龍潭譚 泉 鏡花

   躑躅か丘つゝじがをか

 日は午なり。あらゝ木のたらたら坂に樹の蔭もなし。
 寺の門、植木屋の庭、花屋の店など、坂下を挟さしはさみて町の入口にはあたれど、のぼるに從ひて、たゞ畑ばかりとなれり。
 番小屋めきたるもの小だかき処に見ゆ。谷には菜の花残りたり。
 路の右左、躑躅つゝじの花の紅くれなゐなるが、見渡す方かた、見返る方、いまを盛さかりなりき。ありくにつれて汗少しいでぬ。

 空よく晴れて一点の雲もなく、風あたゝかに野面のづらを吹けり。

 一人にては行くことなかれと、優しき姉上のいひたりしを、肯かで、しのびて来つ。おもしろきながめかな。山の上の方かたより一束ひとたばの薪たきゞをかつぎたる漢をのこおり来きたれり。眉太く、眼の細きが、向むかうざまに顱巻はちまきしたる、額のあたり汗になりて、のしのしと近づきつゝ、細き道をかたよけてわれを通せしが、ふりかへり、
「危あぶないぞ危ないぞ。」といひずてに眦まなじりに皺を寄せてさつさつと行過ゆきすぎぬ。

 見返ればハヤたらたらさがりに、其肩そのかた躑躅つゝじの花にかくれて、髪結かみゆひたる天窓あたまのみ、やがて山蔭やまかげに見えずなりぬ。草がくれの径こみち遠く、小川流るゝ谷間たにあひの畦道あぜみちを、菅笠すげがさかむりたる婦人をんなの、跣足はだしにて鋤すきをば肩にし、小さき女むすめの児の手をひきて彼方あなたにゆく背姿うしろすがたありしが、それも杉の樹立こだちに入りたり。

 行く方かたも躑躅つゝじなり。来し方も躑躅なり。山土やまつちのいろもあかく見えたる、あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふ時、わが居たる一株の躑躅のなかより、羽音はおとたかく、蟲むしのつと立ちて頬を掠かすめしが、かなたに飛びで、およそ五六尺隔てたる処に礫つぶてのありたる其そのわきにとゞまりぬ。羽をふるふさまも見えたり。手をあげて走りかゝれば、ぱつとまた立ちあがりて、おなじ距離五六尺ばかりのところにとまりたり。其まゝ小石を拾ひあげて狙ねらひうちし、石はそれぬ。蟲はくるりと一ツまはりて、また旧もとのやうにぞ居る。追ひかくれば迅はやくもまた遁げぬ。遁ぐるが遠くには去らず、いつもおなじほどのあはひを置きてはキラキラとさゝやかなる羽ばたきして、鷹揚おうやうに其その二すぢの細き髯ひげを上下うへしたにわづくりておし動かすぞいと憎にくさげなりける。

 われは足踏あしぶみして心いらてり。其その居たるあとを踏みにじりて、
「畜生、畜生。」と呟つぶやきざま、躍をどりかゝりてハタと打ちし、拳こぶしはいたづらに土によごれぬ。

 渠かれは一足先なる方かたに悠々と羽づくろひす。憎しと思ふ心を籠めて瞻みまもりたれば、蟲は動かずなりたり。つくづく見れば羽蟻はありの形して、それよりもやゝ大おほいなる、身はたゞ五彩ごさいの色を帯びて青みがちにかゞやきたる、うつくしさいはむ方かたなし。

 色彩しきさいあり光澤くわうたくある蟲は毒なりと、姉上の教へたるをふと思ひ出でたれば、打置うちおきてすごすごと引返せしが、足許にさきの石の二ツに砕くだけて落ちたるより俄にはかに心動き、拾ひあげて取つて返し、きと毒蟲をねらひたり。

 このたびはあやまたず、したゝかうつて殺しぬ。嬉しく走りつきて石をあはせ、ひたと打ひしぎて蹴飛ばしたる、石は躑躅のなかをくゞりて小砂利をさそひ、ばらばらと谷深くおちゆく音しき。

 袂たもとのちり打ちはらひて空を仰げば、日脚ひあしやゝ斜なゝめになりぬ。ほかほかとかほあつき日向ひなたに唇かわきて、眼のふちより頬のあたりむず痒がゆきこと限りなかりき。

 心着こゝろづけば旧来もときし方かたにはあらじと思ふ坂道の異なる方かたにわれはいつかおりかけ居たり。丘ひとつ越えたりけむ、戻る路はまたさきとおなじのぼりになりぬ。見渡せば、見まはせば、赤土の道幅せまく、うねりうねり果てしなきに、両側つゞきの躑躅の花、遠き方かたは前後を塞ふさぎて、日かげあかく咲込さきこめたる空のいろの眞蒼まさをき下したに、彳たゝずむはわれのみなり。

    鎮守の社ちんじゆのやしろ

 坂は急ならず長くもあらねど、一つ尽つくればまたあらたに顕あらはる。起伏きふくあたかも大波の如く打続きて、いつ坦たんならむとも見えざりき。

 あまり倦みたれば、一ツおりてのぼる坂の窪くぼみに踞つくばひし、手のあきたるまゝ何ならむ指もて土にかきはじめぬ。さといふ字も出来たり。くといふ字も書きたり。曲りたるもの、直すぐなるもの、心の趣おもむくまゝに落書らくがきしたり。しかなせるあひだにも、頬のあたり先刻さきに毒蟲の触れたらむと覚おぼゆるが、しきりにかゆければ、袖もてひまなく擦こすりぬ。擦りてはまたもの書きなどせる、なかにむつかしき字のひとつ形よく出来たるを、姉に見せばやと思ふに、俄にはかに其その顔の見たうぞなりたる。

