西土往来(欧洲旅行前及び旅中の詩廿九章)

  別離

退船たいせんの銅鑼どらいま鳴り渡り、
見送みおくりの人人ひとびと君を囲めり。
君は忙せはしげに人人ひとびとと手を握る。
われは泣かんとはづむ心の毬まりを辛からくも抑おさへ、
人人ひとびとの中を脱けて小走こばしりに、
うしろの甲板でつきに隠かくるれば、
波より射返いかへす白きひかり墓の如ごとし。

この二三分………四五分の寂さびしさ、
われ一人ひとりのけ者の如ごとし、
君と人人ひとびととのみ笑ひさざめく。
恐らく遠く行く旅の身は君ならで、
この寂さびしき、寂さびしき我ならん。

退船たいせんの銅鑼どら又ひびく。
残刻ざんこくに、されどまた痛快に、
わが一人ひとりとり残されし冷たき心を苛さいなむその銅鑼どら……

込み合へる人人ひとびとに促され、押され、慰められ、
我は力なき毬まりの如ごとく、ふらふらと船を下くだる。
乗り移りし小蒸汽こじようきより見上ぐれば、
今更に熱田丸あつたまるの船梯子ふなばしごの高さよ。
ああ君と我とは早くも千里万ばん里の差………

わが小蒸汽こじようきは堪へかねし如ごとく終つひに啜すゝり泣くに………
一声いつせい、二声にせい………
千百せんびやくの悲鳴をほつと吐息に換へ、
「ああなつかしや」と心細きわが魂たましひの、
臨終いまはの念の如ごとくに打洩うちもらす熱あつき涙の白金はくきんの幾滴いくてき………

君が船は無言のままに港を出づ。
船と船、人人ひとびとは叫びかはせど、
かなたに立てる君と此処ここに坐すわれる我とは、
静かに、静かに、二つの石像の如ごとく別れゆく……
(一九一一年十一月十一日神戸にて)

  別後べつご

わが夫の君海に浮うかびて去りしより、
わが見る夜毎よごとの夢、また、すべて海に浮うかぶ。
或夜あるよは黒きわたつみの上、
片手に乱るる裾すそをおさへて、素足のまま、
君が大船おほふねの舳先へさきに立ち、
白き蝋燭らふそくの銀の光を高くさしかざせば、
したゝる蝋らふのしづく涙と共に散りて、
黄なる睡蓮すいれんの花となり、又しろき鱗うろこの魚うをとなりぬ。
かかる夢見しは覚めたる後のちも清清すがすがし。

されど、又、かなしきは或夜あるよの夢なりき。
君が大船おほふねの窓の火ややに消えゆき、
だ一つ残れる最後の薄き光に、
われ外そとより硝子がらすごしにさし覗のぞけば、
われならぬ面おもやつれせしわが影既に内うちにありて、
あはれ君が棺ひつぎの前にさめざめと泣き伏すなり。
「われをも内うちに入れ給たまへ」と叫べど、
そとは波風の音おどろしく、
うちはうらうへに鉛の如ごとく静かに重く冷たし。
泣けるわが影は
氷の如ごとく、霞かすみの如ごとく、透きとほる影の身なれば、
わが声を聴かぬにやあらん。

われは胸も裂くるばかり苛立いらだち、
扉の方かたより馳せ入らんと、
たび五いつたび甲板でつきの上を繞めぐれど、
皆堅く鎖とざして入るべき口も無し。
もとの硝子がらす窓に寄りて足ずりする時、
第三のわが影、艫ともの方かたの渦巻く浪なみにまじり、
青白く長き手に抜手ぬきできつて泳ぎつつ、
「は、は、は、は、
 そは皆物好きなるわが夫の君のわれを試めす戯れぞ」
と笑ひき。
覚めて後のち、我はその第三の我を憎みて、
ひと日腹だちぬ。


  ひとり寝

良人をつとの留守の一人ひとり寝に、
わたしは何なにを著て寝よう。
日本の女のすべて著
じみな寝間著ねまきはみすぼらし、
非人ひにんの姿「死」の下絵、
わが子の前もけすさまじ。

わたしは矢張やはりちりめんの
夜明よあけの色の茜染あかねぞめ
長襦袢ながじゆばんをば選びましよ。
重い狭霧さぎりがしつとりと
花に降るよな肌ざはり、
女に生れたしあはせも
これを著るたび思はれる。

はすに裾すそく長襦袢ながじゆばん
つい解けかかる襟もとを
軽く合せるその時は、
なんのあてなくあこがれて
若さに逸はやるたましひを
じつと抑おさへる心もち。

それに、わたしの好きなのは、
白蝋はくらふの灯にてらされた
夢見ごころの長襦袢ながじゆばん
この匂にほはしい明りゆゑ、
君なき閨ねやもみじろげば
息づむまでに艶なまめかし。

