寿よわいは七十五年
俸禄は五万銭も頂いている
夫婦は共白髪となり
甥たちも同居している
おいしい粥で新米を味わい
古綿を換えた冬着は暖かだ
屋敷はだだっ広いが
親族揃って団欒できる
白居易は致仕しましたが、その後も『白氏文集』の完成につとめ、前集五十巻、後集二十巻にまとめて廬山の東林寺に納めます。
その年の七月に親友の劉禹錫が亡くなりました。
自分以上に波瀾の人生を辿った劉禹錫が、ともかくも晩年を全うすることができたことに、白居易は慰めを覚えるのでした。
ところがそこに思いがけなく、若い女婿の談弘謨の病死が伝えられます。
白居易は娘の不運をなげきながら、娘と遺児二人を履道里の家に引き取るのでした。武宗は仏教弾圧で歴史に名を残しています。会昌三年八四三にはじまり、会昌五年八四五には廃仏は最高潮に達します。
そのとき長安にいた日本の留学僧円仁えんにんも長安を立ち退かなくてはなりませんでした。
そうしたなか、白居易は非智院の僧たちに提案して龍門八節石灘の開鑿に寄与し、僧侶が社会の実際面でも役立つことを示そうとします。
しかし、道教の道士たちにまるめ込まれている武宗は、弾圧を緩めることはありませんでした。
会昌六年八四六正月、七十五歳になった白居易は、前年の冬から老衰が目立ちはじめていましたが、まだ詩を書く意欲は衰えていませんでした。
生涯最後の年の作品は、悠悠自適の生活を詠うものでした。
置榻素屏下 榻とうを素屏そへいの下もとに置き
移炉青帳前 炉ろを青帳せいちょうの前に移す
書聴孫子読 書は孫子そんしの読むを聴き
湯看侍児煎 湯は侍児じじの煎にるを看みる
走筆還詩債 筆を走らせて詩債しさいを還かえし
抽衣当薬銭 衣ころもを抽ぬきて薬銭やくせんに当つ
支分間事了 間事かんじを支分しぶんし了おわり
爬背向陽眠 背を爬かきて 陽ひに向かって眠る
腰掛けを無地の屏風の前に置き
煖房を青い帳の前に移す
孫が書を読む声を聞き
侍女が湯を沸かすのを眺める
筆を走らせて約束の詩を書き
衣を質に入れて薬代に充てる
何でもないことをやり終えると
背なかを掻いて 日なたで昼寝をする
詩中には老後の満ち足りたゆったりした時間が流れ、うらやましいほどです。前半八句の二句目、「俸禄は五十千に霑う」というのは退職後の年金で、現役時代の約半分とみられています。兄弟の子供たち、甥や姪をすべて引き取り、夫を亡くした娘と二人の孫も同居する大家族です。
そのなかで、老詩人は家属の長老として悠然と暮らしています。
「中隠」の生活は完全な姿で実現していました。
都では廃仏のあらしが吹き荒れていましたが、春三月も過ぎようとするころ、都で大異変が生じます。
不老長生の仙薬を飲み過ぎたのがもとで、武宗が急死したのです。
皇太子李忱りしんが即位して宣宗となりますが、武宗にとっては叔父に当たります。異常な皇位の継承で、宦官たちが擁立したものです。
皇位の変更は、すぐに政変を呼び起こします。李徳裕は廃仏政策の責任を問われて四月に宰相を解任され、荊南節度使に左遷されます。かわって宣宗の信任を得たのは、翰林学士承旨になっていた白敏中はくびんちゅうです。
翰林学士承旨というのは翰林学士の筆頭ですが、白敏中は翰林学士のまま宰相に任ぜられ、白居易の一族からはじめての宰相が生まれます。
白居易は又従兄弟の出世を喜んだでしょう。南の僻地に貶謫されていた牛僧孺と李宗閔は北の地、つまり都に近い任地に量移されます。
二人ともすでに六十七、八歳の高齢でしたが、若い白敏中は古い世代の政治家の復活を警戒していたようです。
李宗閔はほどなく都に召し返されますが、八月十四日に病死しました。
この日は、白居易が洛陽の履道里の家で息を引き取ったのと同年同月同日です。生涯にわたって党争に巻き込まれるのを避けつづけた白居易は、十八年におよぶ洛陽閑居のあと、党争の一方の旗頭と同じ日に亡くなったのでした。享年七十五歳の大往生です。牛僧孺もほどなく亡くなり、李党の李徳裕は、そのご海南島に再貶されて、その地で亡くなりますので、さしもの牛李の党争も終息することになったのです。
白居易は没後、尚書右僕射従二品を贈られ、十一月に龍門東山の一角に葬られました。その塚は今も同じ場所にあり、訪れる人も多いといいます。