初期大乗

初期大乗の定義
 初期大乗とは、大乗仏教の興起の西暦紀元前後から龍樹(150-250頃)までをいいます。
 『法華経』、『般若経』(初期)、『阿弥陀経』など日本に縁の深い経典が成立した時期でもあります。

初期大乗興起の背景と理由
 上座部仏教(小乗仏教)は、教学の体系化という業績にとどまらず、その教学は良い意味では深化し、大乗仏教もそれを継承します。
 しかし、悪い意味では煩瑣なものとなってゆきます。仏教は当初から、出家による出家のための仏教という様相がありましたが、それが単なる出家仏教というより、碩学の碩学のための碩学の仏教となってしまったのです。
 碩学の出家修行者のみでしか、語り伝えられないくらいに複雑で難しいものとなり、それ以外のものが蚊帳の外になってしまったのです。それに対して、異を唱えた仏教徒の運動が大乗仏教となります。
 出家は当時のインドであっても全ての人にできることではありません。
 しかし、仏教の最終目標である苦しみからの解脱、あるいは成仏は出家に限って成就されると考えられていました。
 かといって、すべての人が出家できるわけではありません。
 自分が出家しても、家族が食べてゆける者しか出家できないことになっていました。そして、出家には相応の覚悟を必要とします。
 また、国民全てが出家して乞食(こつじき)の生活をしてしまえばその国の経済は成り立ちません。
 出家の叶わぬ凡夫が、在家の凡夫のまま仏教の究極の理想を極められるような・・・いわばあつかましい運動、それが大乗仏教興起の端緒です。また、そもそも歴史上のお釈迦様は対機説法で系統的に教義を説くようなことはされなかったようです。
 部派仏教各派が教義を固定して明文化するとどうしても矛盾が生じたようです。このことは、龍樹の小乗仏教批判の論拠となります。

初期大乗の端緒

仏塔信仰起源説
 初期大乗仏教の興起は仏塔信仰に求められます。
 お釈迦様の入滅後、火葬されたお釈迦様の遺骨は分骨され丁重に埋葬されました。
 そこには、ストゥーパ(卒塔婆)という仏舎利塔が建立され、仏教徒に限らず民衆の篤い信仰を集めました。
 やがて、そのストゥーパを管理しあるいはストゥーパ参詣者をガイドをする法師という人たちが出現してきます。
 正規の僧侶は墓守やガイド役などをしませんでしたので、彼らは在家でした。
 そんな彼らの中から興ってきたのが、初期の大乗仏教ではないかといわれています。

大衆部起源説
 一方で、旧来より大乗仏教は大衆部から興ったという説があります。
 大衆部の教義で大乗仏教に影響を与えた考え方に次のようなものがあるそうです。
・客塵煩悩(心性本浄)
 客塵煩悩(agantuka-klesa)は、煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものだという説。塵をのぞけば本来の清らかな心が現れるという説は、後の如来蔵思想で強調されれる。
・願生説
 菩薩が衆生を救うためにあえて願って苦しい生存に生まれるという説です。
 文殊師利菩薩や弥勒菩薩などは、本当であればこの娑婆世界に仏以外の姿で生まれる必要のない菩薩かもしれません。しかし、私たち衆生を哀れむためにあえて菩薩として苦しみに満ちた私たちの娑婆世界に出現されたということを講義で伺ったことがあります。
 これが、願生説です。
・仏陀論
 大衆部には仏陀の実は常住という説があり、その思想は大乗の阿弥陀仏(無量寿仏)や『法華経』の久遠実成の釈迦牟尼仏などに展開していったと考えることができます。

大乗仏教興起について言及した論文
 前田慧雲 「大乗佛教史論」 大衆部起源説 明治36年
 水野弘元 「大乗経典の性格」特定部派に起源を求めるべきでない 昭和29年 宮本正尊編「大乗佛教の成立史的研究」所収
 平川 彰 「初期大乗佛教の研究」 仏塔起源説 昭和43年