児等こらが寝すがた、今一度、
見まはしながら灯をば消し、
寒い二月の床とこのうへ、
こぼれる脛はぎを裾すそに巻き、
つつましやかに足曲げて、
夜著よぎを被かづけば、可笑をかしくも
君を見初みそめたその頃ころ
娘ごころに帰りゆく。

旅の良人をつとも、今ごろは
巴里パリイの宿のまどろみに、
極楽鳥の姿する
わたしを夢に見てゐるか。


  東京にて

わたしはあまりに気が滅入めいる。
なんの自分を案じましよ、
君を恋しと思ひ過ぎ、
引き立ち過ぎて気が滅入めいる。

「初恋の日は帰らず」と、
わたしの恋の琴の緒
その弾き歌は用が無い。
昔にまさる燃える気息いき

昔にまさるため涙。
人目をつつむ苦しさに、
鳴りを沈めた琴の絃いと
じつと哀かなしく張り詰める。

巴里パリイの大路おほぢを行く君は
わたしの外ほかに在るとても、
わたしは君の外ほかに無い、
君の外ほかには世さへ無い。

君よ、わたしの遣瀬やるせなさ、
三月みつき待つ間に身が細り、
四月よつきの今日けふは狂ひ死
するかとばかり気が滅入めいる。

人並ならぬ恋すれば、
人並ならぬ物おもひ。
れもわたしの幸福しあはせ
思ひ返せど気が滅入めいる。

昨日きのふの恋は朝の恋、
またのどかなる昼の恋。
今日けふする恋は狂ほしい
真赤まつかな入日いりひの一ひとさかり。

とは思へども気が滅入めいる。
しもそのまま旅に居て
君帰らずばなんとせう。
わたしは矢張やはり気が滅入めいる。


  図案

久しき留守に倚りかかる
君が手なれの竹の椅子いす
とる針よりも、糸よりも、
女ごころのかぼそさよ。

ひざになびいた一ひとひらの
江戸紫に置く繍ぬひは、
ひまなく恋に燃える血の
真赤な胸の罌粟けしの花。

花に添ひたる海の色、
ふかみどりなる罌粟けしの葉は、
君が越えたる浪形なみがた
流れて落ちるわが涙。

さは云へ、女のたのしみは、
わが繍ふ罌粟けしの「夢」にさへ
花をば揺する風に似て、
君が気息いきこそ通かよふなれ。


  旅に立つ

いざ、天てんの日は我がために
きんの車をきしらせよ。
颶風あらしの羽はねは東より
いざ、こころよく我を追へ。

黄泉よみの底まで、泣きながら、
頼む男を尋ねたる
その昔にもえや劣る。
女の恋のせつなさよ。

晶子や物に狂ふらん、
燃ゆる我が火を抱きながら、
あまがけりゆく、西へ行く、
巴里パリイの君へ逢ひに行く。
(一九一二年五月作)

  子等に

あはれならずや、その雛ひな
荒巌あらいはの上の巣に遺のこし、
恋しき兄鷹せうを尋ねんと、
颶風あらしの空に下りながら、
ひなの啼く音にためらへる
若き女鷹めだかの若しあらば。――
それは窶やつれて遠く行
今日けふの門出の我が心。
いとしき児らよ、ゆるせかし、
しばし待てかし、若き日を
なほ夢を見るこの母は
が父をこそ頼むなれ。


  巴里より葉書の上に

巴里パリイに著いた三日目に
大きい真赤まつかな芍薬しやくやく
帽の飾りに附けました。
こんな事して身の末すゑ
どうなるやらと言ひながら。


  エトワアルの広場

土から俄にはかに
孵化ふくわして出た蛾のやうに、
わたしは突然、
地下電車メトロから地上へ匐ひ上がる。
大きな凱旋門がいせんもんがまんなかに立つてゐる。
それを繞めぐつて
マロニエの並木が明るい緑を盛上げ、
そして人間と、自動車と、乗合馬車と、
乗合自動車との点と塊マツス
命ある物の
整然とした混乱と
自主独立の進行とを、
断間たえま無しに
八方はつぱうの街から繰出し、
此処ここを縦横じゆうわうに縫つて、
断間たえま無しに
八方はつぱうの街へ繰込んでゐる。

