寄荊州張丞相   荊州の張丞相に寄す  王 維
所思竟何在    思う所は竟ついに何いずくにか在る
悵望深荊門    悵望ちょうぼうすれば荊門けいもん深し
挙世無相識    挙世きょせい 相識そうしき無く
終身思旧恩    終身 旧恩を思う
方将与農圃    方まさに将まさに農圃に与したが
芸植老丘園    芸植げいしょくして丘園に老いんとす
目尽南無雁    目は尽きて南に雁かり無し
何由寄一言    何に由ってか一言いちげんを寄せん
私の思うお方は どこに行ってしまわれたのか
遥かに遠い荊州を 悲しみとともに思いやる
この世のどこにも 通じ合える人はなく
とこしえに ご好意がしのばれる
今こそまさに 畑仕事に従い
作物を植えて 丘の畑で朽ち果てよう
見渡すかぎり 南に飛ぶ雁の姿はなく
何をたよりに 思いを伝えたらいいのだろうか

 王維の中書省勤務がはじまった開元二十三年(七三五)に、李林甫(りりんぽ)が礼部尚書同中書門下三品に任ぜられ、宰相の列に加わりました。
 李林甫は皇室の支脈につながる門閥官僚で、理財に明るいことから頭角をあらわしてきましたが、知識人である進士出身の同僚を毛嫌いしていました。
 そのころ張九齢は進士系官吏の指導者的立場にいましたので、李林甫から目の敵にされ、開元二十四年(七三六)の十一月に張九齢は尚書右丞(正四品上)に格下げされ、宰相を辞任させられました。
 かわって宰相の列に加わったのは李林甫の推薦する牛仙客(ぎゅうせんきゃく)です。
 ところが、翌開元二十五年(七三七)に御史台の監察御史かんさつぎょしで周子諒しゅうしりょうという者が牛仙客を弾劾し、その文中に不適切な語があったとして、逆に周子諒のほうが杖刑に処され、さらに瀼州じょうしゅうに流されることになりました。
 その途中、周子諒は藍田らんでんで亡くなりました。
 殺されたのかもしれません。
 周子諒は張九齢が推薦した官吏であったので、張九齢も連座の罪に問われ、荊州大都督府の長史に左遷されることになりました。
 大都督府の長史は次官で従三品の高官ですが、荊州(湖北省江陵県)という地方官に追い出されたことになります。王維は憤慨しかつ悲しんで、荊州の張九齢に詩を送りますが、張九齢がこんなになってしまったのでは、王維も職にとどまっていることはできません。


涼州郊外遊望   涼州郊外遊望   王 維
野老才三戸    野老やろうわずかに三戸
辺村少四隣    辺村へんそんに四隣しりん少なし
婆娑依里社    婆娑ばさとして里社りしゃに依り
簫鼓賽田神    簫鼓しょうこして田神でんしんに賽さい
洒酒澆芻狗    酒を洒そそぎて芻狗すうくを澆らし
焚香拝木人    香を焚きて木人ぼくじんを拝す
女巫紛屢舞    女巫じょふふんとして屢々舞えば
羅襪自生塵    羅襪らべつおのずから塵ちりを生ず
農家がやっと三軒だけ
辺境の村 近くに家もない
普段着で やしろに集まり
笛や鼓つづみを鳴らして田圃の神を祭る
藁でつくった犬に酒をそそぎ
香をたいて木像を拝する
袖を翻して巫女みこが舞い
舞うたびに 足もとから塵が湧く

 王維が涼州に着いたのは開元二十五年(七三七)の冬十一月でした。すこし落ちついてから、王維は涼州の郊外に出かけて里社りしゃの祭りを見物しました。この祭りは魚山の神女祠の祭りを思い出させたかもしれませんが、辺境の村の村祭りはわびしいものでした。
 王維はかえって沈んだ気分になったでしょう。

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