 立あがりてゆくてを見れば、左右より小枝を組みてあはひも透かで躑躅咲きたり。日影ひとしほ赤うなりまさりたるに、手を見たれば掌たなそこに照りそひぬ。

 一文字いちもんじにかけのぼりて、唯見ればおなじ躑躅のだらだらおりなり。走りおりて走りのぼりつ。いつまでか恁かくてあらむ、こたびこそと思ふに違たがひて、道はまた蜿うねれる坂なり。踏心地柔かく小石ひとつあらずなりぬ。

 いまだ家には遠しとみゆるに、忍びがたくも姉の顔なつかしく、しばらくも得へずなりたり。

 再びかけのぼり、またかけりおりたる時、われしらず泣きて居つ。泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある処ところに至らず、坂も躑躅も少しもさきに異ならずして、日の傾くぞ心細き。肩、背のあたり寒うなりぬ。ゆふ日あざやかにぱつと茜あかねさして、眼もあやに躑躅の花、たゞ紅くれなゐの雪の降積めるかと疑はる。

 われは涙の声たかく、あるほど声を絞りて姉をもとめぬ。一ひとたび二ふたたび三たびして、こたへやすると耳を澄せば、遙はるかに瀧たきの音聞こえたり。どうどうと響くなかに、いと高く冴えたる声の幽かすかに、
「もういゝよ、もういゝよ。」と呼びたる聞えき。
 こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ圖なることを認め得たる、一声くりかへすと、ハヤきこえずなりしが、やうやう心たしかに其の声したる方かたにたどりて、また坂ひとつおりて一つのぼり、こだかき所に立ちて瞰おろせば、あまり雑作ざふさなしや、堂の瓦屋根、杉の樹立のなかより見えぬ。かくてわれ踏迷ふみまよひたる紅くれなゐの雪のなかをばのがれつ。背後うしろには躑躅の花飛び飛びに咲きて、青き草まばらに、やがて堂のうらに達せし時は一株も花のあかきはなくて、たそがれの色、境内けいだいの手洗水みたらしのあたりを籠めたり。柵さくひたる井戸ひとつ、銀杏いてふの古りたる樹あり、そがうしろに人の家の土塀あり。此方こなたは裏木戸のあき地にて、むかひに小さき稲荷の堂あり。石の鳥居あり。木の鳥居あり。この木の鳥居の左の柱には割れめありて太き鉄の輪を嵌めたるさへ、心たしかに覚えある、こゝよりはハヤ家に近しと思ふに、さきの恐しさは全く忘れ果てつ。たゞひとへにゆふ日照りそひたるつゝじの花の、わが丈たけよりも高き処ところ、前後左右を咲埋めたるあかき色のあかきがなかに、緑と、紅くれなゐと、紫と、青白せいはくの光を羽色はいろに帯びたる毒蟲のキラキラと飛びたるさまの広き景色のみぞ、畫の如く小さき胸にゑがかれける。

    かくれあそび 

 さきにわれ泣きいだして救すくひを姉にもとめしを、渠かれに認められしぞ幸さいはひなる。いふことを肯かで一人いで来しを、弱りて泣きたりと知られむには、さもこそとて笑はれなむ。優しき人のなつかしけれど、顔をあはせて謂ひまけむは口惜くちをしきに。

 嬉しく喜ばしき思ひ胸にみちては、また急に家に帰らむとはおもはず。ひとり境内に彳たゝずみしに、わッといふ声、笑ふ声、木の蔭、井戸の裏、堂の奥、廻廊の下よりして、五ツより八ツまでなる児の五六人前後あとさきに走り出でたり、こはかくれ遊びの一人いちにんが見いだされたるものぞとよ。二人三人みたり走り来て、わが其処に立てるを見つ。皆瞳を集めしが、
「お遊びな、一所にお遊びな。」とせまりて勧すゝめぬ。
 小家あちこち、このあたりに住むは、かたゐといふものなりとぞ。風俗少しく異なれり。児どもが親達の家富みたるも好き衣きぬ着たるはあらず、大抵跣足はだしなり。三味線さみせん弾きて折々わが門に来きたるもの、溝川に鰌どぢやうを捕ふるもの、附木つけぎ、草履ざうりなど鬻ひさぎに来るものだちは、皆この児どもが母なり、父なり、祖母などなり。さるものとはともに遊ぶな、とわが友は常に戒いましめつ。然るに町方まちかたの者としいへば、かたゐなる児ども尊たふとび敬うやまひて、頃刻しばらくもともに遊ばんとことを希こひねがふや、親しく、優しく勉つとめてすなれど、不断は此方こなたより遠ざかりしが、其時そのときは先にあまり淋しくて、友欲しき念の堪へがたかりし其心のまだ失せざると、恐しかりしあとの楽しきとに、われは拒こばまずして頷うなづきぬ。

 児どもはさゞめき喜びたりき。さてまたかくれあそびを繰返すとて、拳けんしてさがすものを定めしに、われ其任にあたりたり。面おもてを蔽おほへといふまゝにしつ。ひッそとなりて、堂の裏崖をさかさに落つる瀧の音どうどうと松杉の梢こずえゆふ風に鳴り渡る。かすかに、
「もう可いよ、もう可いよ。」と呼ぶ声、谺こだまに響けり。
 眼をあくればあたり静まり返りて、たそがれの色また一際ひときは襲ひ来れり。大おほいなる樹のすくすくとならべるが朦朧もうろうとしてうすぐらきなかに隠れむとす。

