河南府試十二月楽詞並閏月正月
              河南府試 十二月楽詞並びに閏月正月 李賀

   上楼迎春新春帰  楼に上りて春を迎うれば 新春帰る
   暗黄着柳宮漏遅  暗黄あんこう 柳に着きて 宮漏きゅうろう遅し
   薄薄淡靄弄野姿  薄薄はくはくたる淡靄たんあい 野姿やしを弄し
   寒緑幽風生短糸  寒緑かんりょく 幽風ゆうふうに短糸たんし生ず
   錦牀暁臥玉肌冷  錦牀きんしょう 暁に臥して玉肌ぎょくき冷やかなり
   露瞼未開対朝暝  露瞼ろけん 未だ開かず 朝暝ちょうめいに対す
   官街柳帯不堪折  官街かんがいの柳帯りゅうたい 折るに堪えず
   早晩菖蒲勝綰結  早晩そうばん 菖蒲 綰結かんけつするに勝えん
高楼に登って春を迎えると 新春が来たのがわかる
柳の新芽は黄色くいろづき 漏刻の音もゆるやか
淡い靄が 野の姿をぼんやりと浮かび上がらせ
萌え出た草に微風が吹いて 新芽は糸のように伸びる
錦の床に横たわる朝 玉のような肌は冷たく
瞼は露を含んで閉じ 朝のくらがりに向いている
都大路の柳の並木は 手折るには早すぎるが
菖蒲の葉が伸びれば 結び合わせることもできるであろう

 「昌谷詩」の最後で、自分のことを「成紀の人」と言っているように、李賀の家はもと唐の宗室の出で、『唐書』李賀伝にも「系は鄭王の後に出づ」と記されています。唐の皇族で鄭王に封ぜられた者は二人あり、李賀の先祖は高租李淵の叔父にあたる鄭王李亮りりょうであるとする説が有力です。というのも李賀の時代から二百年も前のことで、李賀の家ははやくに宗族の本流を離れたため、父親は地方官を転々とする身分に過ぎませんでした。
 李賀は幼少のころから聡明で、十四、五歳のころには楽府詩を作り、近隣に名を知られるようになったといいます。李賀の父李晋粛りしんしゅくは李賀が二十歳になる前に亡くなり、父親の喪が明けた元和二年八〇三の秋に貢挙の府試を受けるために洛陽に出てきます。福昌県は河南府に属していますので、郷試は府の首府である洛陽で受けるのが定めです。
 李賀は難なく府試に合格して郷貢進士の資格を得ますが、このときの府試の詩題は「十二月楽詞」で、毎月の歌を連吟するものでした。
 掲げた詩はその第一首「正月」で、「宮漏」宮中の漏刻の語がありますので、宮中の新春を詠うものでしょう。李賀には宮中生活の経験はありませんので、詩集などから勉強した空想の詩を書いたわけです。後半四句のはじめに「玉肌」の語があり、宮女の朝の寝姿が描かれています。
 閨怨詩のおもむきがありますが、それが主題ではなく、官庁街の柳並木がまだ充分に伸びていないことを詠うことで、早春の景を描いているのです。
 それにしても、高等文官の予備試験資格試験を受けるときの答案としては、かなり軟弱なものと思いませんか。でも合格でした。
 郷詩の答案が残っているのは珍しいですから、全部を掲げようと思います。


