雑詩五首 其一   雑詩五首 其の一  王維
朝因折楊柳   朝に楊柳(ようりゅう)を折りしに()って
相見洛城隅   相見(あいまみ)えたり洛城の(ほとり)
楚国無如妾   楚国(そこく)(しょう)()くは無く
秦家自有夫   秦家(しんか)に自ら()有り
対人伝玉腕   人に対して玉腕(ぎょくわん)を伝え
映竹解羅襦   竹を映して羅襦(らじゅ)を解きぬ
人見東方騎   人は東方の()を見て
皆言夫婿殊   皆言う 夫婿(ふせい)(しゅ)なりと
持謝金吾子   持謝(じしゃ)金吾(きんご)()
煩君提玉壷   君を(わずらわ)玉壷(ぎょくこ)()げよ
あの朝 楊柳を折りに出たので
あなたと 洛陽の隅でお会いしました
楚国にも わたしに及ぶ美人はおりません
だから私は 秦家の夫を持つ身でございます
向き合って あなたに腕をからみつけ
青竹の色を映して 下着を脱ぎました
人々は東方の騎馬を見て 口々に
ご主人がとりわけ立派と申します
やめときましょう 金吾の坊や
あなたの方から 玉壷をかかげにいらっしゃい

 「雑詩」とは何となく題をつけにくいような、もしくは題をつけるまでもない詩といった意味合いですが、五首のうち、はじめの二首は「洛陽女児行」との関係が明瞭です。まず「洛城の隅」というのは長安の一隅のことで、地を移す手法です。全体は女性の作品のかたちを取っており、これも当時流行した閨怨詩(けいえんし)の手法です。この場合は閨怨ではなく、事実を隠すために嘘っぽく装ったものと考えられます。
 朝、楊柳を折りに出たらあなたと会いましたとなっていますが、これも本当であったかどうか、女性が柳の枝を折るのは旅に出る者の旅の安全を祈るためで、逆に言えば、夫が旅に出てしばらく留守をするのでひとり身ですよ、と誘惑の合図を送っているのかもしれないのです。
 女性は自分の美貌に自信を持っており、だから私には当然夫がいますと打ち明けています。三聯目(第五句と六句)は女性が白い腕をからめつけてきて、「羅襦」(薄絹の下着)を脱いだという場面です。
 庭の竹の青色が白い肌に反映していたというのですから、情事は昼間のことで相手はもちろん王維です。四聯目(第七句と八句)は文脈としては二聯目(第三句と四句)につづく部分で、女性の夫自慢です。
 女性は夫に不満だからあなたと情を通じているのではないのですよと強調しているのでしょう。
 最後の五聯目は女性自身の言葉になっています。
 王維がまた呼んでほしいとでも言ったのでしょうか。
 それに対して女性は「持謝す 金吾の子」と軽くいなして、あなたの方から玉壷を掲げにいらっしゃいと答えています。
 「玉壷」というのは女陰の隠語にほかなりません。


雑詩五首 其二   雑詩五首 其の二 王維
双燕初命子    (つが)いの燕 初めて子を()
五桃新作花    五つの桃 新たに花()
王昌是東舎    王昌は()東舎(とうしゃ)
宋玉次西家    宋玉の(やど)るは西家(せいか<)
小小能織綺    小小は()(はた)を織り
時時出浣紗    時時(じじ)出でて(しゃ)(あら)
親労使君問    親労(しんろう)す 使君の(おとず)
南陌駐香車    香車(こうしゃ)南陌(なんぱ)(とど)めよ
つがいの燕が はじめて子を生み
五本の桃の木に 新しい花が咲く
色男の王昌は 東の家
詩人の宋玉は 西隣りに住んでいる
小小は上手に機を織り
しばしば川に出て洗濯をする
使君よ わざわざお訪ねくださってご苦労ですが
車を停めて 南の小路でお待ちください

 この詩も「洛陽女児行」と関係があるとみられる。
 まず、燕の巣づくりと桃の花によって春の訪れが描かれる。その家の東には「王昌(おうしょう)」が住んでおり、西隣りは「宋玉(そうぎょく)」の家である。
 二人とも好色の美男子として詩歌に名高い人物であり、色事師に囲まれて危険この上もない環境が故事を借りて描かれる。「小小(しょうしょう)」は女性の家の小間使いの愛称とみられるが、錢塘(浙江省杭州市)の名妓とうたわれた蘇小小を連想させ、美少女であったに違いない。小小は(はた)を上手に織り、門前の小川に出て洗濯もする働き者である。
 尾聯の二句は小小の言葉で、「使君(しくん)」は州刺史(州の長官)の尊称である。「御苦労さん。わざわざお訪ねくださいましたが、車を南の小路に止めてしばらくお待ちください」と、小小は使君の入門を止めている。
 中には先客がいるので、待機を命ぜられたのである。
 女性の浮気の相手は王維だけではなかった。


雑詩五首 其三    雑詩五首 其の三 王維
家住孟津河     家は住む 孟津河(もうしんか)
門対孟津口     門は対す 孟津口(もうしんこう)
常有江南舡     常に江南の(ふね)有り
寄書家中否     書を家中(かちゅう)に寄するや否や
家は孟津渡の河辺にあり
門は孟津口に向いています
いつも江南から舡が来ますが
古里の便りは着いたでしょうか

 雑詩五首のうち、はじめの二首と後の三首は詩形も性質も違っていますので、異なる時期に作られたものと思われます。
 唐代の詩に遊女の口を借りて遊興の詩情を述べるものがあり、崔顥(さいこう)の「長干行四首」が有名です。しかし、崔顥は開元十七年(七二三)ころの進士ですので、王維の作品が先行すると思われます。
 「孟津」は洛陽の東北、洛水が黄河と合流する地点の近くにある渡津(としん)で、対岸の河陽に渡る舟や黄河を上下する船の発着場でした。
 そこには妓楼もあり、遊女もいて、詩は遊女が自分の家のある場所を告げて、客を誘う場面です。
 「(こう)」は江南の舟をあらわす語で、江南から舟が着いたが、故郷からの便りは着いただろうかと遊女が問いかけます。
 これは、目あての客が江南から来たと見れば、同郷であることをほのめかして近づく遊女の常套手段です。問題はこの詩に「与時有汶陽人」(時に汶陽の人と与に有り)と後注がついていることです。
 「汶陽(ぶんよう)」は山東省寧陽県の北、汶水の北岸にあり、江南ではありません。後注は王維があとから書き加えたもので、この詩を作ったころには「汶陽の人」と(とも)に暮らしていたという心覚えを記したものと思われます。「汶陽の人」は遊女ではなく、「与に有り」が孟津である必要もありません。長安のどこかで「汶陽の人」と一緒にいたころの作と考えても不都合はなく、「汶陽の人」は寧王のもとを離れた「対門の家」の女性である可能性が高いと考えます。

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