竹枝詞四首 其一   竹枝詞 四首 其の一  白居易
瞿塘峡口水煙低   瞿塘峡口くとうきょうこう 水煙すいえん
白帝城頭月向西   白帝城頭はくていじょうとうつき西に向かう
唱到竹枝声咽処   唱うたいて竹枝ちくしの声の咽ぶ処に到れば
寒猿闇鳥一時啼   寒猿かんえん 闇鳥あんちょう 一時に啼
瞿塘峡の入口に 水煙が垂れこめ
白帝城の上には 月が西へ傾いている
竹枝の歌の唱声が 悲しみの極に達すると
寒い闇夜で一斉に 猿や鳥が啼き叫ぶ

 白居易ははじめは忠州の辺鄙なことにがっかりしますが、土地の人が唄う民謡の悲しげな調べに心を打たれます。
 「竹枝詞 四首」は、その曲調に合わせて詞を作ったものです。
 白帝城は忠州の下流の夔州きしゅうにあり、瞿塘峡の入口にあたりますので、白居易は忠州に来るときに舟をとどめるか、見上げたと思います。


竹枝詞四首 其二   竹枝詞 四首 其の二  白居易
   竹枝苦怨怨何人   竹枝 苦はなはだ怨うらむ 何人なんびとをか怨む
   夜静山空歇又聞   夜静かに 山空むなしく 歇み又た聞こゆ
   蛮児巴女斉声唱   蛮児 巴女はじょ 声を斉ひとしゅうして唱う
   秋殺江南病使君   秋殺しゅうさつす 江南の病使君びょうしくん
竹枝の歌には深い怨みがある いったい誰を怨むのか
静かな夜 山に人影なく歌は途切れ途切れに聞こえる
蛮地の若者や巴の娘が 声を揃えて唱うと
江南の病気の刺史は 悲しみに打ちのめされる

 白居易が忠州に着任した年、憲宗は四十二歳になっていました。
 政府は藩鎮勢力をほぼ制圧することができていましたが、そのころ憲宗は道士の勧める仙薬に凝るようになっていました。白居易が忠州赴任の舟中にあった正月二十七日に、都では憲宗が急死していました。憲宗は仙薬の金丹を服用するようになってから粗暴なふるまいが多くなり、身の危険を感じた宦官の陳弘志ちんこうしが憲宗を殺害したとの伝えもあります。
 閏正月三日に皇太子の李恒が即位して穆宗となりますが、新帝が立っても忠州の白居易には何の変化もありません。
 白居易は中央への復帰の望みを忘れたかのように蛮地の歌に哀愁の気持ちを託しながら、東坡とうばという土地に桃李の類を植え始めました。


自江州至忠州    江州より忠州に至る 白居易
前在潯陽日     前さきに潯陽じんように在りし日
已歎賓朋寡     已に賓朋ひんぽうの寡すくなきを歎く
忽忽抱憂懐     忽忽こつこつとして憂懐ゆうかいを抱き
出門無処写     門を出ずるも写のぞく処ところ無し
今来転深僻     今来たるや転うたた深僻しんぺき
窮峡巓山下     窮峡きゅうきょう 巓山てんざんの下もと
五月断行舟     五月ごがつ 行舟こうしゅうを断ち
灔堆正如馬     灔堆えんたいまさに馬の如し
巴人類遠狖     巴人はじんは遠狖えんゆうに類るい
矍鑠満山野     矍鑠かくしゃくとして山野に満つ
豈望見交親     豈あえて交親こうしんを見んことを望まんや
喜逢似人者     人に似たる者に逢うを喜ぶ
以前 潯陽にいたころも
友だちが少ないのを嘆いた
なんとはなしに憂いを抱き
門を出ても行く場所がない
今度の忠州は いっそう辺鄙で
渓谷の奥 聳える山の麓にある
五月になると 舟も来なくなり
灔澦堆が 馬のように立ちはだかる
巴国の人は猿のようで
老いても元気で山野に満ちている
親しめる友に 会うのを望みはしないが
せめて人らしい者に会えば嬉しいのだが

 任地の忠州は長江三峡の巫山からさらに二〇〇㌔㍍ほど上流に遡ったところにあり、白居易は元和十四年(八一九)の三月二十八日に任地に着きました。忠州は長安から見れば文華ぶんか果てるところであり、白居易は詩中で、自分と話し合えるような知識人がいないことを嘆きます。
 住民の多くも漢族にはなじみのない風俗をしていました。
 なお、「灔堆」は「灔澦堆」えんよたいの略で、長江第一の難所でした。

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