別弟縉後登青龍望藍田山 王 維
       弟縉に別れて後に青龍寺に登り藍田山を望む
陌上新別離    陌上はくじょう 新たに別離べつり
蒼茫四郊晦    蒼茫そうぼう 四郊しこうくら
登高不見君    登高とうこうするも君を見ず
故山復雲外    故山こざんは復た雲外うんがいにあり
遠樹蔽行人    遠樹えんじゅ 行人こうじんを蔽い
長天隠秋塞    長天ちょうてん 秋塞しゅうさいを隠す
心悲宦遊子    心に悲しむ 宦遊かんゆうの子
何処飛征蓋    何処いずくにか 征蓋せいがいを飛ばすや
あぜ道で いま君と別れたばかり
あたりは無限のかなた 暗く沈んでいるようだ
高いところに登るが 君の姿は見えず
故郷の山も 雲の向こうにある
遠い林の陰に 旅人の姿は消え
秋空の遥かかなたに 塞とりでがある
地方勤めにゆく君よ 心は悲しみに沈み
車の幌をなびかせて いまごろ何処を走っているのか

 旅の別れには、官途に就いている肉親との別れもあります。
 王縉おうしんは王維の一歳年下の仲のよい弟です。詩には弟の身を思いやる王維のあふれるような真情が詠われています。
 詩題によると、王縉は藍田の谷を通って南へ山を越え、南陽か江南のほうへ赴任してゆくようです。唐代の長安城の東壁にある延興門は新昌坊のすぐ近くにあり、新昌坊のあたりは高台になっています。
 青龍寺は新昌坊の東南隅にあって、日本僧空海が学んだ寺として有名です。いまは寺の跡地に空海の記念碑と小さな堂が建っているだけですが、敷地の東端に立つと、ここが黄土台地の高台であることがよくわかります。このあたりは唐代は城内にあって楽遊原と呼ばれ、都人の遊楽の地でした。いまは一面の畑になっています。
 延興門は長安城の東の正門ではありませんので、王縉はこの門から出ていったのではないと思われます。
 王維は弟を見送った後、新昌坊の高台に登って弟の去っていった方角を眺め、この詩を作ったものと思われます。


 帰輞川作     輞川に帰る作   王 維
谷口踈鐘動   谷口こくこうに踈鐘そしょう動き
漁樵稍欲稀   漁樵ぎょしょうようやく稀ならんと欲す
悠然遠山暮   悠然たり 遠山えんざんの暮れ
独向白雲帰   独り白雲に向かって帰る
菱蔓弱難定   菱蔓りょうまんは弱くして定め難く
楊花軽易飛   楊花ようかは軽くして飛び易し
東皐春草色   東皐とうこう 春草しゅんそうの色
惆悵掩柴門   惆悵ちゅうちょうして柴門を掩おお
谷口まで来ると 入相の鐘がかすかに聞こえ
樵や川漁の姿も ようやく疎らになる
遠くの山は 悠然として暮れゆき
白雲に向かって ひとり歩いてゆく
菱の蔓は いまだか弱く不安定で
柳の花は 軽くて飛びやすい
東の丘の 春草の色を思いつつ
うなだれて 柴門の扉を閉じる

 年を載さいと呼ぶようになった天宝三載(七四四)ころから八年間ほどの王維の伝記はほとんどわかっていません。
 四十六歳から五十三歳までの期間ですので、詩人としても官吏としても脂の乗り切った重要な時期であり、多くの詩が書かれたと思われますが、ほとんどが制作年次を確定できないものばかりです。
 そのころの作品のひとつに「時に庫部員外たり」と題注のある詩がありますので、尚書省兵部の庫部員外郎(従六品上)になったことが知られますが、正確な時期は不明です。
 しかし、このころから王維は勤めに熱意を欠くようになります。
 理由のひとつは天宝四載(七四五)に楊太真が貴妃になり、玄宗はますます寵妃にのめり込み、政事の実権は宰相の李林甫に移っていったことにあるでしょう。朝廷の現状に失望した王維は、再び輞川の山荘に通うことが多くなります。詩中の「楊花」は柳絮りゅうじょのことで、春に純白の綿を散らすように空中に飛び散ります。

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