   河南府試十二月楽詞並閏月二月
             河南府試 十二月楽詞並びに閏月二月 李賀

   飲酒採桑津      酒を飲む 採桑津さいそうしん
   宜男草生蘭笑人   宜男草ぎなんそう生じて 蘭 人を笑う
   蒲如交剣風如薫   蒲は剣を交うるが如く 風は薫るが如し
   労労胡燕怨酣春   労労ろうろうたる胡燕こえん 酣春かんしゅんを怨み
   薇帳逗煙生緑塵   薇帳びちょう 煙を逗とどめて 緑塵りょくじんを生ず
   錦翹峨髻愁暮雲   錦翹きんぎょう 峨髻がけい 暮雲ぼうんを愁い
   沓颯起舞真珠裙   沓颯とうさつ 起って舞う 真珠の裙くん
   津頭送別唱流水   津頭しんとうべつを送り 流水を唱う
   酒客背寒南山死   酒客しゅきゃくはい寒くして 南山死す
二月に酒を飲む 採桑津
宜男草が生えて 蘭の花が人間を笑っている
蒲は剣のように交わり 南の風に薫るようだ
飛びまわり疲れた燕は 春のたけなわを怨み
薔薇の帳に靄が立ちこめ 緑の霞が生まれ出る
金の髪飾り 高い髷 日暮れの雲が気にかかり
さっと立ち上がって 舞うのは真珠の裾かざり
渡津での別れに歌う 流水の曲
酒も醒め背筋も冷え 南の山は暗くなる

 二月は新酒の熟成する季節です。
 「採桑津」は平陽山西省臨紛県の西南の近く、屈県にあった渡し場の古名で、漢代の楽府にも登場する銘酒の産地でした。
 「宜男草」はわすれな草の一種で、中国では妊娠中の女性がこの草を腰に佩びると、男の子が生まれるという言い伝えがありました。
 李賀はそれを「蘭 人を笑う」と言っていますので、男の子が生まれるのが、そんなにいいことなのかと言っていることになります。
 全九句の変則な詞ですが、中の五句は渡し場の春の風景とそこで催されている宴会のようすです。舞姫も呼んである豪華な野宴のようです。
 最後の二句は宴が終わって別れる場面で、全体はまるで劇のような展開になっています。


   河南府試十二月楽詞並閏月三月
              河南府試 十二月楽詞並びに閏月三月 李賀

   東方風来満眼春   東方より風来たって 満眼まんがん春なり
   花城柳暗愁殺人   花城かじょう 柳は暗くして人を愁殺しゅうさつ
   複宮深殿竹風起   複宮ふくきゅう 深殿しんでん 竹風ちくふう起こる
   新翠舞衿浄如水   新翠しんすいの舞衿ぶきんきよきこと水の如し
   光風転蕙百余里   光風こうふうけいを転ずること百余里
   暖霧駆雲撲天地   暖霧だんむ 雲を駆って天地を撲
   軍装宮妓掃蛾浅   軍装の宮妓きゅうぎを掃はらうこと浅く
   揺揺錦旗夾城暖   揺揺たる錦旗きんき 夾城きょうじょう暖かなり
   曲水飄香去不帰   曲水きょくすいこうを飄ひるがえして去って帰らず
   梨花落尽成秋苑   梨花りか 落ち尽くして秋苑しゅうえんと成
東の風が吹いてきて 見わたす限りの春景色
花咲く城に柳は繁り 人は悩ましい思いに駆り立てられる
重なる宮殿 奥まった宮 竹の林に風が吹き
緑の若葉は舞姫の衿 水のように清らかだ
吹く風に蕙蘭は靡き 光り輝く百余里の間
暖かい霧は雲となり 天と地に湧き起こる
軍装の宮女や官妓は 淡く描いた眉をして
錦旗を翻してすすむ 夾城の道はあたたか
曲江のほとりで香は 風に吹かれて二度ともどらず
梨花は散りつくして 淋しい秋の苑となる

 三月は春たけなわの季節です。
 宮城のある街と宮殿が詠われますが、後半の四句は玄宗皇帝が楊貴妃を伴なって曲江に行幸するようすが描かれているようです。
 「曲水 香を飄して去って帰らず」は、楊貴妃の栄華がはかなく消えたことを諷しているものと思います。


