中国仏教
地理的文化的障壁 インドから中国に仏教が伝わるときに二つの大きな障壁がある。 その一つは地理的な障壁で、インドと中国の間にはヒマラヤ山脈とチベット高原という大きな山脈と、容易に踏破できない距離がある。シルクロードを経由しても、カラコルム山脈やタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠が障壁となる。 もう一つは文化的な障壁である。 両地域は太古から高度な文明が栄えた先進地域であり、独自の思想や文化が発展していた。 特に中国は中華思想というプライドを持っていた。 東夷、西戎、南蛮、北狄などと周辺諸国をよんだ国である。 そんな中国に他国の宗教であり思想である仏教が伝来し受容されたことは、仏教の普遍性と素晴らしさの証左であるだけでなく、奇跡的なことではないだろうか。 仏法東漸 ともかく、仏教が中国に伝来したのは西暦紀元前後である。 伝播した経路は、ガンダーラ(現在のパキスタンやアフガニスタン)からカラコルム山脈を越え、シルクロードを伝って中国にもたらされたのであろう。 すでに中国には道教や儒教が成立しており、中華思想の中国が他国の精神文化を受け入れるのには時間がかかったことは容易に想像できる。 当初は交易に従事した隊商や帰化人が帰依していたに過ぎないと考えられるが、1世紀中頃以後には中央の貴族・知識階層にも熱心な信者をもつようになってきた。 当初は道教や儒教の類縁であることを表明して辛うじて存在を保持し(格義仏教)、やがて仏教の勢力拡大とともにそれが修正されたが、その影響は現代までつづく。 中国で撰述された偽経(中国撰述経典)が400もあることは、中国が仏教を純粋に受け入れようとしなかった、あるいは受け入れることが不可能だったことを表している。 インド仏教学的(学術的)考察によれば、インドですら仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史という考えができる。 まして、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈、チベット高原、タクマラカン砂漠などで地理的に区切られ、距離的にも文化的も遠い中国に仏教はもたらされた。 仏教教義の変遷があるのは否めない。 そうであっても、やはり仏教は中国人の精神生活に大きな影響を与えた。 5〜6世紀にはゾロアスター教(松教)、7世紀前半にはネストリウス派キリスト教(景教)、7世紀末にはマニ教(摩尼教)など諸宗教がシルクロードを通じて中国に流入したが、仏教の存在は比較にならないほど大きい。 儒教・道教との摩擦 身体髮膚、これを父母に受く。 敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。 (『孝経 開宗明義章第一 』身體髮膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也)とあるが、沙門(出家僧侶)は髪を剃る。 また、頭髪を剃って衣冠を着けないことは中国伝統の礼に背くことである。 富や欲望を享受すべきかどうか、死後の霊魂を認めるかどうかなどで、仏教は儒教と対立する。 また、仏教の流行に儒教側では危機感を抱いていた。 また、道教のがわからも『夷夏論』(467年)などのように、仏教は夷狄の宗教で中国には相応しくないと主張された。 インド文化圏の仏教との違い インド文化圏においては、出家修行者に食物を布施する習慣がある。 また、インドにおいてはローマ帝国と交易して莫大な富を得たような豊かな商人が仏教教団を経済的にささえていた。 ところが、中国文化圏には出家者に食物を布施する風習はなく、各王朝が国家財政で仏教教団を支える比率が大きかった。 僧侶や寺院が増えるとそれだけ国家財政は逼迫し、王朝が衰退して滅んだり、また廃仏の要因ともなった。 