草春行      草春の(うた)   王維
紫梅発初遍   紫梅(しばい)(ひら)いて初めて(あまね)
黄鳥歌猶渋   黄鳥(うぐいす)の歌は猶お(しぶ)れり
誰家折楊女   ()が家ぞ (やなぎ)を折る女
弄春如不及   春を(もてあそ)んで及ばざるが如し
愛水看粧坐   水を愛しては(よそお)いを()て坐し
羞人映花立   人を()じては花を映して立つ
香畏風吹散   (こう)は風の吹き散らすを(おそ)
衣愁露霑湿   ()は露に()れて湿るを愁う
紫梅の花が 咲いたと思えば満開となり
鶯の鳴く音は いまだ滑らかではない
だれの家か 柳を折る女がいて
春の楽しさを弄び 満ち足りないようすである
岸辺に坐して 映した顔をほれぼれ眺め
人目を羞じて 頬を染めて立ちあがる
香のかおりを 風が吹き散らすのを畏れ
ころもの裾が 露に濡れて湿るのを嘆く

 五言十六句の歌行(かこう)です。
 この詩も「洛陽女児行」や「雑詩五首」のはじめの二首と関係があり、首聯で早春の場が設定され、第二聯で女性が登場します。
 「誰が家ぞ 楊を折る女」は女性を登場させる場合の常套句のようなものです。「春を弄んで及ばざるが如し」には、読む者を詩の世界に誘い込む巧みさがあります。
 つづく第三聯と第四聯は、女性がひとり春の日を過ごす悩ましいようすを描くもので、池に映した自分の顔をほれぼれと眺めたり、そんな自分を恥ずかしく思ってひとりで顔を赤らめたりします。
 風が吹けば上着にたきこめた香のかおりが吹き飛ぶのではないかと心配し、裳裾が露に濡れて湿るのを嘆きます。王維の観察というか、想像というか、女性描写が繊細をきわめているのが目立つ詩です。

玉閨青門裏   玉閨(ぎょくけい) 青門(せいもん)(うち)
日落香車入   日落ちて 香車(こうしゃ)入る
遊衍益相思   遊び(なご)うして相思(そうし)(えき)
含啼向綵帷   (なみだ)を含んで綵帷(さいい)に向かう
憶君長入夢   君を(おも)うて長く夢に入り
帰晩更生疑   帰り(おそ)ければ更に疑いを生ず
不及紅簷燕   及ばざるかな 紅簷(こうえん)の燕
双栖緑草時   緑草に(ふた)りで()みし時に
閨房の青草茂る玉門の内
日暮れて香車が入ってゆく
遊びつくして 思い合う心は溢れ
涙をためて 綾絹の(とばり)に向かう
夫を想って 長い夢路をたどっていくが
帰りが遅いと 疑いの悩みを生ず
紅楼の軒端の燕は 及ばないものだ
緑のくさはらに 二人で棲んでいた頃に

 後半の最初の二句が性的なものであることは、誰の目にも明らかでしょう。「玉閨 青門の裏」は説明の必要がなく、「香車」は立派な車のことですが、同時に漢詩では男根をも意味しています。王維は身分ある男の車が夕暮れに門内に入っていくのを、実際に見たでしょう。
 女を知った十八歳の王維が、その先の情景に想像をたくましくしたとしても無理からぬことです。しかし、この詩では、そうした情景を女性が期待し想像する仕掛けになっています。想像の遊びに疲れて女性は寝入ってしまいますが、目覚めるとまだ夫は来ていない。
 どこか他の女のところに行っているのではないかと、また別の疑いを生ずるというのです。女性の悩みに立ち入った詩ですが、それは同時に王維自身の恋の悩みの表現でもあったと思われます。
 こんな悩みを味合うくらいなら、紅楼の軒端の燕であるよりは、緑のくさはらで二人で棲んでいたころが、どれだけ幸せであったろうかと、王維は反省の言葉で一首を結ぶのです。貧乏でもいいから、二人で暮らしましょうと呼びかけているのかも知れません。

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