   河南府試十二月楽詞並閏月四月
              河南府試 十二月楽詞並びに閏月四月 李賀

   暁涼暮涼樹如蓋  暁涼ぎょうりょう 暮涼ぼりょう 樹は蓋きぬがさの如く
   千山濃緑生雲外  千山 濃緑のうりょく 雲外うんがいに生ず
   依微香雨青氛氳  依微いびたる香雨 青氛せいふんうんたり
   膩葉蟠花照曲門  膩葉じよう 蟠花はんか 曲門きょくもんを照らし
   金塘閒水揺碧漪  金塘きんとうの閒水かんすい 碧漪へきいを揺るがす
   老景沈重無驚飛  老景ろうけい 沈重ちんじゅうにして驚飛けいひする無く
   堕紅残萼暗参差  堕紅だこう 残萼ざんがく 暗くして参差しんしたり
夜明けの涼しさ 日暮れの涼 樹は絹傘のように繁り
濃い緑の山々が 雲の上まではみ出している
幽かに煙る雨は 青い靄のように立ちこめ
厚い葉も花房も 庭の角門に照り映える
石だたみ 堤の水はのどかに流れ 漣は緑に揺れる
ゆく春の 日差しは重く ゆるやかに移りゆき
紅い落花 枝にのこる萼 ばらばらなのが暗い感じだ

 四月は初夏であり、過ぎ去った春の想いもあります。詩中の「曲門」は宮中の隅々にある門のことですので、詩は宮中の庭苑を描くものでしょう。
 「堕紅 残萼 暗くして参差たり」といった結びに李賀独特の詩情がうかがえ、全体として十八歳の若者の詩才が並でないことをうかがわせます。


河南府試十二月楽詞並閏月五月
   河南府試 十二月楽詞並びに閏月五月 李賀
雕玉押簾額   雕玉ちょうぎょくを簾額れんがくに押し
軽穀籠虚門   軽穀けいこくもて虚門きょもんを籠
井汲鉛華水   井には汲む 鉛華えんかの水
扇織鴛鴦紋   扇おおぎには織る 鴛鴦えんおうの紋
回雪舞涼殿   回雪かいせつ 涼殿りょうでんに舞い
甘露洗空緑   甘露かんろ 空緑くうりょくを洗う
羅袖従徊翔   羅袖らしゅう 徊翔かいしょうに従まか
香汗沾宝粟   香汗こうかん 宝粟ほうぞくうるお
簾の押さえは 彫刻で飾った玉
開いた門には 薄絹の帳を懸ける
化粧用の水は 井戸から汲み上げ
扇の文様には 鴛鴦が織り込んである
涼しい御殿で 舞の衣は雪のように舞い
五月の空は 甘露で清めたように青い
薄絹の袖は 思うままにひるがえり
香しい汗が 肌ににじんで粟粒となる

 五月の詩も宮中を描くものです。「涼殿」で舞が行われようとしていて、前半の四句は準備のようすでしょう。そして、後半四句は舞のさま。
 五月の真昼の遊宴であるらしく、舞姫の肌に汗がにじみ出ます。
 李賀はそれを、「香汗 宝粟沾う」と妖艶に描いています。


   河南府試十二月楽詞並閏月六月
             河南府試 十二月楽詞並びに閏月六月 李賀

   裁生羅         生羅せいらを裁
   伐湘竹         湘竹しょうちくを伐
   帔払疎霜簟秋玉   帔は疎霜そそうを払い 簟てんは秋玉しゅうぎょく
   炎炎紅鏡東方開   炎炎たる紅鏡こうきょう 東方に開き
   暈如車輪上徘徊   暈うんは車輪の如く上って徘徊はいかい
   啾啾赤帝騎龍来   啾啾しゅうしゅうとして赤帝 龍に騎って来たる
生絹すずしを裁ち
湘竹を伐り
肩絹は霜を払い 簟たかむしろは秋の玉のように涼しい
燃えさかる鏡が 東方に顔を出すと
太陽の暈かさは昇って 車輪のように駆けめぐる
啾々と鳴きながら 龍に乗って赤帝はやってくる

 六月は晩夏の季節で、夏の太陽が描かれます。
 はじめの三句は避暑の風俗を描くものですが、一句と二句が三句目の前四語と後三語にそれぞれつながるという特異な文体を取っています。「赤帝」せきていは南方の祝融しゅくゆう氏のことで、夏をつかさどる神とされていました。


