三十四十のころは 五欲にまどわされ
七十八十になれば 百病にとりつかれる
だから五十六十は かえってよいものだ
あっさりとして清らか 心はゆったりしている
すでに名利の念に煩わされることもなく
かといって病みつかれ老いぼれてもいない
山水を尋ねる体力は残っており
管絃に耳をかたむける情緒もある
暇なときには 新酒の封を切って数杯を味わい
酔いが回れば 昔の詩を想い出して吟ずる
崔羣よ 劉禹錫よ 酒でも飲みたまえ
耳順の年であるからと 悲観するには及ばない
太和三年の冬になって、白居易に長男が生まれました。
五十八歳になって待望のあとつぎが生まれたのです。
児は阿崔あさいと名づけられ、この児が成人するまで生きていられるかが、白居易の新たな心配の種となりました。元稹とは共同詩集『元白唱和集』十六巻を編んだりして交流していましたが、白居易が心配した通り、翌太和四年八三〇の春になると、元稹は検校戸部尚書正三品鄂州刺史武昌軍節度使に任ぜられ、鄂州湖北省武漢市に追い出されてしまいます。
武昌軍節度使というのは、それまで牛僧孺が左遷されていた使職で、元稹は牛僧孺と入れ替えになったのです。
牛僧孺は都に復帰して宰相になり、同じ牛党の李宗閔と組んで李党の総帥李徳裕を西川節度使に追い出します。
つまり蜀の成都に左遷したのです。いまや文宗の朝廷は牛党の天下ですが、秋になると長安でひとつの事件が起きました。
文宗はかねてから宦官の専横を排除したい気持ちを持っていましたが、この年、信頼する宋申錫そうしんしゃくに心中を打ち明け、宰相に任じます。
ところがこの企てはすぐに宦官側に嗅ぎつけられ、宗申錫は謀叛の罪をでっち上げられます。計画の失敗を覚った文宗は、宦官の要求に屈して宗申錫に死刑の判決を下します。
これに強硬に反対したのが、白居易の友人の崔玄亮さいげんりょうです。
文宗は宋申錫の罪が無実であることはよく分かっていましたので、崔玄亮の建白を取り上げ、死一等を減じて開州四川省開県に流すことにしました。
こうしたことを見るにつけ、白居易は自分が長安を辞したのは正しかったと思うのです。十二月になると、白居易は河南尹従三品に任ぜられました。
閑職にあった白居易は、河南府府治は洛陽の次官になったわけです。
実務をともなう職務に任命されたのですが、白居易は官を辞していたわけではありませんでしたので、命令とあらば受けなければなりません。
翌太和五年八三一、白居易は六十歳になって「耳順」の年を迎えます。
詩中の「敦詩 無得」は、友人の崔羣さいぐんと劉禹錫の字あざなです。
二人は白居易と同年の生まれでしたので、共に耳順の歳になりました。
そこで詩を贈って所懐を述べたのです。白居易は時に応じて自分がそのときに与えられている条件に満足します。
「自足する」「足るを知る」と言ってもいいでしょう。
年齢についてもいたずらに老いを嘆くのではなく、五十六十も悪くないと自足するのです。これが閑適の精神であり、中隠の生活でした。