対酒五首 其一 酒に対す 五首 其の一 白居易
蝸牛角上争何事 蝸牛角上かぎゅうかくじょう 何事をか争う
石火光中寄此身 石火光中せきかこうちゅう 此の身を寄す
随富随貧且歓楽 富ふに随い貧に随いて且しばらく歓楽せん
不開口笑是痴人 口を開いて笑わざるは是これ痴人ちじん
蝸牛の角のような所で 人は何を争うのか
火打石の火花のように 一生ははかない
富んでいようと貧しかろうと まずは楽しもう
酔って愉快に笑わない者は 愚かな奴だ
白居易と劉禹錫は揚州から別々の船で長安に向かったようです。
白居易は任期途中の辞任で帰郷後の仕事も決まっていませんので、ゆっくりと旅をつづけます。それでも十一月の末には洛陽に着いたようです。
弟白行簡が死んだのは宝暦二年の冬としか記載がありませんので、白居易が弟の訃報に接したのは洛陽に着く前か後かは分かりません。
白行簡は礼部の主客郎中に昇進していましたが、享年五十一歳でした。
長男の阿亀はまだ十四歳ですので、白居易は遺族をかかえこむことになります。刺史を辞任した白居易は長安に行って帰郷の報告をしなければなりませんが、その十二月に敬宗の死が報ぜられます。
敬宗は夜遅く狩猟から帰った後、酔って宦官と口論になり、宦官から殺されたと伝えられています。
皇位は十八歳の弟李ミりこうが継いで文宗の世になります。
白居易は皇帝の崩御を耳にすると、すぐに長安に急いだでしょう。
翌太和元年827は文宗の新政の年で、文宗は兄敬宗と違って真面目に政事に取り組む青年皇帝でした。
白居易は二月に特使として洛陽に行っていますが、それは二月十三日に行われた新帝即位による大赦の詔勅を伝えるためであったのでしょう。
白居易は三月になると秘書監従三品に任ぜられます。
秘書監は秘書省の長官ですが、秘書省は帝室図書館のようなものですので、高位ですが閑職です。文宗は宦官によって擁立されましたので宦官の権限を削ることはできませんでしたが、外朝に有能な臣下を集めることによって宦官の力を相対的に弱めようとしていました。白居易は太和二年正月の叙任で刑部侍郎正四品下に任ぜられ尚書省入りします。
あわせて晋陽県男に封ぜられますが、晋陽は太原に属しますので名誉の称号として白氏の本貫とされている地の男爵を授けられたのです。
白居易は文宗の世になってようやく政府の中枢で働く地位を得ましたが、その年の冬になると持病の肺と眼の病気のために百日間の休暇を取らなくてはならなくなりました。そして太和三年八二九の春になると、疾のため任に堪えずとして刑部侍郎の辞職願を提出しました。詩は春の作ですので、辞職願を出して沙汰を待つ間の作品でしょう。
起句の「蝸牛角上 何事をか争う」は『荘子』則陽篇にある説話で、蝸牛かたつむりの左右の角にそれぞれ国があり、互いに激しく争ったとあります。
この比喩を起句に置いたのは、いよいよ露骨になりはじめていた牛李の党争を暗喩しているとみられ、刑部侍郎の辞任には病気以外の理由があったのかもしれません。
対酒五首 其四 酒に対す 五首 其の四 白居易
百歳無多時壮健 百歳 多時たじの壮健なる無し
一春能幾日晴明 一春いつしゅん 能よく幾日の晴明せいめいぞ
相逢且莫推辞酔 相逢いて且つ酔えいを推辞すいじする莫なかれ
聴唱陽関第四声 唱となうるを聴け 陽関ようかんの第四声
人の一生に 健康なときはいくらもない
ひと春に 晴れの日が幾日あるだろう
晴れた春の日に逢って 酔うのに遠慮する必要はない
私の詠う陽関の第四声 この句に耳を傾けてくれ
この詩は、自宅に客を迎えて酒を飲んでいるときの作品でしょう。白居易の辞任の意向を聞いた友人が、翻意を促しに来たのかもしれません。
結句の「陽関の第四声」は王維の「元二の安西に使するを送る」の転句「君に勧む更に尽くせ一杯の酒」のことで、承句から二回ずつ歌う陽関三畳の詠い方のよれば四番目に詠うことになります。ようやくたどり着いた要職を辞するについては、白居易にもいくらか心残りがあったのでしょうか。
詩にはみずからを納得させようとするような口吻があります。