   河南府試十二月楽詞並閏月七月
       河南府試 十二月楽詞並びに閏月七月 李賀

   星依雲渚冷   星は雲渚うんしょに依りて冷やかに
   露滴盤中円   露は盤中ばんちゅうに滴したたって円まろ
   好花生木末   好花こうか 木末ぼくまつに生じ
   衰蕙愁空園   衰蕙すうけい 空園くうえんに愁う
   夜天如玉砌   夜天やてん 玉砌ぎょくせいの如く
   池葉極青銭   池葉ちよう 青銭せいせんを極きわ
   僅厭舞衫薄   僅かに舞衫ぶさんの薄きを厭いと
   稍知花簟寒   稍々やや花簟かてんの寒きを知る
   暁風何払払   暁風ぎょうふう 何ぞ払払ふつふつたる
   北斗光闌干   北斗ほくと 光 闌干らんかんたり
天の川の渚に沿って 星は冷たく輝き
露は承露盤に滴って まるい水滴となる
芙蓉の梢に 花は美しく咲きはじめ
枯れはじめた蕙蘭は 寂しい園で愁い顔
夜空は 玉石を敷き詰めたようで
銅銭ほどの蓮の花は すっかり大きくなった
舞の衣裳も 単衣では薄いと思われ
花むしろも いくらか寒いと感じる
夜明けの風は 音を立てて吹き
北斗の星は 斜めに傾いて光っている

 七月は初秋で、露の降りはじめる季節です。詩中の「盤中」は漢の武帝の宮殿にあったことで有名な承露盤しょうろばんのことでしょう。
 とすれば、この詩は宮中の秋の庭のようすを描いたもので、それも夜明けの時刻を取り上げています。


   河南府試十二月楽詞並閏月八月
       河南府試 十二月楽詞並びに閏月八月 李賀

   孀妾怨長夜   孀妾そうしょう 長夜ちょうやを怨み
   独客夢帰家   独客どくかく 家に帰るを夢む
   傍簾虫緝糸   簾のきに傍うて 虫 糸を緝つむ
   向壁燈垂花   壁に向かって 灯ともしび 花を垂
   簾外月光吐   簾外れんがいには月光吐
   簾内樹影斜   簾内れんないには樹影じゅえい斜めなり
   悠悠飛露姿   悠悠ゆうゆうたり 飛露ひろの姿
   点綴池中荷   点綴てんていす 池中ちちゅうの荷
寡婦の女は 秋の夜長を怨み
旅の男は 家に帰る夢をみる
軒端では 蜘蛛が糸を張り
壁の灯火は 煤を垂れて燃えている
簾の外に 月の光が降りそそぎ
簾の内では 樹が斜めに影をさす
蓮の葉の 面にやどる露の玉
池の蓮に 点々と散ってのどかである

 八月の詩には「孀妾」「独客」の語がありますので、宮中のこととは思われません。「簾に傍うて 虫 糸を緝ぎ」とあり、軒端に蜘蛛が巣を張っているような庶民の家の夜を描いていると思います。「悠悠たり」をどう解するのか、悶々としていると解することもできますが、後半四句は室内からみた秋の夜のようすを描いているだけだと解し、のどかであると訳しました。


    河南府試十二月楽詞並閏月九月
            河南府試 十二月楽詞並びに閏月九月 李賀

   離宮散蛍天似水   離宮りきゅう 散蛍さんけい 天 水に似たり
   竹黄池冷芙蓉死   竹は黄に 池冷やかに 芙蓉ふよう死す
   月綴金鋪光脈脈   月は金鋪きんぽを綴りて 光ひかり脈脈たり
   涼苑虚庭空澹白   涼苑りょうえん 虚庭きょていくう 澹白たんぱく
   露花飛飛風草草   露花ろか 飛飛ひひとして 風草草そうそうたり
   翠錦爤斑満層道   翠錦すいきん 爤斑らんぱん 層道そうどうに満つ
   鶏人罷唱暁瓏璁   鶏人けいじんしょうを罷めて 暁瓏璁ろうそうたり
   鴉啼金井下疎桐   鴉からすは金井きんせいに啼いて 疎桐そどう下る
離宮では蛍が舞い 天は水のようだ
竹の葉は黄ばみ 池の水は冷えて蓮は枯れる
月は門環の金具をたどって つぎつぎと光り
涼しい苑 がらんとした庭 空はうっすらと白い
ざわざわと風が吹き 露の玉が飛び散り
紅葉が緑に混じって 複道を錦にいろどる
刻を告げる声は止み ほのぼのと夜は明けゆき
井戸端で鴉は鳴いて はらはらと桐の葉が散る

