意有所得雑書数絶句 意に得る所有り数絶句を雑書す 袁枚

 莫説光陰去不還    ()(なか)れ 光陰は去って還らずと
 少年情景在詩篇    少年の情景 詩篇に在り
 燈痕酒影春宵夢    灯痕 酒影 春宵(しゅんしょう)の夢
 一度謳吟一宛然    一度(ひとたび) 謳吟すれば 一に宛然たり
光陰は過ぎて還らずと言うなかれ
若い日の情景は 詩中に残っている
蛍の光 酒の色 見果てぬ夢のかずかずも
一度詩を吟ずれば そっくりそのまま浮かんでくる

 乾隆四十二年(一七七七)、六十二歳のときの作品です。
 袁枚は官を退いてから四十二年間、一度も出仕せず、多くの門弟をかかえて田園に遊びました。亡くなったのは嘉慶二年(一七九七)、乾隆帝の崩じた二年後で、八十二歳の高齢でした。
 この年は日本では寛政九年で、松平定信の寛政の改革が終わり、北からのロシアの脅威を受けはじめたころにあたります。


論詩五首(録一)    論詩五首(一を録す) 趙 翼
 李杜文章万口伝   李杜(りと)の文章 万口(ばんこう)伝う
 至今已覚不新鮮   今に至って(すで)に新鮮ならざるを覚ゆ
 江山代有才人出   江山(こうざん) 代々 才人出づる有り
 各領風騒数百年   各々風騒(ふうそう)を領すること数百年
李白・杜甫の詩は 万人が伝えてきたが
いまはもはや 古びた感じがする
中国では 各時代に秀才があらわれて
おのおの独自の文学を築き数百年を経た

 趙翼(ちょうよく)は世宗(雍正帝)の雍正五年(一七二七)に生まれました。
 乾隆二十六年(一七六一)に三十五歳で進士に及第し、地方官を歴任したあと、中書舎人として乾隆帝(高宗)に扈従し、文章の起草に当たりました。貴西兵備道に至って職を辞し、史学・考証学の学者の道を歩みました。「李杜」は李白と杜甫の組み合わせでしょう。
 「風騒」は『詩経』の国風と屈原の楚辞「離騒」のことで、中国文学の原点とされています。趙翼が亡くなったのは仁宗の嘉慶十九年(一八一四)で、八十八歳の長寿でした。


   別老母        老母に別れる   黄景仁
搴帷拝母河梁去   (とばり)(かか)げて母を拝し河梁に去る
白髪愁看涙眼枯   白髪 愁えて着る 涙眼(るいがん)枯る
惨惨柴門風雪夜   惨惨(さんさん)たる柴門(さいもん) 風雪の夜
此時有子不如無   此の時 子有るは 無きに()かず
帷をかかげて部屋に入り 老母に別れを告げる
白髪あたまの目は愁え 涙も涸れている
荒れた柴門に吹雪の夜
こんな息子は むしろいなければよかったであろう

 黄景仁(こうけいじん)は乾隆十四年(一七四九)に陽湖(江蘇省武進県)で生まれました。若くして天才詩人の名が高かったのですが、科挙に合格することができず、地方の大官の幕客となって各地を転々としました。
 詩は乾隆三十六年(一七七一)正月、二十二歳で郷里を出てゆくときの作品です。黄景仁は生涯を貧苦のうちに過ごし、乾隆四十八年に三十五歳の若さで病没しました。

目次へ