禁中夜作書与元九  禁中にて 夜 書を作りて元九に与う 白居易

   心緒万端書両紙  心緒しんしょ万端ばんたん 両紙に書き
   欲封重読意遅遅  封ぜんと欲して重ねて読み 意こころ遅遅ちちたり
   五声宮漏初明後  五声の宮漏きゅうろう 初めて明けて後のち
   一点窓燈欲滅時  一点の窓燈そうとうえんと欲する時
思いの総てを 二枚の紙に書き
封をしようと読み返すが 満足できない
朝四時を告げる漏刻の音 夜は明けそめ
いままさに 窓辺の一灯が燃えつきる

 新楽府は諷諭詩といっても現実の政事を正面から取り上げて批判するものではなく、過去の悪政を取り上げて今後の政事の諌めとするものでした。
 しかし、監察御史であった元稹も参加しての新楽府運動は、内容が政事にかかわるものであっただけに、相当に目立つ活動であったのは当然です。
 元和四年の秋、洛陽でひとりの学生が自殺しました。
 この自殺事件の取り調べに関して元愼に越権行為があったとして、元稹は江陵府(湖北省江陵県)の士曹参軍に左遷されます。ただし、この左遷については別の説もあり、元稹が旅行中に駅亭での宿泊をめぐって宦官と争いになり、そのとき元稹が乱暴を働いたことが咎められたとも言われています。
 元稹は都の覇城門(東南門)を出て江陵に向かいますが、白居易はなにかの事情で見送りに行けませんでした。のちに詩を贈って見送りに行けなかったことを弁解していますが、白居易は元稹が江陵に向かっている途中においても、要路に上書して元稹の罪の軽減を願い出ています。
 友のための白居易の努力は実りませんでしたが、掲げた詩はそのころ作られたものと推定されます。
 親友の左遷に動揺して、書信に何を書いてよいか分からないでいる。
 夜明けの宮中、翰林院の勤務の部屋で、友への書信を読み返している白居易の姿がよく出ている作品と思います。


別元九後詠所懐   元九に別れて後 所懐を詠ず 白居易
零落桐葉雨     零落れいらくす 桐葉とうようの雨
蕭条槿花風     蕭条しょうじょうたり 槿花きんかの風
悠悠早秋意     悠悠ゆうゆうたる 早秋そうしゅうの意
生此幽閑中     此の幽閑ゆうかんの中に生ず
況与故人別     況いわんや 故人こじんと別れ
中懐正無悰     中懐ちゅうかいまさに悰たのしみ無きをや
勿云不相送     云うこと勿かれ 相送らずと
心到青門東     心は青門せいもんの東に到る
相知豈在多     相知そうちは豈に多きに在らんや
但問同不同     但だ問う 同じきか同じからざるかを
同心一人去     同心どうしん 一人いちにん去って
坐覚長安空     坐そぞろに覚ゆ 長安の空むなしきを
桐の葉から 雨がこぼれ落ち
槿の花に うら寂しい風が吹く
愁いに満ちた初秋の情が
深い静けさの中から生まれ出る
ましてや 親友の君と別れ
心の底から 本当の楽しみが消えた
見送らなかったなどと 言わないでくれ
心は青門の東まで行ったのだ
友人は 数の多少が問題ではない
聞きたいのは 同じ思いか同じでないかだ
理解し合える唯一の友 君が去って
長安はひとしお空しいものに思われる

 白居易が「新楽府五十篇」「秦中吟十篇」に集約される諷諭詩を作ったのは、元和四年から五年にかけて、三十八歳から三十九歳のときでした。
 政事批判の詩は、これまでに先例はあったものの、これだけ意識的に集中的に作られたのは画期的なことでした。唐代においては比較的言論の自由はあったようですが、批判されたと感じる側の反発もあったはずです。
 しかしそれは、陰に籠もって蓄積されていたようです。
 元稹という心許せる同調者がいたときはよかったのですが、元稹が些細なことで左遷されると、白居易は孤立感、孤独感に陥らざるを得ません。
 掲げた詩は元和五年(八一〇)七月ころの作品とされており、元稹が長安を去るときに見送りに行けなかったことを弁明し、友情は不変であると誓っています。「青門」は覇城門のことで、青く塗られていたので青門といい、長安の東壁南側にありました。

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