聞夜砧          夜の砧を聞く   白居易
   誰家思婦秋擣帛   誰が家の思婦しふか 秋に帛きぬを擣
   月苦風淒砧杵悲   月苦え 風淒すさまじくして砧杵ちんしょ悲し
   八月九月正長夜   八月 九月 正まさに長き夜
   千声万声無了時   千声 万声 了わる時とき無し
   応到天明頭尽白   応まさに天明に到らば 頭かしら尽く白かるべし
   一声添得一茎糸   一声いっせい添え得たり 一茎いっけいの糸
どの家の主婦であろうか 秋の夜に帛を打つ
月は冴え 風は荒れ 砧の音はもの悲しい
おりしも 八月九月は夜長のころ
千声万声 砧の音は終わるときがない
夜明けまで続いたら 頭はすっかり白くなるだろう
砧の音の一音で 白髪が一本増えるのだから

 白居易が朝廷内の政争に悩んでいた七月二十八日、恒州の成徳節度使の軍に内紛が起こり、都知兵馬使王庭湊が節度使の田弘正を殺してみずから留後を称しました。
 政府は八月に斐度らを指揮官に任じて成徳軍の討伐に向かわせます。
 同時に深州(河北省深県)刺史の牛元翼を深冀節度使に任じて現地の対策にあたらせました。ところが王庭湊は幽州の兵を率いて深州の城を包囲し、河朔地方は再び兵乱の地と化しました。
 詩中の「思婦」は本来もの思う妻の意味で、出征している夫のために冬着を搗いて柔らかくしているのでしょう。
 白居易は李白の「子夜呉歌」其の三の詩を意識していると思われますので、この白髪は思婦の頭に生ずる白髪でなければなりません。この年の冬、白居易は朝散大夫を授けられ宮中で緋衣を着る栄誉を与えられます。
 ついで上国柱じょうこくちゅうの勲位を授けられ、十月十九日には中書舎人知制誥に任じられました。同じ十月には妻の楊氏が弘農県君に封ぜられます。
 これは名誉の称号に過ぎませんが、この時期に妻にまで叙爵の栄誉があったのは、李党の側が白居易を自己の陣営に取り込もうと意図していた疑いがあります。白居易は寒門の出自や貢挙による流入という経歴からすると牛党に近く、妻楊氏の親族も牛党に属していました。
 しかし、親しい友人の元愼や李紳は李党に属しており、恩蔭系、貢挙系といっても、その色分けは単純ではありませんでした。
 したがって白居易は、自己の政事的信条は別として、党派においては旗色を鮮明にしていませんでした。
 そこに、すでに有名詩人であった白居易を自派に取り込もうとする働きかけが露骨に行われるようになった理由があるのです。


商山路有感     商山の路にて感有り 白居易
憶昨徴還日     憶おもう 昨さくし還かえさるるの日
三人帰路同     三人 帰路 同じくす
此生都是夢     此の生は 都すべて是れ夢
前事旋成空     前事は 旋たちまち空くうと成る
杓直泉埋玉     杓直しゃくちょくは 泉に玉ぎょくを埋うず
虞平燭過風     虞平ぐへいは 燭しょく 風を過
唯残楽天在     唯だ 楽天らくてんを残して在り
頭白向江東     頭かしら白くして 江東に向かう
思えば去年 都に帰る日に
三人は 同じ路を通っていった
この世のことは すべて夢
以前のことは たちまち空となる
杓直は 黄泉に身を埋め
虞平は 風前の灯火のように消える
楽天だけが 生き残り
白髪頭になって 江東に向かう

 白居易の地方勤務願いは、七月十四日に聞き届けられました。
 「曲江感秋二首」を書いた四日後です。
 任命されたのは杭州(浙江省杭州市)刺史で、すぐに都を発ちます。
 長安から杭州へ行くには、洛陽を経て黄河をすこし下り、運河をたどって南下するのが普通ですが、このときは東方に小さな反乱が起きており、運河を利用できませんでした。
 白居易は商山路を南へ越えて、武関から関外に出ます。
 武関の東南東一七〇㌔㍍ほどのところに内郷県(河南省南陽市)があり、白居易は七月三十日には内郷に到着しています。
 詩は内郷県の南亭という駅舎の壁に書き残したものです。
 詩に付してある序文によると、白居易が忠州から都に召還されたとき、灃州(湖南省灃県)刺史の李建と果州(四川省南充県)刺史の崔韶さいしょうも同時に召還され、同じ路を通って都へもどってきました。
 ところがこの一年のあいだに、二人とも死んでしまっていました。
 白居易は自分だけが再びこの路をたどって杭州に向かっていると、人生の無常を詠い、同時に都の政事に失望してひとり江南に向かう孤独な心情も伝わってきます。

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