初期大乗の経典
 初期大乗の経典の代表的なものは、『阿弥陀経』『般若経』『法華経』です。
 おそらく、この順番で成立したものと思われます。ただし、『般若経』の経典グループには7世紀頃に成立したものもあります。
 ここでいう『般若経』は初期(紀元前後)に成立したものをさします。どちらにしても、現在日本で重宝されている、阿弥陀仏の西方極楽浄土の仏教、般若仏教、法華仏教の経典がこの頃成立したということで、日本と初期大乗仏教は縁が深いです。
 初期大乗経典を初めて漢訳したのは後漢の支婁迦讖(しるかせん)です。
 支婁迦讖が西暦179年に訳した『道行般若経』『般舟三昧経』『首楞厳経』などが、中国の知識人に大きな影響を与えたそうです。
 ともかく、初期大乗経典の『般若経』『阿弥陀経』が2世紀後半に訳されています。
 現存する『法華経』の漢訳に関しては、西暦286年の竺法護訳による『正法華経』まで待たねばなりません。
 実際、漢字文化圏に広く流布した鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』は西暦406年の漢訳です。

大乗と小乗の違い
 小乗仏教 出家中心 仏といえば釈迦牟尼仏をさす 最高の目標は煩悩を断じつくした阿羅漢となること 自利的 自らの覚りを求める(必ずしも自利ばかりではない) 菩薩は成道(悟る)まえの釈迦牟尼仏

 大乗仏教 出家・在家に共通した教え 多くの仏を説く 最高の目標は仏となること 利他的 利他があってはじめて自らの覚りがある  菩薩は在家を含め仏になることを目指すもの全てをさす

龍樹と空(中観)

龍樹
 龍樹は西暦150〜250年頃の人で、ナーガールジュナ(Nagarjuna)といいます。
 デカン高原のクリシュナ川流域にナーガルジュナコンダ Nagarjunakonda(ナーガルジュナサーガル Nagarjuna Sagar)という地名があり、そこに有名な仏教遺跡がありますが、そこの出身ともいわれます。
 インドのバラモン(婆羅門)の学問をすべて習得したのち仏教に転向して、当時の上座部仏教と初期大乗仏教とを学んで大乗仏教に傾倒し、あまたの諸経典に通暁し、初期般若経典の空をもって大乗仏教の地位を確立した大論師です。

龍樹出現の意義
 龍樹の功績はなんといっても、大乗仏教を体系づけ、理論武装して伝統的な小乗仏教に比肩するに値するものとならしめたことにあります。龍樹の出現がなければ、大乗仏教はただの異端な在俗信徒による俗信に留まっていたかもしれません。

龍樹の教学
 龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、般若経の「空」の解釈により深め体系化しました。
 その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼします。
 龍樹以後の大乗仏教は多かれ少なかれ彼の影響下にあり、龍樹は八宗の祖とたたえられます。
 ただし、その仏教は在俗信徒をも含めた在家仏教的な初期大乗を、出家仏教にならしめてしまったという面があります。
 さらには、上座部仏教の煩瑣な教理に対峙していた大衆的で平易な初期大乗を、煩瑣で難解なものにしてしまったかも知れません。


 「空」のサンスクリットの原語は sunya であり、欠如という意味です。
 また、インド人が発見した0(ゼロ)という数字を表します。
 当初の仏教経典では単に「空虚」や「欠如」という意味に用いられていたようです。
 紀元前後に『般若経』が成立する以前には、「空」が仏教の中心思想であるような主張はないそうです。
 初期大乗の『般若経』が成立しだすと、『般若経』は上座部仏教(小乗仏教)を批判します。
 上座部仏教の固定化した型に対して、「空」の立場から批判するのです。また、『般若経』では何ものにもとらわれない「空」の立場に立ち、またその境地に至るための菩醍の行(六波羅蜜)の実践を説きます。その中でも般若波羅蜜の体得が強調されます。
 龍樹はこれを受けて、空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの部派仏教の思想がその原理を固定化・実体化すると矛盾に陥ることを示して論破しています。すべてのものは実体がなく空である(無自性)という立場を表明しています。

