筑波嶺詩人「横瀬夜雨」の詩

   お 才

女男ふたり居てさえ 筑波の山に
霧がかかれば 寂しいもの
佐渡の小島の 夕波千鳥
弥彦の風の 寒からん

越後出てから 常陸まで
泣きにはるばる 来はせねど
三国峠の 岨道そばみち
越えて帰るは 何時じゃやら

お才あれ見よ 越後の国の
雁が来たにと 騙されて
弥彦さんから 見た筑波嶺を
今は麓で 泣こうとは

心細さに出て 山見れば
雲のかからぬ 山は無い


神も仏も

書かんも辛し言うも憂し
いつかは癒えん我が病
外の見る目も恥ずかしき
蜘蛛男ぞと人は呼ぶ

幸なき上の幸なきは
起き伏し難き床に居寝
右と左の眼さえ
朧にこそはなりにけり

人に生まれし甲斐もなき
我が身の程は知りながら
思い返せばなかなかに
呼びし薬師くすしの身に叶い
仮の命を止めけん
人の情けの恨めしき

生きながらえてこの頃の
この苦しみを受けるぞと
かねて自ら知りもせば
薬は飲まで過ぐせしを

我いまここに十余り
八つの年とはなりながら
床を離れて口そそぐ
うがいの水も運ばせつ
湯浴みするにも人の背に
負わるることの悔しさよ

いぶせき村に生まれたる
賤の子ながら行く末は
いみじき人になり出でん
望みは常に忘れねど

程遠からん学舎に
登らざりしも友達に
さすがみにくきこの姿
見らるることを厭えばぞ

夢路をたどる時にのみ
身の憂きことは忘れても
一人かわやに通うたび
脆きは落ちる涙かな

五十路に近き母君の
篤き情けにほだされて
御手を力と頼みつる
後の報いやいかならん

残る悩みの絶えずして
猶我罪の有るならば
乱れ焼きなるこの太刀は
家の宝と伝え聞く
いでや血潮に染めんとて
手にとりたるも幾たびか

世更けて独り戸を開き
前なる井筒うち眺め
いかで這いでも行かばやと
庭に下りしも幾たびか

神も仏も滅びしか
この世は鬼の住家にて
狂い悩むを笑わんと
我なる人を造りけん

 夜雨十八歳生い立ちの詩


堰の戸

剥げ落ちし納屋の壁にも
蜂の巣の一つ残りて
家荒れし荒れし垣根に
幾返り雨は打つらん

庭先に栗は落ちれど
かえりみる人の居りなん
木より落つ雨を侘びつつ
窓辺には人影もなき

秋は今終わりなりけり
渋柿の紅き葉も濡れ
赤蜻蛉飛ぶに疲れて
軒下の壁に宿れり

日暮るとも虫の音微か
夜明くるも飛ぶ鳥は見ず
秋草の残れる庭に
雨に濡れ草の実流る

蕎麦の花白き畠にも
山遠し落ち穂の田にも
生ける案山子生ける人なく
一村は雨に湿れり

秋は今終わりなりけり
釣り人の影も消えたり
置き去りし笠も破れし
堰の戸に水は溢せず

七星かくせる雲に
暁の光迷えり
滅びたる花の後なる
石の上に雨は注ぎつ


 野に山ありき

野に山有りき忍冬すいかづら
蔓なる花のほのぼのと
匂いて暁の紫は
筑波に負える色となり

青葉の堤青嵐
路こそ草になりにけれ
森の西なる夏沼の
水は二人に開けしを

櫂舷ふなべりに横たえて
吹かるる侭に逝く侭に
風香ぐわしき鳥羽の海
人よ船には恐れずか

君行く船の覆りなば
泳ぎ帰らん水色の
裾に絡まる浮き草の
花は額に飾らんもの

濡れて艶ある黒髪は
新たに解きて濯ぎけん
やつれたりとて見えぬ頬の
など夢のごと蒼白き

山は野にあり船に居て
向かいになれば舷に
吾が手に縋る君が手の
微かに著き血のめぐり

夢には恋し空あれど
春は武蔵の野に暮れぬ
人遠くして寂しさに
今は心の破れたり

人の肌へに手を触るは
新たなるべき君が手よ
暫しは許せわが胸に
遠のく浪の音あらん

朝咲く花の曇なき
露とも思え君が手に
かかる涙はやるせなき
わが思い出の涙なり

垂れて項うなじに巻くべくも
左手は君にとられけり
ただおののける唇を
小指の端に触れしめよ

寂しく生きしわれなれば
人を見んとは思わねど
涙に曇る瞳をあげて
向かえば君もさしぐむか

君よ行くとも七星霜ななはる
命は神に誂えて
我が手に帰れ一度は
あづまと呼ばん野の家に

十年に過ぎぬ瞬間たまゆら
夢は二人にさめぬとも
千代の縁えにしを愛むべき
命は共に許されず

君よわが名は天雲の
白きに化りて墓おくつき
石の戸にさす影の如
おぼろ朧になりぬとも

