叔父上に借りた馬は 痩せて貧弱な奴
親族の家を借りたら 垣根は荒れ放題
庭には雑草が茂り 鼠の径が横たわる
伸びた棗の樹には 熟れ過ぎの実が垂れている
安定郡の俊才は 黄綬を佩びる身分となり
衣冠束帯をはずして 夜明けにいたる祝い酒
だが 頭に白筆を かざす身分ではないので
せっかくの推薦も 私に効き目は現われない
図らずも知己となり 目をけがすことになったが
お引き立てに甘えて 階段を昇ろうとすれば綱が切れる
府試に及第した李賀は、翌年春に行われる省試の進士科をめざしますが、そこに予想もしなかった障害が生じます。
何処から湧いてきたのか判然としませんが、李賀は父親の緯いみな「晋粛」しんしゅくを避けるべきであり、晋は進と同音であるので、進士科を受けるのは父の緯を犯すことになるというのです。いまから思うと、あり得ないような話ですが、これが事実であることは韓愈が『緯弁』いみなのべんを書き、「父の名晋粛にして、子進士に挙げらるることを得ざれば、若し父の名仁ならば、子は人為たるを得ざるか」と論じて、反撃していることから分かります。
李賀は韓愈に励まされ、韓愈の弟子の皇甫湜こうほしょくの推薦を受けて上京し、元和三年八〇八正月の省試を受けますが、結果は落第でした。
掲げた詩は、元和三年の十一月に李賀が再度長安に赴く際に皇甫湜に贈った詩ですが、李賀の貢挙受験前後のようすをよく伝えていますので、ここで取り上げます。
この詩には、題注に「湜 新たに陸渾に尉たり」とありますので、皇甫湜は陸渾河南省盧氏県付近の県尉になって赴任することになっていたようです。
詩のはじめの四句は、李賀が洛陽に出てきて住んだ仁和里じんわりの親族の家が、荒れ果てた家であったことが描かれます。
「安定の美人」は皇甫湜の先祖が安定郡朝那甘粛省平涼県西北の出身であったことから、皇甫湜を安定郡の俊才と褒めて呼んだものです。
「黄綬」は漢代の制度で県尉を指す言葉ですので、皇甫湜のことです。
「白筆」は唐代に七品以上の官にあるものは頭に白筆を挿すことが許されていました。
県尉は九品の官ですので白筆を頭に挿す身分ではありません。
そんな皇甫湜が李賀の推薦人省試を受ける人物保証人のようなものになってくれたけれども、李賀を及第させるほどの効果はなかったというのでしょう。
洛陽の風に送られ 馬に乗って関門にはいるが
門の扉が開かぬ内に 狂犬に吠えられる
馬の鑑定が こんなに大まかなものとは知らなかった
都の旅寝も 過ぎゆく春をひとり寂しく眺めるだけ
故郷に帰れば 痩せて顔には膏気もなく
頭に血が上り 鬢毛も薄くなる
つまらぬ文章 書いて官吏になろうとしたが
皇族の末裔が 不採用だからといって誰が同情しよう
明朝は下元の節句 また西への道をゆこうと思う
崆峒山の別れの詩 天の果てまで遠く離れる心地がする
後半は洛陽の風に送られて都の関門にはいるけれども、「闔扉 未だ開かざるに契犬けつけんに逢う」というのは、父の諱いみなの件でしょう。
「堅都」は難解とされている語句ですが、「刀堅、丁君都は古の善く馬を相そうする者」という故事があることから刀堅と丁君都の二人のことで、馬の鑑定をする者と解されています。これが思いがけず大雑把なもので、自分は省試に及第できなかったというのです。
出城 城を出づ 李賀
雪下桂花稀 雪下ふりて 桂花けいか稀まれなり
啼烏被弾帰 啼烏ていう 弾だんぜられて帰る
関水乗驢影 関水かんすい 驢ろに乗る影
秦風帽帯垂 秦風しんぷうに帽帯ぼうたい垂る
入郷誠可重 郷きょうに入るは誠に重んず可きも
無印自堪悲 印いん無きは自おのずから悲しむに堪えたり
卿卿忍相問 卿卿けいけい 相あい問うに忍しのびんや
鏡中双涙姿 鏡中きょうちゅう 双涙そうるいの姿
雪が降って 木犀の花も見えなくなり
打たれた烏が 啼きながら帰ってゆく
関中の川面に 驢馬に乗った影
長安の風に吹かれて 頭巾の紐も垂れている
国に帰るのは 嬉しいことだが
官には就けず 堪えがたい悲しみだ
愛する者も 首尾を尋ねることができず
鏡のなかで 流す涙が目に浮かぶ
省試に落第した李賀は失望し、悲嘆にくれます。春の雪がふったのでしょうか、「桂花」は木犀の花ですから秋に咲くものです。
それが稀であるというのは、進士に登科することを「折桂」せっけいというからで、進士になることは難しいと詠っています。李賀は理不尽な誹謗を受けて登科できず、泣きながら城を出て故郷に帰るほかはありません。「卿卿」には故事があって、晋の王戎おうじゅうの妻は夫を呼ぶときに卿と言いました。
王戎がそれを咎めると、妻は「卿に親しみ、卿を愛し、それで卿を卿と呼ぶのです」と言ったといいます。だから李賀には、このとき故郷に妻もしくは婚約者がいたという想定がなされています。その女性が省試の首尾を聞くこともできずに、鏡の中で涙を流している姿を想像するのです。