龍樹の著作
 主著は『中論』(『中頌』 大正新脩大藏經 30巻1頁)です。
 また、『大智度論』『十住毘婆沙論』『十二門論』などは有名で、中国や日本に重要な影響を与えました。
 しかし『大智度論』『十住毘婆沙論』『十二門論』は、漢訳のみしか存在せず、真作であるかどうか疑われています。
 なお、真作としては、『廻諍論』(大正新脩大藏經 32巻13頁)『空七十論』『広破論』があります。

龍樹の逸話
 龍樹が出家する前に、隠身の術により仲間とともに宮中の美女のいる後宮(こうきゅう)に忍び込んで快楽を尽くしました。
 しかし、対策を講じた王により、忍び込んだ4人のうち龍樹を除く3人が即死する結果となり、欲望は苦の原因であると悟って出家したということが、鳩摩羅什訳の『龍樹菩薩傳』(大正新脩大藏經50巻184頁)の前半にあります。

龍樹と中国仏教
 龍樹の中観仏教を中国にもたらしたのは、訳経者として著名な鳩摩羅什(350-409頃)です。この系統から三論宗が成立しました。
 この鳩摩羅什は、『坐禅三昧経』『阿弥陀経』『大品般若経』『法華経』『維摩経』『大智度論』『中論』などを訳している名訳者です。
 ただ、その訳経には般若経典に関わりのない『法華経』にすら中観派の思想が混入しているという指摘もあります。
唯識
 グプタ王朝期(320‐550年)のインドに「唯識」という仏教思想が生まれました。
 空の思想を受けつつも、一切が空であるという龍樹の中観派に対し、一切は空にあらずという主張をしました。
 その開祖は、無著、世親という兄弟です。弥勒菩薩の説法を無著が聴き伝えるという神秘的な方法により説かれます。
 仏教史に明るくなくとも、孫悟空の話を知っていれば玄奘三蔵をごぞんじでしょう。
 この玄奘三蔵は唯識仏教を求めて天竺(インド)に旅をしました。その系譜は法相宗として日本の法隆寺に伝わります。

弥勒菩薩と無著・世親
 無著と世親は、ペシャワール(パキスタン)のバラモンの家に生まれた兄弟です。
 兄の無著は部派仏教最大の説一切有部にて出家しますが、それに満足せず神通力で兜率天の弥勒菩薩に会い、大乗仏教の空の思想を学びます。無著の要請で弥勒菩薩は地上に下りて『瑜伽師地論』他を説いたとされます。
 弟の世親も説一切有部にて出家し、説一切有部の教義を集大成した『倶舎論(阿毘達磨倶舎論)』を著します。
  『倶舎論』=『阿毘達磨倶舎論』 倶舎とは、「いれもの」や蔵の意味。アビダルマ(仏教の論書)の教義がすべて入っている論書の意味。説一切有部の教理の行き過ぎた点を、経量部の立場から批判している。経量部は説一切有部から最後に分裂した部派。
 やがて、兄の無著に説得されて大乗に転向し、唯識仏教の開祖の一人となりました。

唯識の空
 龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、「一切は空である」と認識する心のみは存在しなくてはならないと唯識は考えます。

八識
 唯識では、六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識・阿頼耶識を独自に加えます。
 末那識とは深層に働く自我執着心のこと。
 阿頼耶識のアラヤ(alaya)とは住居・場所の意味で、個人存在の根本にある認識作用をいいます。

唯識派の展開
 ・弥勒菩薩の説法を聴いたとされる無著とその弟の世親によって唯識は誕生
 ・徳慧(Gunamati) → 安慧(Sthiramati)の系譜
 ・護法(Dharmadivala) → 戒賢(Silabhadra) → 玄奘三蔵 → 慈恩大師 → 法相宗 → 日本へ
 ・真諦(divaramartha) → 摂論宗 → (消滅)

唯識を説く経典
 『大乗阿毘達磨経』 (正体不明?) 『解深密経』

唯識の論書
 『唯識三十論』 世親 『中邊分別論』 世親 『成唯識論』  玄奘三蔵

如来蔵思想

如来蔵思想の成立
 如来蔵思想は2〜3世紀頃にインドで成立した大乗仏教の思想の一つであり。
 『阿弥陀経』『般若経(初期)』『法華経』などの初期大乗仏教に対して、こちらは中期大乗仏教と分類される。
 初期大乗を『般若経』の空をもとに体系化したのは中観仏教の龍樹(150-250年頃)である。
 その龍樹と同じころに如来蔵思想が成立した。