おお、此処ここは偉大なエトワアルの広場……
わたしは思はずじつと立ち竦すくむ。

わたしは思つた、――
これで自分は此処ここへ二度来る。
この前来た時は
いろんな車に轢き殺され相さうで、
こはくて、
広場を横断する勇気が無かつた。
そして輻ふくになつた路みちを一つ一つ越えて、
モンソオ公園へ行く路みち
アヴニウ・ウツスの入口いりくちを見附みつける為めに、
広場の円の端を
長い間ぐるぐると歩るいてゐた。
どうした気持のせいでか、
アヴニウ・ウツスの入口いりくちを見附みつけ損そこなつたので、
凱旋門がいせんもんを中心に
二度も三度も広場の円の端を
馬鹿ばからしく歩るき廻つてゐるのであつた。

けれど今日けふは用意がある。
わたしは地図を研究して来てゐる。
今日けふわたしの行くのは
バルザツク街まちの裁縫師タイユウルの家いへだ。
バルザツク街まちへ出るには、
この広場を前へ
真直まつすぐに横断すればいいのである。

わたしは斯う思つたが、併しかし、
真直まつすぐに広場を横断するには
縦横じゆうわうに絶間たえま無く馳せちがふ
速度の速い、いろんな車が怖こはくてならぬ。
広場へ出るが最期
二三歩で
き倒されて傷をするか、
き殺されてしまふかするであらう……

この時、わたしに、突然、
なんとも言ひやうのない
叡智と威力とが内うちから湧いて、
わたしの全身を生きた鋼鉄の人にした。
そして日傘パラソルと嚢サツクとを提げたわたしは
決然として、馬車、自動車、
乗合馬車、乗合自動車の渦の中を真直まつすぐに横ぎり、
あわてず、走らず、
逡巡しゆんじゆんせずに進んだ。
それは仏蘭西フランスの男女の歩るくが如ごとくに歩るいたのであつた。
そして、わたしは、
わたしが斯うして悠悠いういうと歩るけば、
速度の疾はやいいろんな怖おそろしい車が
かへつて、わたしの左右に
わたしを愛して停とゞまるものであることを知つた。

わたしは新しい喜悦に胸を跳をどらせながら、
斜めにバルザツク街まちへ入はひつて行つた。
そして裁縫師タイユウルの家いへでは
午後二時の約束通り、
わたしの繻子しゆすのロオヴの仮縫かりぬひを終つて
若い主人夫婦がわたしを待つてゐた。


  薄暮はくぼ

ルウヴル宮きゆうの正面も、
中庭にある桃色の
凱旋門がいせんもんもやはらかに
紫がかつて暮れてゆく。
花壇の花もほのぼのと
赤と白とが薄くなり、
並んで通る恋人も
ひと組ひと組暮れてゆく。
君とわたしも石段に
腰掛けながら暮れてゆく。


  ベルサイユの逍遥

ベルサイユの宮みや
大理石の階かいを降くだり、
後庭こうていの六月の
花と、香と、光の間あひだを過ぎて
われ等三人みたりの日本人は
広大なる森の中に入りぬ。

二百にびやく年を経たる橅ぶなの大樹だいじゆ
明るき緑の天幕てんとを空に張り、
その下もとに紫の苔こけひて、
物古ものふりし石の卓一つ
ふ蔦つたの黄緑わうりよくの若葉と
薄赤き蔓つるとに埋うづまれり。

二人ふたりの男は石の卓に肘ひぢつきて
こけの上に横たはり、
われは上衣うはぎを脱ぎて
ぶなの根がたに蹲踞うづくまりぬ。
快き静けさよ、かなたの梢こずゑに小鳥の高音たかね……
近き涼風すゞかぜの中に立麝香草たちじやかうさうの香り……

わが心は宮みやの中うちに見たる
ルイ王とナポレオン皇帝との
華麗と豪奢がうしやとに酔ひつつあり。
きさき達の寝室の清清すがすがしき白と金色こんじき……
モリエエルの演じたる
宮廷劇場の静かな猩猩緋しやう/″\ひ……

されど、楽しきわが夢は覚めぬ。
目まぐるしき過去の世紀は
かの王后わうこうの栄華と共に亡びぬ。
わが目に映るは今
もろき人間の外ほかに立てる
ぶなの大樹と石の卓とばかり。

ああ、われは寂さびし、
わが追ひつつありしは
人間の短命の生せいなりき。
いでや、森よ、
われは千年の森の心を得て、
悠悠いう/\と人間の街に帰るよしもがな。


  仏蘭西の海岸にて

さあ、あなた、磯いそへ出ませう、
夜通やどほし涙に濡れた
気高けだかい、清い目を
世界が今開けました。
おお、夏の暁あかつき
この暁あかつきの大地の美しいこと、
天使の見る夢よりも、
聖母の肌よりも。