 声したる方をと思ふ処には誰も居らず。こゝかしこさがしたれど人らしきものあらざりき。

 また旧もとの境内の中央に立ちて、もの淋しく瞶みまはしぬ。山の奥にも響くべく凄すさまじき音して堂の扉を鎖とざす音しつ、闃げきとしてものも聞えずなりぬ。

 親しき友にはあらず。常にうとましき児どもなれば、かゝる機会おりを得てわれをば苦めむとや企たくみけむ。身を隠したるまゝ密ひそかに遁げ去りたらむには、探せばとて獲らるべき。益やくもなきことをと不図ふと思ひうかぶに、うちすてて踵くびすをかへしつ。さるにても萬一もしわがみいだすを待ちてあらばいつまでも出でくることを得ざるべし、それもまたはかり難しと、心迷ひて、とつ、おいつ、徒いたづらに立ちて困こうずる折しも、何処いづくより来たりしとも見えず、暗うなりたる境内の、うつくしく掃いたる土のひろびろと灰色なせるに際きは立ちて、顔の色白く、うつくしき人、いつかわが傍かたはらに居て、うつむきざまにわれをば見き。

 極きはめて丈たけ高き女なりし、其手を懐ふところにして肩を垂れたり。優しきこゑにて、
「此方こちらへおいで。此方こちら。」といひて前さきに立ちて導きたり。
 見知りたる女ひとにあらねど、うつくしき顔の笑ゑみをば含みたる、よき人と思ひたれば、怪しまで、隠れたる児のありかを教ふるとさとりたれば、いそいそと従ひぬ。

   あふ魔が時 

 わが思ふ処に違たがはず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたる突あたりに小さき稻荷の社やしろあり。青き旗、白き旗、二三本其前に立ちて、うしろはたゞちに山の裾なる雑樹ざふき斜めに生ひて、社の上を蔽おほひたる、其下のをぐらき処、孔あなの如き空地くうちなるをソとめくばせしき。瞳は水のしたゝるばかり斜なゝめにわが顔を見て動けるほどに、あきらかに其心ぞ読まれたる。

 さればいさゝかもためらはで、つかつかと社の裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、朽葉くちば、堆うづたかく水くさき土のにほひしたるのみ、人の気勢けはひもせで、頸えりもとの冷ひやゝかなるに、と胸をつきて見返りたる、またゝくまと思ふ彼の女ひとはハヤ見えざりき。何方いづかたにか去りけむ、暗くなりたり。

 身の毛よだちて、思はずあなやと叫びぬ。

 人顔ひとがほのさだかならぬ時、暗き隅に行くべからず、たそがれの片隅には、怪しきもの居て人を惑はすと、姉上の教へしことあり。

 われは茫然ぼうぜんとして眼まなこをみはりぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、左手ゆんでに坂あり。穴の如く、其底よりは風の吹き出づると思ふ黒闇々こくあんあんたる坂下より、ものののぼるやうなれば、こゝにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで社の裏の狭きなかににげ入りつ。眼を塞ふさぎ、呼吸いきをころしてひそみたるに、四足よつあしのものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。

 われは人心地もあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきの女ひとのうつくしかりし顔、優やさしかりし眼を忘れず。こゝをわれに教へしを、今にして思へばかくれたる児どものありかにあらで、何等なんらか恐しきもののわれを捕へむとするを、こゝに潜ひそめ、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして小提灯こぢやうちんの火影ほかげあかきが坂下より急ぎのぼりて彼方かなたに走るを見つ。ほどなく引返してわがひそみたる社の前に近づきし時は、一人ならず二人三人みたり連立つれだちて来きたりし感あり。

 恰あたかも其立留りし折から、別なる跫音あしおと、また坂をのぼりてさきのものと落合ひたり。
「おいおい分らないか。」
「ふしぎだな、なんでも此邊で見たといふものがあるんだが。」とあとよりいひたるはわが家につかひたる下男げなんの声に似たるに、あはや出でむとせしが、恐しきものの然はたばかりて、おびき出いだすにやあらむと恐しさは一しほ増しぬ。
「もう一度念のためだ、田圃たんぼの方でも廻つて見よう、お前も頼む。」
「それでは。」といひて上下うへしたにばらばらと分れて行く。

 再び寂せきとしたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思ふ顔少し差出だして、外の方かたをうかゞふに、何ごともあらざりければ、やゝ落着きたり。怪しきものども、何とてやはわれをみいだし得む、愚おろかなる、と冷ひやゝかに笑ひしに、思ひがけず、誰たれならむたまぎる声して、あわてふためき遁ぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。
「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。

    大沼 

「居ないッて私わたしあ何うしよう、爺ぢいや。」
「根ッから居さつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お前様遊びに出します時、帯の結むすびめを丁とんとたゝいてやらつしやれば好いに。」
「あゝ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそッと出て行つたらうではないかねえ。」
「それはハヤ不念ぶねんなこんだ。帯の結むすびめさへ叩いときや、何がそれで姉様あねさまなり、母おふくろ様なりの魂が入るもんだで魔エテめは何うすることもしえないでごす。」
「さうねえ。」とものかなしげに語らひつゝ、社の前をよこぎりたまへり。

 走りいでしが、あまりおそかりき。

 いかなればわれ姉上をまで怪あやしみたる。

 悔ゆれど及ばず、かなたなる境内の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早や其姿は見えざりき。

 涙ぐみて彳たゝずむ時、ふと見る銀杏いてふの木のくらき夜の空に、大おほいなる圓まるき影して茂れる下に、女をんなの後姿ありてわが眼まなこを遮さへぎりたり。

 あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが此処こゝにあるを知られむは、拙つたなきわざなればと思ひてやみぬ。

