山の神女のことで、赤帝の娘ということになっています。巫山の神女は楚の懐王の夢に現われて、懐王は神女と逢うために巫山に行きました。
 この故事から雨の日には瑤姫に逢いにゆくと考えるのです。
 「江君」は湘娥、つまり帝舜の二妃娥皇と女英のことです。
 楚辞『九歌』の三「湘君」にある詩句を引いて「船に乗りて」と用いています。
 「白鹿を呵し」は『神仙伝』の故事を引くもので、仙人になった衛叔卿えいしゅくけいが雲車に白鹿を駕して、漢の武帝のもとに降りてきたという話があります。「錦鯉を鞭うつ」も仙人琴高きんこうの故事を引くもので、琴高は涿水たくすい、河北省涿県を流れる川に入って龍の子を捕ったことで有名ですが、いつも赤鯉に乗って水上を往来したということです。

密髪虚鬟飛    密髪みつばつ 虚鬟きょかん飛び
膩頬凝花匀    膩頬にきょう 凝花ぎょうかひと
団鬢分珠窠    団鬢だんびん 珠窠しゅかに分かれ
濃眉籠小唇    濃眉のうび 小唇しょうしんを籠
弄蝶和軽妍    蝶を弄ろうする 軽妍けいけんを和
風光怯腰身    風光ふうこう 腰身ようしんに怯きょなり
深幃金鴨冷    深幃しんい 金鴨きんおう冷やかに
奩鏡幽鳳塵    奩鏡れんきょう 幽鳳ゆうほうちり
踏霧乗風帰    霧を踏み 風に乗じて帰れば
撼玉山上聞    玉たまを撼うごかして山上に聞こゆ
濃い黒髪で 結い上げた鬟を風が吹き抜け
両頬の臙脂は 咲き匂う花のようだ
両鬢の頬には 珠のような笑靨えくぼが浮かび
濃い眉の下に 小さな唇がおさまっている
戯れる蝶は 女神のあでやかさに似つかわしく
辺りの景色は 女神の物腰にかなわない
奥の幃の陰で 金鴨の香炉は冷え
奩の中の鏡は 鳳凰の模様に塵が積もっている
霧を踏み 風に乗じて帰るときは
山上では 珮玉の揺れる音が聞こえるという

 はじめの句「密髪 虚鬟飛び」は難解ですが、「密髪」は豊かに生えた髪でしょう。「虚鬟」は唐代流行の鬟に結い上げた髷はふたつの輪になっていますので、その輪の間を風が吹き抜けるのでしょう。
 両頬の臙脂べになど女神の顔、姿の美しさがつづいて描かれます。李賀にとって女神は静かに立っている神ではなく、動きまわる神として映っていました。
 詩の最後は「霧を踏み 風に乗じて帰れば 玉を撼かして山上に聞こゆ」と結ばれています。
 李賀にとって蘭香神女はさまざまな空想を呼ぶ神であったようです。


     艾如張          艾如張 李賀

   錦襜褕  繍襠襦  錦にしきの襜褕せんゆしゅうの襠襦とうじゅ
   強飲啄  哺爾雛  強いて飲啄いんたくし 爾なんじの雛を哺はぐく
   隴東臥穟満風雨  隴東ろうとう 臥穟がすい 風雨に満ち
   莫信籠媒隴西去  籠媒ろうばいを信じて隴西に去くこと莫なか
   斉人織網如素空  斉人せいひと 網を織りて素空そくうの如く
   張在野田平碧中  張りて 野田やでん平碧へいへきの中うちに在り
   網糸漠漠無形影  網糸もうし 漠漠ばくばくとして形影けいえい無く
   誤爾触之傷首紅  誤って爾 之に触れば(こうべ)を傷つけて(くれない)ならん
   艾葉緑花誰翦刻  艾葉がいよう 緑花りょくか 誰か翦刻せんこくする
   中蔵禍機不可測  中うちに禍機かきを蔵ぞうして 測はかる可からず
錦の上着 刺繍の袴に袖なしの短衣
一心に水を飲み 雛を育てる雉たちよ
畝の東側 倒れた穂が風雨にぬれているからと
囮に騙され 畝の西には行かないように
斉の人は上手に網を織り まるで空のようだ
平らな田野の緑のなかに 霞網を張っている
網の糸は細くて 影も形も見えず
誤って触れたら 首を傷つけ血を流す
艾の葉で草花を作り 誰が上手に偽装したのか
網の中には どんな禍がひそんでいるか分からない

 昌谷の田園に住むようになってからも、都で受けた李賀の心の傷は癒えないまま残っていたようです。
 「艾如張」がいじょちょうの詩は、そのことを窺がわせます。
 「艾如張」は漢代の鼓吹鐃歌こすいどうかに「艾如張曲」というのがありますので、それを借りたものと思われますが、「艾」は草などを刈ること、「張」は網を張ることを意味します。はじめの三言の四句は雛を育てる鳥の描写ですが、比喩で描いた鳥の描写から、鳥は雉と思われます。
 李賀は雉に「籠媒を信じて隴西に去くこと莫れ」と忠告します。
 「籠媒」は囮おとりのことで、飼い馴らされた雉を籠に入れて野に置き、野生の雉を呼び寄せるものです。
 また、戦国斉の地方の人々は、霞網を作るのが上手でした。
 それを野原に張って鳥を捕らえたという言い伝えがあります。
 「翦刻」は切り刻むことで、艾よもぎの葉を刻んで草花の形を作り、それを網につけて偽装したそうです。李賀はこの詩で、世の中には人を陥れるいろいろな陥穽が潜んでいることを言おうとしているように思われます。


