避暑山園        暑を山園に避く   王世貞
 残杯移傍水辺亭   残杯(ざんぱい) 移し()う 水辺の亭
 暑気衝人忽自醒   暑気 人を衝いて 忽ち自ら()めしむ
 最喜樹頭風定後   最も喜ぶ 樹頭(じゅとう) 風定まるの後
 半池零雨半池星   半池(はんち)零雨(れいう) 半池の星
池のほとりの東屋で 飲みかけの酒杯を置く
ひどい暑さだ 酒もたちまち醒めてしまう
嬉しいのは 樹々の梢に夜風が吹いて
雫は池の半ばに落ち 半ばに映る星の影

 王世貞(おうせいてい)は明の世宗の嘉靖五年(一五二六)に生まれました。
 嘉靖二十六年(一五四七)に二十二歳で進士に及第し、官は山東副使、南京刑部尚書などを歴任します。詩は李攀龍らと復古主義をとなえ、李攀龍の死後は文壇の中心的な存在になります。
 嘉靖年間は世宗の一代、四十五年間つづき、嘉靖帝の時代と称されています。モンゴル・アルタン軍の北京包囲や倭寇の禍はありましたが、まだ王朝を揺るがすほどではありませんでした。


 暮秋村居即時     暮秋村居即時  王世貞
紫蟹黄鶏饞殺儂   紫蟹(しかい) 黄鶏 (われ)を饞殺す
酔来頭脳任冬烘   酔来 頭脳 冬烘(とうこう)に任す
農家別有農家語   農家には別に 農家の()有り
不在詩書礼楽中   詩書 礼楽(れいがく)の中に在らず
珍味の蟹や鶏が おれを食いしん坊にする
酔っ払って 頭はぼんやりほてっている
農家は農家で それぞれに言い分があり
詩は政事の 言いなりにはならないものだ

 詩は晩年の作で、神宗(万暦帝)の政事が乱れ始める時期に相当します。「紫蟹(しかい)」や「黄鶏(こうけい)」はおいしいものの例として挙げられています。
 「饞殺(ざんさつ)」は食べ物をむさぼらせること、「冬烘(とうこう)」は冬のかがり火で、なんとなくほてることを意味します。「礼楽(れいがく)」は人倫、政事の規範のことで、「有農家語」「不在礼楽中」というのは、農家には農家としての言い分があり、詩は政事の言いなりにはならないと、農民の苦しみを擁護し、政事に対する芸術の独自性を主張しているものと解されます。
 王世貞は万暦十八年(一五九〇)に六十五歳で亡くなりますが、その二年後、万暦二十年(一五九二)には豊臣秀吉の文禄の役があり、万暦二十五年(一五九七)には秀吉の再度の朝鮮出兵・慶長の役が起こり、明の衰退がはじまります。


   江 上          江 上     王士禎
呉頭楚尾路如何  呉頭(ごとう) 楚尾(そび) 路如何
烟雨秋深暗白波  煙雨(えんう) 秋深くして白波(はくは)暗し
晩趁寒潮渡江去  (くれ)に寒潮を()うて江を渡って去る
満林黄葉雁声多  満林の黄葉(こうよう) 雁声(がんせい)多し
呉から楚へと 路をたどりつつ眺めやる
霧雨の秋は深まり 波頭はほの暗い
日暮れに潮を利して 長江を渡れば
黄葉は林に満ちて しきりに雁の声がする

 王士禎(おうしてい)は明の毅宗の崇禎七年(一六三四)に新城(山東省桓台県)で生まれました。山東半島の中心部で生まれたことは王士禎にとって幸せだったでしょう。というのも、後に清の太祖となるヌルハチは十八年前に後金国を建てていましたし、陜西からはじまる明末の乱も七年前に始まっていたからです。
 李自成が北京城を包囲し、崇禎帝(毅宗)が景山の寿皇亭で自殺したのは、崇禎十七年(一六四四)、王士禎が十一歳のときでした。
 王士禎は清の世宗の順治十五年(一六五八)、二十五歳のときに進士に及第し、清の官吏として官途を歩みはじめます。
 詩は順治十七年(一六六〇)の秋八月、公用で南京に赴くときの作で、夕暮れに江口から遡ってくる潮に乗って長江を渡るのです。

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