 とばかりありて、其姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわが優しき姉上の姿に化したる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるは然もなくて、いま幻に見えたるがまこと其人なりけむもわかざるを、何とて言ことばはかけざりしと、打泣うちなきしが、かひもあらず。

 あはれさまざまのものの怪しきは、すべてわが眼まなこのいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、術すべこそありけれ、かなたなる御手洗みたらしにて清めてみばやと寄りぬ。

 煤すゝけたる行燈あんどうの横長きが一つ上にかゝりて、ほとゝぎすの畫と句など書いたり。灯をともしたるに、水はよく澄みて、青き苔むしたる石鉢の底もあきらかなり。手に掬むすばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそもそもいかなるものぞ。覚えず叫びしが心を籠めて、気を鎮しづめて、両の眼まなこを拭ぬぐひ拭ひ、水に臨のぞむ。

 われにもあらでまたとは見るに忍しのびぬを、いかでわれかゝるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわなゝきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、
「お、お、千里ちさと。えゝも、お前は。」と姉上ののたまふに、縋すがりつかまくみかへりたる、わが顔を見たまひしが、
「あれ!」 といひて一足ひとあしすさりて、
「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてに衝と馳せ去りたまへり。

 怪しき神のさまざまのことしてなぶるわと、あまりのことに腹立たしく、あしずりして泣きに泣きつゝ、ひたばしりに追ひかけぬ。捕へて何をかなさむとせし、そはわれ知らず。ひたすらものの口惜くちをしければ、とにかくもならばとてなむ。

 坂もおりたり、のぼりたり、大路おほみちと覚おぼしき町にも出でたり、暗き径こみちも辿たどりたり、野もよこぎりぬ。畦あぜも越えぬ。あとをも見ずて駈けたりし。

 道いかばかりなりけむ、漫々たる水面やみのなかに銀河の如く横よこたはりて、黒き、恐しき森四方をかこめる、大沼とも覚しきが、前途ゆくてを塞ふさぐと覚ゆる蘆の葉の繁きがなかにわが身体からだ倒れたる、あとは知らず。

   五位鷺ごゐさぎ 

 眼のふち清々すがすがしく、涼しき薫かをりつよく薫ると心着こゝろづく、身は柔かき蒲団ふとんの上に臥したり。やゝ枕をもたげて見る、竹縁ちくえんの障子あけ放はなして、庭つゞきに向ひなる山懐やまふところに、緑の草の、ぬれ色青く生茂おひしげりつ。其半腹はんぷくにかゝりある巌角いわかどの苔のなめらかなるに、一挺いつちやうはだか蝋らふに灯ともしたる灯影ほかげすゞしく、筧かけひの水むくむくと湧きて玉ちるあたりに盥たらひを据ゑて、うつくしく髪結かみゆうたる女ひとの、身に一絲いつしもかけで、むかうざまにひたりて居たり。

 筧かけひの水は其たらひに落ちて、溢あふれにあふれて、地の窪くぼみに流るゝ音しつ。

 蝋らふの灯は吹くとなき山おろしにあかくなり、くらうなりて、ちらちらと眼に映ずる雪なす膚はだへ白かりき。

 わが寝返る音に、ふと此方こなたを見返り、それと頷く状さまにて、片手をふちにかけつゝ片足を立てて盥たらひのそとにいだせる時、颯と音して、烏よりは小さき鳥の真白ましろきがひらひらと舞ひおりて、うつくしき人の脛はぎのあたりをかすめつ。其まゝおそれげもなう翼つばさを休めたるに、ざぶりと水をあびせざま莞爾につことあでやかに笑うてたちぬ。手早く衣きぬもて其胸をば蔽おほへり。鳥はおどろきてはたはたと飛び去りぬ。

 夜の色は極めてくらし、蝋らふを取りたるうつくしき人の姿さやかに、庭下駄重く引く音しつ。ゆるやかに縁えんの端に腰をおろすとともに、手をつきそらして捩向ねじむきざま、わがかほをば見つ。
「気分は癒なほつたかい、坊や。」といひて頭かうべを傾けぬ。
 ちかまさりせる面おもてけだかく、眉あざやかに、瞳すゞしく、鼻やゝ高く、唇の紅くれなゐなる、額ひたひつき頬のあたり臈らふたけたり。こは豫かねてわがよしと思ひ詰つめたる雛のおもかげによく似たれば貴たふとき人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。知人しりびとにはあらざれど、はじめて逢ひし方かたとは思はず、さりや、誰にかあるらむとつくづくみまもりぬ。

 またほゝゑみたまひて、
「お前あれは斑猫はんめうといつて大変な毒蟲なの。もう可いね、まるでかはつたやうにうつくしくなつた、あれでは姉様ねえさんが見違へるのも無理はないのだもの。」
 われも然あらむと思はざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑はずなりて、のたまふまゝに頷きつ。あたりのめづらしければ起きむとする夜着よぎの肩、ながく柔かにおさへたまへり。
「ぢつとしておいで、あんばいがわるいのだから、落着いて、ね、気をしづめるのだよ、可いかい。」
 われはさからはで、たゞ眼をもて答へぬ。
「どれ。」といひて立つたる折、のしのしと道芝みちしばを踏む音して、つゞれをまとうたる老夫おやぢの、顔の色いと赤きが縁近う入り来つ。
「はい、これはお児さまがござらつせえたの、可愛いお児ぢや、お前様も嬉しかろ。はゝゝ、どりや、またいつものを頂きましよか。」
 腰をなゝめにうつむきて、ひつたりとかの筧に顔をあて、口をおしつけてごつごつごつとたてつゞけにのみたるが、ふツといきを吹きて空を仰あふぎぬ。
「やれやれ甘うまいことかな。はい、参ります。」と踵くびすを返すを、此方より呼びたまひぬ。
「ぢいや、御苦労だが。また来ておくれ、この児を返さねばならぬから。」
「あいあい。」と答へて去る。
 山風颯さつとおろして、彼の白き鳥また翔ちおりつ。黒き盥のふちに乗りて羽づくろひして静まりぬ。
「もう、風邪を引かないやうに寝させてあげよう、どれそんなら私も。」とて静に雨戸をひきたまひき。

