若菜集より 島崎藤村
小詩二首一
ゆふぐれしづかに
ゆめみんとて
よのわづらひより
しばしのがる
きみよりほかには
しるものなき
花かげにゆきて
こひを泣きぬ
すぎこしゆめぢを
おもひみるに
こひこそつみなれ
つみこそこひ
いのりもつとめも
このつみゆゑ
たのしきそのへと
われはゆかじ
なつかしき君と
てをたづさへ
くらき冥府よみまでも
かけりゆかん
二
しづかにてらせる
月のひかりの
などか絶間なく
ものおもはする
さやけきそのかげ
こゑはなくとも
みるひとの胸に
忍び入るなり
なさけは説とくとも
なさけをしらぬ
うきよのほかにも
朽くちゆくわがみ
あかさぬおもひと
この月かげと
いづれか声なき
いづれかなしき
小詩くめどつきせぬ
わかみづを
きみとくまゝし
かのいづみ
かわきもしらぬ
わかみづを
きみとのまゝし
かのいづみ
かのわかみづと
みをなして
はるのこゝろに
わきいでん
かのわかみづと
みをなして
きみとながれん
花のかげ梭をさの音ね梭の音を聞くべき人は今いづこ
心を糸により初そめて
涙ににじむ木綿もめん縞
やぶれし窻まどに身をなげて
暮れ行く空をながむれば
ねぐらに急ぐ村鴉むらがらす
連つれにはなれて飛ぶ一羽
あとを慕ふてかあ/\と
東西南北男ごころをたとふれば
つよくもくさをふくかぜか
もとよりかぜのみにしあれば
きのふは東けふは西
女ごころをたとふれば
かぜにふかるゝくさなれや
もとよりくさのみにしあれば
きのふは南けふは北
懐古天あまの河原かはらにやほよろづ
ちよろづ神のかんつどひ
つどひいませしあめつちの
始はじめのときを誰たれか知る
それ大神おほがみの天雲あまぐもの
八重かきわけて行くごとく
野の鳥ぞ啼なく東路あづまぢの
碓氷うすひの山にのぼりゆき
日は照らせども影ぞなき
吾妻あがつまはやとこひなきて
熱き涙をそゝぎてし
尊みことの夢は跡も無し
大和やまとの国の高市たかいちの
雷山いかづちやまに御幸みゆきして
天雲あまぐものへにいほりせる
御輦くるまのひゞき今いづこ
目をめぐらせばさゞ波や
志賀の都は荒れにしと
むかしを思ふ歌人うたひとの
澄める怨うらみをなにかせん
春は霞かすめる高台たかどのに
のぼりて見ればけぶり立つ
民のかまどのながめさへ
消えてあとなき雲に入る
冬はしぐるゝ九重ここのへの
大宮内のともしびや
さむさは雪に凍る夜の
竜たつのころもはいろもなし
むかしは遠き船いくさ
人の血潮ちしほの流るとも
今はむなしきわだつみの
まん/\としてきはみなし
むかしはひろき関が原
つるぎに夢を争へど
今は寂さびしき草のみぞ
ばう/\としてはてもなき
われ今いま秋の野にいでて
奥山おくやま高くのぼり行き
都のかたを眺むれば
あゝあゝ熱きなみだかな
白壁しらかべたれかしるらん花ちかき
高楼たかどのわれはのぼりゆき
みだれて熱きくるしみを
うつしいでけり白壁に
唾つばにしるせし文字なれば
ひとしれずこそ乾きけれ
あゝあゝ白き白壁に
わがうれひありなみだあり
天馬序
老おいは若わかきは越こしかたに
文ふみに照らせどまれらなる
奇くしきためしは箱根山
弥生やよひの末のゆふまぐれ
南の天あまの戸とをいでて
よな/\北の宿に行く
血の深紅くれなゐの星の影
かたくななりし男さへ
星の光を眼に見ては
身にふりかゝる凶禍まがごとの
