送沈亜之歌       沈亜之を送る歌 李賀

   呉興才人怨春風  呉興ごこうの才人 春風しゅんぷうを怨む
   桃花満陌千里紅  桃花とうか 満陌まんぱく 千里紅くれないなり
   紫糸竹断驄馬小  紫糸しし 竹断えて 驄馬そうば小に
   家住銭塘東復東  家は銭塘せんとうに住じゅうす 東復た東
   白藤交穿織書笈  白藤はくとう 交々こもごも穿うがって 書笈しょきゅうを織る
   短策斉裁如梵夾  短策たんさくひとしく裁って梵夾ぼんきょうの如し
   雄光宝礦献春卿  雄光ゆうこうの宝礦ほうこう 春卿しゅんけいに献ぜんとし
   煙底驀波乗一葉  煙底えんてい 波を驀えて一葉いちように乗る
呉興の才子沈亜之は 春風を怨む
桃の花は路に溢れて 千里紅というのに
紫の手綱 笞の先は折れ 白馬も小さい
家は銭塘にあり 東の果ての東である
白藤を交互に織り 書物の負い籠をつくり
短冊を切り揃えて 経文のように並べて入れる
磨けば光る原石を 礼部尚書に捧げようと
雲煙のかなたから 小舟に乗ってやってきた

 秋になると、李賀は陸渾りくこんの県衙けんがに皇甫湜こうほしょくを訪ねました。
 秋といっても、それが元和五年なのか六年なのかはわかりません。
 しかし、皇甫湜はどこかに出かけていて不在でした。李賀は「皇甫湜先輩の庁に題す」という詩を役所の壁に書き残して帰ってゆきました。
 明けて元和七年八一二春、湖州浙江省湖州市呉興県から出てきていた沈亜之ちんあしという友人が、貢挙の明書科を受験して落第しました。この友人が故郷に帰るのに際して、李賀は送別の詩を贈って再起を励ましています。
 冒頭にある「呉興」は湖州を郡名で呼んだもので、湖州の才子沈亜之が貢挙に落ちたことを春風に託して同情しています。
 沈亜之は李賀よりも九歳年長ですが、「紫糸 竹断えて 驄馬小に」と書いてあるのを見ると、沈亜之の旅装は貧弱であったようです。
 「家は銭塘に住す」というのは、呉興と矛盾します。
 銭塘浙江省杭州市は杭州の古名で、杭州は湖州の南ですから李賀は地理を混同しているようです。「東復た東」と言っているのを東の果てと受け取っても、地理的には大雑把に過ぎるようです。「短策」は書を竹簡に書いていたときの言い方で、唐代中期では紙に書写するのが一般化していましたので、古風な言いまわしをしていることになります。それを「梵夾」梵字で書いた経文のように並べて「白藤」で編んだ負い籠に入れています。「春卿」というのも礼部尚書のことで、貢挙の省試を担当する役所の長官のことです。李賀の詩は古地名や雅語を用いて詩句を華やかに彩るところに特色があり、白居易が当時、誰が読んでもわかる易しい詩を書こうと主張していたのとは逆の方向です。

   春卿拾才白日下  春卿しゅんけい 才を拾う 白日はくじつの下もと
   擲置黄金解龍馬  黄金を擲置てきちして 龍馬りょうばを解
   携笈帰江重入門  笈きゅうを携えて江こうに帰り 重ねて門を入らば
   労労誰是憐君者  労労ろうろう誰か 是れ君を憐れむ者ぞ
   吾聞壮夫重心骨  吾れ聞く 壮夫そうふは心骨しんこつを重んずと
   古人三走無摧捽  古人こじん三走するも 摧捽さいそつする無し
   請君待旦事長鞭  請う君 旦あしたを待ちて長鞭ちょうべんを事こととし
   他日還轅及秋律  他日 轅ながえを還かえして 秋律しゅうりつに及べ
礼部の尚書は 白日の下で人材を選ぶ
だが黄金を棄てて 龍馬を取り逃がした
負い籠を背負って 呉興の家に帰れば
誰が君をいたわり 同情してくれるのだろうか
私は聞いている 壮士は精神力を大事にすると
三戦三敗しても 昔の人はくじけなかった
朝になったら鞭を取って 元気に旅立ち
秋になったら車を仕立て つぎの機会に挑んでくれ

 後半の八句では、まず礼部が沈亜之のような立派な人材を取り逃がしたと慰めます。沈亜之は省試に落第して、これから故郷にもどってゆくので、その心情に同情の言葉を送ります。結びの四句では、沈亜之がこれに挫けずに、再度の挑戦を期待すると励ますのです。

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