    九ツ谺こゝのつこだま 

 やがて添臥そひぶししたまひし、さきに水を浴びたまひし故ゆゑにや、わが膚をりをり慄然りつぜんたりしが何なんの心もなうひしと取縋とりすがりまゐらせぬ。あとをあとをといふに、をさな物語二ツ三ツ聞かせ給ひつ。やがて、
「一ツ谺こだま、坊や、二ツ谺といへるかい。」
「二ツ谺。」
「三ツ谺、四ツ谺といつて御覧。」
「四ツ谺。」
「五ツ谺。そのあとは。」
「六ツ谺。」
「さうさう七ツ谺。」
「八ツ谺。」
「九ツ谺──こゝはね、九ツ谺といふ処なの。さあもうおとなにして寝るんです。」
 背に手をかけ引寄せて、玉の如き其その乳房をふくませたまひぬ。露あらはに白き襟えり、肩のあたり鬢びんのおくれ毛はらはらとぞみだれたる、かゝるさまは、わが姉上とは太いたく違へり。乳をのまむといふを姉上は許したまはず。

 ふところをかいさぐれば常に叱りたまふなり。母上みまかりたまひてよりこのかた三年みとせを経つ。

 乳の味は忘れざりしかど、いまふくめられたるはそれには似ざりき。垂玉すゐぎよくの乳房たゞ淡雪あはゆきの如く含むと舌にきえて触るゝものなく、すゞしき唾つばのみぞあふれいでたる。

 軽く背せなをさすられて、われ現うつゝになる時、屋の棟、天井の上と覚おぼし、凄すさまじき音してしばらくは鳴りも止まず。こゝにつむじ風吹くと柱動く恐しさに、わなゝき取とりつくを抱きしめつゝ、
「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍かんにんしておくれよ、いけません。」とキとのたまへば、やがてぞ静まりける。
「恐くはないよ。鼠だもの。」とある、さりげなきも、われはなほ其響そのひゞきのうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるへたり。

 うつくしき人はなかばのりいでたまひて、とある蒔繪まきゑものの手箱のなかより、一口ひとふりの守刀まもりがたなを取出しつゝ鞘さやながら引ひきそばめ、雄々をゝしき声にて、
「何が来てももう恐くはない、安心してお寝よ。」とのたまふ、たのもしき状さまよと思ひてひたと其胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。
 残燈ありあけ暗く床柱の黒うつやゝかにひかるあたり薄き紫の色籠めて、香かうの薫かをり残りたり。枕をはづして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく閉とぢたまひたる眼の睫毛まつげかぞふるばかり、すやすやと寝入りて居たまひぬ。ものいはむとおもふ心おくれて、しばし瞻みまもりしが、淋しさにたへねばひそかに其唇に指さきをふれて見ぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまへり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと打うちまもりぬ。ふと其鼻頭はなさきをねらひて手をふれしに空くうを捻ひねりて、うつくしき人は雛ひなの如く顔の筋ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔は其おくれげのはしに頬ほゝをなでらるゝまで近々とありながら、いかにしても指さきは其顔に届かざるに、はては心いれて、乳の下に面おもてをふせて、強く額ひたひもて圧したるに、顔にはたゞあたゝかき霞かすみのまとふとばかり、のどかにふはふはとさはりしが、薄葉うすえふ一重ひとへの支さゝふるなく着けたる額はつと下に落ち沈むを、心着けば、うつくしき人の胸は、もとの如く傍かたはらにあをむき居て、わが鼻は、いたづらにおのが膚にぬくまりたる、柔き蒲団ふとんに埋うもれて、をかし。

     渡船わたしぶね 

 夢幻ゆめまぼろしともわかぬに、心をしづめ、眼をさだめて見たる、片手はわれに枕させたまひし元もとのまま柔かに力なげに蒲団のうへに垂れたまへり。

 片手をば胸にあてて、いと白くたをやかなる五指ごしをひらきて黄金わうごんの目貫めぬきキラキラとうつくしき鞘さやの塗ぬりの輝きたる小さき守刀まもりがたなをしかと持つともなく乳のあたりに落して据ゑたる、鼻たかき顔のあをむきたる、唇のものいふ如き、閉ぢたる眼のほゝ笑む如き、髪のさらさらしたる、枕にみだれかゝりたる、それも違たがはぬに、胸に剣つるぎをさへのせたまひたれば、亡き母上の爾時そのときのさまに紛まがふべくも見えずなむ、コハこの君もみまかりしよとおもふいまはしさに、はや取除とりのけなむと、胸なる其守刀に手をかけて、つと引く、せつぱゆるみて、青き光眼まなこを射たるほどこそあれ、いかなるはずみにか血汐ちしほさとほとばしりぬ。眼もくれたり。したしたとながれにじむをあなやと両りやうの拳こぶしもてしかとおさへたれど、留とゞまらで、たふたふと音するばかりぞ淋漓りんりとしてながれつたへる、血汐のくれなゐ衣きぬをそめつ。うつくしき人は寂せきとして石像の如く静なる鳩尾みづおちのしたよりしてやがて半身をひたし尽つくしぬ。おさへたるわが手には血の色つかぬに、燈ともしびにすかす指のなかの紅くれなゐなるは、人の血の染みたる色にはあらず、訝いぶかしく撫で試こゝろむる掌たなそこの其その血汐にはぬれもこそせね、こゝろづきて見定みさだむれば、かいやりし夜のものあらはになりて、すゞしの絹をすきて見ゆる其膚はだにまとひたまひし紅くれなゐの色なりける。いまはわれにもあらで声高こわだかに、母上、母上と呼びたれど、叫びたれど、ゆり動かし、おしうごかししたりしが、効かひなくてなむ、ひた泣きに泣く泣くいつのまにか寝たりと覚おぼし。顔あたゝかに胸をおさるゝ心地に眼覚めぬ。空青く晴れて日影まばゆく、木も草もてらてらと暑きほどなり。