海峡には、ほのぼのと
白い透綾すきやの霧が降つて居ます。
そして其処そこの、近い、
黒い暗礁の
まばらに出た岩の上に
さぎが五六羽
首を羽はねの下に入れて、
あしを浅い水に浸けて、
じつとまだ眠つてゐます。
彼等を驚かさないやうに、
水際みづぎはの砂の上を、そつと、
素足で歩るいて行きませう。

まあ、神神かう/″\しいほど、
涼しい風だこと……
世界の初めにエデンの園で
若いイヴの髪を吹いたのも此この風でせう。
ここにも常に若い
みづみづしい愛の世界があるのに、
なぜ、わたし達は自由に
裸のままで吹かれて行かないのでせう。
けれど、また、風に吹かれて、
帆のやうに袂たもとの揚がる快さには
日本の著物きものの幸福しあはせが思はれます。

御覧ごらんなさい、
わたし達の歩みに合せて、
もう海が踊り始めました。
緑玉エメラルドの女衣ロオブ
水晶と黄金きんの笹縁さゝべり……
浮き上がりつつ、沈みつつ、
沈みつつ、浮き上がりつつ……
そして、その拡がつた長い裾すそ
わたし達の素足と縺もつれ合ひ、
そしてまた、ざぶるうん、ざぶるうんと
を置いて海の鐃鈸ねうばちが鳴らされます。

あら、鷺さぎが皆立つて行きます、
にはかに紅鷺べにさぎのやうに赤く染まつて……
日が昇るのですね、
霧の中から。


  フオンテンブロウの森

秋の歌はそよろと響く
白楊はくやうと毛欅ぶなの森の奥に。
かの歌を聞きつつ、我等は
しづかに語らめ、しづかに。

めたる朱しゆか、
がれたる黄金きんか、
風無くて木の葉は散りぬ、
な払ひそ、よしや、衣きぬにとまるとも。

それもまた木の葉の如ごとく、
かろやかに一つ白き蝶てふ
舞ひて降くだれば、尖とがりたる
赤むらさきの草ぞゆするる。

眠れ、眠れ、疲れたる
春夏はるなつの踊子をどりこよ、蝶てふよ。
かぼそき路みちを行きつつ、猶なほ我等は
しづかに語らめ、しづかに。

おお、此処ここに、岩に隠れて
ころころと鳴る泉あり、
水の歌ふは我等が為めならん、
君よ、今は語りたまふな。


  巴里郊外

たそがれの路みち
森の中に一ひとすぢ、
のろはれた路みち、薄白うすじろき路みち
もやの奥へ影となり遠ざかる、
あはれ死にゆく路みち

うち沈みて静かな路みち
ひともと何んの木であらう、
その枯れた裸の腕かひなを挙げ、
小暗をぐらきかなしみの中に、
心疲れた路みちを見送る。

たそがれの路みちの別れに、樺かばの木と
はんの森は気が狂れたらし、
あれ、谺響こだまが返す幽かすかな吐息……
かすかな冷たい、調子はづれの高笑ひ……
また幽かすかな啜すゝり泣き……

蛋白石色オパアルいろの珠数珠じゆずだまの実の
頸飾くびかざりを草の上に留とゞめ、
薄墨色の音せぬ古池を繞めぐりて、
もやの奥へ影となりて遠ざかる、
あはれ、たそがれの森の路みち……
(一九一二年巴里にて)

  ツウル市にて

水に渇かつえた白緑はくろく
ひろい麦生むぎふを、すと斜はす
かける燕つばめのあわてもの、
なにの使つかひに急ぐのか、
よろこびあまる身のこなし。

続いて、さつと、またさつと、
なまあたたかい南風みなみかぜ
ロアルを越して吹く度たびに、
白楊はくやうの樹がさわさわと
待つてゐたよに身を揺ゆする。

河底かはぞこにゐた家鴨あひるらは
岸へ上のぼつて、アカシヤの
かげにがやがや啼きわめき、
つばめは遠く去つたのか、
もう麦畑むぎばたに影も無い。

それは皆皆よい知らせ、
しばらくの間に風は止み、
雨が降る、降る、ほそぼそと
きんの糸やら絹の糸、
真珠の糸の雨が降る。

うれしや、これが仏蘭西フランス
雨にわたしの濡れ初はじめ。
軽い婦人服ロオブに、きやしやな靴、
ツウルの野辺のべの雛罌粟コクリコ
赤い小路こみちを君と行き。

れよとままよ、濡れたらば、
わたしの帽のチウリツプ
いつそ色をば増しませう、
増さずば捨てて、代りには
野にある花を摘んで挿そ。

そして昔のカテドラル
あの下蔭したかげで休みましよ。
雨が降る、降る、ほそぼそと
きんの糸やら、絹の糸、
真珠の糸の雨が降る。
(ロアルは仏蘭西南部の河なり)

