出塞作       出塞の作      王 維
 居延城外猟天驕  居延きょえん城外に 天驕てんきょう 猟せんとす
 白草連天野火焼  白草はくそうは天に連なり 野火のび焼く
 暮雲空磧時駈馬  暮雲ぼうんの空磧くうせき 時に馬を駈
 秋日平原好射雕  秋日しゅうじつの平原 雕ちょうを射るに好し
 護羌校尉朝乗障  護羌ごきょう校尉は 朝に障しょうに乗のぼ
 破虜将軍夜渡遼  破虜はりょ将軍は 夜 遼りょうを渡る
 玉靶角弓珠勒馬  玉靶ぎょくは 角弓 珠勒しゅろくの馬
 漢家将賜霍嫖姚  漢家 将まさに霍嫖姚かくひょうように賜わらん
居延城外で 匈奴が狩りをしようとし
天までつづく草原に 野火が燃える
日暮れの雲 無人の砂漠に時に馬を走らせ
秋の平原は 鷲を射るのに適している
護羌校尉は 朝からとりでに上り
破虜将軍は 夜更けに遼河を渡る
角飾り玉靶の弓に 珠勒の馬を
漢の武帝は 票姚校尉霍去病に下される

 この詩にも「時に御史たり 塞上を監察するの作」の題注があり、監察御史のときの作品であることがわかります。「居延城」は涼州の北北西四六〇㌔㍍の砂中にあり、王維は多分行ったことがないでしょう。
 漢代の最前線の砦でした。「護羌校尉」は漢の武帝のときに置かれ、青海地方の羌族を支配しました。「破虜将軍」は三国呉の孫堅そんけんの称号で、夷狄いてきを討つという意味があるので採用したのでしょう。
 「遼河」は漢の東北国境を流れている川です。「玉靶・角弓・珠勒の馬」はいずれも褒美の品で、それを貰うのは漢の名将霍去病かくきょへいであることからして、漢代に仮託した辺塞詩であることは明らかです。


 漢江臨汎      漢江に臨汎りんはんす 王 維
楚塞三湘接    楚塞そさいは三湘さんしょうに接し
荊門九派通    荊門けいもんは九派きゅうはに通ず
江流天地外    江流こうりゅうは天地の外そと
山色有無中    山色さんしょくは有無の中うち
郡邑浮前蒲    郡邑ぐんゆう 前蒲ぜんぽに浮かび
波瀾動遠空    波瀾はらん 遠空えんくうを動かす
襄陽好風日    襄陽じょうようの好風日こうふうじつ
留酔與山翁    留とどまりて山翁さんおうと酔わん
楚の要害は 瀟湘しょうしょうの流れに接し
荊門の山は 長江の九流に通じている
漢江の水は この世とも思えぬほどに美しく
山の色は 有と無のあいだで霞んでいる
郡城の街は 前方の岸辺に浮かび
遠くの山は 波間に揺れて映っている
襄陽の地は まことに好ましいので
とどまって 山簡の翁と一緒に酔おう

 王維は西北方面に出張した翌年の開元二十八年(七四〇)に、同じ御史台の殿中侍御史(従七品上)に昇格します。その仕事として知南選ちなんせんに選ばれ、黔中けんちゅう都護府に派遣されます。
 長安から黔中(湖南省沅陵県付近)へ行くには襄陽じょうようを通るのが道筋ですので、途中、襄陽にいる孟浩然を訪ねました。
 実は張九齢が荊州大都督府の長史に左遷されたとき、孟浩然は張九齢の幕下に採用され荊州に行っていたのですが、この年の二月に張九齢が亡くなったので襄陽にもどっていたのです。
 十年振りに孟浩然と再会した王維は、当然、張九齢の死を悼み、政事の現状などを話題としたことでしょう。詩は襄陽に滞在中、漢水に舟を浮かべて遊んだときの作品と思われます。
 「山翁」というのは晋の山簡のことで、襄陽に勤務して遊び暮らしたという故事がありますので、孟浩然を山簡にたとえて一緒に酔いましょうと、酒興の挨拶を詠っているわけです。

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