 われはハヤゆうべ見し顔のあかき老夫をぢの背せなに負はれて、とある山路やまぢを行くなりけり。うしろよりは彼のうつくしき人したがひ来ましぬ。

 さてはあつらへたまひし如く家に送りたまふならむと推おしはかるのみ、わが胸の中うちはすべて見すかすばかり知りたまふやうなれば、わかれの惜しきも、ことのいぶかしきも、取出とりいでていはむは益やくなし。教ふべきことならむには、彼方かなたより先んじてうちいでこそしたまふべけれ。

 家に帰るべきわが運ならば、強ひて止とゞまらむと乞ひたりとて何かせん、さるべきいはれあればこそ、と大人おとなしう、ものもいはでぞ行く。

 断崖だんがいの左右に聳そびえて、点滴声する処ありき。雑草高き径こみちありき。松柏まつかしはのなかを行く処もありき。きゝ知らぬ鳥うたへり。褐色かつしよくなる獣けものありて、をりをり叢くさむらに躍をどり入りたり。ふみわくる道とにもあらざりしかど、去年こぞの落葉道を埋うづみて、人多く通かよふ所としも見えざりき。

 をぢは一挺いつちやうの斧をのを腰にしたり。れいによりてのしのしとあゆみながら、茨いばらなど生ひしげりて、衣きぬの袖をさへぎるにあへば、すかすかと切つて払ひて、うつくしき人を通し参らす。されば山路やまみちのなやみなく、高き塗下駄の見えがくれに長き裾さばきながら来たまひつ。

 かくて大沼の岸に臨のぞみたり。水は漫々として藍らんを湛たゝへ、まばゆき日のかげも此処こゝの森にはさゝで、水面すゐめんをわたる風寒く、颯々さつさつとして声あり。をぢはこゝに来てソとわれをおろしつ。はしり寄れば手を取りて立ちながら肩を抱いだきたまふ、衣の袖左右より長くわが肩にかゝりぬ。

 蘆間あしまの小舟をぶねの纜ともづなを解きて、老夫をぢはわれをかゝへて乗せたり。一緒ならではと、しばしむづかりたれど、めまひのすればとて乗りたまはず、さらばとのたまふはしに棹さをを立てぬ。船は出でつ。わツと泣きて立上りしがよろめきてしりゐに倒れぬ。舟といふものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背後うしろに居たまへりとおもふ人の大おほいなる環にまはりて前途ゆくてなる汀みぎはに居たまひき。いかにして渡し越したまひつらむと思ふときハヤ左手ゆんでなる汀みぎはに見えき。見る見る右手めてなる汀にまはりて、やがて旧もとのうしろに立ちたまひつ。箕の形したる大おほいなる沼は、汀の蘆と、松の木と、建札たてふだと、其傍そのかたはらなるうつくしき人ともろともに緩ゆるき環を描ゑがいて廻転し、はじめは徐おもむろにまはりしが、あとあと急になり、疾はやくなりつ、くるくるくるくると次第にこまかくまはるまはる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき処に松の木にすがりて見えたまへる、とばかりありて眼の前さきにうつくしき顔の臈らふたけたるが莞爾につことあでやかに笑みたまひしが、そののちは見えざりき。蘆は繁く丈よりも高き汀みぎはに、船はとんとつきあたりぬ。

    ふるさと 

 をぢはわれを扶たすけて船より出だしつ。また其背せなを向けたり。
「泣くでねえ泣くでねえ。もうぢきに坊ツさまの家うちぢや。」と慰めぬ。
 かなしさはそれにはあらねど、いふもかひなくてたゞ泣きたりしが、しだいに身のつかれを感じて、手も足も綿の如くうちかけらるゝやう肩に負はれて、顔を垂れてぞともなはれし。見覚えある板塀のあたりに来て、日のやゝくれかゝる時、老夫をぢはわれを抱いだき下して、溝みぞのふちに立たせ、ほくほく打うちゑみつゝ、慇懃いんぎんに会釈えしやくしたり。
「おとなにしさつしやりませ。はい。」といひずてに何地いづちゆくらむ。
 別れはそれにも惜しかりしが、あと追ふべき力もなくて見おくり果てつ。指す方かたもあらでありくともなく歩をうつすに、頭かしらふらふらと足の重たくて行悩ゆきなやむ、前に行くも、後ろに帰るも皆見知越みしりごしのものなれど、誰たれも取りあはむとはせで往きつ来きたりつす。さるにてもなほものありげにわが顔をみつゝ行くが、冷ひやゝかに嘲あざけるが如く憎さげなるぞ腹立はらだたしき。おもしろからぬ町ぞとばかり、足はわれ知らず向直むきなほりて、とぼとぼとまた山ある方にあるき出いだしぬ。

