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仏説無量寿経 上巻 二

(八)釈尊が阿難に仰せになる。

「そのとき法蔵菩薩は、この願を述べおわってから、次のように説いた」

 わたしは世に超えすぐれた願をたてた。
 必ずこの上ないさとりを得よう。
 この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
 わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、誓って仏にはならない。
 わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。
 欲を離れて心静かに、清らかな智慧をそなえて菩薩の修行に励み、この上ないさとりを求めて、天人や人々の師となろう。
 不可思議な力で大いなる光りを放ち、果てしのない世界をくまなく照らして、煩悩の闇を除き去り、多くの苦しむものをひろく救いたい。
 智慧の眼を開いて無明の闇をなくし、迷いの世界の門を閉じて、さとりの世界の門を開こう。
 すべての功徳をそなえた仏となって、そのすぐれた輝きはすべての世界に行きわたり、太陽も月もその光りを奪われ、天人も輝きを隠すであろう。
 人々のためにすべての教えを説き明かし、ひろく功徳の宝を与えよう。
 常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう。
 すべての仏がたを供養し、さまざまな功徳をそなえ、願も智慧もそのすべてを満たし、世界中でもっともすぐれたものとなろう。
 師の仏の何ものにもさまたげられない智慧がすべてを照らし尽すように、願わくは、わたしの功徳や智慧の力も、このもっともすぐれた仏のようでありたい。
 この願いが果しとげられるなら、天も地もそれにこたえて打ち震え、空からはさまざまな天人が美しい花を降らすであろう。

(九)釈尊が阿難に仰せになる。

「法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。
 そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、
 「必ずこの上ないさとりを開くであろう」とほめたたえた。
 ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。

 阿難よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである。
 そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。
 その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。
 このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。

 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。
 すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。
 そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。
 表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。
 ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。
 その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。

 空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。
 また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。
 国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。
 このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。

 その間、法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであり、はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた。
 あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った。
 それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。
 その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり、お姿は気高く、表情はうるわしい。
 またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した。
 これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである」

(十)阿難が釈尊にお尋ねした。

「法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。
 あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。
 それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか 」

 釈尊が阿難に仰せになる。

「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。
 その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたところにあって、名を安楽という」

 阿難がさらにお尋ねした。

「その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか」

 釈尊が仰せになる。

「さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。
 その仏の国土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・メノウなどの七つの宝でできており、実にひろびろとして限りがない。
 そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しい、そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれている。
 さまざまな宝の中でもっともすぐれたものであり、ちょうど他化自在天の宝のようである。
 またその国には須弥山や鉄囲山などの山はなく、また大小の海や谷や窪地などもない。
 しかしそれらを見たいと思えば、仏の不思議な力によってただちに現れる。
 また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく、春夏秋冬の四季の別もない。
 いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である」

 ここで阿難が釈尊にお尋ねした。

「世尊、もしその国土に須弥山がなければ、その中腹や頂上にあるはずの四天王の世界や刀利天などは、何によってたもたれ、そこに住むことができるのでしょうか」

 すると釈尊が阿難に仰せになった。

「では、夜摩天をはじめ色究竟天までの空中にある世界は、何によってたもたれ、そこに住むことができると思うか」

 阿難が釈尊にお答えする。

「それらの天界は、それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうあるのでございます」

 釈尊が仰せになる。

「それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてあるというなら、仏がたの世界もまたそのようにしてたもたれているのであり、無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいるのである。
 そこで須弥山がなくても差し支えないのである」

 阿難が申しあげる。

「世尊、わたしもそのことを疑いませんが、ただ将来の人々のために、このような疑いを除きたいと思ってお尋ねしたのでございます」

(十一)さて、釈尊が阿難に仰せになる。

「無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。

 無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどもある東の国々をすべて照らし尽し、南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下のそれぞれにある国々をもすべて照らし尽すのである。その光明は七尺を照らし、あるいは二・三・四・五由旬を照らし、しだいにその範囲を広げて、ついには一つの仏の世界をすべて照らし尽す。
 このため無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と名づけるのである。

 この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。
 もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができる。