一方、仏教の興ったインド本土や、インド西北のガンダーラ地方では仏教が滅んだのに対して、中国仏教そして東アジアの仏教は独自の姿に発展しつつも何とか生き延びている。 インドのようにイスラム教による仏教への攻撃もなく、密教化(ヒンズー化)した仏教がヒンズー教に吸収されることもなかった。 三武一宗の法難(後述)や文化大革命の法難にもかかわらず、その法灯を今も継承している。 なお、インドの伝統的仏教は上座部仏教(小乗仏教)としてスリランカ、タイなど南伝仏教として現在に伝わる。 また、インドでは原始仏教、部派仏教、初期大乗仏教(阿弥陀、初期般若、法華経など)、中期大乗仏教(中観、唯識、如来蔵)、密教と時代を経て仏教が展開したのに対して、中国では原始仏教から初期大乗仏教までが一度に伝わった。 そして、後に中期大乗や密教が伝わり、どの教えを採用してよいのか混乱をきたした。 その中から、教相判釈という中国独自の経典の体系付けが行われ、その所依の経典の違いから中国独自の宗派や信仰が生まれていった。 各時代の仏教
漢の仏教(前202-後220年) <仏教伝来の時代> 前漢の武帝(前156-前87)は匈奴をゴビ砂漠の北方へ追いやり、 仏教伝来には諸説があるが、史実の公伝としては、『魏略』の「西戎伝」に、元寿元年(紀元前2年)に現在のアフガニスタン北方の大月氏国の国王の使者である伊存から、『 昔漢哀帝元壽元年、博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰復立者其人也。 浮屠とはブッダの音写である。 また、『後漢書』巻四十二に、 これらが、文献から確認できる仏教伝来であるが、シルクロードがある以上はそれ以前から仏教や仏教徒が中国本土に来ていたと考えられる。 また、安世高による上座部仏教(小乗仏教)と支婁梼讖による初期大乗がほぼ同時に伝えられ、仏教伝来当初から混乱があったに違いない。 このことは中国で独自に経典の優劣を判ずる教相判釈(教判)による仏教へと連なる。 安世高の安は安息国の人であることを示す。 西アジアの安息国(パルティア)皇太子の地位を捨てて 中国伝道を志し建和元年(147)に洛陽に入る。 『大安般守意経』(=小乗の禅≠禅宗)『陰持入経』(三十七道品)『人本欲生経』(四諦)『四諦経』(四諦)『道地経』(止観)『転法輪経』『八正道経』など20余年の間に34部40巻を訳出した。 しかし、確実な訳経は『人本欲生経』『大安般守意経』『陰持入経』『道地経』の四部である。 なお、『道地経』の止観は天台の『摩訶止観』に影響を及ぼしたとの研究もあるそうだ。 後漢末の混乱にあい、廬山、予章を経て広州をめぐり、会稽にて乱闘に巻き込まれ殺された。 安世高の翻訳には大乗仏教の影響はみられず、伝統的な部派仏教に根ざした仏教を中国に伝えた。 支婁梼讖の支は大月氏の人であることを示す。 婁梼讖はサンスクリットのローカクシェーマ(lokarakoa)の音訳とされる。 安世高よりやや遅れて洛陽に移住した。 安世高の小乗仏教(部派仏教)に対して初めて大乗経典を漢訳したことで知られる。 『道行般若経』(最初の般若経典漢訳)『般舟三昧経』(阿弥陀仏の紹介)『首楞厳経』など初期大乗経典十四部を翻訳し、中国の知識人に強い影響を与えた。 仏教伝道者の出身国 安息国(パルティア)・・・安世高、優婆塞安玄 月支国・・・支婁梼讖、支曜、支亮 康居(ソグディアナ)・・・康孟詳、康巨 (中央アジア) 天竺(インド)・・・竺大力、曇果 魏晋南北朝時代の仏教(220-589年) 仏教は漢の時代には伝わっていたが、広く流布するまでには至っていなかった。 また、そこで行われていた仏教は格義仏教(後述)である。 中国仏教が本格的段階に入るのはこの時代からである。 この時代は中国周辺の非漢民族国家が独立し、漢民族のうちたてた中国固有の儒教よりも西方伝来の仏教を好む傾向があり、西域の僧は諸政権と結びついて伝道や訳経事業を推し進めた。 