 けたゝましき跫音あしおとして鷲掴わしづかみに襟えりを掴むものあり。あなやと振返ればわが家いへの後見うしろみせる奈四郎なしろうといへる力逞たくましき叔父の、凄すさまじき気色けしきして、
「つまゝれめ、何処どこをほツつく。」と喚わめきざま、引立ひつたてたり。
 また庭に引出ひきいだして水をやあびせられむかと、泣叫びてふりもぎるに、おさへたる手をゆるべず、
「しつかりしろ。やい。」とめくるめくばかり背を拍ちて宙につるしながら、走りて家に帰りつ。
 立騒ぐ召めしつかひどもを叱りつも細引ほそびきを持て来さして、しかと両手をゆはへあへず奥まりたる三畳の暗き一室ひとまに引立ひつたてゆきて其まゝ柱に縛いましめたり。近く寄れ、喰くひさきなむと思ふのみ、歯がみして睨にらまへたる、眼の色こそ怪あやしくなりたれ、逆さかつりたる眦まなじりは憑きもののわざよとて、寄りたかりて口々にのゝしるぞ無念なりける。

 おもての方さゞめきて、何処いづくにか行き居れる姉上帰りましつと覚おぼし、襖ふすまいくつかぱたぱたと音してハヤこゝに来たまひつ。叔父は室しつの外にさへぎり迎へて、
「ま、やつと取返したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走つて居て、すきがあると駈け出すぢや。魔エテどのがそれしよびくでの。」と戒いましめたり。
 いふことよくわが心を得たるよ、然り、隙ひまだにあらむにはいかでかこゝにとゞまるべき。
「あ。」とばかりにいらへて姉上はまろび入りて、ひしと取着きたまひぬ。
 ものはいはでさめざめとぞ泣きたまへる、おん情なさけ手にこもりて抱いだかれたるわが胸絞らるゝやうなりき。

 姉上の膝に臥したるあひだに、医師来きたりてわが脈みやくをうかゞひなどしつ。叔父は医師とともに彼方あなたに去りぬ。
「ちさや、何うぞ気をたしかにもつておくれ。もう姉様ねえさんは何うしようね。お前、私わたしだよ。姉さんだよ。ね、わかるだらう、私だよ。」といきつくづくぢつとわが顔をみまもりたまふ、涙痕るゐこんしたゝるばかりなり。

 其心の安んずるやう、強ひて顔つくりてニツコと笑わらうて見せぬ。
「おゝ、薄気味うすきみが悪いねえ。」と傍かたはらにありたる奈四郎の妻なる人呟つぶやきて身ぶるひしき。

 やがてまた人々われを取巻きてありしことども責むるが如くに問ひぬ。くはしく語りて疑うたがひを解かむとおもふに、をさなき口の順序正しく語るを得むや、根問ねどひ、葉問はどひするに一々説明ときあかさむに、しかもわれあまりに疲れたり。うつゝ心に何をかいひたる。

 やうやくいましめはゆるされたれど、なほ心の狂ひたるものとしてわれをあしらひぬ。いふこと信ぜられず、すること皆人みなひとの疑を増すをいかにせむ。ひしと取籠とりこめて庭にも出いださで日を過すごしぬ。血色わるくなりて痩せもしつとて、姉上のきづかひたまひ、後見うしろみの叔父夫婦にはいとせめて秘かくしつゝ、そとゆふぐれを忍びて、おもての景色見せたまひしに、門辺かどべにありたる多くの児ども我が姿を見ると、一斉いつせいに、アレさらはれものの、気狂きちがひの、狐つきを見よやといふいふ、砂利、小砂利をつかみて投げつくるは不断親しかりし朋達ともだちなり。

 姉上は袖もてわれを庇かばひながら顔を赤うして遁げ入りたまひつ。人目なき処にわれを引据ゑつと見るまに取つて伏せて、打ちたまひぬ。

 悲しくなりて泣出せしに、あわたゞしく背せなをばさすりて、
「堪忍かんにんしておくれよ、よ、こんなかはいさうなものを。」といひかけて、
「私わたしあもう気でも違ひたいよ。」としみじみと掻口説かきくどきたまひたり。
 いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にたゞ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を確たしかに、心を鎮しづめよ、と涙ながらいはるゝにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を危ぶむやう其毎そのたびになりまさりて、果はてはまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。

 たとへば怪あやしき絲の十重二十重とへはたへにわが身をまとふ心地しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく思おもひあり。それをば刈払かりはらひ、遁出のがれいでむとするに其術そのすべなく、すること、なすこと、人見て必ず、眉を顰ひそめ、嘲あざけり、笑ひ、卑いやしめ、罵のゝしり、はた悲み憂ひなどするにぞ、気あがり、心激げきし、たゞじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。

 口惜しく腹立たしきまゝ身の周囲まはりはことごとく敵かたきぞと思はるゝ。町も、家も、樹も、鳥籠も、はたそれ何等なんらのものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには一たびわれを見て其弟を忘れしことあり。塵ちり一つとしてわが眼に入るは、すべてものの化したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて現げんじたるものならむ。さればぞ姉がわが快復を祈る言ことばもわれに心を狂はすやう、わざと然はいふならむと、一たびおもひては堪ふべからず、力あらば恣ほしいまゝにともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、蹴飛ばしやらむ、掻かきむしらむ、透すきあらばとびいでて、九ツ谺こだまとをしへたる、たふときうつくしきかのひとの許もとに遁げ去らむと、胸の湧きたつほどこそあれ、ふたゝび暗室あんしつにいましめられぬ。