如来蔵思想とは
 如来蔵の原語(サンスクリット)は tathagata-garbha で如来を胎児として宿すものという意味である。
 すべての衆生は如来を胎児として蔵(やど)しているという主張である。
 如来蔵思想は『如来蔵経』に始まり『不増不減経』『勝鬘経』によって継承され、『宝性論』にいたって組織体系化されたとされる。
 また、大乗の『涅槃経』では如来蔵を仏性ということばで表現し、その「一切衆生悉有仏性」の経文は有名。
 これらの思想は、後の密教の成立に大いに寄与し、また中国や日本の仏教に深い影響を与えた。

『法華経』と如来蔵思想
 初期大乗仏教の『法華経』でも「若有聞法者 無一不成佛」(方便品第二)とあり、「其中衆生 悉是吾子」(譬喩品第三)とある。
 『法華経』にはすでに、法華経を聞けば成仏しないということはなく、すべての衆生は仏の子供で、すなわち仏の遺伝子を持っていると説くのである。そこに、如来蔵の萌芽をみなくもないが『法華経』を如来蔵経典ではない。
 『法華経』の場合は『法華経』を聞かなければ「無一不成佛」ではなく、衆生が悉く仏の子だと表明しても、それが既に仏であるとか仏をやどしているとは表明していない。たとい聞法や小善といったことでも菩薩行を要求する。
 また『妙法蓮華経方便品第二』の五千帰去は、『法華経』の聞法すらしない者を「退亦佳矣」と退けている。ただ、『法華経』の一切衆生に対して平等に成仏の可能性を説く立場や、仏子という考え方は、如来蔵思想に影響は与えたかも知れない。

小乗仏教からの影響
 如来蔵思想はまた部派(小乗)仏教の大衆部にある客塵煩悩(agantuka klesa)の考え方が影響していると想像できる。
 煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものだという説である。

在纏位の法身
 如来蔵は如来を如来たらしめている本性として法身(永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏の姿)にほかならず、ただそれが煩悩を纏っているため、まだ如来のはたらきを発揮出来ない状態にあるという考え方。すなわち、人間の本性は完全な仏であり、煩悩に覆われているから仏と成らないだけであり、煩悩という塵の層を除けばそこに完全な仏があるという考え方。
 これが仏教として容認できるものなのかどうか。この思想により最低限の簡単な修行や規範もおざなりにされないか。
 検証が必要である。

如来蔵思想は仏教か
 この件については、中古天台本覚思想を含めて
  松本史朗 「縁起と空―如来蔵思想批判」 如来蔵思想は仏教にあらず
  袴谷憲昭 「本覚思想批判」などに詳しい。
 日本では如来蔵思想が「本覚思想」として仏教の本質をあらわすものと誤解されてきた。
 それはつい最近までにも色濃くあり、いまだにそのことに固執する教団や僧侶が少なくない。
 無理もないことである。日本の仏教宗派の多くは鎌倉仏教であり、それらの開祖は比叡山で勉学した。
 そのころの比叡山は、中古天台本覚思想が蔓延している時期である。たとえ祖師が本覚思想に染まらなくても、その後の弟子たちが本覚思想にとっぷりつかり、祖師に仮託した偽書をあらわすということも行われた。
 そして、それにまつわる口伝が一子相承によって相伝されて来て、未だにその呪縛を信念としているむきもある。あまりにも、東アジアに影響を与えた思想であり、この問題は現代までの日本仏教や今後の仏教のあるべき姿を考える上で大変重要なことである。

密教

密教とは
 密教が成立し体系化されたのは、お釈迦様の入滅後1000年以上も経た7世紀のことである。
 密教はそれまでの顕教、すなわち明瞭な言葉で説く通常の仏教に対し、非公開な秘密の教義と儀礼を、師匠から弟子へと秘密裏に伝え持とうとする仏教である。神秘主義を好むインドにあって、当初の仏教は神秘主義を排除したといえる。
 ところが、この密教はインド古来のバラモン教の神秘主義的な要素を仏教に取り入れたものだ。
 秘密裏の相承形態もバラモン教の特徴である。

