菩提寺禁裴迪来相看説逆賊等凝碧池上作音楽
  供奉人等挙声便一時涙下私成口号誦示裴迪
 王 維
    菩提寺の禁に、裴迪来りて相い看て説く。
    逆賊等凝碧池上に音楽を作す。
    供奉人等声を挙ぐるに、便ち一時に涙下ると。
    私ひそかに口号を成し、誦して裴迪に示す
万戸傷心生野煙  万戸ばんこの傷心 野煙やえんを生じ
百官何日再朝天  百官 (いず)れの日か 再び天に朝せん
秋槐葉落空宮裏  秋槐しゅうかい 葉は落つ 空宮の裏うち
凝碧池頭奏管絃  凝碧(ぎょうへき)池頭(ちとう) 管絃を奏せり
万戸の家の悲しみは 野の煙となって立ち昇り
百官が 再び天子にまみえるのはいつの日か
槐の葉は秋になって 主のいない宮殿に落ち
凝碧の池のほとりで 管絃の音がする

 玄宗の天宝末年、楊貴妃の一族が繁栄を極めているときに『輞川集』は書かれました。天宝十四載(七五五)十一月九日早朝、安禄山は幽州(北京)で兵を挙げ、安史の乱がはじまります。
 安禄山軍は十二月十三日には洛陽に入城し、翌天宝十五載正月、安禄山は洛陽で即位して国号を大燕と称します。その年の六月八日、唐の潼関の守りは破られ、玄宗は六月十三日早朝、楊貴妃や皇族、一部の側近を連れて長安を脱出し蜀地へ蒙塵もうじんします。王維は都に取り残され、隠れていたところを安禄山軍に捕らえられます。
 長安で賊に捕らえられた高官は洛陽に連行され、大燕の役人として仕えることを強要されました。王維も旧職と同じ給事中に任ぜられ、後に偽官ぎかんの罪に問われることになります。
 詩が作られた経緯は長い題詞によって語られていますが、王維が菩提寺に禁足されていたとき、裴迪が監視の目をかいくぐって訪ねてき、その話を聞いて作ったものです。凝碧池は洛陽の離宮の庭園にあった池で、安禄山はその離宮を皇居にしていました。
 王維はこの詩によって、偽官になったが、それは強制されたもので唐朝への忠誠心は失っていなかったことが証明され、罪を許されます。


既蒙宥罪旋復拝官
         伏感聖恩竊書鄙意 兼奉簡新除使君等
 既に宥罪を蒙り、旋ち復た官に拝せらる。
   伏して聖恩に感じ、竊に鄙意を書して、
     兼ねて新に除せ諸公られし使君等諸公に簡し奉る 王 維

 忽蒙漢詔還冠冕  忽ち漢詔を蒙こうむり 還た冠冕かんべん
 始覚殷王解網羅  始めて覚ゆ 殷王いんおうの網羅もうらを解くを
 日比皇明猶自暗  日も皇明こうめいに比すれば 猶お自ら暗く
 天斉聖寿未云多  天は聖寿を斉ならぶれば 未だ多しと云わず
 花迎喜気皆知笑  花は喜気ききを迎えて 皆笑うを知り
 鳥識歓心亦解歌  鳥は歓心かんしんを識りて 亦た歌を解す
 聞道百城新佩印  聞道きくならく 百城新たに印を佩ぶと
 還来双闕共鳴珂  還た来って双闕そうけつに鳴珂めいかを共にせん
思いもよらず天子の詔を拝し 朝廷に返り咲く
鳥網を除いた殷王の心の程が いまはじめて理解できた
天子の輝きに比べれば 日輪もまだまだ暗く
陛下の長寿に比べると 天も多いとは申せない
花は嬉しさを汲み取って にこやかに咲きこぼれ
鳥達は歓びの心を知って 歌声を響かせる
聞けば 多くの城に新しい長官が任命されたとか
また以前のように門前で 共に鳴珂を鳴らせよう

 唐では天宝十四載七月に粛宗が即位し、その月から至徳元載(七五六)になります。粛宗の軍が長安と洛陽を回復するのは至徳二載(七五七)の十月になってからです。粛宗は十月二十三日に長安に帰還し、賊の偽官ぎかんを受けた者の処罰が論ぜられます。
 王維も罪人として洛陽から長安に連れてこられ、死罪になる可能性もありました。しかし、弟の王縉が自己の功にかえて兄の命乞いをし、また先の詩があったために許されて、太子中允(正五品上)に任ぜられました。前官の給事中と品階は同じですが、閑職に移されたことになります。詩は許されたあと、天子の恩に感謝するとともに、知友の「使君」(州刺史の尊称)等に挨拶として贈ったものです。
 「鳴珂」は馬のくつわに付けた鈴のことで、馬に乗って宮中に伺候しましょうという意味です。

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