山村経行因施薬五首 其四 陸 游
        山村を経行き、因りて薬を施す五首 其の四
  驢肩毎帯薬囊行  驢肩(ろけん) (つね)薬囊(やくのう)を帯びて行く
  村巷歓欣夾道迎  村巷(そんこう) 歓欣(かんきん)して道を(はさ)みて迎う
  共説向来曾活我  共に()向来(きょうらい) 曾て我を活かせしかば
  生児多以陸為名  ()を生みて 多く陸を以て名と()すと
驢馬の肩には いつも薬袋をつけていく
村人は喜んで 道に並んで迎えてくれる
口々に 「以前死にそうなところを助けていただいた
だから生まれた子供には 陸という名をつけています」と

 光宗の淳煕十六年(一一八九)から寧宗の嘉泰二年(一二〇一)まで十三年間村居していた陸游は、七十八歳になって都に召され、実録院同修撰兼同修国史に任ぜられます。十二月には秘書監(秘書省の長官)を加えられますが、これは名誉職で修史と文筆の才を買われただけです。
 翌嘉泰三年(一二〇三)四月には孝宗・光宗両朝の実録を仕上げて献上します。仕事を終えて帰郷。詩は寧宗の開禧元年(一二〇五)八十一歳のときの作品で、近隣を気ままに驢馬で歩きまわり、本草学の知識を生かして村人に薬草を与えたりしています。老陸游は村人から慕われる詩人でした。


   禹 寺         禹 寺     陸 游
 禹寺荒残鐘鼓在  禹寺(うじ) 荒残して 鐘鼓(しょうこ)在り
 我来又見物華新  我 来たりて又見る 物華(ぶっか)の新たなるを
 紹興年上曾題壁  紹興の年上(ねんじょう) 曾て壁に題せり
 観者多疑是古人  観者(かんじゃ) 多く疑う 是れ古人なるかと
禹跡寺は荒れ果て 鐘鼓だけが残っている
わたしは再び訪れて 新しい春の景色を眺める
かつて紹興のころ 壁に詩を書きつけた
観るひとの多くは 古人の作かと疑っている

 陸游の故郷越州は高宗の紹興元年(一一三一)に紹興府と改称され、元号も紹興と改められました。
 当時は越州を南宋の行在所とする考えがあったのかも知れません。
 隠退して村居するようになってから、陸游は府城郊外の鑑湖(かんこ)のほとりに住んでいましたので、城内を訪れることは滅多にありませんでした。
 詩は寧宗の嘉定元年(一二〇八)春、八十四歳のときの作品で、久しぶりに城内を訪れ、禹跡寺(うせきじ)を訪ねたのです。
 「紹興年上」は年号が紹興であったころというのですから、高宗時代のことであり、陸游の十代から三十代にかけてのころです。
 そんな古い時代に寺院の壁に書きつけた詩が残っていて、書いた本人はそこにいるのに、見ている人は古人(昔の人)の作かと疑っていると詠っています。


 春遊四首 其四     春遊四首 其の四  陸 游
沈家園裏花如錦   沈家(しんか)園裏(えんり) 花 錦の如し
半是当年識放翁   半ば是れ当年 放翁(ほうおう)()らん
他信美人終作土   ()た信ず 美人の(つい)に土と作るを
不堪幽夢大匆匆   堪えず 幽夢の(はなは)だ匆匆たるに
沈家の庭に 花は錦のように咲くが
かつての私を いまはいくらも覚えていまい
美しかった人が 土に帰ったのはわかっている
だが夢のような日々は あまりに速く過ぎ去った

 禹跡寺から沈園は近いので、陸游は足を延ばして沈園を訪れました。
 「放翁」は陸游の号で、沈家の庭に咲く花も私を覚えてはいまいと、歳月の早く過ぎ去るのを嘆くのです。「美人」が唐琬であることは言うまでもありません。陸游はこの翌年、嘉定二年(一二〇九)十二月二十九日に八十五歳で亡くなります。陸游では唐琬を慕う詩を多く取り上げましたので、軟弱な詩人のような印象を受けられたかも知れませんが、陸游は死ぬまで硬骨の憂国詩人でした。辞世の作とされる「示児」(児に示す)には、天子の軍が中原を制した日には、先祖の祀りを執り行ない、おれに報告するのを忘れるなよと言っています。

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