 九月は再び宮中の詩です。「離宮」とありますが、唐代の洛陽皇城の西に隣接して上陽宮があり、離宮として有名でした。
 詩は離宮の秋の夜を細やかに描いています。「鶏人」は夜明けの時刻を知らせる役人のことで、漏刻水時計で測って夜明けを告げてまわります。その声がやむと、夜はしらじらと明けはじめ、鴉が鳴いて桐の葉が落ちるのです。
 秋の淋しい風景を華麗な語を使って描いています。


   河南府試十二月楽詞並閏月十月
             河南府試 十二月楽詞並びに閏月十月 李賀

   玉壷銀箭稍難傾   玉壷ぎょくこ 銀箭ぎんせんようやく傾き難し
   釭花夜笑凝幽明   釭花こうか 夜笑って 幽明ゆうめいを凝らす
   砕霜斜舞上羅幕   砕霜さいそう 斜めに舞って羅幕らばくに上り
   燭籠両行照飛閣   燭籠しょくろう 両行りょうぎょう 飛閣ひかくを照らす
   珠帷怨臥不成眠   珠帷しゅい 怨臥えんが 眠りを成さず
   金鳳刺衣著体寒   金鳳きんほうの刺衣しいたいに著きて寒く
   長眉対月闘彎環   長眉ちょうび 月に対して彎環わんかんを闘わす
漏刻の玉の壷 銀の箭 刻の動きは遅くなり
灯心は固まって明滅し 夜の暗がりに笑いかける
砕けた霜が斜に飛んで 絹の垂れ幕に吹きつけ
二列に並ぶ灯籠は 閣道を明るく照らす
真珠の帳 わびしい寝床 眠れない夜
金鳳の刺繍の衣は 肌にはりついて寒く
長い眉は三日月と 曲がりぐあいを競っている

 十月は陰暦の初冬です。夜の一刻は長くなります。
 昼と夜の時刻を調整して計るのが、漏刻の「玉壷銀箭」です。
 この詩は宮中の夜を描き、宮女の閨怨詩になっています。
 貢挙の詩に閨怨詩が許されるのですから、閨怨詩は作詩技術のひとつと見なされていたのでしょう。
 「釭花」は燭台の上の灯心が凝結して花のような形になるもので、灯火は明滅してゆらゆらと揺れ、笑いかけているように見えます。
 宮女の空閨を笑っているのでしょう。蝋燭をともした灯籠が二列になって「飛閣」高い渡り廊下を照らしていますが、そこを渡って来る人はいないのです。宮女は眠られずに、長く描いた眉は空の三日月と競い合っているだけです。


   河南府試十二月楽詞並閏月十一月 李賀
                    河南府試 十二月楽詞並びに閏月十一月

   宮城団囲凛厳光   宮城 団囲だんい 厳光げんこうりんたり
   白天砕砕堕瓊芳   白天はくてん砕砕 瓊芳けいほうを堕おと
   撾鐘高飲千日酒   鐘かねを撾って高飲す 千日の酒
   戦却凝寒作君寿   凝寒ぎょうかんを戦却せんきゃくして君が寿を作
   御溝泉合如環素   御溝ぎょこういずみ合して 環素かんその如し
   火井温泉在何処   火井かせい 温泉 何処いずくにか在る
宮城をまるく囲んで 光は凛として厳しく
天空を砕いたような 純白の雪が降る
高らかに鐘を叩いて 強い酒を飲み
厳しい冬を払いのけ 皇帝の長寿を祝う
お濠の泉は凍って 白絹の束のようだ
火焔の井戸や温泉は 何処にあるのか