東筑波の草隠れ
露に萎れる花ありきと
病める胸に銘しるしして
忘れぬ程の情はあれかし


 人は還れり

雲の彼方に月入りて
沼に光の消えにけり
湿れる棹を手にすれど
さすに棚なき藻刈船

筑波に燃ゆる紅の
八雲は山の蔭毎に
残れる夜の雲染めて
二つの嶺は清らなり

堤は低し木は荒らし
西北いぬいに亘る山並みの
黒髪山は誰が妻の
うす絹被る眉に見ん

朝たなびく夏霞
富士は夏にも見えたるに
沼の半ばに漂いて
霞にとざす船路なり

哀しと思う浪上の
鳥の如くにいたわりし
人はわが家を去りて後
寂しき秋となりにけり

朝髪梳くしけづる床の上
眉根粧う閨ねやの裡
たもとにうかぶ花房の
若紫の色も濃く

雨降る夕べわが前に
裁縫はぬいをするに俯きて
広くとりたる前髪を
机にあてて壊せしも

人は往けり還りけり
さめぬ白日まひるの夢に耄
雲流れ行く東路に
一人さすらう我ならん

松希にして榛はり多き
常陸は山も高からず
ぬなわの若芽掻きよせて
摘めども船の慰まず

さす手にひらく春の花
ひく手に翻かえる秋の波
灯影ゆらめく高殿に
扇翻せし舞姫や

城跡近き荒れ寺の
やれし築土ついじに身を寄せて
散れる銀杏に落ちる日の
光に泣きし人あるや

灯籠旧き石階きざはし
上がりてしばし顧みて
紅潮しし頬の色
花の如くに映りたる

人は往けり還りけり
きらめき渡る花車
雲井の道の遠くして
残るは暗き花の影

野守の鏡面錆びて
形象かたちを落とす雲も無し
還らぬ人を唯一人
神は恋うるを許せしを


雪灯籠

雪を混じうる雨なれば
春も名のみに帰りけん
南の縁の端濡れて
内は小暗くなりにけり

雨は斜めに落とし来て
雪は軽くぞ入り乱る
光を包む灰色の
天は夕べになりゆくか

孤独に馴れし後ならば
静寂しじまの森に留まらん
明日より出でて尋ぬとも
君を何処の森に見ん

受くれば溜まる淡雪の
軽きを打ちて丸めなす
雪灯籠は脆くとも
灯入れて君の眉を見ん

十三塚の森隠れ
明日は越ゆらん霧の海
背向けて過ぎん鞍の上
切ては山を顧みよ


人は去れり

天の遠きに手を挙げて
来よと招くを目にすれど
露多き野の草原に
雲の薄きが行くばかり

人は去れり
寂しさ迫る黄昏たそがれ
暗きに立ちて名を呼べば
隠れ勝ちなる糸遊いとゆう
うつつなの影も惜しまるる

人は去れり
水も流れよ雲も逝け
一人の上の秋ならば
葉山繁山蔭失せて
筑波は冬の木立せよ

我には人は稲妻の
光の中に来ぬるのみ
我には人は稲妻の
光の中に去りしのみ

手は白かりし森の沼
若葉の淵に櫂とりて
水を弾きし玉ゆらの
人は我より隠れけり

菱の実をとる鴻おおかり
岸に鳴く夜は浮き草の
白める花もくすむらん
ほのかに煙る霧降りて

髪黒かりき有明の
灯影に恥じて向かい居る
慎ましかりし物腰の
夢なりしかと想い出づ

色乱りなり花園の
星は新たに輝かん
面影去りし朝あしたより
我が世は暗くなり初めぬ

草長うして瑠璃色の
山は常陸に秀づれど
野の花に見る紫の
筑波に君も離れ行く

三櫛黒きほつれ髪
頬すれんほど寄り添いて
我血に潤む瞳をば
匂える袖に伏せたきに

都の方へ暁に
月を慕いて落ちにけん
希には風に吹かれ行く
悲しき人を夢みれど

今は痛める胸奥に
面影の人扉をさりぬ

糸遊:いとゆう=かげろう


 筑波に登る

朽ちたるは白晒しろさけて
ぶなの森陰荒らし
立ち込むる薄霧に
垂れ咲くは擬宝子花ぎぼしばな

真弓子を携えて
三千尺みちさかの雲踏めば
従える愛し妻の
目に霧は涙哉

利根鬼怒は白々と
南へ流れ去り
樺色の蝶二つ
巌角に舞い上がる

浪逆の湖は
波の穂や翻るらん
山の影映しつつ
東は天暗し

眠りては地の上を
人並みに駆けれども
日の本に登るべき
山の名は知らざりき

真弓子は今やがて
走るらん跳ねるらん
夢か我足癒えて
筑波嶺に跨れる

風返山風吹けば
山百合の匂う山
風返山雨降れば
喋り鳥下りる山

嗚呼山は筑波嶺
天低く立てれども
命哉ながらえて
吾終に登りたる
筑波嶺詩人.横瀬夜雨 お才 神も仏も 堰の戸 野に山ありき 人は還れり 雪灯籠 人は去れり 筑波に登る 花守 歌集 書架へ