登沓磊駅楼自此度海
沓磊の駅楼に登り此れより海を度る 范 梈
半生長以客為家 半生
長に
客を以て家と為す
罷直初来瀚海楂 直を罷めて初めて来る 瀚海の
楂
始信人間行不尽 始めて信ず
人間は行けども尽きず
天涯更復有天涯 天涯 更に
復た天涯有るを
いつも旅暮らし 半生を生きてきた
こんど職を辞し はじめてゴビの砂漠を渡る
人の世は 行けども行けども果てしなく
天の涯に また涯があるのを理解した
范梈は度宗の咸淳八年(一二七二)に南宋の清江(湖北省恩施県)で生まれました。八歳のときに国の滅亡に遭い、貧窮の家で育ちました。
早くから各地を放浪して詩文を作りましたが、元の三代武宗が即位した大徳十一年(一三〇七)、三十六歳のときに初めて元都大都(北京)に上り、たちまち詩人として有名になりました。
推挙されて翰林院編修官となり、また閩海道知事などの職を歴任し、晩年は郷里に隠棲しました。詩は辞官してほどなく西方に旅をしたときの作品で、「沓磊駅」は西北辺境の宿駅と思われます。
亡くなったのは元の第九代文宗(武宗の子)の至順元年(一三三〇)、五十九歳のときです。
河湟書事 河湟にて事を書す 馬祖常
波斯老賈度流沙 波斯の
老賈 流沙を
度る
夜聴駝鈴認路賖 夜 駝鈴を聴いて路の
賖かなるを認む
采玉河辺青石子 采玉河辺の
青石子
収来東国易桑麻 収め来って東国に
桑麻と
易ゆ
ペルシャの老いた商人が 砂漠を越えてやってくる
夜中に鈴の音を聞くと 遥かな旅路が偲ばれる
河岸で採れた青石子 宝玉を買い集め
絹や麻との交易に 東の国へやってきた
馬祖常は元の世祖(フビライ汗)の至元十六年(一二七九)にモンゴル族雍古部の一員として生まれました。この年は南宋の滅んだ年で、モンゴルが中国を統一した年になります。父は光州(河南省潢川県)に移住し、馬祖常は漢化した教育を受けます。
仁宗の皇慶二年(一三一三)に元朝になって初めての科挙が実施され、三十五歳になっていた馬祖常は郷貢、会試を第一席、廷試を第二席で及第し、監察御史になり礼部尚書に至りました。
モンゴル族の官僚エリートです。詩題の「河湟」は現在の甘粛省蘭州市のあたりを指す言葉で、東西交通の要衝です。
詩中の「駝鈴」は駱駝につけた鈴のことで、いかにもモンゴルの大官らしいゆったりした趣があります。亡くなったのは順帝の至元四年(一三三八)、六十歳のときで、紅巾の乱の起こる十三年前です。
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