    千呪陀羅尼せんじゆだらに 

 毒ありと疑へばものも食はず、藥もいかでか飲まむ、うつくしき顔したりとて、優しきことをいひたりとて、いつはりの姉にはわれことばもかけじ。眼にふれて見ゆるものとしいへば、たけりくるひ、罵のゝしり叫びてあれたりしが、つひには声も出でず、身も動かず、われ人をわきまへず心地死ぬべくなれりしを、うつらうつら舁きあげられて高き石壇いしだんをのぼり、大おほいなる門を入りて、赤土の色きれいに掃きたる一條ひとすじの道長き、右左、石燈籠と石榴ざくろの樹の小さきと、おなじほどの距離にかはるがはる続つゞきたるを行きて、香かうの薫かをりしみつきたる太き圓柱まるばしらの際きはに寺の本堂に据ゑられつ、ト思ふ耳のはたに竹を破る響ひゞききこえて、僧ども五三人一斉に声を揃へ、高らかに誦じゆする声耳を聾ろうするばかり喧かしましさ堪ふべからず、禿顱とくろならび居る木のはしの法師ばら、何をかすると、拳こぶしをあげて一人いちにんの天窓あたまをうたむとせしに、一幅ひとはゞの青き光颯さつと窓を射て、水晶の念珠ねんじゆ瞳をかすめ、ハツシと胸をうちたるに、ひるみて踞うづくまる時、若僧じやくそう圓柱えんちうをいざり出でつゝ、つい居て、サラサラと金襴きんらんの帳とばりを絞る、燦爛さんらんたる御厨子みづしのなかに尊たふとき像すがたこそ拝まれたれ。一段高まる経の声、トタンにはたゝがみ天地に鳴りぬ。

 端厳微妙たんげんみめうのおんかほばせ、雲の袖、霞の袴はかまちらちらと瓔珞えうらくをかけたまひたる、玉なす胸に纖手せんしゆを添へて、ひたと、をさなごを抱いだきたまへるが、仰あふぐ仰ぐ瞳うごきて、ほゝゑみたまふと、見たる時、やさしき手のさき肩にかゝりて、姉上は念じたまへり。

 瀧や此堂にかゝるかと、折しも雨の降りしきりつ。渦うづまいて寄する風の音、遠き方かたより呻うなり来て、どつと満山まんざんに打あたる。

 本堂青光あおびかりして、はたゝがみ堂の空をまろびゆくに、たまぎりつゝ、今は姉上を頼までやは、あなやと膝にはひあがりて、ひしと其胸を抱いだきたれば、かゝるものをふりすてむとはしたまはで、あたゝかき腕かひなはわが背せなにて組合はされたり。さるにや気も心もよわよわとなりもてゆく、ものを見る明あきらかに、耳の鳴るがやみて、恐しき吹降ふきぶりのなかに陀羅尼だらにを呪じゆする聖ひじりの声々こゑごゑさわやかに聞きとられつ。あはれに心細くもの凄すごきに、身の置処おきどころあらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋すがりながら顔もて其胸を押しわけたれば、襟えりをば掻きひらきたまひつゝ、乳の下にわがつむり押入れて、両袖を打かさねて深くわが背を蔽おほひ給へり。御佛みほとけの其そのをさなごを抱いだきたまへるも斯くこそと嬉しきに、おちゐて、心地すがすがしく胸のうち安く平らになりぬ。やがてぞ呪じゆもはてたる。雷らいの音も遠ざかる。わが背をしかと抱いだきたまへる姉上の腕かひなもゆるみたれば、ソと其懐ふところより顔をいだしてこはごは其顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり。雨風のなほはげしく外おもてをうかゞふことだにならざる、静まるを待てば夜もすがら暴通あれとほしつ。家に帰るべくもあらねば姉上は通夜つやしたまひぬ。其一夜そのいちやの風雨ふううにて、くるま山の山中さんちう、俗ぞくに九ツ谺こゝのつこだまといひたる谷、あけがたに杣そまのみいだしたるが、忽たちまち淵ふちになりぬといふ。

 里の者、町の人皆挙こぞりて見にゆく。日を経てわれも姉上とともに来り見き。其日一天いつてんうらゝかに空の色も水の色も青く澄みて、軟風なんぷうおもむろに小波さゝなみわたる淵ふちの上には、塵ちり一葉ひとはの浮べるあらで、白き鳥の翼つばさ広きがゆたかに藍碧らんぺきなる水面を横ぎりて舞へり。

 すさまじき暴風雨あらしなりしかな。此谷もと薬研やげんの如き形したりきとぞ。

 幾株いくかぶとなき松柏の根こそぎになりて谷間に吹倒ふきたふされしに山腹さんぷくの土落ちたまりて、底をながるゝ谷川をせきとめたる、おのづからなる堤防ていぼうをなして、凄まじき水をば湛たゝへつ。一ひとたびこのところ決潰けつくわいせむか、城じやうの端はなの町は水底みなそこの都となるべしと、人々の恐れまどひて、怠らず土を装り石を伏せて堅かたき堤防を築きづきしが、恰あたかも今の關谷少将せきやせうしやうの夫人姉上十七の時なれば、年つもりて、嫩ふたばなりし常磐木ときはぎもハヤ丈のびつ。草生ひ、苔むして、いにしへよりかゝりけむと思ひ紛まがふばかりなり。

 あはれ礫つぶてを投とうずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気けつきなる友のいたづらを叱り留とゞめつ。年若く面おもて清き海軍の少尉候補生せうゐこうほせいは、薄暮はくぼ暗碧あんぺきを湛たゝへたる淵に臨のぞみて粛然しゆくぜんとせり。

躑躅か丘 鎮守の社 かくれあそび あふ魔が時 大沼 五位鷺 九ツ谺 渡船 ふるさと 千呪陀羅尼 書架