仏図澄(?-348)は庫車クチャ出身の僧侶で、30年間の布教活動で中国に893の寺院を建て、1万人の弟子がいた。 その弟子の道安(312 or 314‐385)は、中国仏教初期の格義仏教から仏教を開放した。 格義仏教とは、中国が仏教を受容する初期の段階に、仏教をそのまま受け入れずに、老子や荘子の思想を借りて仏教を解釈しようとした仏教をいう。 また、中国最大の経典翻訳者の一人である鳩摩羅什(350-409年頃)もこの時代である。 これら西域僧とその弟子の活動により中国仏教は本格的な段階を迎えた。 ただ、廃仏も行われ、北周(557‐581)の武帝の廃仏政策で受けた打撃は壊滅的であった。 三国時代 魏(220-265) 魏の首都は漢代に安世高や支婁梼讖が活躍した洛陽である。 『僧祇戒本』訳出の曇柯迦羅、出家受戒作法の『曇無徳羯麿』訳出の曇諦、授戒作法を受けた最初の中国人出家者たる朱子行、『無量寿経』訳出の康僧鎧などが活躍。 呉 (222-280) 呉の首都は建業(南京)である。 支謙(195?‐254)は大月氏の帰化人で、在俗の訳経家。 支婁梼讖の孫弟子にあたる。 洛陽で西域諸言語を学んで六ヶ国語に通じた。 後漢末の動乱を避けて長安から建業(南京)逃れ、呉の初代皇帝たる孫権の庇護を受ける。 『維摩詰経』『阿弥陀経』『法句経』『太子瑞応本起経』など49経を漢訳。 また康僧会(?-280)は康居(中央アジアのソグディアナ)出身であったが、支謙と違い出家僧であった。 剃髪した僧の出で立ちを非難され南より北上して呉に入る。 『六度集経』などを訳経。 蜀(221-263) 道教国家であった。 北朝の仏教
西晋(265‐316) 竺法護(239-316年) 西晋代の訳経僧。 中国西部から中央アジアにかけて居住した遊牧民族である月氏系帰化人の末裔で、敦煌に生れる。 西域で多くの仏典を入手し、敦煌・酒泉・長安・洛陽などで仏教経典150部以上を翻訳した。 鳩摩羅什以前の訳経では量質ともに最もすぐれている。 五胡十六国 五胡とは五つの部族で、(1) (1) 南匈奴の劉淵が304年(元熙1)西晋の内乱に乗じて建国。 洛陽を占領し、長安を攻略して西晋を滅ぼし五胡十六国の時代が始まるが、匈奴系の羯族の石勒によって併合された。 (2) 匈奴が初めて華北にうち立てた国家たる前趙の混乱に乗じて、前趙に従属していた石勒(274-333)が華北全土を制圧して建国した。 石勒は奴隷から盗賊集団の首領になり、そこから身を起こした。 石虎(在位334-349)は石勒の子である石弘を殺し帝位につくが国力は衰退し、死後は漢民族によって反乱が起きて石氏と羯族は滅ぼされた。 西域の ※カシミール出身説もある この年、すでに79歳で以後117歳になるまで天寿を全うする。 また、2m以上の長身で、華北を制圧した暴虐非道の石勒、石虎に慈悲を説く不思議な力を持った僧侶であった。 石虎は石勒以上に仏図澄を敬信した。 弟子に道安がいる。 (3) 西晋の滅亡を機に鮮卑系部族や高句麗などを制圧して遼東・遼西方面を支配し、 (4) 第3代苻堅のとき西域を含む華北全域を平定し、五胡時代には珍しい政治の安定と文化の隆盛を築いたが、東晋併呑に失敗して国家は瓦解した。 道安(312-385) 仏図澄の弟子。 毘曇宗は道安やその弟子慧遠らによって5世紀に成立したが、玄奘三蔵などが《抑舎論》などの主要論蔵を漢訳し研究して以後抑舎宗がおこり、毘曇宗はその中に解消された。 (5) 鳩摩羅什(350-409年頃) 南北朝時代初期の中国を代表するような訳経僧。 インドの貴族の血を引く父と亀茲国の王族の母との間に生れた。 最初は原始経典や小乗仏教を学んだが、やがて大乗に転向して中観派(空仏教)の諸論書を研究。 384年、亀茲国を攻略した呂光の捕虜となり、401年に後秦の姚興に迎えられて長安(西安)に入り、精力的な訳経をした。 