天の兆しるしとうたがへり
総鳴そうなきに鳴く鶯うぐひすの
にほひいでたる声をあげ
さへづり狂ふ音ねをきけば
げにめづらしき春の歌
春を得知らぬ処女をとめさへ
かのうぐひすのひとこゑに
枕の紙のしめりきて
人なつかしきおもひあり
まだ時ならぬ白百合の
籬まがきの陰にさける見て
九十九つくもの翁おきなうつし世の
こゝろの慾の夢を恋ひ
音ねをだにきかぬ雛鶴ひなづるの
軒のきの榎樹えのきに来て鳴けば
寝覚ねざめの老嫗おうな後の世の
花の台うてなに泣きまどふ
空にかゝれる星のいろ
春さきかへる夏花なつはなや
是これわざはひにあらずして
よしや兆しるしといへるあり
なにを酔ひ鳴く春鳥はるどりよ
なにを告げくる鶴の声
それ鳥の音ねに卜うらなひて
よろこびありと祝ふあり
高き聖ひじりのこの村に
声をあげさせたまふらん
世を傾けむ麗人よきひとの
茂れる賤しづの春草はるぐさに
いでたまふかとのゝしれど
誰かしるらん新星にひぼしの
まことの北をさししめし
さみしき蘆あしの湖みづうみの
沈める水に映うつるとき
名もなき賤の片びさし
春の夜風の音を絶え
村の南のかたほとり
その夜生れし牝めの馬は
流るゝ水の藍染あゐぞめの
青毛あをげやさしき姿なり
北に生れし雄をの馬の
栗毛にまじる紫は
色あけぼのの春霞
光をまとふ風情ふぜいあり
星のひかりもをさまりて
噂うはさに残る鶴の音や
啼く鶯に花ちれば
嗚呼この村に生れてし
馬のありとや問ふ人もなし
雄馬をうま
あな天雲あまぐもにともなはれ
緑の髪をうちふるひ
雄馬は人に随したがひて
箱根の嶺みねを下くだりけり
胸は踴をどりて八百潮やほじほの
かの蒼溟わだつみに湧くごとく
喉のどはよせくる春濤はるなみを
飲めども渇かわく風情あり
目はひさかたの朝の星
睫毛まつげは草の浅緑あさみどり
うるほひ光る眼瞳ひとみには
千里ちさとの外ほかもほがらにて
東に照らし西に入る
天つみそらを渡る日の
朝日夕日の行衛ゆくへさへ
雲の絶間に極むらん
二つの耳をたとふれば
いと幽かすかなる朝風に
そよげる草の葉のごとく
蹄ひづめの音をたとふれば
紫金しこんの色のやきがねを
高くも叩たたく響あり
狂へば長き鬣たてがみの
うちふりうちふる乱れ髪
燃えてはめぐる血の潮しほの
流れて踴をどる春の海
噴はく紅くれなゐの光には
火炎ほのほの気息いきもあらだちて
深くも遠き嘶声いななきは
大神おほがみの住む梁うつばりの
塵ちりを動かす力あり
あゝ朝鳥あさとりの音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つげわたる鳥の音に
木曽の御嶽みたけの巌いはを越え
かの青雲あをぐもに嘶いななきて
天そらより天そらの電影いなづまの
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき
主人あるじのあとをとめくれば
箱根も遠し三井寺や
日も暖あたたかに花深く
さゝなみ青き湖の
岸の此彼こちごち草を行く
天の雄馬のすがたをば
誰かは思ひ誰か知る
しらずや人の天雲あまぐもに
歩むためしはあるものを
天馬の下おりて大土おほつちに
歩むためしのなからめや
見よ藤の葉の影深く
岸の若草香かにいでて
春花に酔ふ蝶ちょうの夢
そのかげを履ふむ雄馬には