 十一月は冬の寒さが厳しくなる月です。詩中に「宮城」とありますので、宮中のことですが、今度は宮中に仕える役人を描いています。
 役人たちは寒さを紛らわすために派手に酒を飲んでいますが、「千日酒」には故事があります。
 昔、劉玄石りゅうげんせきという男が中山河北省定県の酒屋で酒を買いますが、その酒は飲み過ぎると千日も酔いつづけるという強い酒でした。家人は酔って眠りつづける玄石を死んだと思って、仮埋葬してしまいました。
 酒屋は飲み過ぎを注意するのを忘れたことに気づき、千日たってから玄石の家に行ってみると、死んでから三年になるといいます。
 そこで棺を開けてみると、玄石はちょうど酔いが醒めたところで、棺から出てきたという話です。中国らしいお話ですね。
 そういえば「玄石」という名も仙人じみています。


   河南府試十二月楽詞並閏月十二月 李賀
                 河南府試 十二月楽詞並びに閏月十二月

   日脚淡光紅灑灑   日脚にっきゃくの淡光 紅くして灑灑さいさいたり
   薄霜不銷桂枝下   薄霜はくそうえず 桂枝けいしの下もと
   依稀和気排冬厳   依稀いきたる和気わき 冬厳とうげんを排し
   已就長日辞長夜   已に長日ちょうじつに就いて 長夜ちょうやを辞す
薄紅い日差しが 凍えるように降りそそぎ
薄霜は消えずに 桂の木の下に残っている
だが ほのかな和らぎが 冬の厳しさを押しのけ
夜長の季節はすでに去り 日は長くなる

 十二月は冬の終わりで、寒さはまだ厳しいですが、少しずつ和らいだ気候になります。詩は季節の変化だけを述べて、さすがの李賀も工夫の種が尽きたという感じです。


河南府試十二月楽詞並閏月閏月
         河南府試 十二月楽詞並びに閏月閏月 李賀
帝重光         帝てい 光を重ね
年重時         年とし 時を重ね
七十二候回環推   七十二候 回環かいかんして推
天官玉琯灰剩飛   天官の玉琯ぎょくかん 灰飛ぶことを剩あま
今歳何長来歳遅   今歳こんさい 何ぞ長く 来歳らいさいの遅きや
王母移桃献天子   王母おうぼ 桃を移して天子に献ず
羲氏和氏迂龍轡   羲氏ぎし 和氏わし 龍轡りゅうひを迂めぐらす
皇帝は 徳の光を重ね
歳月も 歩みを重ねる
七十二候は めぐりめぐって
天官の玉管がひとつ 今年は灰を飛ばさない
何となく月日が長く 来年の来るのが遅い
西王母は 不老長生の桃を天子に献じ
日輪の御者羲和は 龍の手綱をゆるめたらしい

 元和二年は閏年で、十二月のあとに「閏月」じゅんげつが加えられます。
 李賀は閏月をうまく利用して、皇帝の寿じゅを寿いでいます。はじめに一句三語の対句を置いて、皇帝を寿ぐための序の役割を与えています。
 当時、一年は二十四気・七十二候に分けられていましたので、一候は五日、一年は三百六十日になります。したがって、太陽の運行と合わせるためには五年に二度ほどの閏月を置く必要がありました。
 「天官の玉琯 灰飛ぶことを剩す」というのは、天文暦法の役人が玉で作った十二の管を並べ、中には葭を焼いた灰が詰めてありました。
 玉琯は季節の変化に応じて順序よく灰を吹き出すようになっていましたが、閏月には管がないので灰が飛ばないのです。
 閏月のある年は一年が三十日長くなりますので、そのことを西王母と日輪の御者羲和ぎわと結びつけて、天子の長寿を祈っています。以上、十三首の詞はすべて李賀の想像によって作られており、現実の重みに乏しいきらいはありますが、十八歳の若者の奔放な想像力、学識の高さを示す表現力は、府試の考官試験官を感心させるのに充分な力があったようです。

目次