法顕(337-422年頃) インドに遊学した中国僧としては玄奘が有名であるが、この法顕もインドに求法の旅をして訳経をした僧侶である。 399年に60余歳の老齢の身で他の僧らと長安を出発して、陸路インドへ向かった。 敦煌から西域に入り、ヒマラヤを越えて北インドに至り、インド各地やスリランカで仏典を求め仏跡を巡礼する旅をつづけた。 戒律などのサンスクリット経典をもって、海路帰国の途についたが暴風雨に遭い412年に現在の山東省にひとり無事に帰着した。 帰国後6部63巻にのぼる経律を漢訳した。 また法顕は中国西域やインドの弥勒信仰を中国に伝えた。 法顕の旅行記『法顕伝』(仏国記)は当時のインドや中央アジアの実情を伝えた貴重な資料である。 北魏(386-534) 道武帝(在位398-409)が法果を道人統(沙門統:出家した僧侶を統括する役職)としたが、その法果は皇帝に対して「我は天子を拝むに非ず、すなわちこれ仏を礼するのみ(我非拜天子 乃是禮佛耳)」という言動をした。 どうも不正常な国家仏教的様相があったようである。 北魏の仏教は栄え、寺院数3万、僧侶2百万人であった。 世祖大武帝(在位423-452)は当初仏教を保護していたが、やがて道教を信奉するようになる。 そして、魏武の法難(太武帝の廃仏)へと発展する。 法難の原因は、仏教と道教の対立もさることながら、たくさんの寺院や僧侶を抱えたことによる国家財政的な問題、僧侶の堕落という背景がある。 しかし、直接的な原因は蓋呉かいごの乱(445-446)である。 蓋呉による太武帝への反乱事件であるが鎮圧される。 その際に蓋呉に関わりのある長安の仏教寺院に武器が隠してあったことから魏武の法難の直接原因となった。 50歳以下の僧侶の還俗(438年)、僧侶の私養の禁止(444年)、仏教排斥の詔(446年)と発展する。 僧侶は殺戮され、経典は焼き捨てられた。 文成帝(在位452-465)は先帝の廃仏を改めて、仏教を興隆させた。 中心となったのは廃仏にたじろがなかった、曇曜であり、僧祇戸(粟を僧侶が長官を務める役所に納める)、仏図戸(罪人や奴隷を仏教教団の労役にあてる)が設置された。 また、文成帝の時代には高さ15mほどの五大仏をはじめとした雲岡石窟(雲崗石窟)がつくられた。 460年にはじめられ524年まで次々に石窟がつくられた。 東西1キロにわたる。 なお、五大仏は歴代皇帝に似せて作られており、法果の「我非拜天子 乃是禮佛耳」の国家仏教を引きずっているようだ。 『四分律』が北魏の法聡と慧光(468‐537)によって重視され四分律宗が成立。 ここから三派に律宗は分裂するが、相部宗と東塔宗はまもなく衰微し南山律宗のみが栄えて宋代まで伝えられる。 日本に渡ってきた唐招提寺の鑑真は南山律宗。 北斉(550-577) 僧尼四百万人、寺院数4万余と伝わり、やはり仏教は興隆していた。 北周(557-581) 周武の法難(574年)北周の武帝による仏教・道教に対する弾圧 南朝の仏教
東晋(265-420) 『十誦律』『四分律』『 ここから、律宗が成立することになる。 宋(420-479) 467年、道士の顧歓が廃仏のために『夷夏論』を著す。 仏教と道教の根本の道は究極的には一致するけれども、習俗からしても 梁(502-557) 西インドのバラモンの出身僧侶の真諦(499‐569)が梁の武帝の招きに応じ548年建康(南京)に来訪。 戦乱のために各地を転々とするが精力的に経典を訳した。 後に天台宗を開く天台大師智の父は梁の高官だった。 真諦(499‐569) divaramartha 中国の三大翻訳家のひとり。 南朝の梁・陳時代の外来僧。 名前はパラマールタを漢訳して真諦と称した。 梁の武帝の招きに応じて南京に来訪したが侯景の乱にあい、各地を転々としながら漢訳と著述に専念した。 摂論宗の祖とされる。 『金光明経』『倶舎釈論』『摂大乗論』『摂大乗論釈』『中辺分別論』『大乗起信論』など64部278巻を訳した。 ただし、『大乗起信論』は中国・日本に多大な影響を与えたが、インド成立でないとする学説がある。 陳(557-589) この時代に建康(南京)で、無名の状態から名をはせた僧侶が智(天台大師)である。 その名声は、当時の高僧、高官、皇帝にまで及んだ。 やがて天台宗に発展する。 隋の仏教 (581‐619年)