一つの紅あかき春花はるはなに
見えざる神の宿やどりあり
一つうつろふ野の色に
つきせぬ天のうれひあり
嗚呼鷲鷹わしたかの飛ぶ道に
高く懸かかれる大空の
無限むげんの絃つるに触れて鳴り
男神をがみ女神めがみに戯たはむれて
照る日の影の雲に鳴き
空に流るゝ満潮みちしほを
飲みつくすとも渇かわくべき
天馬よ汝なれが身を持ちて
鳥のきて啼なく鳰にほの海
花橘はなたちばなの蔭を履ふむ
その姿こそ雄々しけれ
牝馬めうま
青波あをなみ深きみづうみの
岸のほとりに生れてし
天の牝馬は東あづまなる
かの陸奥みちのくの野に住めり
霞に霑うるほひ風に擦すれ
音おともわびしき枯くさの
すゝき尾花にまねかれて
荒野あれのに嘆く牝馬かな
誰か燕つばめの声を聞き
たのしきうたを耳にして
日も暖かに花深き
西も空をば慕はざる
誰か秋鳴くかりがねの
かなしき歌に耳たてて
ふるさとさむき遠天とほぞらの
雲の行衛ゆくへを慕はざる
白き羚羊ひつじに見まほしく
透すきては深く柔軟やはらかき
眼まなこの色のうるほひは
吾わが古里ふるさとを忍べばか
蹄ひづめも薄く肩痩やせて
四つの脚あしさへ細りゆき
その鬣たてがみの艶つやなきは
荒野あれのの空に嘆けばか
春は名取なとりの若草や
病める力に石を引き
夏は国分こくぶの嶺みねを越え
牝馬にあまる塩を負ふ
秋は広瀬の川添かはぞひの
紅葉もみぢの蔭にむちうたれ
冬は野末に日も暮れて
みぞれの道の泥に饑うゆ
鶴よみそらの雲に飽き
朝の霞の香に酔ひて
春の光の空を飛ぶ
羽翼つばさの色の嫉ねたきかな
獅子ししよさみしき野に隠れ
道なき森に驚きて
あけぼの露にふみ迷ふ
鋭き爪のこひしやな
鹿よ秋山あきやま妻恋つまごひに
黄葉もみぢのかげを踏みわけて
谷間の水に喘あへぎよる
眼睛ひとみの色のやさしやな
人をつめたくあぢきなく
思ひとりしは幾歳いくとせか
命を薄くあさましく
思ひ初そめしは身を責むる
強き軛くびきに嘆き侘わび
花に涙をそゝぐより
悲しいかなや春の野に
湧わける泉を飲み干すも
天の牝馬のかぎりなき
渇ける口をなにかせむ
悲しいかなや行く水の
岸の柳の樹の蔭の
かの新草にひぐさの多くとも
饑ゑたる喉のどをいかにせむ
身は塵埃ちりひぢの八重葎やへむぐら
しげれる宿にうまるれど
かなしや地つちの青草は
その慰藉なぐさめにあらじかし
あゝ天雲あまぐもや天雲や
塵ちりの是世このよにこれやこの
轡くつわも折れよ世も捨てよ
狂ひもいでよ軛くびきさへ
噛み砕けとぞ祈るなる
牝馬のこゝろ哀あはれなり
尽きせぬ草のありといふ
天つみそらの慕はしや
渇かぬ水の湧くといふ
天の泉のなつかしや
せまき厩うまやを捨てはてて
空を行くべき馬の身の
心ばかりははやれども
病みては零おつる泪なみだのみ
草に生れて草に泣く
姿やさしき天の馬
うき世のものにことならで
消ゆる命のもろきかな
散りてはかなき柳葉やなぎはの
そのすがたにも似たりけり
波に消え行く淡雪あはゆきの
そのすがたにも似たりけり
げに世の常の馬ならば
かくばかりなる悲嘆かなしみに
身の苦悶わづらひを恨うらみ侘び
声ふりあげて嘶いななかん
乱れて長き鬣の
この世かの世の別れにも
心ばかりは静和しづかなる
深く悲しき声きけば
あゝ幽遠かすかなる気息ためいきに
天のうれひを紫の
野末の花に吹き残す
世の名残こそはかなけれ
了