歴史的背景
 初期の仏教においては神秘的なものを排除しつつも、神々による不思議な力というものは認めていた。
 やがて、初期大乗時代に成立した『般若経』『法華経』などにも一部に呪文が登場する。
 2〜3世紀頃になると呪文を中心とする単独の除災経典も成立する。6世紀までのこれら密教への発展過程ととらえるむきもある。
 しかし、何故インド仏教は密教化しなくてはならなかったのか。
 クシャーナ王朝(1世紀半ば〜3世紀前半)までのインドでは仏教は盛んだった。
 その時代は東西貿易でローマ帝国より莫大な金が流入して経済は栄えていた。しかし、中央集権的にインド全体を統一したグプタ王朝(320‐550年頃)はヒンズー教を国教にしたので、仏教はそれなりの勢力を保持しつつも苦難の時代を迎える。
 さらに、西ローマ帝国の衰退と滅亡(476)により東西貿易が衰退し経済は衰退した。
 それにともない、仏教を支えた商業資本とそのギルドは衰退した。
 相対的に王権が強くなり、宗教上もその統制力が強くなる。
 都市のギルドの弱体化によって、相対的に農村に基盤をおくヒンズー教が優勢となり、やがて圧倒的となる。
 国王も彼らバラモンの意見を聞かざるを得ない状況となり、あるいは積極的にバラモンを利した。
 ヒンズー教が圧倒的になり仏教はその影響を受けた。
 また、ヒンズー教が圧倒的な社会となったため、仏教には適応策が必要となった。
 そして、ヒンズー教に妥協し、その民間信仰を受け入れざるをえなくなった。

インド仏教滅亡へ
 仏教はヒンズー教の一派のタントリズム(Tantrism タントラ教)の秘密の教義体系を受け入れた。
 それが密教となる。密教は呪文(真言・陀羅尼)、手の印相、曼荼羅を用いて修行の目的を達成しようとした。
 教義、儀礼は秘密で門外漢には伝えない特徴をもつ。これはヒンズー教化した仏教である。
 その結果、ヒンズー教の要素が増えて、ヒンズー教との区別がつかなくなってきた。
 それはインドで仏教が滅亡する致命的な原因の一つとなってしまう。
 7世紀に至って『大日経』『金剛頂経』といった体系的な密教経典が成立する。
 そして、宗教体験の絶対世界を象徴的に表現する曼荼羅が生み出される。
 それ以後のインド仏教は密教が盛り上がるのであるが、12世紀末頃を最後にインド仏教は消滅してしまう。
 イスラム教により滅ぼされたということも理由ではあるが、仏教が密教化したこともインド仏教滅亡の大きな理由だ。
 仏教の密教化は、言い換えれば仏教のヒンズー教化である。ヒンズー教の側でも仏祖のお釈迦様をクリシュナ神の化身として崇めたりするものだから、仏教の存在意義がなくなったのではないだろうか。

密教の問題点
 歴史的には仏教発展の最終モデルともいえなくはない。
 しかし、その密室の相承や秘密の教義は時として危険な教義の発生や儀礼を実践することも可能にしてしまった。
 密教はインドでおこったもののお釈迦様の入滅後1000年以上経ってからの成立である。
 仏教が発展した最終モデルであると同時に、お釈迦様から最も遠い教えであることは事実であろう。
 展開には良い面と悪い面が有ると思う。
 良い面は、お釈迦様の入滅後1000年以上経ってからの仏教であっても取り入れるべきである。
 しかし、良くない面は捨てなくてはならない。そもそも、歴史上のお釈迦様は秘密の一子相承などしただろうか。
 それは長男か信頼できる弟子にしか相伝しなかったウパニシャッドの哲人の相承形態ではないか。
 歴史上のお釈迦様は秘密の儀式や修法などしただろうか。お釈迦様は伝統的なインドの古代宗教にとらわれず、自由な思索によって、生きるうえで避けて通れない苦しみという問題に対して教えを説かれたのである。
 その仏教の原点にたちもどって、密教を検証しなくてはならない。