勅賜百官桜桃   勅して百官に桜桃を賜う  王 維
  芙蓉闕下会千官  芙蓉ふようの闕下けつか 千官せんかん会す
  紫禁朱桜出上闌  紫禁の朱桜しゅおう 上闌じょうらんより出づ
  総是寢園春薦後  総じて是れ寢園しんえん春薦しゅんせんの後
  非関御苑鳥嗛残  御苑の鳥の嗛ふくみ残せしに関かかわるに非ず
  帰鞍競帯青糸籠  帰鞍きあん競って帯ぶ 青糸せいしの籠
  中使頻傾赤玉盤  中使ちゅうし頻りに傾く 赤玉せきぎょくの盤
  飽食不須愁内熱  飽食するも内熱ないねつを愁うるを須もちいず
  大官還有蔗漿寒  大官還た有り 蔗漿しょしょうの寒かん
芙蓉の楼門に 百官が集い
恩賜の桜桃が 上蘭観からもたらされる
これらは総て 寢廟の春の祀りに供えたもの
御苑の鳥が つついたような傷物ではない
帰宅の鞍に 争って籠を結びつけ
宮中の使者が 赤玉の大皿から流し込む
たっぷり食べても 熱の出る心配はなく
大膳職には 冷えた飲み物がたっぷりとある

 天宝九載(七五〇)に王維は母を亡くしました。
 王維は五十二歳でしたので、母崔氏は享年七十歳くらいだったでしょう。王維は悲しみのために食事も咽喉を通らなかったといいます。
 親が死ねば三年間の喪に服することになり、勤務につくことができません。喪が明けた天宝十一載(七五二)に王維は文部郎中(従五品上)に任ぜられました。その年の三月に尚書省の吏部が文部と改称されていますので、旧称では吏部郎中になったわけで、官吏の任免に関する重要な職についたことになります。
 天宝十一載の十一月に宰相李林甫が亡くなり、楊貴妃の又従兄妹にあたる楊国忠が宰相になっており、楊国忠は文部尚書を兼ねていますので、王維を文部郎中に起用したのは楊国忠かもしれません。
 桜桃が実るころですので、翌天宝十二載(七五三)の春のことと思われますが、掲げた詩には「時に文部郎中たり」との題注があり、王維が文部郎中としてさくらんぼの下賜に与ったことがわかります。
 しかし、尾聯の二句をみると、王維はあまりありがたがっていないようです。


 送秘書晁監還日本国 秘書晁監の日本国に還るを送る 王 維
積水不可極    積水せきすい 極む可からず
安知滄海東    安いずくんぞ滄海そうかいの東を知らん
九州何処遠    九州に何処いずこか遠き
万里若乗空    万里 空くうに乗ずるが若ごと
向国唯看日    国に向かいて唯に日を看
帰帆但信風    帰帆きはんは但だ風に信まかせり
鼇身映天黒    鼇身ごうしんは天に映じて黒く
魚眼射波紅    魚眼ぎょがんは波を射て紅くれないなり
郷樹扶桑外    郷樹きょうじゅは扶桑ふそうの外
主人孤島中    主人は孤島の中うち
別離方異域    別離して方まさに異域いいきなれば
音信若為通    音信を若いかに為て通ぜん
何処までもつづく海原は 極めつくせず
海の東を どうして知ることができよう
天下の内で 何処が遠い国であろうか
万里の旅は 空を行くように頼りない
故国へ向かって ひたすら朝日をめざし
帰国の船は 風にまかせて進むのみ
亀の甲羅は 天空に映って黒く
怪魚の眼は 波の間に光って赤い
ふるさとは 扶桑の茂るかなたにあり
あなたは 孤島に住んでいらっしゃる
お別れして 境を異にしてしまえば
いかにして 便りを通じたらよかろうか

 同じ天宝十二載(七六三)に秘書監(従三品)の朝衡(晁衡とも書く)が日本に帰ることになりました。
 朝衡とは安倍仲麻呂の中国名で、開元五年(七一七)に学生がくしょうとして入唐以来、貢挙にも及第して唐朝に仕えてきたのです。
 在唐三十七年に及び、この年、遣唐使藤原清河の一行が帰国するのに際して共に帰国することを許されたのでした。
 王維は友人であった朝衡に送別の詩を贈っています。なお、このときの遣唐使の帰国は大規模なもので、四艘の船から成っていました。
 安倍仲麻呂の乗った第一船は風雨に遭って南海に漂流し、三、四年かかって長安にもどってきます。
 そのため安倍仲麻呂は帰国の機会を失い、唐土で亡くなりました。
 第二船には鑑真和尚が乗っており、風雨に遭って難破しそうになりましたが、十二月二十日に薩摩の国に漂着しています。

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