南園十三首 其四    南園十三首 其の四 李賀

三十未有二十余   三十未いまだ有らず 二十の余
白日長飢小甲蔬   白日はくじつつねに飢え 小甲蔬しょうこうそ
橋頭長老相哀念   橋頭きょうとうの長老 相あい哀念あいねん
因遺戎鞱一巻書   因って遺おくる 戎鞱じゅうとう一巻の書
三十にはならないが 二十は過ぎた
野菜の新芽を食べて 昼間から飢えている
橋のたもとで長老が 哀れに思い
私に授けて呉れた物 兵法の書一巻

 詩題の「南園」は昌谷の李賀の家の南にある農園でしょう。
 中堂の南にある中庭は院といいますので、園は門外にあり、竹林があり、小川が流れる広い菜園を言うようです。其の四の詩の「小甲蔬」は野菜の新芽のことで、李賀の家では南園に野菜を植えて食糧にしていたようです。
 「長に飢え」は誇張と思われますが、自給自足の貧しい生活であったと思われます。それを哀れに思った村の長老が、「戎鞱一巻」を贈ってくれました。
 「橋頭長老」は『史記』の故事を踏まえており、漢の張良は少年のころ、下邳江蘇省邳県の圯橋いきょうの上でひとりの老人から太公望の著と伝える『六鞱』を授けられました。『六鞱』は兵法の書ですので、李賀は兵法を学んで帷握の功を立てることに野心を持っていたことが分かります。


南園十三首 其五    南園十三首 其の五 李賀

男児何不帯呉鉤   男児だんじ 何ぞ呉鉤ごこうを帯びて
収取関山五十州   関山かんざん五十州を収め取らざるや
請君暫上凌煙閣   請う 君 暫しばらく上れ凌煙閣りょうえんかく
若箇書生万戸侯   若箇じゃくこの書生が 万戸侯ばんここうたる
男児たる者 呉鉤の剣を携えて
どうして 関山五十州を取りもどさないのか
君よ試しに 凌煙閣に上ってみるがよい
書生の身で 万戸侯になった者はひとりもいない

 其の五の詩の「呉鉤」は呉地方の剣で、三日月形に曲がっていたといいます。
 「関山」は国内の山野をいうと解されますが、朝廷の命令に服さない藩鎮は、元和六年八一一には河北河南を中心に五十余州に及んでいたといいます。安史の乱後、唐朝の支配力は著しく衰えており、だからこの句は、李賀が河朔三鎮かさくさんちんをはじめとする藩鎮の割拠勢力に関心を持っており、国威が定まらないことに憤りを感じていたことを示していると解されます。
 「凌煙閣」は唐の太宗が建国の功臣二十四人の像を描かせて掲げた閣堂で、それを見れば、一書生の身分では大功を立てることはできないことが分かると李賀は言うのです。


   南園十三首 其六    南園十三首 其の六

   尋章摘句老雕虫   章を尋ね 句を摘み 雕虫ちょうちゅうに老ゆ
   暁月当簾挂玉弓   暁月ぎょうげつれんに当たりて 玉弓を挂
   不見年年遼海上   見ずや 年年 遼海りょうかいの上ほとり
   文章何処哭秋風   文章 何いずれの処にか秋風しゅうふうに哭こく
一章一句に苦心を重ね 小事のために老いていく
夜明の月が簾に当たり 玉の弓を架けたようだ
見たまえ 遼海の辺を 毎年毎年の戦争騒ぎ
文を練って秋風を嘆く そんな風雅が何処にある

 詩中の「雕虫」は雕虫篆刻のことで、こまごまと詩句を選び、推敲して、詩を作ることを意味します。そのような小事を事として老いていくのかと、李賀は自分の人生に疑問を呈します。承句はそのような詩作を夜明けまでつづけていると詠っていますが、転句では一転して、「見ずや 年年 遼海の上」と言っています。「遼海」は遼東の海、つまり渤海のことです。
 そこは河朔三鎮の支配する地域で、毎年のように戦争があっています。それを見て李賀は、詩文を書いて秋風に哭するような風雅な生活をしておられようかと、国の乱れに安閑としておれない気持ちを吐露するのです。


   南園十三首 其八    南園十三首 其の八 李賀

   春水初生乳燕飛   春水しゅんすい 初めて生じ 乳燕にゅうえん飛ぶ
   黄蜂小尾撲花帰   黄蜂こうほう 小尾しょうび 花を撲って帰る
   牕含遠色通書幌   牕まどは遠色えんしょくを含んで書幌しょこうに通じ
   魚擁香鉤近石磯   魚うおは香鉤こうこうを擁して石磯せききに近づく
春は川の水が増え 雛を育てる燕が飛ぶ
黄色い蜂の尾先は 花に触れて巣に帰る
窓の帳を透かして 遠くの景色が書斎から見え
釣針の餌に誘われ 魚は磯に近づいてくる