 無量寿仏の光明は明るく輝いて、すべての仏がたの国々を照らし尽し、その名の聞こえないところはない。
 わたしだけがその光明をたたえるばかりでなく、すべての仏がたや声聞や縁覚や菩薩たちも、みな同じくたたえておいでになるのである。
 もし人々がその光明のすぐれた功徳を聞いて、日夜それをほめたたえ、まごころをこめて絶えることがなければ、願いのままに無量寿仏の国に往生することができ、菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられる。
 その後、仏のさとりを開いたときには、今わたしが無量寿仏の光明をたたえたように、すべての世界のさまざまな仏がたや菩薩たちにその光明をたたえられるであろう」

 釈尊が仰せになる。

「無量寿仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、なお説き尽すことができない」

(十二)釈尊がさらに阿難に仰せになる。

「無量寿仏の寿命は実に長くて、とてもはかり知ることができない。
 そなたもそれを知ることはできないだろう。
 たとえ、すべての世界のものがみな人間に生れて、残らず声聞や縁覚となり、それらの聖者がすべて集まって、思いを静め、心を一つにしてさまざまな智慧をしぼり、百千万劫の長い間、力をあわせて数えても、その寿命の長さを知り尽すことはできない。
 その国の声聞・菩薩・天人・人々の寿命の長さもまた同様であり、数え知ることもたとえで表すこともできない。
 また声聞や菩薩たちの数もはかり知れず、説き尽すことができない。
 それらの聖者たちは智慧が深く明らかで、自由自在な力を持ち、その手の中にすべての世界をたもつことができるのである」

(十三)釈尊が続けて仰せになる。

「無量寿仏がさとりを開かれて、最初の説法の座に集まった声聞たちの数は、数え尽すことができない。
 菩薩たちの数もまた同様である。
 目連のように神通力のすぐれたものが数限りなく集まり、はかり知れない長い時をかけて、命が尽きるまで力をあわせて数えても、その数を知り尽くすことはできない。
 それはたとえば、限りなく深く広い大海の水に対して、人が、一本の毛を百ほどに細かく裂き、その裂いた一すじの毛で一滴の水をひたし取るようなものである。
 そなたは、その一滴の水と大海の水とをくらべてどちらが多いと思うか」

 阿難がお答えする。

「その一滴の水と大海の水とをくらべようにも、量の多い少ないの違いは、測量や計算や説明や比喩などでは、とうていはかり知ることができません」

 釈尊が阿難に仰せになる。

「目連のようなものたちが、はかり知れない長い時をかけて、その最初の説法の座に集まった声聞や菩薩たちの数を数えても、知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである。

(十四)またその国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる。
 金の樹・銀の樹・瑠璃の樹・水晶の樹・珊瑚の樹・メノウの樹・シャコの樹というように一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある。

 金の樹で銀の葉・花・実をつけたものもあり、銀の樹で金の葉・花・実をつけたものもある。
 また、瑠璃の樹で水晶の葉・花・実をつけたもの、水晶の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたもの、珊瑚の樹でメノウの葉・花・実をつけたもの、メノウの樹で瑠璃の葉・花・実をつけたものもある。
 あるいは、シャコの樹でいろいろな宝の葉・花・実をつけたものなどもある。
 さらにまた、ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、メノウの花、シャコの実でできている。
 ある宝樹は銀の根、瑠璃の幹、水晶の枝、珊瑚の小枝、瑪瑙の葉、シャコの花、金の実でできている。
 ある宝樹は瑠璃の根、水晶の幹、珊瑚の枝、メノウの小枝、シャコの葉、金の花、銀の実でできている。
 ある宝樹は水晶の根、珊瑚の幹、メノウの枝、シャコの小枝、金の葉、銀の花、瑠璃の実でできている。
 ある宝樹は珊瑚の根、瑪瑙の幹、シャコの枝、金の小枝、銀の葉、瑠璃の花、水晶の実でできている。
 ある宝樹はメノウの根、シャコの幹、金の枝、銀の小枝、瑠璃の葉、水晶の花、珊瑚の実でできている。
 ある宝樹はシャコの根、金の幹、銀の枝、瑠璃の小枝、水晶の葉、珊瑚の花、メノウの実でできている。

 これらの宝樹が整然と並び、幹も枝も葉も花も実も、すべてつりあいよくそろっており、はなやかに輝いているようすは、まことにまばゆいばかりである。
 ときおり清らかな風がゆるやかに吹いてくると、それらの宝樹はいろいろな音を出して、その音色はみごとに調和している。

(十五)また、無量寿仏の国の菩提樹は高さが四百万里で、根もとの周囲が五十由旬であり、枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。
 それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼や持海輪宝で飾られている。
 枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが垂れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。
 そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。
 このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである。

 そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる。
 その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる。
 その声を聞くものは、無生法忍を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。
 このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を想い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。

 阿難よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍・柔順忍・無生法忍が得られる。
 それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願・明了願・堅固願・究竟願と呼ばれる本願の力とによるのである」

 続けて釈尊が阿難に仰せになる。

「世間の帝王は、実にさまざまな音楽を聞くことができるが、これをはじめとして、転輪聖王の聞く音楽から他化自在天までの各世界の音楽を次々にくらべていくと、後の方がそれぞれ千億万倍もすぐれている。
 そのもっともすぐれた他化自在天の数限りない音楽よりも、無量寿仏の国の宝樹から出るわずか一つの音の方が、千億倍もすぐれているのである。
 そしてその国には数限りなくうるわしい音楽があり、それらの音楽はすべて教えを説き述べている。
 それは清く冴えわたり、よく調和してすばらしく、すべての世界の中でもっともすぐれているのである。

(十六)また、その国の講堂・精舎・宮殿・楼閣などは、みな七つの宝で美しくできていて、真珠や月光摩尼のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。

 その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。
 それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水の実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露のような味をしている。
 金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。
 水晶の池には底に瑠璃の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。
 珊瑚の池には底に琥珀の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。
 シャコの池には底にメノウの砂があり、メノウの池には底にシャコの砂がある。
 白玉の池には底に紫金の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。
 また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。
 池の岸には栴檀の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。

 もしその国の菩薩や声聞たちが宝の池に入り、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、膝までつかりたいと思えば膝までその水かさを増し、腰までと思えば腰まで、さらに首までと思えば首まで増してくる。身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ、水をもとにもどそうと思えばたちまちもと通りになる。
 その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、身も心もさわやかになって心の汚れも除かれる。
 その水は清く澄みきって、あるのかどうか分からないほどであり、底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える。
 水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。

 その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる。
 あるいは仏・法・僧の三宝を説く声を聞き、あるいは寂静の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・無畏・不共法の声、さまざまな神通智慧の声、無所作の声、不起滅の声、さらに無生法忍の声から甘露灌頂の声というふうに、さまざまなすばらしい教えを説く声を聞くのである。
 そしてこれらの声は、聞くものの望みに応じてはかり知れない喜びを与える。
 つまりそれらの声を聞けば、清浄・離欲・寂滅・真実の義にかない、仏・法・僧の三宝や十力・無畏・不共法の徳にかない、神通智慧や菩薩・声聞の修行の道にかなってはずれることがないのである。

 このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである。

(一七)阿難よ、無量寿仏の国に往生したものたちは、これから述べるような清らかな体とすぐれた声と神通力の徳をそなえているのであり、その身をおく宮殿をはじめ、衣服、食べものや飲みもの、多くの美しく香り高い花、飾りの品々などは、ちょうど他化自在天のようにおのずから得ることができるのである。

 もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器がおのずから目の前に現れる。
 その金・銀・瑠璃・シャコ・メノウ・珊瑚・琥珀・明月真珠などのいろいろな器が思いのままに現れて、それにはおのずからさまざまなすばらしい食べものや飲みものがあふれるほどに盛られている。しかしこのような食べものがあっても、実際に食べるものはいない。
 ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのずから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない。
 思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる。

 まことに無量寿仏の国は清く安らかであり、美しく快く、そこでは涅槃のさとりに至るのである。
 その国の声聞・菩薩・天人・人々は、すぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。
 ただ他の世界の習慣にしたがって天人とか人間とかいうだけで、顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない。
 すべてのものが、かたちを超えたすぐれたさとりの身を得ているのである」