  セエヌ川

ほんにセエヌ川よ、いつ見ても
灰がかりたる浅みどり……
陰影かげに隠れたうすものか、
泣いた夜明よあけの黒髪か。

いいえ、セエヌ川は泣きませぬ。
橋から覗のぞくわたしこそ
旅にやつれたわたしこそ……

あれ、じつと、紅玉リユビイの涙のにじむこと……
船にも岸にも灯がともる。
セエヌ川よ、
やつばりそなたも泣いてゐる、
女ごころのセエヌ川……


  芍薬

大輪たいりんに咲く仏蘭西フランス
芍薬しやくやくこそは真赤まつかなれ。
まくらにひと夜置きたれば
わが乱れ髪夢にして
みづからを焼く火となりぬ。


  ロダンの家の路

真赤まつかな土が照り返す
だらだら坂ざかの二側ふたかはに、
アカシヤの樹のつづく路みち

あれ、あの森の右の方かた
飴色あめいろをした屋根と屋根、
あの間あひだから群青ぐんじやう
ちらと抹なすつたセエヌ川……

涼しい風が吹いて来る、
マロニエの香と水の香と。

これが日本の畑はたけなら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。
黄ばんだ麦と雛罌粟ひなげしと、
黄金きんに交ぜたる朱しゆの赤さ。

が挽き捨てた荷車か、
眠い目をして、路みちばたに
じつと立ちたる馬の影。

「MAITREメエトルRODINロダンの別荘は。」
問ふ二人ふたりより、側そばに立つ
KIMONOキモノ姿のわたしをば
不思議と見入る田舎人ゐなかびと

「メエトル・ロダンの別荘は
ただ真直まつすぐに行きなさい、
木の間あひだから、その庭の
風見車かざみぐるまが見えませう。」

巴里パリイから来た三人さんにん
胸は俄にはかにときめいた。
アカシヤの樹のつづく路みち


  飛行機

空をかき裂く羽はねの音……
今日けふも飛行機が漕いで来る。
巴里パリイの上を一ひとすぢに、
モンマルトルへ漕いで来る。

ちよいと望遠鏡をわたしにも……
一人ひとりは女です……笑つてる……
アカシアの枝が邪魔になる……

何処どこへ行くのか知らねども、
毎日飛べば大空の
青い眺めも寂さびしかろ。

かき消えて行く飛行機の
夏の日中ひなかの羽はねの音……


  モンマルトルの宿にて

あれ、あれ、通る、飛行機が、
今日けふも巴里パリイをすぢかひに、
風切る音をふるはせて、
身軽なこなし、高高たかだか
はねをひろげたよい形かたち

オペラ眼鏡グラスを目にあてて、
空を踏まへた胆太きもぶと
若い乗手のりてを見上ぐれば、
少し捻ひねつた機体から
きらと反射の金きんが散る。

若い乗手のりてのいさましさ、
後ろを見捨て、死を忘れ。
片時かたどきやまぬ新らしい
力となつて飛んで行く、
前へ、未来へ、ましぐらに。


  暗殺酒鋪キヤバレエ・ダツサツサン
(巴里モンマルトルにて)
しきゐを内へ跨またぐとき、
墓窟カバウの口を踏むやうな
暗い怖おびえが身に迫る。

煙草たばこのけぶり、人いきれ、
酒類しゆるゐの匂にほひ、灯の明あかり、
黒と桃色、黄と青と……

あれ、はたはたと手の音が
きもの姿に帽を著
わたしを迎へて爆ぜ裂ける。

鬼のむれかと想おもはれる
人の塊かたまり、そこ、かしこ。
もやもや曇る狭い室しつ
  ×
淡い眩暈めまひのするままに
君が腕かひなを軽く取り、
物珍めづらしくさし覗のぞ
知らぬ人等ひとらに会釈して、
扇で半なかば頬を隠し、
わたしは其処そこに掛けてゐた。

ボウドレエルに似た像が
荒い苦悶くもんを食ひしばり、
手を後ろ手に縛られて
すゝびた壁に吊つるされた、
その足もとの横長い
粗木あらきづくりの腰掛に。

「この酒鋪キヤバレエの名物は、
四百しひやく年へた古家ふるいへ
きたないことと、剽軽へうきん
また正直なあの老爺おやぢ
それにお客は漫画家と
若い詩人に限ること。」
こんな話を友はする。
  ×
ひろい股衣ヅボンの大股おほまた
老爺おやぢは寄つて、三人さんにん
日本の客の手を取つた。
伸びるがままに乱れたる
髪も頬髭ほひげも灰白はひじろみ、
赤い上被タブリエ、青い服、
それも汚よごれて裂けたまま。
太い目元に皺しわの寄る
屈托くつたくのない笑顔して、
盛高もりだかの頬と鼻先の
林檎色りんごいろした美うつくしさ。

