過香積寺     香積寺を過よぎる 王 維
不知香積寺   知らず 香積寺こうしゃくじ
数里入雲峰   数里 雲峰うんぽうに入る
古木無人逕   古木 人逕じんけい無し
深山何処鐘   深山 何処いずこの鐘ぞ
泉声咽危石   泉声 危石きせきに咽むせ
日色冷青松   日色 青松せいしょうに冷やかなり
薄暮空潭曲   薄暮 空潭くうたんの曲くま
安禅制毒龍   安禅 毒龍どくりゅうを制す
香積寺への道と 知らないままに
雲わく峰の奥へ 踏み入った
古木は鬱蒼と茂り 奥山への径はたえ
どこからか 鐘の音が聞こえてくる
谷川は 岩に砕けてむせび泣き
日の光は 緑に映えてひややかである
日は暮れて ひと気のない淵のほとりに禅僧が
煩悩を閉じ込めるように 静かに坐している

 前年十月に洛陽を敗退した安慶緒は相州(河南省安陽市)の鄴城(ぎょうじょう)に拠点を構え兵六万を集めていましたので、朝廷は乾元元年(七五八)九月に九節度使の軍を鄴城に差し向けました。
 このころ杜甫が崔氏の東山草堂に招かれ、その西隣りにあった王維の輞川の別荘が無人であることを詩に詠っています。
 その詩のなかで「西荘の王給事」と言っていますので、王維はそのころ給事中の旧職に復していたようです。王維は輞川荘の門は閉じたまま、もっぱら終南山麓の別荘を利用していたようです。
 当時、長安の南郊、長安県の神禾原しんかげんにあったとみられる香積寺を王維が訪れたのは、このころのことかもしれません。
 この五言律詩は王維の名作のひとつに数えられています。


  酬郭給事      郭給事に酬むくゆ   王 維
洞門高閣靄余暉 洞門どうもん高閣 余暉よきあいたり
桃李陰陰柳絮飛 桃李とうり陰陰として柳絮りゅうじょ飛ぶ
禁裏疎鐘官舎晩 禁裏きんりの疎鐘そしょう 官舎晩
省中啼鳥吏人稀 省中の啼鳥ていちょう 吏人稀まれなり
晨揺玉佩趨金殿 晨あしたには玉佩を搖がして金殿に趨おもむ
夕奉天書拝琑闈 夕べには天書てんしょを奉じて琑闈さいを拝す
強欲従君無那老 
           強いて君に従わんと欲すれど(おい)(いか)んともする無し
将因臥病解朝衣 将に臥病に因りて朝衣ちょういを解かんとす
並び立つ門や高殿 夕陽はかすみ
桃李は生い茂って 柳絮は乱れ飛ぶ
緩やかに流れる鐘の音 宮中の勤めがおわると
あたりには囀る鳥の声 人々の姿はまれとなる
夜明けには 佩玉をゆるがして宮殿におもむき
夕べには 詔勅を奉じて青琑の小門を拝す
そんな君に ついていきたいが老いには勝てず
病を理由に 辞職のことも考えている

 王維はこのころ輞川荘の一部を寺として寄進しています。
 亡き母と妻の菩提を弔うためです。
 寺は清源寺と名づけられ、壁には王維自身の手による輞川図が描かれていたそうですが、寺は残っていません。絵も亡んでいますが、王維が画家としても堪能であったことは文献によって知られています。
 乾元二年(七五九)の春、いったん唐に復して幽州に駐屯していた史思明が安慶緒を助けると称して兵を出してきました。
 鄴城を包囲していた政府軍は、三月に相州の野で史思明の軍を迎え、一戦しましたが大敗してしまいました。
 援軍として鄴城に入った史思明は安慶緒を殺してその兵を奪い、大軍となって西進してきました。史思明軍は四月には洛陽に攻め入り、史思明は大燕皇帝を称します。
 詩題の「郭給事」は王維の同僚の給事中でしょう。国家の危機に際して王維に贈った詩に対して答えたのが掲げた詩です。
 既に六十一歳になっている王維は、あなたについてゆきたいが、老いのためについてゆけない、辞職のことも考えていると心境を述べています。

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