後漢以来350年ぶりの中国を統一した政権である。 隋の皇帝みずから熱心な仏教帰依者であり、仏教は積極的に保護された。 また、仏教は統治における人心 よって、保護と同時に教団への厳しい国家統制がなされた。 仏教の教理も中国の仏教として発展し、阿弥陀仏浄土信仰の新たな展開があり、法華経を重んじた天台宗の天台大師 房山石経 この時代に開始された壮大な仏教事業として房山雲居寺石経が開始されたことがあげられる。 天台大師の師匠である南岳大師慧思(515-577)は末法という時代を意識した僧侶である。 その弟子、すなわち天台大師の兄弟弟子である静オン(王+宛)(?‐639)は周武の法難(574年)による残酷な仏教弾圧などによりいよいよ末法の危機感を強くした。 経典が焼かれ、後に仏法が伝わらないことを恐れて静オンは一切経を石に刻むことを発願してた。 そこで北京南西の房山に大蔵経全部を石に刻む事業をおこした。 隋の大業年間から、唐、遼、金、そして明へと千年にわたり石に経典が刻まれた。 地下に隠された石碑は80cm×160cm(W・h)の石経が14,000以上あるという。 儒教と道教といった固有思想をもつ中華思想の国家にあって、外来思想の仏教が廃物などしばしば微妙な立場に立たされたのであろう。 時代が変わっても千年の永きにわたってこつこつ続けられた大事業は、その悲愴さを如実に語っている。 あるいは経典にも既に末法が説かれ、あるいはインドの仏教が衰退から滅亡の憂うきめに遭っていることを後に報されたのかもしれない。 なお、この石経群は日本の大蔵経の校正作業にも利用されたそうである。 天台大師(538-597) 天台宗開祖。 南岳慧思禅師に師事し、法華経と竜樹の中観教学から天台宗の教義を体系づけた。 陳と隋の皇帝の帰依を得た。 吉蔵(549-623) 六朝(南朝)末期から隋、唐にかけて活躍した僧侶。 三論(龍樹の『中論』『十二門論』、提婆の『百論』)の教学を大成した学僧。 紹興酒で有名な紹興近くの会稽にある嘉祥寺に住した。 三論やその所依の経典だけでなく、『法華経』や『華厳経』諸大乗経を講讃し注釈書を著した。 祖先は 隋の煬帝召されて揚州や長安に召され活動した。 嘉祥大師。 唐の仏教(618-907年) 唐の時代、仏教は全盛をきわめた。 玄奘三蔵は、西域やインドへの遊学し、膨大な仏典をもたらした。 76部1335巻に及ぶ経典を漢訳し、その忠実な逐語訳は〈新訳〉と称されている。 隋の時代に引き続き、生活に密着した実践的な宗教として中国独自の仏教が形成された。 浄土教の道綽と善導、南山律宗の道宣、法相宗の玄奘、禅宗の慧能、華厳宗の法蔵、密教の善無畏と不空などのすぐれた人物が輩出した。 黄金時代を迎えた仏教であったが、845年の武宗による会昌の廃仏で大きな痛手を受ける。 中国の天台宗は、典籍が不揃いになり、日本や朝鮮に典籍を復帰されるための支援を請じなければならなかった。 ・玄奘(602-664年) 洛陽付近の出身。 『倶舎論』『摂大乗論』などを学んだのち、仏教修学でおこった疑問点をインドの原典に基づいて研究しようと独力で629年に長安からインドに向かった。 遊学の主な目的は唯識のインドの原典を求めた旅行といえる。 唐の法律では国外への旅行が禁止されていたが、国禁を犯しての遊学である。 途中、吐魯蕃にあった高昌国の使者の懇請で吐魯蕃に向かい、ここで国王の大歓迎をうけ、インドへ往復する20年間の旅費などの寄進をうけた。 