春晩書山家屋壁   春晩 山家の屋壁に書す 釈貫休
柴門寂寂黍飯馨    柴門 寂寂として黍飯馨し
山家煙火春雨晴    山家の煙火 春雨晴る
庭花濛濛水冷冷    庭花濛濛として水は冷冷
小児啼索樹上鶯    小児啼きて索む樹上の鶯
寂しげに立つ柴の門 炊いたばかりの黍御飯(きびごはん)
春の山里に雨は晴れ 炊煙は立ち昇る
庭に花は咲きそろい 水は清らかに流れ
子供は啼声をまねて 枝の鶯を呼び寄せる

 釈貫休は法名で本姓は姜といいます。文宗の大和六年(八三二)に江南で生まれましたが、七歳で出家させられました。
 つまり小僧に出されたのです。唐末には杭州の霊隠寺に住していましたが、蜀の王建に迎えられて禅月大師の号をおくられました。
 唐が滅亡した五年後、前蜀の永平二年(九一二)に八十一歳で蜀で没しました。詩は春の山里の雨後、炊き立ての黍御飯が馨しく匂ってくるのは日暮れでしょう。実に暖か味のある美しい詩で、屋壁に書したのは、その日お世話になったお礼でしょう。


  台 城         台 城     韋 荘
江雨霏霏江草斉   江雨霏霏として江草(ひと)
六朝如夢鳥空啼   六朝は夢の如く 鳥空しく啼く
無情最是台城柳   無情なるは最も是れ台城の柳
依旧烟籠十里堤   旧に依って煙は籠む 十里の堤
雨は江上に霏々と降り 草は岸辺に生えそろう
六朝の栄華はまぼろしか 鳥はむなしく啼いている
十里もつづく長堤に 靄はかわらず立ちこめて
哀れをいまに止めるは だだ台城の柳だけ

 韋荘は文宗の開成元年(八三六)ころに生まれ、五十九歳で進士に及第したとされています。昭宗の乾寧元年(八九四)ころ官途についたことになり、唐滅亡の十四年前になります。
 そのころには黄巣の乱は終わっていましたが、各地の節度使が自立の動きを強め、唐の国家は崩壊をはじめていました。詩は懐古詩の名作とされ、「台城」は南朝の都建康(南京)の宮城跡です。
 台城の北側にはいまも玄武湖がありますが、唐代には湖堤があり、城跡では柳が風に揺れているだけだったようです。韋荘にとって南朝亡国の悲哀は身近なものとして感じられていたでしょう。


  重遊曲江       重ねて曲江に遊ぶ 韓 偓
鞭梢乱払暗傷情   鞭梢 乱れ払い暗に情を傷む
蹤跡難尋露草青   蹤跡 尋ね難く露草青し
猶是玉輪曾輾処   猶お是れ玉輪の曾て()きし処
一泓秋水漲浮萍   一泓の秋水 浮萍(ふひょう)を漲らす
小枝を払いつつ ひそかに(こころ)は傷む
青々と露草茂り 御幸(みゆき)の跡もわからない
ここがかつて 玉輪の通った場所なのか
水溜りのような秋の池 浮き草だけが一杯だ

 韓偓は武宗の会昌二年(八四二)ころ、京兆万年県で生まれました。つまり長安の左街、東京でいえば山の手で生まれたわけです。
 昭宗の龍紀元年(八八九)に進士に及第し、翰林学士から中書舎人(正五品上)に栄進して宰相に推挙されたこともありました。
 しかし、時の権力者朱全忠(のち粱の太祖)に従わなかったために濮州(河南省范県)に左遷され、以後政界にはもどりませんでした。
 亡くなったのは八十二歳のとき、後唐の同光元年(九二三)ころとされていますので、唐の滅亡後十六年間ほど生きていたことになります。
 詩はかつて栄華を極めた「曲江」を訪ねたときのものです。

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