老爺おやぢの手から、前の卓、
わたしの小さい杯さかづき
がれた酒はムウドンの
丘の上から初秋はつあき
セエヌの水を見るやうな
濃い紫を湛たたへてる。
  ×
「聴け、我が子等こら」と客達を
しかるやうなる叫びごゑ。

老爺おやぢはやをら中央まんなか
麦稈むぎわら椅子いすに掛けながら、
マンドリンをば膝ひざにして、

「皆さん、今夜は珍しい
日本の詩人をもてなして、
ベルレエヌをば歌ひましよ。」

老爺おやぢの声の止まぬ間
拍手の音が降りかかる。

赤い毛をした、痩形やせがたの、
モデル女も泳ぐよに
一人ひとりの画家の膝ひざを下り、
口笛を吹く、手を挙げる。


  驟雨

驟雨オラアジユは過ぎ行く、
巴里パリイを越えて、
ブロオニユの森のあたりへ。

今、かなたに、
樺色かばいろと灰色の空の
板硝子いたがらすを裂く雷らいの音、
青玉せいぎよくの電いなづまの瀑たき

なほ見ゆ、遠山とほやまの尖さきの如ごとく聳そばだつ
薄墨うすすみのオペラの屋根の上、
霧の奥に、
猩猩緋しやう/″\ひと黄金きん
光の女服ロオブを脱ぎ放ち、
裸となりて雨を浴ぶる
夏の女皇ぢよくわう
仄白ほのじろき八月の太陽。

なほ、濡れわたる街の並木の
アカシヤとブラタアヌは
汗と塵埃ほこりと熱ねつを洗はれて、
その喜びに手を振り、
かしらを返し踊るもあり。

カツフエのテラスに花咲く
万寿菊まんじゆぎくと薔薇ばら
はすに吹く涼風すゞかぜの拍子に乗りて
そぞろがはしく
ワルツを舞はんとするもあり。

なほ、そのいみじき
灌奠ラバシヨンの余沫よまつ
枝より、屋根より、
はらはらと降らせぬ、
水晶の粒を、
銀の粒を、真珠の粒を。

驟雨オラアジユは過ぎ行く、
さわやかに、こころよく。
それを見送るは
祭の列の如ごとく楽し。

わがある七しち階の家いへも、
わが住む三階の窓より見ゆる
近き四方しはうの家家いへいへも、
窓毎まどごとに光を受けし人の顔、
顔毎かほごとに朱しゆの笑まひ……


  巴里の一夜

テアトル・フランセエズの二階目の、
あかい天鵞絨びろうどを張りつめた
看棚ロオジユの中に唯だ二人ふたり
君と並べば、いそいそと
をどる心のおもしろや。
もう幕開まくあきの鈴が鳴る。

第一列のバルコンに、
肌の透き照る薄ごろも、
白い孔雀くじやくを見るやうに
銀を散らした裳を曳いて、
駝鳥だてうの羽はねのしろ扇、
胸に一いちりん白い薔薇ばら
しろいづくめの三人さんにん
マネが描くよな美人づれ、
望遠鏡めがねの銃つゝが四方しはうから
みな其処そこへ向くめでたさよ。

また三階の右側に、
うす桃色のコルサアジユ、
きんの繍ぬひある裳を著けた
華美はでな姿の小女こをんな
ほそい首筋、きやしやな腕、
指環ゆびわの星の光る手で
少し伏目に物を読み、
折折をりをりあとを振返る
人待顔ひとまちがほの美うつくしさ。

あら厭いや、前のバルコンへ、
厚いくちびる、白い目の
アラビヤらしい黒奴くろんぼ
襟も腕かひなも指さきも
きらきら光る、おなじよな
黒い女を伴れて来た。

どしん、どしんと三度程
舞台を叩たゝく音がして、
しづかに揚あがる黄金きんの幕。
よごれた上衣うはぎ、古づぼん、
血に染むやうな赤ちよつき、
コツペが書いた詩の中の
人を殺した老鍛冶らうかぢ
法官達の居ならんだ
前に引かれる痛ましさ、
足の運びもよろよろと……