シルクロードを通り現在のアフガニスタンからインドに入り、中インドのナーランダー寺院にて唯識説を学び、更にインド各地の仏跡を訪ねた。 仏像8体・仏舎利150粒、梵本(サンスクリット原典)657部を携えて、645年に長安へ帰った。 帰国後、『大般若経』600巻をはじめ76部1347巻を漢訳した。 鳩摩羅什などの積極的な意訳とは違い、玄奘三蔵の翻訳は忠実に逐語訳をなす特徴をもつそうである。 玄奘三蔵の新訳経論に依拠して法相宗、抑舎宗が興った。 玄奘三蔵の旅行記『大唐西域記』は7世紀前半の中央アジアやインドを知る上に貴重な文献である。 玄奘三蔵と孫悟空で有名な『西遊記』は、13〜16世紀頃の成立と思われる。 善無畏(637‐735) Subhakarasimha 東インドの烏荼国オリッサに生まれ、幼くして国王となるが後に出家。 インドのナーランダー僧院で 師の勧めにより、カシミール、天山北路を通って716年長安にいたった。 玄宗皇帝の帰依をうけ、その勅によって興福寺南塔院西明寺に住して『虚空蔵求聞持法』を訳した。 724年洛陽大福先寺にうつり、725年『大毘盧遮那成仏神変加持経』すなわち『大日経』を弟子の一行と訳出した。 『大日経』を中心とするインドの純正密教を初めて中国に伝えた。 金剛智(671‐741) Vajrabodhi(跋日羅菩提) インド摩羅耶国の王族といわれ、ナーランダー寺に出家し律、唯識を修め、さらに竜智から金剛頂など真言密教の奥旨を受けた。 のち唐への伝導を決意、海路により720年長安に達し20年の間の訳経のかたわら密教の普及につとめ、玄宗の勅命により大慈恩寺に住した。 のち洛陽に没した。 『金剛頂瑜伽中略出念誦経』訳出は金剛界系密教の基礎となった。 五代十国時代の仏教(907-960年) 唐が滅び、宋が再び中国を統一するまでを五代十国時代という。 中国北部では後梁(907‐923)、後唐(923‐936)、後晋(936‐946)、後漢(947-950)、後周(951‐960)の5つの王朝が興亡したので五代という。 また、その他の地域に前蜀(891‐925)、後蜀(934‐965)、呉(902‐937)、南唐(937‐975)、呉越(907‐978)、ビン(909‐945)、草南(907‐963)、楚(907‐951)、南漢(909‐971)、北漢(947‐950)などが併存したので十国という。 中国仏教の四大法難の一つである、唐代の会昌の廃仏(845年)の大きな打撃があったものの、華北では後梁の太祖(大明節の行香)、後唐の荘祖(誕節の千僧斉)、後晋の高祖(国忌の行香)、後周の太祖(誕節の行香)はそれぞれ仏教行事を修した。 その他の地域でも、呉越の杭州、南唐の金陵(南京)、ビンの福州で仏教が隆盛となる。 後周の法難とその後 唐代の会昌の廃仏(845年)の大法難に引き続き、後周の世宗による廃仏(955年)の大法難(後周の法難)が起こり中国の仏教教団は激しい痛手を受けた。 三武一宗の法難※1という中国における四大法難の最後の激しい法難である。 それまでの3つの大法難と比して特徴的なことは国家財政※2が逼迫したために引き起こされた。 三千三百余寺が廃寺となった。 このような法難によって、中国仏教は禅宗と浄土教に収斂してゆき、他の宗旨は衰えていく。 禅宗や浄土念仏宗が復興しやすいのは、具体的でわかりやすい修行の実践があるからである。 一方、中観や唯識のように難解な学問を説いたり、凡人にはなしえないような修行をする宗旨は、民衆の支持を得られにくく、一度法脈が断たれると復興が難しい。 よって、禅や浄土に融合してゆく。 あるいは、観音信仰など現世利益的な仏教が民衆によって信仰されていく。 ※1 中国の四大法難(廃仏) 「三武一宗の法難」 (三武一宗は皇帝の名前から) (1)魏武の法難(446年) 北魏の太武帝による道教の立場からの7年間の仏教弾圧 (2)周武の法難(574年) 北周の武帝による仏教・道教に対する弾圧 (3)会昌の法難(845年) 唐の武宗による仏教や外来宗教の弾圧 (4)後周の法難(955年) 後周の世宗による仏教弾圧 ※2 仏教と国家財政 仏教僧侶は租税と兵役が免除されていた。 また、国家などが寺院の財政的な面倒をみているすればどうだろう。 僧侶あふれて寺が増えると国家財政や国力にも影響を与える。 また、徴兵免除や食べるに困らないといった安易な動機による出家も増えて、堕落した僧侶も増えてしまう。 為政者の側からだけでなく一般民衆からの批判もあったようである。 宋の仏教(960-1279年) 宋の太祖は建国と同時に廃仏停止を命じた(960)。 また、訳経院や印経院を建立した。 法難によって弾圧された仏教を復興させ禅宗と浄土宗双方が隆盛となる。 とくに浄土念仏と他宗の融合では禅浄双修(禅と浄土)、台浄双修(天台と浄土)、戒浄双修(律宗と浄土)といったように各宗を融合してゆく。 同時に、現世利益的な信仰が民衆の心をつかみ四大霊場※への巡礼が流行してゆく。 この時代の特記すべきこととして木版印刷による最初の大蔵経の印刷がある。 『蜀版大蔵経』と呼ばれ、日本や高麗(朝鮮)などの近隣諸国にも贈与された。 ※ 四大霊場
普陀山 観音菩薩 浙江省普陀県舟山群島 五台山 文殊菩薩 山西省五台県 峨眉山 普賢菩薩 四川省峨眉県 九華山 地蔵菩薩 安徽省青陽県 高麗(朝鮮)の諦観法師が入宋(961)、天台山に天台典籍をもたらし『天台四教儀』を著す。
それまで中国になかった五時八教にまつわる新しい教判が中国・日本の天台宗にもたらされる。 遼の仏教(916〜1125年) 契丹族が中国東北部を中心に建てた国。 固有のシャマニズムを重んじた一方で、仏教も導入され上華厳寺・下華厳寺などの寺院が建築された。 歴代皇帝は仏教を保護し、仏教は隆盛をきわめたものの、仏教保護のために国費をついやして財政難を招いた。 『契丹大蔵経』が刊行され、隋の煬帝の時代から続く房山雲居寺石経の事業も続けられた。 華厳経が研究され、王朝末期には律が行われた。 金の仏教(1115-1234年) 遼・北宋を滅ぼし、東北・内モンゴル・華北を支配した国。 建国当初は遼の仏教をうけついだが、やがて北宋を滅ぼしてからは宋の仏教を継承し禅のが流行した。 金の歴代皇帝も仏教を尊崇し保護したが、遼のように仏教保護で国家財政を圧迫しないように造寺造塔などはほどほどになされた。 特筆すべきは、金刻大蔵経の印行(印刷・発行)である。 それは35年にわたる大事業で、その後の仏教界に大きな貢献をした。 また、一般には北宋初期からの風潮で仏教、儒教、道教の三教融合の思想が行われた。 元の仏教(1271-1368年) 元は中国から地中海にわたる大帝国である。 よって、その地域にはイスラム教やキリスト教を含むたくさんの宗教がある。 三武一宗の法難以後の傾向として、中国圏では禅と浄土が隆盛であり、禅宗が保護された。 その一方で特筆すべきはチベット仏教が盛んになったことである。 元がチベットに侵攻(1239)した。 元軍は引き上げるに際して、使者をよこすように言い残した。 そしてその使者に選ばれたのが、当時のチベット仏教界随一の学者のサキャ・パンディタである。 サキャ・パンディタは、まだ幼少だったドゴン・パクパを伴い交渉に赴く。 後にその、ドゴン・パクパは元朝のフビライの帝師にまでなる。 以後、明や清の朝廷にもチベット仏教は微妙な影響力を行使することがあった。 明の仏教(1368-1644年) 歴代皇帝は仏教を保護してていたが、逆に統制もした。 教学や教団などに大きな発展や展開はなかったが、やはり禅と浄土教が隆盛であった。 三武一宗の法難以後の宗派が融合する傾向が更に強くなる。 また、知識人のあいだに居士仏教が盛んとなる。 |