(一八)釈尊が阿難に仰せになる。

「さて、たとえば世の中の貧しい乞人を王のそばに並べるとしたら、その姿かたちがはたしてくらべものになるだろうか」

 阿難が申しあげる。

「いいえ、そのものを王のそばに並べたときには、その弱々しく醜いことはまったく話にならないほどであります。
 そのわけは、貧しい乞人は最低の暮しをしているものであり、服は身を包むのに十分でなく、食べものは何とか命をささえる程度しかなく、飢えと寒さに苦しんでおり、ほとんど人間らしい生活をしていないからであリます。
 すべては、過去の世に功徳を積まなかったからです。
 財をたくわえて人に施さず、裕福になるほどますます惜しみ、ただ欲深いばかりで、むさぼり求めて満足することを知らず、少しも善い行いをしようとしないで、山のように悪い行いを積み重ねていたのです。こうしてたくわえた財産も、命が終わればはかなく消え失せ、生前にせっかく苦労して集め、あれこれと思い悩んだにもかかわらず、自分のためには何の役にも立たないで、むなしく他人のものとなります。
 たのみとなる善い行いはしておらず、たよりとなる功徳もありません。
 そのため、死んだ後には地獄や餓鬼や畜生などの悪い世界に生れて長い間苦しみ、それが終ってやっと人間の世界に生れても、身分が低く、最低の生活を営み、どうにか人間として暮らしているようなことです。

 それに対して世の中の王が人々の中でもっとも尊ばれるわけは、すべて過去の世に功徳を積んだからであります。
 慈悲の心でひろく施し、哀れみの心で人々を救い、まごころをこめて善い行いに努め、人と逆らい争うようなことがなかったのです。
 そこで、命が終ればその徳によって善い世界にのぼることができ、天人の中に生れて安らぎや楽しみを受けるのであります。
 さらに、過去の世に積んだ善い行いの徳は尽きないので、こんどは人間となって王家に生れ、そのためおのずから尊ばれる身となるのです。
 その行いは正しく、姿かたちは美しくととのい、多くの人々に敬い仕えられ、美しい衣服やすばらしい食事が思いのままに得られるのであり、それはまったく過去の世に積んだ功徳によるのであります」

(一九)釈尊が阿難に仰せになった。

「まことにそなたのいう通りである。
 しかし、王は人の中でも尊ばれる身の上で姿かたちが美しくととのっているといっても、転輪聖王にくらべると、とても卑しくて見劣りがする。
 それはちょうど今乞人を王のそばに並べたようなものである。
 転輪聖王はそれほどに威厳にあふれ、この世でもっともすぐれているが、帝釈天にくらべるとまた万億倍も醜く劣っている。
 その帝釈天であっても、他化自在天の王にくらべるとまたまた百千億倍も見劣りがする。
 そしてその他化自在天の王でさえ、無量寿仏の国の菩薩や声聞にくらべると、その輝かしい容姿に及ばないことは、百千億倍ともはかり知ることができないほどである」

(二十)釈尊が続けて仰せになる。

「無量寿仏の国の天人や人々が用いる衣服・食べものや飲みもの・香り高い花・宝玉の飾り・天蓋・幡や、美しい音楽や、その身をおく家屋・宮殿・楼閣などは、すべて天人や人々の姿かたちに応じて高さや大きさがほどよくととのう。
 それらは、望みに応じて一つの宝や二つの宝、あるいは数限りない宝でできており、思いのままにすぐ現れる。
 また多くの宝でできた美しい布がひろく大地に敷かれていて、天人や人々はみなその上を歩むのである。
 その国には数限りない宝の網がおおいめぐらされており、それらはみな、金の糸や真珠や、その他、実にさまざまな美しく珍しい宝で飾られている。
 その網はあたり一面にめぐり、宝の鈴を垂れており、それがまばゆく光り輝くようすはこの上なくうるわしい。
 そして、すぐれた徳をそなえた風がゆるやかに吹くのであるが、その風は暑からず寒からず、とてもやわらかくおだやかで、強すぎることも弱すぎることもない。
 それがさまざまな宝の網や宝の樹々を吹くと、尽きることなくすぐれた教えの声が流れ、実にさまざまな、優雅で徳をそなえた香りが広がる。
 その声を聞き香りをかいだものは、煩悩がおこることもなく、その風が身に触れると、ちょうど修行僧が滅尽三昧に入ったようにとても心地よくなるのである。

(二一)また風が吹いて花を散らし、この仏の国を余すところなくおおい尽す。
 それらの花は、それぞれの色ごとにまとまって入りまじることがない。
 そして、やわらかく光沢があって、かぐわしい香りを放っている。
 その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ、足をあげるとすぐまたもとにもどる。
 花が必要でなくなれば、たちまち地面が開いて花は次々とその中へ消え、すっかりきれいになって一つの花も残らない。
 このようにして、昼夜六時のそれぞれに、風が吹いて花を散らすのである。

 またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。
 その花の放つ光には無数の色がある。
 青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。
 それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい。
 それぞれの花の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる。
 そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。
 この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくすべてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである」

仏説無量寿経 上巻 終

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