送岐州源長史帰  岐州の源長史が帰るを送る 王 維
握手一相送    握手して一たび相送り
心悲安可論    心悲しければ 安いずくんぞ論ずべけん
秋風正蕭索    秋風 正まさに蕭索しょうさくとして
客散孟嘗門    客は孟嘗もうしょうの門より散ず
故駅通槐里    故駅こえきは槐里かいりに通じ
長亭下槿原    長亭ちょうていより槿原きんげんに下らん
征西旧旌節    征西せいせいの旧き旌節せいせつ
従此向河源    此ここより河源かげんに向わん
握手して君を見送る
その悲しみを どのように語ればいいのか
秋風が寂しく吹きはじめ
人々は孟嘗君の門から去っていく
昔なじみの駅亭は槐里に通じ
駅々をたどれば 槿原に着くのだ
残された征西節度使の旌旗は
ここから河源の地に向かうであろう

 王維が涼州に赴任した翌年、開元二十六年(七三八)の五月に崔希逸が亡くなってしまいました。
 崔希逸はかつて門下省か中書省の散騎常侍(従三品)をつとめたことのある太っ腹の人で、幕下に多くの客を集めていました。
 それらの人々も崔希逸が亡くなると一人二人と去ってゆきます。
 秋になって涼州の源長史も故郷の岐州(陜西省扶風県)にもどることになり、王維は送別の詩を贈りました。王維は残された旌旗を掲げて「河源」(黄河の源、西域の意味)に向かうと強がりを言っていますが、帰心矢のごとくであったと思われます。


 使至塞上     使いして塞上に至る 王 維
銜命辞天闕    命を銜ふくんで天闕てんけつを辞し
単車欲問辺    単車たんしゃへんを問わんと欲す
征蓬出漢塞    征蓬せいほう 漢塞かんさいを出で
帰雁入胡天    帰雁きがん 胡天こてんに入る
大漠弧煙直    大漠たいばくに弧煙こえんなお
長河落日円    長河ちょうがに落日円まどかかなり
蕭関逢候騎    蕭関しょうかんで候騎こうきに逢えば
都護在燕然    都護とごは燕然えんぜんに在りと
勅命を奉じて 宮城を辞し
ひとり車を駆って辺境に向かう
転蓬となって 漢の塞を出ると
飛ぶ雁は 北の胡地へと帰りゆく
果てしない砂漠に ひとすじの狼煙が昇り
黄河は悠々と流れ まるい夕陽が沈みゆく
蕭関で 斥候の騎馬に逢い
都護は今 燕然山に陣するという

 長安へ去る友人を見送る日々でしたが、開元二十七年(七三九)には王維自身も長安にもどることができました。王維は御史台ぎょしだい察院の監察御史(正八品上)に任ぜられたのです。旧職の右拾遺よりは二品階上ですから昇格しての帰任ということになります。
 長安にもどった王維は、さっそく西北方面の視察に派遣されます。
 詩はそのときのものですが、王維の意気込みが先の涼州ゆきとまるで違うのが読み取れます。王維は蕭関(甘粛省固原県)まで来たとき、斥候の騎馬小隊に出会いました。
 戦のようすを尋ねると、都護は燕然山に布陣しているという。
 燕然山は後漢の竇憲とうけんが匈奴に大勝利を博した山で、遥か北の砂漠の向こうにあります。唐代の勢力範囲からすると離れていますので、この詩が漢に時代を借りた辺塞詩へんさいしであることがわかります。当時の辺塞詩のなかでは秀作のひとつと言えるでしょう。

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