孟城坳 孟城坳もうじょうおう 王 維
新家孟城口 新たに家いえす 孟城の口ほとり
古木余衰柳 古木は衰柳すいりゅうを余あませり
来者復為誰 来者らいしゃは復また誰と為なす
空悲昔人有 空しく悲しむ 昔人せきじんの有ゆう
孟城のほとりに 新たに家をかまえた
柳の古木が 力なく立っている
将来の持ち主は 誰であろうか
やがて私も昔の人 それを空しく悲しんでいる
同 前 前に同じ [裴 迪]
結廬古城下 廬いおりを結ぶ 古城の下もと
時登古城上 時に登る 古城の上
古城非疇昔 古城は疇昔ちゅうせきに非あらざるに
今人自来往 今人きんじん 自ら来往らいおうす
古城のほとりに廬を結び
ときには 古城に登る
古城はすでに 荒れ果てているが
人は昔と 変わることなく往き来する
『輞川集』を取り上げます。
ひとくちに輞川荘といっても、その完成した姿は輞水の流れに沿った約十㌔㍍の区間に散在して種々の施設が設けられています。それは王維が十年ほどの歳月をかけて徐々に形成していったものです。
楊国忠が宰相になってから安史の乱が起こる天宝十四載(七五五)十一月までの三年間は、楊貴妃一族が全盛を謳歌した時代ですが、輞川荘はその間に完成に近づいていきました。王維はそのころに門下省の給事中(正五品上)に昇進していますが、王維には妻も子もなく、母も亡くなり、弟妹もそれぞれ身を立てていたでしょうから、王維の収入はすべて輞川荘の経営に注ぎこまれたものと思われます。
『輞川集』二十首は輞川荘の完成された姿を示していますので、詩集が成ったのも天宝の末年、つまり安史の乱の起こる直前であったと思われます。なお、『輞川集』二十首のすべての詩に弟子の裴迪が和していますので、裴迪の詩も同時に掲げることにします。
『輞川集』の詩はほぼ輞川荘の北の入口から南の奥のほうへ向かって並べられており、「孟城」は入り口付近にあった古城址です。「
しかし、王維が詠っているのは家のことではなく、その家もやがて誰かの手に移ってしまうであろうという無常感です。
裴迪の詩は普通の懐古の詩になっています。
華子岡 華子岡かしこう 王 維
飛鳥去不窮 飛鳥ひちょうは去って窮きわまらず
連山復秋色 連山 復また秋色しゅうしょく
上下華子岡 華子岡を上下すれば
惆悵情何極 惆悵ちゅうちょうして情じょう何んぞ極まらん
鳥たちは つぎつぎに飛び去り
山やまも 秋の色に染まっていく
華子岡を 上りくだりすると
いつか悲しみに満ち 想いはつきることがない
同 前 前に同じ [裴 迪]
落日松風起 落日らくじつに松風しょうふう起こり
還家草露稀 家に還かえれば草露そうろ稀なり
雲光侵履跡 雲光うんこう 履跡りせきを侵おかし
山翠払人衣 山翠さんすい 人衣じんいを払う
日は落ちて 松風の音がし
家に帰れば 草露は乾いている
あし跡に 雲の影さし
山の緑に 衣も洗い清められる
「華子」は華子期という仙人の名前からきたそうですが、仙人と岡との関係はわかっていません。
王維の詩は起句と結句に「不窮」と「何極」を照応させて、世に在る者の去った者への追慕の情を詠いあげています。華子岡を上り下りしながら思い出すのは、亡くなった母や妻のことでしょう。
裴迪の詩も、転結句に繊細な感覚の冴えをしめしています。
なお、絶句の四句は各句を起承転結と呼ぶ呼び方に従っています。