おお、ムネ・シユリイ、見るからに
老優の芸の偉大さよ。


  ミユンヘンの宿

九月の初め、ミユンヘンは
早くも秋の更けゆくか、
モツアルト街まち、日は射せど
ホテルの朝のつめたさよ。

青き出窓の欄干らんかん
ひかぶされる蔦つたの葉は
しゆと紅くれなゐと黄金きんを染め
照れども朝のつめたさよ。

鏡の前に立ちながら
諸手もろでに締むるコルセツト、
ちひさき銀のボタンにも
しみじみ朝のつめたさよ。


  伯林停車場

ああ重苦しく、赤黒ぐろく、
高く、濶ひろく、奥深い穹窿きゆうりゆうの、
神秘な人工の威圧と、
沸沸ふつふつと迸ほとばしる銀白ぎんぱくの蒸気と、
ぜる火と、哮える鉄と、
人間の動悸どうき、汗の香
および靴音とに、
絶えず窒息いきづまり、
絶えず戦慄せんりつする
伯林ベルリンの厳おごそかなる大停車場ぢやう
ああ此処ここなんだ、世界の人類が
静止の代りに活動を、
善の代りに力を、
弛緩ちくわんの代りに緊張を、
平和の代りに苦闘を、
涙の代りに生血いきちを、
信仰の代りに実行を、
みづから探し求めて出入でいりする、
現代の偉大な、新しい
生命を主とする本寺カテドラルは。
此処ここに大きなプラツトフオオムが
地中海の沿岸のやうに横たはり、
その下に波打つ幾線の鉄の縄が
世界の隅隅すみずみまでを繋つなぎ合せ、
それに断えず手繰たぐり寄せられて、
汽車は此処ここへ三分間毎ごとに東西南北より著ちやくし、
また三分間毎ごとに東西南北へ此処ここを出て行く。
此処ここに世界のあらゆる目覚めざめた人人ひとびとは、
髪の黒いのも、赤いのも、
目の碧あおいのも、黄いろいのも。
みんな乗りはづすまい、
降りはぐれまいと気を配り、
もとより発車を報しらせる鈴べるも無ければ、
みんな自分で検しらべて大切な自分の「時とき」を知つてゐる。
どんな危険も、どんな冒険も此処ここにある。
どんな鋭音ソプラノも、どんな騒音も此処ここにある、
どんな期待も、どんな昂奮かうふんも、どんな痙攣けいれんも、
どんな接吻せつぷんも、どんな告別アデイユも此処ここにある。
どんな異国の珍しい酒、果物、煙草たばこ、香料、
麻、絹布けんふ、毛織物、
また書物、新聞、美術品、郵便物も此処ここにある。
此処ここでは何なにもかも全身の気息いきのつまるやうな、
全身の筋すぢのはちきれるやうな、
全身の血の蒸発するやうな、
鋭い、忙せはしい、白熱はくねつの肉感の歓びに満ちてゐる。
どうして少しの隙すきや猶予があらう、
あつけらかんと眺めてゐる休息があらう、
乗り遅れたからと云つて誰だれが気の毒がらう。
此処ここでは皆の人が唯だ自分の行先ゆくさきばかりを考へる。
此処ここへ出入でいりする人人ひとびと
男も女も皆選ばれて来た優者いうしやの風ふうがあり、
ひたひがしつとりと汗ばんで、
光を睨にらみ返すやうな目附めつきをして、
口は歌ふ前のやうにきゆつと緊しまり、
肩と胸が張つて、
腰から足の先までは
きやしやな、
 しかも堅固な植物の幹が歩るいてゐるやうである。
みんなの神経は苛苛いらいらとしてゐるけれど、
みんなの意志は悠揚いうやうとして、
鉄の軸のやうに正しく動いてゐる。
みんながどの刹那せつなをも空むなしくせずに
ほんとうに生きてる人達だ、ほんとうに動いてゐる人達だ。
あれ、巨象マンモスのやうな大機関車を先きにして、
どの汽車よりも大きな地響ぢひゞきを立てて、
ウラジホストツクからブリユツセルまでを、
十二日間で突破する、
ノオル・デキスプレスの最大急行列車が入はひつて来た。
おそろしい威厳を持つた機関車は
今、世界の凡すべての機関車を圧倒するやうにして駐とまつた。
ああ、わたしも是れに乗つて来たんだ、
ああ、またわたしも是れに乗つて行くんだ。


  和蘭陀の秋

秋の日が――
旅人の身につまされやすい
秋の日が夕ゆふべとなり、
薄むらさきに煙けぶつた街の
高い家いへと家いへとの間あひだに、
今、太陽が
万年青おもとの果のやうに真紅しんく
しつとりと濡れて落ちて行く。

反対な側がはの屋根の上には、
港の船の帆ばしらが
どれも色硝子いろがらすの棒を立て並べ、
そのなかに港の波が
幻惑の彩色さいしきを打混うちまぜて
ぎらぎらとモネの絵のやうに光る。
よく見ると、その波の半なかば
無数の帆ばしらの尖さきから翻ひるがへる
細長い藍色あゐいろの旗である。