 元和四年八〇九の三月に河朔三鎮のひとつ成徳節度使の王士真おうししんが亡くなり、その子の王承宗おうしょうそうが留後りゅうごと称して節度使になろうとしました。節度使は本来、令外の官として政府が任命すべきものですが、安史の乱後、華北などの地では自立性が強まり、政府の威令が届かなくなっていました。憲宗はこの機会に藩鎮世襲の弊害を除こうと考え、それまでの慎重姿勢を変更しようとしました。憲宗の方針変更に対しては時期尚早として反対する意見もありましたが、宦官で左神策軍中尉の吐突承璀とっとしょうさいが賛成し、みずから軍を率いて討伐に向かいました。
 しかし、はかばかしい成果はあがりません。
 そのうちに今度は、淮西節度使の呉少誠ごしょうせいが死に、部将の呉少陽ごしょうようが呉少誠の子の呉元慶ごげんけいを殺して留後を称しました。
 政府部内では河朔三鎮から離れている淮西節度使の蔡州河南省汝南県を討つべきであるという意見が強かったのですが、河北に兵を出しているために河南に兵を出す余裕がなく、呉少陽の留後は認めざるを得ませんでした。成徳節度使の討伐は元和五年になっても進展せず、翰林学士白居易の上書などもあって、七月に王承宗の地位は認められ、討伐軍は引き揚げました。
 李賀はそうした政府の宥和的な藩鎮政策にいらだつ思いを抱いていたようです。李賀の心は揺れ動いていました。一方で経世済民・治国平天下の志を抱きながら、現実には故郷の田園で自然を相手に詩を吟じ、一木一草、一水一石に繊細な抒情を寄せていたのです。


   南園十三首 其九    南園十三首 其の九 李賀

   泉沙耎臥鴛鴦暖  泉沙せんさやわらかに臥して鴛鴦えんおう暖かに
   曲岸廻篙舴艋遅  曲岸きょくがんこうを廻らして舴艋さくぼう遅し
   瀉酒木蘭椒葉蓋  酒を瀉そそぐ 木蘭もくらん椒葉しょうようの蓋おおい
   病容扶起種菱糸  病容びょうよう扶起ふきして 菱糸りょうしを種
泉の砂は柔らかで 鴛鴦は暖かそうに臥している
曲がった岸の流れ 竹棹を廻して小舟は遅い
木蘭や山椒の葉に 酒をそそいで滋養をとり
病気がちだからと 援けを借りて菱を植える

 承句の「曲岸 篙を廻らして舴艋遅し」は、曲がりくねった小川に小舟を浮かべ、竿を左右に廻しながら漕いで行くので、舟はゆっくりと進んでゆくという意味です。木蘭や山椒の葉の上から酒を注ぎ、香りをつけた酒を飲むのは、香草の薬効を期待するのでしょう。また、水中に菱の葉を植えますが、病身のために、人の助けを借りて行うのです。
 李賀の昌谷での生活の一端をかいま見ることができる詩です。


   南園十三首 其十    南園十三首 其の十 李賀

  辺譲今朝憶蔡邕  辺譲へんじょう 今朝こんちょう 蔡邕さいようを憶おも
  無心裁曲臥春風  曲を裁さいして 春風しゅんぷうに臥する心無し
  舎南有竹堪書字  舎南しゃなん 竹有り 字を書するに堪えたり
  老去渓頭作釣翁  老いては渓頭けいとうに去って 釣翁ちょうおうと作らん
辺譲は今ごろ 蔡邕のことを憶い
曲を作って 春風に吹かれている心はない
家の南に竹薮があり 字を書くには事足りる
年を取ったら谷川で 釣りする翁になるとしよう

 冒頭の「辺譲」は後漢末の人で、若くして詩文に長じていました。「蔡邕」は同じく後漢末の学者官僚で、衆望のある人でした。
 蔡邕は辺譲の才能を認めて、侍中の何進かしんに推挙してくれ、辺譲は潯陽江西省九江市の太守に任ぜられました。辺譲は若くて地位もなかったのですが、蔡邕の推挙によって官に就くことができました。
 だから李賀は、自分の詩才を認めている韓愈や皇甫湜が推薦してくれて、自分を有為の官に就けてくれないかと期待していたようです。
 そんなことを考えていると、曲を作って春風を楽しむ心も起こらないと、田舎へ帰ってきたことを嘆く気持ちにもなるのでした。
 その一方で、転結句ではまったく反対のことを言っています。
 南園には竹材があって字を書く材料には事欠かないので、年を取ったら谷川で釣りをする翁になろうと、隠者への思いを口にするのです。
 以上「南園十三首」のなかから六首を選びましたが、李賀の心は政事への志と隠遁への思いとの間で大きく揺れ動いているようです。

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