自昌谷到洛後門 昌谷より洛の後門に到る 李賀

九月大野白   九月きゅうげつ 大野だいや白し
蒼岑竦秋門   蒼岑そうしん 秋門しゅうもんを竦そばだ
寒涼十月末   寒涼かんりょう 十月じゅうげつの末
雪霰濛暁昏   雪霰せつさん 暁昏ぎょうこんに濛もうたり
澹色結昼天   澹色たんしょく 昼天ちゅうてんに結び
心事填空雲   心事しんじ 空雲くううんを填うず
道上千里風   道上どうじょう 千里の風
野竹蛇涎痕   野竹やちくに蛇涎だえんの痕こん
石澗凍波声   石澗せきかん 波声はせいこお
鶏叫清寒晨   鶏けいは叫ぶ 清寒せいかんの晨あさ
九月になると 野原の色は白くなり
みどりの峰が 秋空の門のように聳えている
寒さは 十月の末のようだ
雪や霰が降り 朝晩が鬱陶しい
真昼の空も どんよりとした色に覆われ
ふさいだ心は 空の雲を埋めるほどである
遠い彼方から 路上に風が吹き
野原の竹には 蛇の涎のようなつららが垂れる
谷川の水も 凍りついて音がせず
晴れた寒い朝 鶏は刻ときを告げる

 李賀は宗族につながりのある身ではあっても、さほど豊かでない士分の家の家長として、無為徒食の生活をつづけることはできません。
 九月か十月のはじめには、再度洛陽に出てゆきます。
 詩のはじめの六句は、洛陽に出る前の心境でしょう。晩春のころ、新婚の妻に酔い痴れていたころの雰囲気はかけらもありません。あるのは未来への憂鬱な心情です。つづく四句は出発のときの状況でしょう。
 「野竹に蛇涎の痕」の一句には、李賀らしい表現がみられます。

強行到東舎   強行きょうこうして東舎とうしゃに到り
解馬投旧隣   馬を解いて旧隣きゅうりんに投ず
東家名廖者   東家とうか 名は廖りょうなる者
郷曲伝姓辛   郷曲きょうきょく 姓は辛しんと伝つた
杖頭非飲酒   杖頭じょうとう 酒を飲むに非あら
吾請造其人   吾われう 其の人に造いたらん
始欲南去楚   始め 南のかた楚に去らんと欲し
又将西適秦   又 将まさに西のかた秦しんに適かんとす
無理をして 洛陽の宿舎に着き
馬を解いて 旧知の隣家に落ちつく
東どなりに 名は廖という者があり
近所の者が 姓は辛と教えてくれる
杖の先に百銭 だが酒を飲むのではない
占いの名人に 私はぜひとも会いたいのだ
はじめは南 楚に行こうかと思ったが
西のかた 長安に行くのもよいだろう

 詩題にある「洛後門」は洛陽の北の門であり、李賀は陸路を馬で行き、北壁西の徽安門きあんもんから洛陽に入ったようです。
 そこから街中を南に抜けて、仁和里の親戚の家の近くに投宿しました。
 李賀は洛陽に出てきたものの、行く先を決めているわけではありませんでした。そこで近所に卜筮をよくする者がいると聞いて、行く先を占ってもらうことにしました。「辛廖」という卜者の姓名は『春秋左氏伝』に出てくる卜者ですので、ここは少し自分を茶化している節があります。杖の先に百銭をつけてゆくというのも、晋の阮脩げんしゅうの故事を用いたものです。

襄王与武帝   襄王じょうおうと武帝と
各自留青春   各自かくじ 青春を留とど
聞道蘭台上   聞道きくならく 蘭台らんだいの上
宋玉無帰魂   宋玉そうぎょく 帰魂きこん無しと
緗縹両行字   緗縹しょうひょう 両行りょうぎょうの字
蟄虫蠧秋芸   蟄虫ちつちゅう 秋芸しゅううんに蠧
為探秦台意   為に探さぐれ 秦台しんだいの意を
豈命余負薪   豈に余に薪を負うことを命ずるやと
楚の襄王も 漢の武帝も
それじれに 不朽の名声を残している
だが楚の宮殿 蘭台の宮は荒れ果て
宋玉の魂も 寄りつかないと聞いている
浅黄の書帙 青白い書囊 二行の文字
香草のなかで 紙魚しみは書物を食い荒らす
だから名人よ 朝廷の意向を占ってくれ
私への命令は 薪を背負うような仕事かどうかを

 李賀には楚、つまり江南に行くという考えもあったようです。
 しかし、銭を払ってわざわざ占いを頼んだのは、朝廷が自分にどういう待遇を与えてくれるかということでした。
 長安に幸運が待っているのなら、やはり都に出たかったのです。

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