あなた、窓へ来て御覧なさい、
手紙を書くのは後あとにしませう、
まあ、この和蘭陀おらんだの海の
うつくしい入日いりび
わたし達は、まだ幸ひに若くて、
かうして、アムステルダムのホテルの
五階の窓に顔を並べて、
この佳い入日いりびを眺めてゐるのですね。
と云つて、
明日あすわたし達が此処ここを立つてしまつたら、
またと此の港が見られませうか。

あれ、直ぐ窓の下の通りに、
猩猩緋しやう/″\ひの上衣うはぎを黒の上に著
一隊の男の児の行列、
なんと云ふ可愛かはいい
小学の制服なんでせう。

ああ、東京の子供達は
どうしてゐるでせう。


  同じ時

黒く大いなる起重機
我が五階の前に立ち塞ふさがり、
その下に数町すうちやう離れて
沖に掛かれる汽船の灯
黄菊きぎくの花を並ぶ。
税関の彼方かなた
桟橋に寄る浪なみのたぶたぶと
折折をりをりに鳴りて白し。
いづこの酒場の窓よりぞ、
ギタルに合はする船人ふなびとの唄うた
秋の夜風よかぜに混まじり、
波止場に沿ふ散歩道は
落葉おちばしたる木立こだちの幹に
海の反射淡く残りぬ。
うら寒し、はるばる来つる
アムステルダムの一夜いちや


  覉愁きしう

知らざりしかな、昨日きのふまで、
わが悲かなしみをわが物と。
あまりに君にかかはりて。

君の笑む日をまのあたり
巴里パリイの街に見る我れの
あはれ何なにとて寂さびしきか。

君が心は躍をどれども、
わが熱あつかりし火は濡れて、
みづからを泣く時のきぬ。

わが聞く楽がくはしほたれぬ、
わが見る薔薇ばらはうす白じろし、
わが執る酒は酢に似たり。

ああ、わが心已む間なく、
東の空にとどめこし
我子わがこの上に帰りゆく。


  モンソオ公園の雀

君は何なにかを読みながら、
マロニエの樹の染み出した
はすな径こみちを、花の香
れて呼吸いきつく方かたへ去り、
わたしは毛欅ぶなの大木の
しだれた枝に日を避けて、
五色ごしきの糸を巻いたよな
まるい花壇を左にし、
少しはなれた紫の
木立こだちと、青い水のよに
ひろがる芝を前にして、
絵具の箱を開けた時、

おお、雀すゞめ、雀すゞめ
一つ寄り、
二つ寄り、
はら、はら、はらと、
とを、二十にじふ、数知れず、
きやしやな黄色きいろの椅子いすの前、
わたしへ向いて寄る雀すゞめ

それ、お食べ、
それ、お食べ、
今日けふもわたしは用意して、
麺麭パンとお米を持つて来た。

それ、お食べ、
すゞめ、雀すゞめ、雀すゞめたち、
聖母の前の鳩はとのよに、
素直なかはいい雀すゞめたち。
わたしは国に居た時に、
朝起きても筆、
が更けても筆、
祭も、日曜も、春秋はるあきも、
休む間無しに筆とつて、
小鳥に餌をば遣るやうな
気安い時を持たなんだ。

おお、美うつくしく円まるい背と
ちさい頭とくちばしが
わたしへ向いて並ぶこと。
見れば何いづれも子のやうな、
わたしの忘れぬ子のやうな……
わたしは小声こごゑで呼びませう、
それ光ひかるさん、
かはいい七ななちやん、
しげるさん、麟坊りんばうさん、八峰やつをさん……
あれ、まあ挙げた手に怖おそれ、
逃げる一つのあの雀すゞめ
お前は里に居た為めに
親になじまぬ佐保さほちやんか。

わたしは何なにか云つてゐた、
気が狂ちがふので無いか知ら……
どうして気安いことがあろ、
ああ、気に掛る、気に掛る、
子供の事が又しても……

せはしい日本の日送りも
心ならずに執る筆も、
身の衰へも、わが髪の
早く落ちるも皆子ゆゑ。

子供を忘れ、身を忘れ、
こんな旅寝たびねを、はるばると
思ひ立つたは何なにゆゑか。
子をば育はぐくむ大切な
母のわたしの時間から、
すゞめに餌をばやる暇を
ぬすみに来たは何なにゆゑか。

うつかりと君が言葉に絆ほだされて………

いいえ、いいえ、
みんなわたしの心から………

あれ、雀すゞめが飛んでしまつた。

それはあなたのせゐでした。
みんな、みんな、雀すゞめが飛んでしまひました。

あなた、わたしは何うしても
先に日本へ帰ります。
もう、もう絵なんか描きません。
すゞめ、雀すゞめ
モンソオ公園の雀すゞめ
そなたに餌をも遣りません。

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